2025年3月16日「隠された二つ目の奇跡」黄 睿濫 神学生

本文の9節にエウティコという名の青年が登場します。彼はパウロの説教中にひどく眠気を催し3階の窓から落ち亡くなったとあります。ギリシア語の本文でも彼は確実に死んだということが強調されています。

礼拝中に起きた不慮の事故に人々は慌てふためきます。しかしそのただ中でパウロが語ります。「騒ぐな、まだ生きている。」 直訳すれば 「騒ぐことはない。彼の命はまだ、彼の内にある」となります。パウロが青年を生き返らせたのではなく、生死をつかさどる神様が生き返らせたのだということが強調されています。

人間がどうしても克服することのできない死の力を無にする神さま。この神さまを私たちは礼拝しています。私たちを支え、私たちを守ってくださる神さまです。

12節にクライマックスの言葉があります。「人々は大いに慰められた。」 もちろん青年が生き返ったことが理由ですが、それだけでなく彼らの中で生きている礼拝がささげられていたからではないでしょうか。彼らは生きている神さまの御業をその礼拝の中で体験しました。だからこそ彼らは夜明けまで礼拝を続けました。礼拝の中で神様と交わり、兄弟姉妹と交わる。その喜びこそが礼拝を続けさせました。

私たちの礼拝の中で、既に与えられている恵みに気づかされます。祈りの中で、神さまの守りが豊かにあったのだということに気づかされます。聖書の御言葉を通して神様はどんな良いことを成してくださるのか。そしてこれからの一週間をどのように導いてくださるのか。青年の生き返りという単発的な奇跡のみならず、教会の共同体に生き続ける恵みという奇跡があります。