「けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。」(ガラテヤの信徒への手紙2章16節)
パウロはここで“救われる”ということを“義とされる”という言葉で表現しています。“義とされる”とは、神さまの目から見て正しいものと認めていただける、または神さまとの関係において正しい位置に置かれる、ということを意味しています。
「ディカイオオマイ」(義とされる)というギリシア語はもともと法廷用語で、裁判の時に“無罪とされる”という意味で使われていました。主イエスの十字架によって、またその主イエスを信じる信仰によって、私たちは皆、罪ある者であるにも関わらず、義とされる、罪なき者として受け入れていただけるという驚くべき恵みが語られています。
「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(ガラテヤの信徒への手紙2章20節)
キリストを信じる、ということは古い自分に死に、新しい自分を生きる、ということを意味しています。パウロが指し示したクリスチャンライフは、毎日、己に死に、我が内におられるキリストのために生きる、という生き方でした。
20節の中に五度も、“わたし”という言葉が語られています。わたしが今、生きているのは、“このわたし”を愛し、“このわたし”のために身を献げられたイエス・キリストのために生きているのだ、とパウロは語りました。私たちもイエスさまの十字架の愛を、“このわたし”に向けられたものとして、この上なく個人的なものとして受け取っていきたいと思います。