カテゴリー別アーカイブ: 礼拝メッセージ

2020年6月21日「心を潤す泉がある」加山献牧師

「心を潤す泉がある」加山献牧師

出エジプト記15章22節~27節

「モーセはイスラエルを、葦の海から旅立たせた。彼らはシュルの荒れ野に向かって、荒れ野を三日の間進んだが、水を得なかった。マラに着いたが、そこの水は苦くて飲むことができなかった。こういうわけで、そこの名はマラ(苦い)と呼ばれた。 民はモーセに向かって、『何を飲んだらよいのか』と不平を言った。」(22節~24節)

イスラエルの民は砂漠の道を三日間進み続けました。蓄えていた飲み水も底を尽きてしまったことでしょう。子ども達も高齢の方も一緒に旅している状況で、丸三日間、砂漠の真ん中で飲み水を得ることができなかった彼らは、命の危機に瀕していました。

彼らはやっとの思いで、水がある場所にたどり着きました。しかし彼らの喜びはすぐに落胆に変わりました。「そこの水は苦くて飲むことができなかった」というのです。ついに人々はモーセに不満をぶつけました。不満をぶつけられたモーセは神さまに叫びました。

「モーセが主に向かって叫ぶと、主は彼に一本の木を示された。」(25節)主は、彼に一本の木を、示された・・・その一本の木を水の中に投げ込むと、神さまの特別な力により、苦い水は甘くなり、飲めるようになった、というのです。

私たちの人生にも度々苦い体験があります。度々、マラの水場のような苦い場面を通ることがあるのです。探し求めていたはずのものが苦くて飲めない、そのように期待を裏切られるような落胆があったりもするでしょう。

ですが神さまは、私たちの人生にも、一本の木を示してくださいました。それはカルバリの丘の十字架です。十字架とはすなわち福音です。主イエスが私たちのために歩んでくださったすべての道のり、私たちのためにお語りくださったすべてのお言葉です。

この一本の木があれば、飲めない水はありません。主イエスの十字架があれば耐えられない杯はありません。この福音を握って生きていくならば、どんな試練にも耐えることができます。ただ耐えられるようになるだけではありません。その苦い経験は、甘く慕わしい、甘美に満ちた水に変えられる、というのです。神がお与えになる恵みは、私たちの失敗、後悔、痛み、悩みを覆ってあまりある、大きな恵みなのです。

やがてイスラエルの民は、エリムの泉と呼ばれる場所に導かれました。そこには12の泉と70本のナツメヤシが茂る、完全なオアシスでした。マラからわずか8キロほど先に民の命を支えるオアシスが備えられていたのです。ここで民は、旅の疲れを癒し、ゆっくり休み、喉の渇きを癒しました。

私たちの人生にもこのようなオアシスが必要です。しばしの休息をとり、次の旅に向かうための力を蓄える、憩いの場所です。願わくは、この教会の礼拝が、皆さんにとってそのような憩いの場所となることを願います。私たちも勇気を得て、人生の旅を続けていきましょう。時にはマラの苦い水があります。しかし、マラのすぐ先にはエリムの泉が備えられているのです。

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2020年6月14日「国と力と栄えとは」加山献牧師

「国と力と栄えとは」加山献牧師

列王記上29章10節~13節

私たちは「国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり」という祈りで主の祈りを締めくくります。古い記録によれば、西暦90年ごろにはこのような結びの言葉が付け加えられて教会で祈られるようになっていたことがわかっています。この結びの言葉が定着したのは、主の祈りを締めくくるのに、この上なくふさわしい祈りであったからです。

この結びの言葉の元となった聖書箇所は歴代誌上29章のダビデの祈りです。ダビデの祈りには大きく分けて3つのテーマがあります。第一に「この国はあなたのものです」、第二に「すべての富と力はあなたのものです」、そして3番目に「すべての栄光、誉れは神さま、あなたのものです」という宣言です。この祈りはいただいたすべてを神にお返しする、奉献の祈りでした。

古代教会の人々は、このダビデの祈りを、主の祈りの最後に結びの言葉として付け加えました。そして私たちもその伝統を引き継ぎ、この祈りを祈っています。この祈りの意味を、ご一緒に考えていきたいと思います。

 

【この国はあなたのものです】

まず考えたいのは「この国はあなたのものです」という祈りです。初代教会の人々にとって、迫害の時代にあって、このように祈ることは、危険なことでもありました。皇帝が神として君臨するローマ帝国の中で、そしていつローマ兵が踏み込んでくるかわからない、という緊張の中で、この国は皇帝のものではなく「神さま、この国はあなたのものです、あなたの御国をこの地に来らせてください」と教会の人々は祈り続けました。

私たちが住む、この日本という国において、神の御国はどれくらい実現されているのでしょうか。また、わたしたちの人生において神の御心はどれほど実現されているでしょうか。世界に変革をもたらすために、またわたしたちの心が変えられるために、わたしたちは今日も、信仰の先達に続いて、「神さま、この国はあなたのものです」と祈ります。

 

【力はあなたのものです】

2番目に考えたいことは、「力はあなたのものです」という祈りです。この世の中は力が支配しています。選挙をすれば、より力がある陣営が勝利します。受験があれば、力のある方から合格していきます。確かに、この世界で生きていくためには、何らかの力が必要であるように思われます。だから私たちは何らかの力を得ようと、努めます。「力を求めていく」ことこそが、わたしたちの世界の基本的な生き方なのです。

自分という存在を支えるために、勉強を頑張る、仕事を頑張る、プライベートを充実させることを頑張る・・・。何も悪いことではありませんが、すべては自分の頑張りにかかってくることになります。「頑張る」というのは日本語の特有の表現のひとつかもしれません。みんな、この社会の中で「頑張って」生きているのだと思います。「頑張る」ということは、私たちの社会において、美徳の中の美徳ですが、みんなどこかで、「もう頑張らなくていいよ」と言われることを待っているのかもしれない、そのように思えることがあります。

私という存在を支える根本的な力は神の力だと、聖書は語っています。もう自分の力ではどうしようもできないと時に、私たちを内側から支えるのは、神さまの力なのです。私たちを救うのは、私たちの力ではなく、神の力なのです。だから私たちは今日も告白したいと思います。「力はあなたのものです。」

 

【栄光はあなたのものです】

最後に「栄えはあなたのものです」という祈りについて考えていきたいと思います。

音楽の父として慕われている音楽家バッハは、宗教音楽の楽譜を書き始めるにあたり、最初に「JJ」(“Jesu Juva”主よ、助けたまえ)というアルファベット書き、完成した楽譜の最後に「SDG」(“Soli Deo Gloria”神のみに栄光あれ)と書き記しました。音楽の天才と呼ばれる彼が、楽譜を書き始める前に「イエスさま、助けてください」と祈り、ひと仕事終えたならば「神さま、すべての栄光をあなたにおささげします」と祈ったのです。それは彼の人生そのものを象徴しているのかもしれません。

わたしたちもバッハの信仰にあやかり、日ごとの歩みの中で恥じることなく「イエスさま、助けてください」と祈り、一日一日を終える時に、そしてこの人生を終えるその時に、「神さま、すべての栄光をあなたにおささげします」という祈りに導かれていきたいと思います。

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2020年6月7日「感謝の心」加山献牧師

「感謝の心」加山献牧師

第一テサロニケ5章16節~18節

「どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(18節)

 

【感謝し難きを感謝する】

使徒パウロがテサロニケの教会に宛てた手紙の中に、「どんなことにも感謝しなさい」という有名な言葉があります。これは、とても感謝できないような状況に置かれていた人々に対する「感謝しなさい」というメッセージでした。使徒パウロが勧めたのは「感謝し難きを感謝する」という信仰だったのです。

普通に考えて、とても感謝できないようなこと、私たちの痛み、私たちの苦しみ、私たちの涙、あらゆる苦労さえも含めて、「どんなことにも感謝しなさい」というのです。どのようにしてそのようなことが可能なのでしょうか。

 

【イエス・キリストだけが唯一の希望だった】

テサロニケの教会の人々にとっては「イエス・キリストだけが唯一の希望だった」ということを想い巡らしてみたいと思います。激しい迫害が起こっていたテサロニケの街にあって、イエス・キリストを信じ続けるということは、非常にリスクの高いことでした。

もし彼らが信仰から離れ、教会に集うをやめさえすれば、もはやその身を危険な状況にさらす事はありませんでした。それは、あらゆる迫害からの解放を意味していました。しかし、彼らは信仰から離れることはなかったのです。

彼らにとってイエス・キリストという救い主は、それほどまでに価値ある存在であり、絶対に譲れない存在、絶対に手放せない存在でした。「イエスさまのように、わたしを愛してくれた方はない。この方のように、わたしを思ってくれた方はいない。持てるすべてを失ったとしても、イエスさまだけは絶対に放したくない。」それがテサロニケの人々の信仰でした。

極端な表現ですが、仮にこの地上の人生で何一つ良いことがなかったとしても、イエス・キリストを知るならば、わたしたちはすべてのことを、耐え忍ぶことができます。すべての痛み、すべての悩みは必ず報われるからです。

やがて主イエスがもう一度来られ、私たちを迎えてくださる。すべての苦労、すべての痛みはその時に完全に報われる。これがテサロニケの人々の抱いている絶対的な希望でした。将来に備えられている完全な救い、完全な勝利、完全な慰めに基づいて、今、私たちは喜び、どのような状況でも感謝することができる、そのような感謝と喜びを持つようにパウロは人々を勇気づけました。

御国に着く朝、私たちを抱きしめて迎えてくださるキリストがおられます。今は悲しみがあったとしても、病いであったとしても、貧しかったとしても、イエス・キリストという最大の喜びが私たちの人生に訪れてこられ、私たちを包んでいます。

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2020年5月31日「新しいことばが聞こえる」加山献牧師 通訳:朱承圭協力宣教師

「新しいことばが聞こえる」加山献牧師 通訳:朱承圭協力宣教師

使徒言行録2章1節~21節

ペンテコステの日、弟子たちは一つになって祈っていました。その時、聖霊が彼らの上に降ったのです。使徒言行録はその様子を、「炎のような舌」がひとりひとりの上にとどまった、と表現しています。初代教会の弟子たちに聖霊が降った時、彼らはそれまで学んだこともない、他の国の言葉で話しはじめた、とあります。

なぜ、聖霊は彼らの言葉を変えたのでしょうか。ヤコブの手紙3章8節には興味深いみことばがあります。「舌を制しうる人は、ひとりもいない。それは、制しにくい悪であって、死の毒に満ちている。」(口語訳)

「舌」とは、私たちの言葉をつかさどる器官です。「舌」を制御することができる人はひとりもいない、そして「舌」は制御しにくい悪であって、死の毒に満ちている、とあります。ところが、このペンテコステの日、聖霊は弟子たちの「舌」を完全に制し、コントロールしたのです。私たちにとって最も御しがたい、悪の根源である「舌」を、聖霊は取り扱ってくださった、というのです。

何のために聖霊は弟子たちの言葉を変えられたのでしょうか。それは第一に、イエス・キリストの福音を全世界に宣べ伝えるためです。そして第二に、その福音を通して、世界に和解を与えるためでした。

私たちの生きる時代にあって、私たちの唇を通して、主が語ろうとされる「新しいことば」はいかなる響きをもっているのでしょうか。唇を主にご支配していただくために、私たちは喜んで、私たちの「舌」を神の働きのために明け渡すものでありたいと思います。

かつて、ペンテコステ以前にも、神様が人々の言葉を散らされたことがありました。創世記11章、バベルの塔での出来事です。バベルの物語においても、ペンテコステにおいても、神の御業によって人の言葉が散らされました。似たような現象が起きたのに、ペンテコステには「一致」があたえられ、バベルでは「分裂」が起きたのです。

人と人の間に、また民族と民族の間に深い溝があるのは、自らが一番になろうとする、また自らが神のようにふるまおうとする、人間の深い罪の結果であると聖書は告げています。ですが、ペンテコステはその問題を回復する出来事でした。人間の力で天に届こうとしたのではなく、神の方から、聖霊となって天から降ってきてくださり、力を与え、互いに違いをもった人々を福音によって結び合わせてくださいました。

ここに「一致」という聖霊の働きが示されています。昨年、日本の流行語大賞は「ONE TEAM」でした。これは、ラグビー日本代表の標語でした。彼らは、様々な国の出身者で構成されているチームありながら、「一致しているチーム」がどれほど強いのかを世界中に示しました。私たちもまた、ペンテコステの日にこそ「一致」という聖霊の賜物を求めていきたいと思います。

教会には一致が必要ですが、ここで気をつけたいことは、一致するということは、全員が完全に同じ人間になることではありません。私たちは多様性を持ったまま一致するのです。聖書の語る一致は、「多様性の中の一致」です。国、民族、言語、この分断に満ちた世界において、教会が語るべき、聖霊に導かれた「新しいことば」があります。

 

 

 

2020年5月24日「悪より救い出したまえ」加山献牧師

「悪より救い出したまえ」加山献牧師

マタイによる福音書6章13節

「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」(新共同訳)

この祈りは、主イエスが弟子たちに教えてくださった祈りの、6番目の祈願として知られています。今、世界には様々な問題が山積みになっていますが、私たち個人の人生の中においても、次から次へと新しい試みがやってきます。私たちが人間として生きていく以上、様々な試練と誘惑に直面せざるを得ないのです。困難の只中に陥る時、誘惑に悩まされる時、神の助けと救いを求めて祈るようにと、主イエスは私たちにこの祈りを教えてくださいました。

主の祈りの中で語られている、この「試み」は、根本的には、「悪い者」つまり悪魔から出てくる誘いのことを指しています。

聖書は創世記から黙示録に至るまで、神と人間と悪魔との三つ巴の関係を語っています。歴史の中で、悪魔は絶えず人を神様から離そうとし、人を絶望の中に閉じ込めようとしている存在なのです。

創世記3章では、蛇の姿をとった悪魔が、エバに向かって「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」と問いかけました。それはつまり「本当に神はそうおっしゃったのか?」という不信仰を呼び起こす問いかけでした。“神の言葉に対する疑いを起こさせること”それは今に至るまでずっと変わらない悪魔の手法です。

およそ人間の人生の中で起こり得る最悪の出来事は、聖書に語られている優しく、暖かい神の約束を信じず、この悪魔のささやきを信じてしまう、ということです。

この歪んだ社会の中で、自分の命に価値を見出せず、自分の人生に「終止符」を打ちたいとすら願う人がいます。しかし、人の命は神が造られたかけがえのない命であり、神はすべての人を愛しておられるのです。これこそが真実です。

悪い者の誘惑に耳を傾けないでください。決してその嘘を信じないでください。すべての人に愛される資格があり、たとえどんな状況にあったとしても、私たちの存在には尊い価値があるのです。私たちが救いを求めて祈るなら、必ず救い出してくださる、救い主がおられるのです。どうか、この救い主と出会い、この救い主と共に生きる希望の人生をあなたのものとしてください。キリストが十字架で死なれたのは、「わたしはあなたを愛している」という優しい神さまの愛の成就なのです。私たちを包んでいる神の愛に、今日も身をゆだねましょう。

 

 

2020年5月17日「神は真実な方です」今村まさゑ協力牧師

「神は真実な方です」今村まさゑ協力牧師

第一コリントの信徒への手紙10章13節

人生には3つの坂がある。上り坂、下り坂、まさかだそうです。昨年、水泳のオリンピック選手の池江璃香子さんが、突然、「白血病」と発表されたことはご本人はもとより大きな衝撃でしたね。その池江さんが、自分を支えている言葉として、友人から贈られた今朝の聖書のみ言葉を記しておられました。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」また最近のテレビで、YOSHIKI(X JAPAN)さんも、同じみ言葉を語っていました。

そこで、今朝は、その聖書の背景(文脈)を見ていきたいと思います。10章1節でパウロは、『兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。』と、イスラエルの歴史を振り返らせます。彼らの先祖イスラエルが奴隷であったエジプトから脱出し、約束の地に入るまでの40年間、どれ程、神の真実を味わったか。モーセを民の指導者として立てられた神は、壮年男子だけでも60万人に及ぶ人々(出12:37)を救出されたのです。しかし、エジプトは労働力を惜しんで引き戻すために軍隊に追撃させ、イスラエルの人々が絶対絶命となった時、前方の紅海を二つに割けられたのです。

『主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、イスラエルの人々は海の中を進んで行き、水は彼らの左右に壁のようになった。』と記されています。(出14:1~)困難な大移動の中、神は、昼は雲の柱、夜は火の柱をもって恵み養って下さいました。また、食べ物も飲み物も無いアラビアの荒野で、何と神は「マナ」と呼ばれるパンを毎朝、天より降らせ、夜はうずらを飛ばせて肉を与え、岩を裂いて飲み水を与えてくださいました。モーセがシナイ山で「十戒」を賜っている時に、彼らはモーセの帰りが遅いと「金の子牛の像」をつくり拝み始めたのです。彼らの罪は「むさぼり」「偶像礼拝」「姦淫」「不品行」「つぶやき」でした。試練を経験しない人はいません。「あなたがたを襲った試練で」とありますが、この「襲った」という言葉は「不意に、急に」という意味です。まさにこの度のコロナも、不意に・急に訪れました。

ここで示される「逃れの道」は、トマス・ア・ケンピス著の「キリストにならいて」では「打ち克つ道」と訳されています。すなわち、「逃れの道」とは、試練に耐えるのに必要な道、必要な力を得る道であると理解できるのです。『神は、真実な方です。』「真実」とは、うそ偽りがないことです。「神の真実」とは、「約束されたことを忠実に守る」ということであり、「神の約束」とは、「私たちを愛し抜く」と言う事です。(フィリピ人への手紙2:6~8)(第一ペテロの手紙4:19)でも明らかです。

神が備えておられる「逃れの道」とは、イエス・キリストであるということが明白です。唯一の生けるまことの神ご自身の真実にこそ、すべてのキリスト者が立つべき確信の基盤があります。『わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を、否むことができないからである。』(第二テモテの手紙 2:13)

 

 

2020年5月10日「海の歌をうたおう」加山献牧師

「海の歌をうたおう」加山献牧師

出エジプト記15章1節~18節

「主はわたしの力、わたしの歌、主はわたしの救いとなってくださった。この方こそわたしの神。わたしは彼をたたえる。わたしの父の神、わたしは彼をあがめる。」(出エジプト記15章2節、新共同訳)

モーセに率いられたイスラエルの民が、エジプトを脱出して、新しい出発をしました。ところが、心変わりしたエジプト王ファラオが、再びイスラエルを捕らえ、奴隷とするために、当時世界最強の軍隊を率い、民を追いかけてきたのです。ファラオは、まだ夜が明ける前にイスラエルに追いつきました。

イスラエルの人々の行く手には海が広がり、背後からはエジプトの軍隊が迫っていました。イスラエルの民は、この絶体絶命の状況の中から、驚くべき方法で救い出されたのです。なんと行く手を阻んでいた海が真二つに割れ、民は乾いた地を渡っていくことができた、というのです。夜が明け、向こう岸に辿り着いた彼らは、もはや敵を見ませんでした。かつて彼らを、不自由の中に閉じ込め、恐れによって縛っていた敵は、もう彼らの目の前からいなくなっていたのです。

朝の光の中で、彼らの唇に賛美の歌が湧き上りました。それが出エジプト記15章に記録されている「海の歌」です。聖書には数多くの賛美の歌(実際に礼拝などで使用されたであろう歌)が記録されていますが、この「海の歌」はその最古の記録です。

「海の歌」の特徴は、(1)「救われた喜びと感謝こそが、民を賛美に導いた最大の原動力であった」ということ、そして(2)「最初から最後まで、神が主語、神が主役である」ということです。これは、神がどのような方なのか、神がどのような救いの御業を成し遂げてくださったのかを世界に告げる賛美なのです。

コロナ以前とコロナ以後、何もかもが変わるだろうといわれています。経済、教育のシステム、医療の在り方、国際情勢、人と人の関わり方なども、以前とは違ったものになっていくことでしょう。

私は教会の賛美も以前とは違ったものになると思っています。荒れ狂う海を潜り抜けたイスラエルの民のように、私たちはこの苦しみと問題から、必ず救い出され、解放される時が来ます。その時、私たちは、以前よりももっと大きな感謝を込めて、神さまを賛美し、以前よりももっと大きな喜びを伴って、神の御前に立ちます。早良教会の皆さん、私たちは必ずもう一度この礼拝堂に集まり、私たちの「海の歌」を神さまにお捧げしましょう。その日を心から待ち望みます。

 

 

2020年5月3日「いつも喜んでいなさい」加山献牧師

「いつも喜んでいなさい」加山献牧師

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(テサロニケの信徒への手紙第一 5章16節~18節、新共同訳)

正直なところ、私たちにとって「常に喜んでいる」ということは極めて困難なことに思えます。私たちの日々の歩みには喜びの時もあれば、当然ながら悲しみの時もあるのです。この手紙を書いたパウロ自身も、様々な苦労を経験している伝道者でした。彼は別の手紙の中で、「投獄され、鞭打たれ、病に苦しみ、幾度となく眠れない夜を過ごした」経験を綴っています(第二コリント11章)。しかし、そのパウロが「いつも喜んでいなさい」とテサロニケの人々を励ましているのです。どのようにすれば、そのような生き方ができるのでしょうか。

何かを成し遂げた時、成功した時、健康である時、私たちの心には自然と喜びがやって来ます。しかし、ひとたび道が閉ざされ、失敗し、間違った選択をし、物事がうまくいかず、必要が満たされないならば、私たちの心の中に、失望と落胆が否応なく顔を出してくるのです。私たちの喜びは健康、財産、安定している人間関係など、身の回りの状況と固く結びついています。そのような状況に基づいた喜びは、状況とともに変化していき、消えていく事があるのです。

しかし、絶対にかわらない喜び、何ものも揺るがすことのできない喜びを聖書は指し示しています。それはイエス・キリストという救い主の存在に基づく喜びであり、十字架によって示された愛に基づく喜びです。これは私たちが自らの力で獲得する喜びではなく、与えられる喜び、受け取っていく喜びなのです。この喜びを受け取り続けることこそが、「イエス・キリストにおいて」神が私たちに望んでおられる生き方です。

つまり、いつも喜んでいるために、いつも十字架の前に立つ必要があるのです。キリストの十字架を通して、私の存在をこよなく喜んでくださっている神と出会うことができます。その場所でこそ、神の喜びのために存在している「私」を再発見することができるのです。

「あなたの神である主はあなたのただ中におられ、救いをもたらす勇者である。主は、喜びをもってあなたを祝い、愛をもってあなたを新たにし、喜びの歌をもってあなたに歓喜の声を上げる。」(ゼファニア書3章17節、聖書協会共同訳)

 

2020年4月26日「復活の主、弟子たちに現れる」今村まさゑ協力牧師

「復活の主、弟子たちに現れる」今村まさゑ協力牧師

ルカによる福音書24章36節~53節

世界には様々な宗教があります。しかし、どの宗教にもないものが、キリスト教にはあります。それが、主イエス・キリストの十字架の死と復活の出来事です。

ルカの24章36節に「こうゆうことを話していると・・」とありますが、その話の内容は、33節以降に書かれている通り、既に数人の弟子たちは復活された主に出会って、その話をしている最中に、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち「あなたがたに平和があるように」と言われたのです。彼らは恐れおののきイエスの亡霊だと思ったと記されています。

動揺する弟子たちに「まさしくわたしだ。わたしの手や足を見なさい。」とお見せになった。その手と足には、十字架の釘痕が残っていたでありましょう。2000年前、主イエス・キリストの十字架の死から三日目の出来事です。ご復活の記事は、使徒言行録1:3~。コリント第一15:4~。ペテロ第一2:24~ 他にも多く記されています。

イエスさまは肉体の復活だけでなく、実は目には見えない霊の復活をも成し遂げられたのです。イエスさまの十字架上での死とは、肉体の死だけでなく霊の死をも意味しています。霊の死とは、神の恵みから永遠に切り離されるという事、神との交わりが絶たれるという事、呪いの中に生きるという事を意味します。イエスさまは、私たちに代わりこの死を経験されたのです。しかし、三日後にこの死に打ち勝ち復活されました!復活とは、肉体のよみがえりを意味しますが、霊的な勝利をも意味するのです。

復活、すなわち死に勝つとは、神との完全な交わりの回復、神の国の恵みの永遠の享受、そして、呪いから完全に解放され、神の祝福を永遠に受けることを意味するのです。

イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(ヨハネ11:25)

イエスを信じる時、キリストの命(ZOE)に与り、イエスを信じ悔い改める時、わたしたちの罪は十字架の贖いのゆえに全て赦されるのです。私たちには帰る天の場所があるのです。十字架のキリスト、復活の主イエス・キリストの御腕に立ちかえり魂の安らぎを頂きましょう。

 

 

 

2020年4月19日「赦された者として赦す」加山献牧師

「赦された者として赦す」加山献牧師

マタイによる福音書6章12節

1) 私たちに必要な祈り

主イエスがこの祈りを私たちに教えてくださったのは、この祈りが私たちに必要だからです。「この祈りが私に必要だ」ということを認めるところからはじめていきたいと思います。つまり、私たちは全員、自分は罪人なのだ、ということを改めて認める、ということです。主の赦しを必要としない人は、どこにもいない、という現実がこの祈りの前提にあります。私たちは皆、罪を持って生きている存在です。しかし、このような罪人を愛し、赦して、すべての罪を引き受けてくださった救い主がおられる、それが十字架のイエス・キリストです。

 

2)毎日祈るための祈り~十字架につけられたままのキリスト~

前回、日毎の糧をお与えください、という言葉から、主の祈りは私たちが毎日祈ることを想定されていることを確認しました。同じように、私たちは毎日、神に赦しを乞わなければならない存在であることを、主の祈りは教えています。

約2000年前、主イエスが十字架で死なれたのは歴史的事実です。そしてその場所で罪の贖いが成し遂げられた、ということを私たちは信じています。十字架は、私たちの過去の罪をすべて贖い、そして私たちがこれから犯す罪もすべて贖ってくださった、ということを信じています。

一方でパウロは、十字架につけられたままのキリストが私たちの目の前に示されている、とも語りました(ガラテヤ3章1節)。今もなお十字架につけられたままのキリストがおられる、というのです。現在進行形で、私たちが今日犯す罪のために、今日も十字架にかかられる主イエスを、私たちは知るべきだと、パウロは語っています。

 

3)私たちの祈り~世界を包む祈り~

この祈りは個人的な祈りにとどまりません。これは「我ら」の祈りであり、「教会」の祈りです。「我らに罪を犯すものを、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。」

私たちが一緒に生きていこうとするならば、お互いに借りを作りあって生きていくことは避けられません。しかし、私たちは共に生きていくように造られたのです。赦しあい助けあって生きるように、神さまから招かれています。

そして、この祈りは世界を包む祈り、すべての人のための祈りです。個人的な罪の告白にとどまらず、全世界の罪、民族の罪、政府の罪、すべての人の罪を告白していく祈りでもあります。この問題のある国をどうにかしてください、というのではありません。神よ、赦してください、これは我らの罪、私の罪です、と告白する祈りです。

神の国が実現する時、御国では怒りや憎しみはありません。批判や悪口、他の人に対する不平不満もありません。完全に赦しあえる世界、愛しあえる世界、その前味を私たちはこの信仰共同体で味わい、分かち合っていきたいと思います。