カテゴリー別アーカイブ: 礼拝メッセージ

2019年12月1日「神さまの名前」加山献牧師

「神さまの名前」加山献牧師

出エジプト記3章11節~15節

モーセは神に尋ねました。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。』」(13節)

神はご自身の名を尋ねられて、次のようにモーセに答えられました。「わたしはある。わたしはあるという者だ」、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」(14節) この言葉から三つのことを考えていきたいと思います。

第一に、この神は、今、現在形で確かに存在しておられる、ということです。存在しているようで存在していない他の神々とは違う。私はたしかに存在し、生きて働いているものである、と神は語られました。

第二に、神は他の何者にも依存することはなく、ただお一人で完結した存在である、ということです。モーセは「わたしは何者でしょうか」(英訳は“who am I?”)(11節)と問いかけました。わたしという存在が何なのか、まったく分からないでいるモーセ(=人間)に対して、神は言われました。”I am who I am”、「わたしはわたしなのだ、わたしは他の何かに依存する必要がまったくないのである」という宣言です。

第三に、わたしは他のすべての存在を呼びおこし、支えているものである、ということです。無から有を生み出し、存在させたもの。何もなかったところに、この世界を生み出し、私たちひとりひとりの存在を支えてくださっている方である、という意味です。

人間はまず、生まれてきた家庭の中で、家族の存在によって自分が何者かを知ります。さらに学校の友人、仕事仲間など、人々と出会い、様々な集団に属していく中で自己認識を形成し、自分の存在の意義を実感していきます。私たちは常に、他の人との関係性の中で、また所属している「場」の只中で「自分は何者であるか」ということを理解し、測り、認識しているのです。そのような関係性は人間にとって必要不可欠であると言えます。

人は誰でも、この世界で孤立し、ひとりぼっちとなり、孤独を味わうならば、もはや自分自身を保つことはできません。しかし、神の場合は違うのです。この神はたった一人で自己充足し、その豊かさのあまりに、満ち足りている方なのです。ところがこの神が ――何者にも依存する必要のないはずの神が――、人を愛し、人に関わってくださり、人を必要としてくださるのです。なんという恵み、なんという喜びでしょうか。人間はこの神を抜きにして、自分が一体何者であるか、その究極的な意味を知ることはできません。この神の前に立つとき、つまり、カルバリの十字架の前に立つとき、人は真に自分が何者であるかを知ることができるのです。

わたしたちは揺るがされることのない存在によって生み出され、支えられています。わたしたちは、絶対的な存在によって、個人的に知られていて、愛されています。しかも、あの十字架の愛によって愛されているのです。

 

 

 

2019年11月24日「私は必ずあなたと共にいる」加山献牧師

「私は必ずあなたと共にいる」加山献牧師

出エジプト記3章1節~12節

エジプトを追われ逃亡者となったモーセは、すっかり自信を失い、ミディアンという地方で、ひっそりと生活をしていました。そのモーセに、神が突然、不思議な形で語りかけたのです。

1.あなたの主権を神である私に渡しなさい(5節)

神は言われました。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたが立っている場所は聖なる土地だから。」イスラエルの文化では、履物を脱いで相手に渡す、ということは「主権をあなたに譲ります」という意味がありました。つまりここで神は「モーセよ、あなたの主権を、神である私に渡しなさい」と言われたのです。

2.神である私があなたを救い出す(7節)

神は奴隷とされているイスラエルの民の叫びを聞き、心を痛めておられました。そして、神ご自身が降ってきてくださり、救い出してくださるということが宣言されています。「降ってくる」とはやがて来られるイエス・キリストのご降誕を指し示しています。この聖書の神は、今私たちが抱えている苦しみ、痛みを知ってくださり、叫びを聞いて、救い出してくださる方です。その究極的成就はイエス・キリストの生涯にあります。

3.約束の地に導いて伴走してくださる神(8節)

さらに、神は民を必ず素晴らしい土地に導き出すと約束してくださいました。この旅の途中で、民は多くの試練に襲われました。もう逃げ出したい、と思うような巨大な敵が何度も立ちはだかったのです。けれども、この旅の間、ひとときも離れることなく、民と共に歩んでくださった神がおられることを、私たちは改めて心に留めたいと思います。

4.神の御業の中で派遣される人(10節)

神はご自身の力をもって、救いの業を成し遂げられると宣言されました(8節)。しかし10節では、神はモーセに対して「行きなさい」と言われるのです。人の努力や頑張りが救いをもたらすのではありません。しかし、神は人類の救いを完成するために、人を用いられるのです。圧倒的な力を持つはずの神が、弱く、限界のある人を選んで、用いられる。これが聖書の逆説的なメッセージです。

神は、宣教という愚かな手段によって信じるものを救おうと、お考えになったのです。』 使徒パウロ (第一コリント1章21節)

自分の力では動けない 自分の力では生きられないと 気づいた瞬間に私をしっかりささえてくださった キリストの御腕が はっきり見えてきた』  瞬きの詩人 水野源三 作

 

 

 

2019年11月17日「天国を見上げて」加山献牧師

「天国を見上げて」加山献牧師

フィリピの信徒への手紙3章12節~4章1節

人は死んだらどうなるのだろうか。天国は本当にあるのだろうか。あるとしたならば、そこはどのようなところなのだろうか。この問題は古くから人類に与えられてきた普遍的な問いです。聖書は天国の様子を次のように語っています。そこにはもはや死はなく、悲しみも嘆きも労苦もない。そして、神さまは私たちの目から涙をすっかり拭い去ってくださる、というのです。(黙示録21章4節)

フィリピの信徒への手紙3章20節には、「わたしたちの本国は天にあります」という宣言があります。天国がわたしたちのゴールであり、目標であり、帰るべき故郷である、ということです。

この手紙はパウロという人によって書かれました。キリストを信じて生きていく、ということが難しい時代に、ぜひ信仰を守り続けて生きていってほしいと、この手紙には綴られています。パウロは信仰をレースにたとえました。同じように、わたしたちひとりひとりの信仰の歩みも、レースに例えられます。苦しい時、倒れる時もあります。しかしわたしたちは、その度に立ち上がり、前に向かって走り続けるのです。そして、イエス・キリストの十字架の救いを受け取ったものは、誰でも天国に迎えられます。

「わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。」(3章20節)イエスさまが迎えに来られて、抱きしめて、天国に持ち運んでくださるまで、私たちも信仰の先輩方に倣い、定められた道のりを大切に走り切りたいと思います。他の人たちに負けないように、競争するという意味ではありません。私たち、それぞれに定められた走るべき道のりがあるのです。なすべき働き、果たすべき役割があります。そして神さまが定めてくださった走るべき道のりを走り通すことが求められています。苦しい時、もう前に進めないと思う時には、ぜひとも、このゴールを見上げていただきたいと思います。

十字架によって開かれた扉がそこにあります。私たちはそこに希望を見ます。そこに光を見ます。ゴールで待っている方がおられます。私たちの救い主、イエス・キリストと、私たちの愛する方々、先に召されたご家族、ご友人が待っている天国を見上げて、今日の日を精一杯駆け抜けていく者でありたいと思います。

 

 

 

 

2019年11月10日「全世界に出ていこう」加山献牧師

「全世界に出ていこう」加山献牧師

マルコによる福音書16章14節~20節

早良キリスト教会に現在の会堂が与えられて、今年でちょうど20年目を迎えます。新会堂感謝礼拝は1999年11月27日に執り行われました。その礼拝プログラムの巻頭言において、初代牧師の松村祐二郎先生は以下のように宣教目標を提示されました。

「私は第一に『ひとつになる教会』、第二に『祈る教会』、第三に『伝道者を生み出す教会』、第四に『神と人の前にへりくだる教会』、第五に『豊かな交わりを持つ教会』を目標にしたいと思います。これらのことに努めて歩むなら『全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16:15)というイエスのみ言葉に応えることができるのではないかと考えています。」

「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」この大宣教命令こそが教会の存在目的です。世界のすべての人がこの良き知らせを聞かなければならない、とイエスさまは言われています。福音とはイエス・キリストの十字架と復活です。イエスさまの十字架によって、天国の門が開かれました。信じるなら、誰でもそこから入っていくことができるのです。この良き知らせを一人でも多くの方にお伝えしたい、それが私たちの教会活動の原動力です。

現在、世界中に教会がありますが、宣教師という存在がなければ、この良き知らせはこれほど世界に広がることはなかったはずです。ですから、日本に来られている宣教師の先生方に心から感謝し、また日本から送り出されている宣教師の働きのためにもますます祈っていきたいと思います。

私たち一人一人の場合を考えてみても、誘ってくださった人がいたから、はじめて教会に来ることができた、という方は多いのではないかと思います。皆さんを教会に誘い、聖書の言葉を宣べ伝えてくださった方が、きっとおられるはずです。

私たちはそれぞれの場所で小さな宣教師として召されていることを覚えていきたいと思います。私たちが味わった神様の愛、この教会で味わったイエスさまを信じる人生の素晴らしさを、喜んで分かちあっていきたいと思います。またより強い感動を持って伝えるために、日毎に深く、主の恵みを味わっていく信仰の歩みを進めていきたいと思います。

 

 

 

2019年11月3日「認められたい、愛されたい」加山献牧師

「認められたい、愛されたい」加山献牧師

マタイによる福音書6章1~6節、16~18節

当時の人々は「施し、祈り、断食」という三つの行いを、とても大切にしていました。しかし、イエスさまは今回の聖書箇所で「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい」(1節)と語られました。

人は誰でも自分以外の人に認められたいという欲求を持っています。それは、ある程度は自然なことです。他者から認めてもらうこと、必要とされることは人間が生きていくために必須です。誰でも、達成したことを褒めてもらえれば、やはり嬉しいですし、やりがいも感じることでしょう。この心の求めは、心理学では「承認欲求」と呼ばれています。

私たちは実に、他者に受け入れられたいと思って、生きるものではないでしょうか。父に受け入れられたい息子、母に受け入れられたい娘、夫に愛されたい妻、妻から認められたい夫、先生やコーチから褒められたい生徒、友人たちから認められたい若者。ありのままの自分を受け入れてくれる家族や友人を持っている者は幸いです。

しかし今、強く申し上げたいことは、すべての人は全宇宙を作られた偉大な方から、愛され、認められ、受け入れられている、という事実です。私たちの承認欲求は、まず神の愛によって充足するべきなのです。

世間は素晴らしい成果を上げた時には「すごい」と言ってくれることがしばしばです。しかし、キリストはただ私たちが存在しているだけで「すばらしい!」と感嘆してくださるお方です。何故なら私たちは神の作品であるという一点で素晴らしい存在であるからです。

何かができたから褒められるのではありません。キリストは私たちをそのまま愛しておられます。何故なら神は初めから、愛するために私たちを造ってくださったからです。これが人間存在の原点なのです。

神は、頑張っている私たちを愛しておられますが、頑張れない私たちのことも愛しておられます。隠れたことを見ておられる神は、私たちの罪を暴くためだけに私たち見ておられるのではありません。私たちの苦労、私たち流す涙を見て、必ず報いてくださいます。

人間はこの神から離れて、自分のことを最も大切に思っていてくださる存在を忘れて生きています。この神から離れている状態を聖書は「罪」と語っています。無条件に愛する神様を、人は見失っています。見失っているということ以上に、人は神を捨てたのです。人類にとって、これほど大きな損失はありません。神の愛によって生まれたからには、神の愛によって生きるべきです。私たちは、認められ、受け入れられ、愛されていることを知る者となりましょう。

 

 

2019年10月27日「解放のはじまり」加山献牧師

「解放のはじまり」加山献牧師

出エジプト記2章11節~25節

モーセはエジプト王ファラオによる、迫害の最中に生まれてきました。しかし、彼は王室に引き取られ、当時の最高水準の教育を受けました。この事が、のちにイスラエルの指導者となってリーダーシップを発揮していくために大きな役に立ちました。モーセが王宮で育った奇跡は、神の深いご計画の一部だったのです。

成長したモーセは、自分の同胞がエジプト人に打たれているのを見た時、それを見過ごすことができませんでした(11節)。ついにそのエジプト人に打ちかかり、殺人を犯してしまったのです。その翌日にもモーセは同じ場所に出ていきました。今度はヘブライ人同士が喧嘩をしているところに居合わせ、その仲裁しようとしました。ところが「誰がお前を我々の監督や裁判官にしたのか。お前はあのエジプト人を殺したように、このわたしを殺すつもりか」と仲間だと思っていたヘブライ人に遠ざけられてしまったのです(13節)。殺人を犯してしまったことが公に知られると、モーセは逃亡せざるを得なくなりました。モーセはその時持っていた地位と名誉、権力と誇りを一瞬にして失ったのです。

エジプト人の中にも、ヘブライ人の中にも自分の居場所を見出せず、逃亡者となったモーセはミディアン地方にたどり着きました。そこでミディアンの娘ツィポラと結婚して家族を持ちます。ツィポラとの間に生まれた息子の名は、自分の境遇「寄留者(ゲール)」にちなんで、ゲルショムと名付けられました。この息子の名前は、自分の力で世界を変え、自分の力で自分の居場所を作り出すことのできなかったモーセの心境を表わされています。神の器として用いられるために、モーセは砕かれる必要がありました。そしてもう一度形作られる必要があったのです。やがて彼はこの荒野の中で神と出会い、神のみもとに自分の居場所を見出すようになるのです。

24節からは、神が主語となっています。神が民の叫びを聞き、契約を想い起し、人々を顧み、御心に留められました。モーセが何者であるかによらず、神が神であられるから、この解放の始まりが告げられているのです。私たちが何者であるかによらず、ただ神の憐れみによって、私たちに十字架の救いが与えられたことも同様です。出エジプトはイエス・キリストの十字架の救いを指し示すものであったことを覚えましょう。

 

 

2019年10月20日「金持ちとラザロ」今村まさゑ協力牧師

「金持ちとラザロ」今村まさゑ協力牧師

ルカによる福音書16章19節~31節

イエスさまは、多くの譬え話をして真理を分かり易く説かれました。この箇所で興味深いのは、大金持ちの名は挙げられず、物乞いをしていた男の名はラザロであったと語られるのです。この譬え話はイエスの話を聞いて嘲笑った「金に執着するパリサイ派の人々」に対してされたのです。金持ちは王が着るような衣服を身にまとい、毎日、贅沢にお祭り騒ぎをして遊び暮らしていました。この金持ちの門前に、できものだらけのラザロが横たわり、金持ちの食卓からの捨てられたもので生きていました。野良犬がやって来て舐めてくれることが、慰めでありました。やがて、ラザロは死にましたが、葬ってくれる者もいませんでした。しかし、天使たちによって天国へと連れて行かれました。さて、金持ちも死んで葬られました。葬られたというのは、立派な葬儀が行われたということを示します。ところが、金持ちは陰府(よみ、地獄)で、さいなまれながら目を上げると、はるかに宴席で、こともあろうか、あのラザロが、イスラエルの父祖アブラハムのとなりで満ち足りている姿が見えたというのです。金持ちは大声で「父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロを遣わして、炎の中でもだえ苦しんでいるわたしの舌に、指先に浸した水で冷やしてください」と叫びました。しかし、それはできない。天の国と陰府は越えられないのです。金持ちはそうであれば、まだ生き残っている五人の兄弟の所に、警告にラザロを遣わしてくださいと願いましたが、これも叶いませんでした。

生きている人々には、「モーセと預言者がある」。つまり「聖書」がある。聖書を読まないのであれば、他の誰を遣わそうと「その言うことを、聞き入れはしないだろう」(31節)と明言しています。金持ちとラザロ、この二人は相次いで死に、金持ちは陰府に、ラザロは天国に、その理由をイエスさまは触れておられません。ただ、ラザロという名は、「神は助け」の意であり、「神の助けなしに、生き得ぬ者」であることを語っています。金持ちにも良いところは幾つもありました。門前に哀れな者が居ても追い払わず、捨てた残飯とはいえ食することをゆるし、名前までも覚えていました。また、兄弟に対しても、悔い改めて地獄に来ぬように、必死で執り成すなど中々なものです。しかし、「律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消え失せるほうが易しい。」(16章17節)とあるように、神の掟、神の言は滅びることはない。神の真理、それは揺らぐことはない。」わたしたちの命は、この世の死で終わらないのです。復活の命を信じ、御国への憧れに生きる者は、この地上の働きが無駄にならないことを信じて生きるのです。最後に「コリントの信徒への手紙(一)15章58節」を読み、祈ります。

 

 

 

 

2019年10月13日「小さな命を守りたい」加山献牧師

「小さな命を守りたい」加山献牧師

出エジプト記1章15節~2章10節

出エジプト記から、モーセの誕生の影で活躍した五人の女性たちに注目してみたいと思います。過酷な労働環境の中でも人口増加し続けたヘブライ人に対して、エジプト王ファラオはヘブライ人シフラとプアを呼び、恐ろしい命令をくだしました。

 

【シフラとプア】

シフラとプアは今でいう師長さんのような助産師のまとめ役であったと考えられます。男の子が生まれたならば、その場で殺すように命令が下りましたが、二人はファラオに従わず、命がけで密かに赤ちゃんを生かしておきました。彼女たちの真っ直ぐな信仰と勇気ある決断が、やがてイスラエル民族の出エジプトという歴史的事件につながりました。

 

【ヨケベデ】

エジプト王は「生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め」と恐ろしい命令をだします。この頃、やがてヘブライ人をエジプトから約束の地へ導き上っていく英雄、モーセが生まれます。母親のヨケベドは、神がお造りになった命の美しさ、命の尊さを見て、モーセを見殺しにすることができませんでした。知恵を絞り、パピルスの籠を編んでアスファルトで防水し、そこにモーセを入れてナイル川の葦の茂みにおきました。神様にこの赤ちゃんの命を委ねたのです。

 

【ミリアムとファラオの娘】

ミリアムはナイル川に流された赤ちゃんの無事を見届けるために立ちました。そこに水浴びにやってきたファラオの娘である王女が、モーセを入っている籠を見つけます。父親の命令に背くことを知りながら、ヘブライ人の赤ちゃんの命を救って養子にする決断をしました。モーセが生き延びるためには、この5人の女性たちの存在が必要でした。彼女たちのうち、一人でも欠けていたら、モーセの小さな命が生きる道は閉ざされていたはずです。

 

現代社会は育児放棄、虐待、中絶などの問題を抱え、小さな命が軽んじられている社会といえるかもしれません。教会はこの5人の女性たちのように、小さな命を守るために祈り、行動するものでありたいと思います。

 

 

 

2019年10月6日「あなたの敵を愛しなさい」加山献牧師

「あなたの敵を愛しなさい」加山献牧師

マタイによる福音書5章38節~48節

 

「あなたの敵を愛しなさい。」イエス・キリストが語られた最も重要な教えのひとつです。イエスさまは「それがあなたがたにはできるはずだ」とわたしたちを励ましてくださっています。

1.自分自身がどのような存在かを深く知る

他者を愛するために必要な最初のステップは、自分自身を深く知ることです。聖書は、私たち人間が神の愛をよって造られたことを告げています。また、イエス・キリストの十字架を通して、わたしたちは自分が、どれほど神にとって大切で、かけがえのない存在であるかを知ることができます。日ごとに神の無尽蔵の愛を受け取り続けていただきたいと思います。愛されている人ほど深く愛することができます。あなたは天地を造られた神に愛されています。だからあなたは愛することができる人なのです。

2.「なぜ」敵を愛さなければならないか

故マーティン・ルーサー・キング牧師は「闇によって闇を消し去ることはできない。光だけが闇を追い払うことができる。憎しみによって憎しみを消し去ることはできない。愛だけが、それをできるのである。」と語りました。キング牧師は非暴力を貫き、愛によって憎しみを克服しました。私たちひとりひとりも、愛によって世の敵意を取り除く和解の務めに召されています。

また「赦せない、愛せない」という想いは、私たちを「本当の自分」から遠ざけます。なぜなら、私たちは愛し愛される存在として造られたからです。他者を嫌い、憎み、傷つける「わたし」は「本当のわたし」ではありません。他者を心からいたわり、慰め、励ます。そのような優しいわたしが「本当のわたし」なのです。「本当の自分」を取り戻すために、私たちは敵をも愛する愛を求め、日々祈りましょう。

3.不完全ながら、「完全」を目指して成長するものとして

しかしながら、わたしたちは自分の力で人を愛することはできません。わたしたちは自分の中に完全な愛が備わっていないことを知っています。しかし神は、わたしたちの心に、すべての人を愛したいという願いを備えてくださるのです。

48節には「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」とあります。ここで使われている「完全」(テレイオス)という言葉は「成人した、円熟した、成熟した」という意味も持っています。信仰の高みを目指し、この地上の最後の日まで、御国につく朝まで、愛することにおいて成長し続けるものでありたいと思います。

 

 

 

2019年9月29日「わたしについて来なさい」ラス・ボーグ宣教師(日本バプテスト宣教団)

「わたしについて来なさい」ラス・ボーグ宣教師

ルカによる福音書9章23節

イエス様がこの世におられた時に、多くの方々に「わたしに従って来なさい」また「わたしについてきなさい」と招かれました。聖書は私たちにこのように教えています。 「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない。」現在もイエスキリストは生きておられ、自分に従って来る人達を呼んでおられます。クリスチャンと言う意味は、イエス・キリストに従っていく者のことです。私達は、日々イエス・キリストに従い、そしてイエス・キリストがその御心を私達に表わし、私達の行くべき道を示し、私達の人生を導いてくださるのです。

ルカによる福音書9章23節はこう教えています。それから、イエスは皆に言われた。「私について来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。」私達がイエス様の弟子になれば、日々、毎日、イエス・キリストについて行く必要があります。また、自分を捨てるとはどういう意味なのでしょうか?それは、自分自身の行きたい道よりも、主イエスキリストがあなたの為に準備された道を求め、進むという事です。主があなたの為に準備された道は、決してやさしい道ではないかもしれません。しかし、その道を進んで行き、振り返った時、神様がその道へ導いて下さった理由が少しわかるかと思います。またその理由を知り、心が満たされるでしょう。

私たちがクリスチャンになり、イエス様に従う決断をした時以来、私たちの人生はもう自分自身のものではなく、イエス様のものなのです。ですから私たちは神様の御心と神様の導きに従います。イエス様はこの教会におられる皆さんを招かれ、また私達も彼について行く決断をしました。そしてイエス様を自分の人生の主とし、その生涯を彼に捧げる決断をされたと思います。神様の私達に対する愛と恵みは、私たちの想像を超えるものです。私達が自分の人生の主導権を神様に完全に委ねる時、私達はその愛と恵みをさらに深く感じる事が出来ると思います。神様の愛と恵みは忠実で、どんな物も神様の愛から私達を引き離すことは出来ません。

「私について来なさい」「私に従って来なさい」こう言われたイエス・キリストからの招きに対して、全てを捨てて従ったシモンペテロとアンデレ等の様に、私達も受け止めて行きたいと思います。