カテゴリー別アーカイブ: 礼拝メッセージ

2020年5月17日「神は真実な方です」今村まさゑ協力牧師

「神は真実な方です」今村まさゑ協力牧師

第一コリントの信徒への手紙10章13節

人生には3つの坂がある。上り坂、下り坂、まさかだそうです。昨年、水泳のオリンピック選手の池江璃香子さんが、突然、「白血病」と発表されたことはご本人はもとより大きな衝撃でしたね。その池江さんが、自分を支えている言葉として、友人から贈られた今朝の聖書のみ言葉を記しておられました。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」また最近のテレビで、YOSHIKI(X JAPAN)さんも、同じみ言葉を語っていました。

そこで、今朝は、その聖書の背景(文脈)を見ていきたいと思います。10章1節でパウロは、『兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。』と、イスラエルの歴史を振り返らせます。彼らの先祖イスラエルが奴隷であったエジプトから脱出し、約束の地に入るまでの40年間、どれ程、神の真実を味わったか。モーセを民の指導者として立てられた神は、壮年男子だけでも60万人に及ぶ人々(出12:37)を救出されたのです。しかし、エジプトは労働力を惜しんで引き戻すために軍隊に追撃させ、イスラエルの人々が絶対絶命となった時、前方の紅海を二つに割けられたのです。

『主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、イスラエルの人々は海の中を進んで行き、水は彼らの左右に壁のようになった。』と記されています。(出14:1~)困難な大移動の中、神は、昼は雲の柱、夜は火の柱をもって恵み養って下さいました。また、食べ物も飲み物も無いアラビアの荒野で、何と神は「マナ」と呼ばれるパンを毎朝、天より降らせ、夜はうずらを飛ばせて肉を与え、岩を裂いて飲み水を与えてくださいました。モーセがシナイ山で「十戒」を賜っている時に、彼らはモーセの帰りが遅いと「金の子牛の像」をつくり拝み始めたのです。彼らの罪は「むさぼり」「偶像礼拝」「姦淫」「不品行」「つぶやき」でした。試練を経験しない人はいません。「あなたがたを襲った試練で」とありますが、この「襲った」という言葉は「不意に、急に」という意味です。まさにこの度のコロナも、不意に・急に訪れました。

ここで示される「逃れの道」は、トマス・ア・ケンピス著の「キリストにならいて」では「打ち克つ道」と訳されています。すなわち、「逃れの道」とは、試練に耐えるのに必要な道、必要な力を得る道であると理解できるのです。『神は、真実な方です。』「真実」とは、うそ偽りがないことです。「神の真実」とは、「約束されたことを忠実に守る」ということであり、「神の約束」とは、「私たちを愛し抜く」と言う事です。(フィリピ人への手紙2:6~8)(第一ペテロの手紙4:19)でも明らかです。

神が備えておられる「逃れの道」とは、イエス・キリストであるということが明白です。唯一の生けるまことの神ご自身の真実にこそ、すべてのキリスト者が立つべき確信の基盤があります。『わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を、否むことができないからである。』(第二テモテの手紙 2:13)

 

 

2020年5月10日「海の歌をうたおう」加山献牧師

「海の歌をうたおう」加山献牧師

出エジプト記15章1節~18節

「主はわたしの力、わたしの歌、主はわたしの救いとなってくださった。この方こそわたしの神。わたしは彼をたたえる。わたしの父の神、わたしは彼をあがめる。」(出エジプト記15章2節、新共同訳)

モーセに率いられたイスラエルの民が、エジプトを脱出して、新しい出発をしました。ところが、心変わりしたエジプト王ファラオが、再びイスラエルを捕らえ、奴隷とするために、当時世界最強の軍隊を率い、民を追いかけてきたのです。ファラオは、まだ夜が明ける前にイスラエルに追いつきました。

イスラエルの人々の行く手には海が広がり、背後からはエジプトの軍隊が迫っていました。イスラエルの民は、この絶体絶命の状況の中から、驚くべき方法で救い出されたのです。なんと行く手を阻んでいた海が真二つに割れ、民は乾いた地を渡っていくことができた、というのです。夜が明け、向こう岸に辿り着いた彼らは、もはや敵を見ませんでした。かつて彼らを、不自由の中に閉じ込め、恐れによって縛っていた敵は、もう彼らの目の前からいなくなっていたのです。

朝の光の中で、彼らの唇に賛美の歌が湧き上りました。それが出エジプト記15章に記録されている「海の歌」です。聖書には数多くの賛美の歌(実際に礼拝などで使用されたであろう歌)が記録されていますが、この「海の歌」はその最古の記録です。

「海の歌」の特徴は、(1)「救われた喜びと感謝こそが、民を賛美に導いた最大の原動力であった」ということ、そして(2)「最初から最後まで、神が主語、神が主役である」ということです。これは、神がどのような方なのか、神がどのような救いの御業を成し遂げてくださったのかを世界に告げる賛美なのです。

コロナ以前とコロナ以後、何もかもが変わるだろうといわれています。経済、教育のシステム、医療の在り方、国際情勢、人と人の関わり方なども、以前とは違ったものになっていくことでしょう。

私は教会の賛美も以前とは違ったものになると思っています。荒れ狂う海を潜り抜けたイスラエルの民のように、私たちはこの苦しみと問題から、必ず救い出され、解放される時が来ます。その時、私たちは、以前よりももっと大きな感謝を込めて、神さまを賛美し、以前よりももっと大きな喜びを伴って、神の御前に立ちます。早良教会の皆さん、私たちは必ずもう一度この礼拝堂に集まり、私たちの「海の歌」を神さまにお捧げしましょう。その日を心から待ち望みます。

 

 

2020年5月3日「いつも喜んでいなさい」加山献牧師

「いつも喜んでいなさい」加山献牧師

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(テサロニケの信徒への手紙第一 5章16節~18節、新共同訳)

正直なところ、私たちにとって「常に喜んでいる」ということは極めて困難なことに思えます。私たちの日々の歩みには喜びの時もあれば、当然ながら悲しみの時もあるのです。この手紙を書いたパウロ自身も、様々な苦労を経験している伝道者でした。彼は別の手紙の中で、「投獄され、鞭打たれ、病に苦しみ、幾度となく眠れない夜を過ごした」経験を綴っています(第二コリント11章)。しかし、そのパウロが「いつも喜んでいなさい」とテサロニケの人々を励ましているのです。どのようにすれば、そのような生き方ができるのでしょうか。

何かを成し遂げた時、成功した時、健康である時、私たちの心には自然と喜びがやって来ます。しかし、ひとたび道が閉ざされ、失敗し、間違った選択をし、物事がうまくいかず、必要が満たされないならば、私たちの心の中に、失望と落胆が否応なく顔を出してくるのです。私たちの喜びは健康、財産、安定している人間関係など、身の回りの状況と固く結びついています。そのような状況に基づいた喜びは、状況とともに変化していき、消えていく事があるのです。

しかし、絶対にかわらない喜び、何ものも揺るがすことのできない喜びを聖書は指し示しています。それはイエス・キリストという救い主の存在に基づく喜びであり、十字架によって示された愛に基づく喜びです。これは私たちが自らの力で獲得する喜びではなく、与えられる喜び、受け取っていく喜びなのです。この喜びを受け取り続けることこそが、「イエス・キリストにおいて」神が私たちに望んでおられる生き方です。

つまり、いつも喜んでいるために、いつも十字架の前に立つ必要があるのです。キリストの十字架を通して、私の存在をこよなく喜んでくださっている神と出会うことができます。その場所でこそ、神の喜びのために存在している「私」を再発見することができるのです。

「あなたの神である主はあなたのただ中におられ、救いをもたらす勇者である。主は、喜びをもってあなたを祝い、愛をもってあなたを新たにし、喜びの歌をもってあなたに歓喜の声を上げる。」(ゼファニア書3章17節、聖書協会共同訳)

 

2020年4月26日「復活の主、弟子たちに現れる」今村まさゑ協力牧師

「復活の主、弟子たちに現れる」今村まさゑ協力牧師

ルカによる福音書24章36節~53節

世界には様々な宗教があります。しかし、どの宗教にもないものが、キリスト教にはあります。それが、主イエス・キリストの十字架の死と復活の出来事です。

ルカの24章36節に「こうゆうことを話していると・・」とありますが、その話の内容は、33節以降に書かれている通り、既に数人の弟子たちは復活された主に出会って、その話をしている最中に、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち「あなたがたに平和があるように」と言われたのです。彼らは恐れおののきイエスの亡霊だと思ったと記されています。

動揺する弟子たちに「まさしくわたしだ。わたしの手や足を見なさい。」とお見せになった。その手と足には、十字架の釘痕が残っていたでありましょう。2000年前、主イエス・キリストの十字架の死から三日目の出来事です。ご復活の記事は、使徒言行録1:3~。コリント第一15:4~。ペテロ第一2:24~ 他にも多く記されています。

イエスさまは肉体の復活だけでなく、実は目には見えない霊の復活をも成し遂げられたのです。イエスさまの十字架上での死とは、肉体の死だけでなく霊の死をも意味しています。霊の死とは、神の恵みから永遠に切り離されるという事、神との交わりが絶たれるという事、呪いの中に生きるという事を意味します。イエスさまは、私たちに代わりこの死を経験されたのです。しかし、三日後にこの死に打ち勝ち復活されました!復活とは、肉体のよみがえりを意味しますが、霊的な勝利をも意味するのです。

復活、すなわち死に勝つとは、神との完全な交わりの回復、神の国の恵みの永遠の享受、そして、呪いから完全に解放され、神の祝福を永遠に受けることを意味するのです。

イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(ヨハネ11:25)

イエスを信じる時、キリストの命(ZOE)に与り、イエスを信じ悔い改める時、わたしたちの罪は十字架の贖いのゆえに全て赦されるのです。私たちには帰る天の場所があるのです。十字架のキリスト、復活の主イエス・キリストの御腕に立ちかえり魂の安らぎを頂きましょう。

 

 

 

2020年4月19日「赦された者として赦す」加山献牧師

「赦された者として赦す」加山献牧師

マタイによる福音書6章12節

1) 私たちに必要な祈り

主イエスがこの祈りを私たちに教えてくださったのは、この祈りが私たちに必要だからです。「この祈りが私に必要だ」ということを認めるところからはじめていきたいと思います。つまり、私たちは全員、自分は罪人なのだ、ということを改めて認める、ということです。主の赦しを必要としない人は、どこにもいない、という現実がこの祈りの前提にあります。私たちは皆、罪を持って生きている存在です。しかし、このような罪人を愛し、赦して、すべての罪を引き受けてくださった救い主がおられる、それが十字架のイエス・キリストです。

 

2)毎日祈るための祈り~十字架につけられたままのキリスト~

前回、日毎の糧をお与えください、という言葉から、主の祈りは私たちが毎日祈ることを想定されていることを確認しました。同じように、私たちは毎日、神に赦しを乞わなければならない存在であることを、主の祈りは教えています。

約2000年前、主イエスが十字架で死なれたのは歴史的事実です。そしてその場所で罪の贖いが成し遂げられた、ということを私たちは信じています。十字架は、私たちの過去の罪をすべて贖い、そして私たちがこれから犯す罪もすべて贖ってくださった、ということを信じています。

一方でパウロは、十字架につけられたままのキリストが私たちの目の前に示されている、とも語りました(ガラテヤ3章1節)。今もなお十字架につけられたままのキリストがおられる、というのです。現在進行形で、私たちが今日犯す罪のために、今日も十字架にかかられる主イエスを、私たちは知るべきだと、パウロは語っています。

 

3)私たちの祈り~世界を包む祈り~

この祈りは個人的な祈りにとどまりません。これは「我ら」の祈りであり、「教会」の祈りです。「我らに罪を犯すものを、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。」

私たちが一緒に生きていこうとするならば、お互いに借りを作りあって生きていくことは避けられません。しかし、私たちは共に生きていくように造られたのです。赦しあい助けあって生きるように、神さまから招かれています。

そして、この祈りは世界を包む祈り、すべての人のための祈りです。個人的な罪の告白にとどまらず、全世界の罪、民族の罪、政府の罪、すべての人の罪を告白していく祈りでもあります。この問題のある国をどうにかしてください、というのではありません。神よ、赦してください、これは我らの罪、私の罪です、と告白する祈りです。

神の国が実現する時、御国では怒りや憎しみはありません。批判や悪口、他の人に対する不平不満もありません。完全に赦しあえる世界、愛しあえる世界、その前味を私たちはこの信仰共同体で味わい、分かち合っていきたいと思います。

 

 

 

 

2020年4月12日「あなたはわたしを愛していますか」加山献牧師

「あなたはわたしを愛していますか」加山献牧師

ヨハネによる福音書21章15節~19節

1) 「私を愛しているか」

復活された主イエスは、ペトロに対して「わたしを愛しているか」と問われました。ペトロの弱さ、醜さを完全に知りながら、しかも軽蔑することなく、主は優しくお尋ねになったのです。あなたのできる精一杯でいいから、もう一度立ち上がり、私を愛しなさい、という招きの言葉でした。

 

2) 「私の羊を飼いなさい」

主イエスがもう一つ、ペトロに繰り返し語られた言葉があります。「私の羊を飼いなさい」という言葉です。主は再びペトロに使命を与えられたのです。ペトロが失敗してもなお、主はペトロを信頼し、将来教会の世話をしていく、という大切な働きをペトロに託してくださいました。

 

3) 「私に従いなさい」

主イエスは19節で「私に従いなさい」とも言われました。私たちの人生の中で、いったい何が一番大切なのか、「従う」という行為は、そのことを明らかにします。私にとって一番価値あるもの、一番大切にしているもの、それが私たちの行動になり、私たちの生き方になって現れて来るのです。「私に従いなさい」と主イエスは招いてくださっています。

 

4) 今日も生きておられる救い主

主イエスは死に打ち勝ち、今日もあなたのために生きておられます。あなたを個人的に知り、あなたの名前を呼び、親しく語りかけてくださる方なのです。あなたは特別な愛で愛されています。十字架の道を選ばれるほどに、主はあなたを想ってくださいました。そして主イエスが復活されたのは、あなたと生きるため、永遠にあなたと生きるためだったのです。

今日も生きておられる主イエスは、私たちを救いに招いておられます。主を愛する生き方、主に従う生き方をもってお応えしましょう。

 

 

 

2020年4月5日「あの涙を忘れない」加山献牧師

「あの涙を忘れない」加山献牧師

ルカによる福音書22章54節~62節

ペトロの失敗は、彼が挑戦したからこその失敗でした。ペトロは危険を犯して、主の裁判が行われている大祭司の家まで従っていきました。このことから、確かにペトロは主を深く愛していたことが分かります。

しかし、彼の失敗は自分の力を過信してしまったこと、いうなれば「自分の信仰」を信じてしまったことでした。自他共に認める主イエスの一番弟子でした。「主よ、ご一緒なら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております。」(ルカ22:33)「たとえ、皆がつまずいても、私はつまずきません。」(マルコ14:29)とまで宣言していました。自分は大丈夫、と自信に溢れていたペトロが大きな挫折を経験したのです。

この聖書箇所を読む時、人の力、人間的な忠実さ、といったものは意外に脆いのだ、ということを知らされます。人間の約束、また人間の誠実さは、大きな試練に揺さぶられると、意外にも頼りにならない。しかし主イエスの変わらない約束、主イエスの誠実さが私たちを支えているのです。

悪魔は私たちの信仰をふるいにかけます。あわよくば、私たちの信仰をなくそうとします。悪魔の働きの目的は、弟子の信仰がなくなることなのです。しかし主は、あらかじめ告げておられました。「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。」(ルカ22:32)

実は私たち一人一人も、このイエスさまの祈りに支えられているものなのです。このパンデミックという災いの只中で、ふるいにかけられている私たちのために、今も天で、私たちのためにとりなして祈ってくださっているイエスさまがおられるのです。

「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:32)と主は語られました。「失敗することが失敗ではなく、失敗した後、何もしないでいることが失敗である」とよく言われますが、まさにその通りだと思います。私たちは幾度となく倒れてしまうものですが、また何度でも立ち上がるように主は招いてくださっています。

今一度、イエスさまの十字架の道を思い返したいと思います。ご自身を訴え、鞭で打ち、嘲るものたちのために、そしてペトロのためにその道を歩まれました。そして時を超え、国境を超えて、この場所に集う私たちのためにも、主は十字架を負ってくださったのです。主の憐れみの眼差しが、今日も私たち一人一人に注がれています。

動画はこちら↓

https://www.youtube.com/watch?v=DaDQvcRye80

 

2020年3月29日「今日も命の糧をください」加山献牧師

「今日も命の糧をください」加山献牧師

マタイによる福音書6章11節

これまでの「主の祈り」から、父なる神の御名のために、御国のために、また御心の実現のために祈ることの大切さを学んできました。しかしイエスさまは、同じ「主の祈り」の中で、私たちが自分自身の具体的な必要のために祈るということも教えてくださいました。

〈1〉 必要を神に求める祈り

「日用の糧をお与えください」という祈りの「糧」という言葉は「アルトーン」というギリシャ語で、直訳すれば「パン」を指す言葉です。当時の人々にとって「パン」は欠かすことのできない主食でした。特にガリラヤの貧しい人々にとって、「パン」は今日という日を生きていくための切実な願いだったのです。

わたしたちは父なる神の子どもとして、-子が父に願うように-、大胆に求めることが許されているのです。イエスさまは同じ山上の説教の中で、「求めなさい。そうすれば与えられます」とも言われました。主の御名によって大胆に求めるものでありたいです。

〈2〉御国の祈りと「わたしたち」の祈り

主の祈りの後半部分はひとりだけでは祈れない祈りです。イエスさまは、私たちがひとりで祈るだけでなく、信じるもの同士が集まり一緒に祈ることを前提としてこの祈りを教えてくださいました。また世界の飢えている人々の為にも祈り、できうる限りの行いを成すものでありたいです。

さらに、「今日与えたまえ」(新改訳2017)という言葉から、イエスさまは、私たちがこの祈りを毎日祈ることを前提とされました。「パンの背後に粉がある。粉の背後に麦がある。麦の背後に太陽の光と雨の恵みがある。そして全てのものの背後に父なる神さまの心がある。」(AMハンター)私たちの存在は全く、神さまに依存しています。だから今日も、神さまに願い、神さまに感謝する者でありたいと思います。

〈3〉私たちの霊的な糧を求める

「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」(マタイ4:4)霊的な糧とは神のみことばであり、イエス・キリストご自身です。ぜひ、毎日神の言葉である聖書を味わっていただきたいと思います。毎日いただくことによって、私たちは満たされ霊的に成長することができます。

イエスさまは「わたしが命のパンである」と言われました。みことばをいただく、ということは、それを通してイエス・キリストと出会う、ということです。イエスさまにしか癒せない、魂の飢え、魂の渇きがあります。「今日も命の糧をください」、「イエスさま、今日もあなたとご一緒に生きさせてください」と祈りましょう。

 

 

 

2020年3月22日「この海を渡ろう」加山献牧師

「この海を渡ろう」加山献牧師

出エジプト記14章5~16節

【解放されたものを再び捕らえようとする力】

エジプトでの奴隷生活から解放されたイスラエルの民は、意気揚々とエジプトから出ていきました。ところがエジプト王ファラオは心変わりし、えり抜きの軍隊を整え、再びイスラエルを奴隷にするために出撃したのです。

ところで私たちは、主イエスに出会い、主イエスを信じ、どのような状況から救われ、救われつつあるのでしょうか。何が変わり始め、どのような新しい出発をしたのでしょうか。私たちは主イエスによって罪と死の問題、それに付随するあらゆる問題から、すでに救い出されているものなのです。

しかし、解き放たれ自由にされたものを再び支配しようとして追いかけてくる力があるのです。はるか昔に手放したはずの恐れや不安が、再び襲ってくることがあるかもしれません。過ぎ去ったはずの古き支配者が私たちを離そうとせず、追いかけてくることがあるのです。

しかしモーセは「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない」(13節)と人々を励ましました。私たちもこのモーセの励ましに深く耳を傾けたいと思います。この人生の歩みにおいては、私たちを追い詰めようとする様々な出来事があります。しかしながら、「もう二度と、永久にそれらを見ることはない」という、私たちの人生にもたらされる確かな勝利についての良き知らせがあるのです。

【主があなたたちのために戦われる】

「主があなたたちのために戦われる」という宣言の言葉に注目したいと思います。イスラエルの道は海にさえぎられ、後ろからは世界最強の軍隊が迫っていましたのです。もう自分たちの力ではどうすることもできない状態でした。自分で自分自身を救うことのできない人間の弱き姿がここにあります。ですが、自分の力が尽きた時こそが神の御業が現れる絶好の時なのです。

どんなに神を強く信じていても、怖いものは怖いかもしれません。夜の闇が一番深くなる夜明けの時に、民は海に向かって踏み出していかなければなりませんでした。聖書の中で何度も何度も「恐れるな」と語られているのは、私たちの人生には恐れを抱かせるような問題が山のようにあるからです。

人生の苦難の責任を神さまに問いただすのではなく、私自身がこの苦難や問題に問いかけられている者へと変えられていく必要があります。神さまを被告人の席につけて「なぜなのですか」と問い詰めるのではなく、私たちの方が神さまに問われている立場に身を置き換えるのです。

イスラエルの民は神さまのことばを信じて、前に向かって歩み出しました。するとその先に、神さまの力と救いを経験しました。同じように、私たちに必要なことは、キリストのことばを信じて、一歩踏み出すことです。この海を渡りましょう。もし、まだキリストをご自身の救い主として信じておられない方がおられましたら、ぜひイエス・キリストを救い主として、心に受け入れてください。心からお勧めします。

 

 

 

 

 

2020年3月15日「イエスと二人の犯罪人」今村まさゑ協力牧師

「イエスと二人の犯罪人」今村まさゑ協力牧師

ルカによる福音書23章32~47節

受難節(レント)を如何お過ごしでしょうか。今朝は最も大切な箇所として御言を頂き、主の贖いの尊さを心に刻みたいと思います。「十字架上の七言」のうち三言が今朝の箇所に記されています。イエスさまが十字架につけられたのは9時であったとマルコは記していますが、実は前夜から一晩中、不当な裁判で引き回され殴打、鞭打ちで全身は血だらけ、立っていることさえ不可能な状態でした。イエスさまと共に左右に犯罪人も三本の十字架が立ちました。多くの人々がいました。民衆、議員たち、祭司長や律法学者たち、兵士たちが口々に罵しり続けました。弟子たちの多くは、状況が不利になるや主の弟子であることを恐れて、身を隠したのです。

「他人を救った。もしメシヤなら、神から選ばれた者なら、ユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」犯罪人も「自分自身と我々を救ってみろ」と嘲笑したのです。{その時、イエスは言われた。「父よ、彼らをおゆるし下さい。自分が何をしているのか知らないのです。」(34節)と。主イエスさまにとって十字架から飛び降りることなど容易なことでしたが、ご自分を救わぬことで、死ぬべき人類の罪の身代わりとなって救いの道をひらかれたのです。これが十字架の意味であり神の愛なのです。

第二コリント5章21節にこうあります。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちは、その方によって神の義を得ることができたのです。」何という恵みでしょうか。

「父よ、彼らを赦してください。」この執り成しの祈りを真近で聞いたもう一人の犯罪人は、肉体が張り裂けるような苦しみのなか、「お前は神をも恐れないのか。」と、神への畏敬の念にかられ愚かな罪人がいたことを思い出してほしいと願ったのです。するとイエスさまは、「アーメン、アーメン、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(43節)と言われました。大罪人であっても罪を悔い改めるなら赦されるのです。キリストの十字架の身代わりの故に、無条件に赦され神の国に招き入れて下さるのです。

昼の12時頃、全地は暗くなり3時頃まで続き、太陽は光を失っていた。イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」(46節)こう言って息を引き取られたのです。この出来事を一部始終、目撃した百人隊長は「本当に、この人は神の子だった。」と言って神を讃美したと記されています。

そして、三日目の朝、主イエスさまはご復活されたのです。今年は4月12日が復活祭(イースター)です。ハレルヤ!