カテゴリー別アーカイブ: 礼拝メッセージ

2021年1月31日「リーダーシップを考えよう」加山献牧師

「リーダーシップを考えよう」加山献牧師

出エジプト記18章13節~27節

エジプトを脱出したイスラエルの民は約束の地を目指し、旅を続けていました。その旅の途中で、モーセの義理の父であるエトロが訪ねてきました。そして経験豊かなエトロは、民の導き方(リーダーシップ)について、モーセに助言を与えました。

書店に入るならば、リーダーシップというテーマは一つのコーナーを形成し、リーダーシップについての新刊は絶えることがありません。良き指導者、良き上司になるためにはどうすれば良いのか、どうすれば皆がついてくるような良い影響力を発揮することができるのか、世の中の多くの人がリーダーシップということに関心を持っていることが分かります。

それでは、今日の聖書箇所をリーダーシップという観点から見ると、どのようなアドバイスが語られているのか、見ていきたいと思います。

(1)良きリーダーには『支え』が必要である

第一に、良きリーダーには『支え』が必要である、ということです。朝から晩まで、人々の相談に乗り、さまざまな問題を解決しようと努めていたモーセに、しゅうとのエテロは次の様にアドバイスしました

「あなたのやり方は良くない。あなた自身も、あなたを訪ねて来る民も、きっと疲れ果ててしまうだろう。このやり方ではあなたの荷が重すぎて、一人では負いきれないからだ。」(17節18節)

モーセには、多くのプレッシャーがありました。イスラエルの民の行く末が、彼の肩に重くのしかかっていたのです。モーセという歴史に名を遺す偉大な指導者にも、共に働き、支えてくれる人が必要だったのです。どんなに優れた指導者にも、限界があり、弱さがある。これが今日の聖書箇所が語っている一つのリーダー像です。どんなリーダーにも、欠けを覆い、破れをになって、助けてくれる、フォローしてくれる、支え手が必要なのです。

(2)良きリーダーには『ビジョン』が必要である

第二に、良きリーダーには良き『ビジョン』が必要だということです。20節で、エトロは次のようにもアドバイスしています。

「わたしの言うことを聞きなさい。助言をしよう。神があなたと共におられるように。あなたが民に代わって神の前に立って事件について神に述べ、彼らに掟と指示を示して、彼らの歩むべき道となすべき事を教えなさい。」(19節~20節)

聖書の別の箇所には「幻のない民は滅びる」という言葉がありますが、それほどまでに将来に対するビジョンというものを聖書は大切にしています。

自分の属する家庭に、自分の職場に、自分自身の人生に、そして私たちの教会に、私たちはどのようなビジョンを持つでしょうか。

さらに重要なことは、聖書の語っているビジョンは、人から出てきたビジョンではなく、神様が夢見てくださった未来、神様が願っておられる私たちの将来である、ということです。神様は、私たちの未来に、そしてこの教会に、どのような夢を描いてくださっているでしょうか。

 

 

2021年1月24日「鷲の翼に乗せて」加山献牧師

「鷲の翼に乗せて」加山献牧師

出エジプト記19章1節~9節

「あなたたちは見た。わたしがエジプト人にしたこと。また、あなたたちを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを。」(出エジプト記19章4節)

聖書の中で「鷲」は「獅子」と並んで力強さを象徴する生き物です。ライオンがジャングルの王者であれば、鷲は大空の覇者です。鷲をテーマに、みことばを想い巡らしてみたいと思います。

第一に、鷲は他のどの鳥よりも「最も高いところから地上を見おろす存在」です。鷲は他のどの鳥よりも高い地点を飛ぶのです。それに比較すると、私たち人間は、どれほど近視眼的に生きているものでしょうか。いつも目の前のことに心を騒がせ、振り回され、右往左往してしまいがちです。

もしも、もっと広い視野で人生を見つめ、神様の御心を想うことができたなら、もっと広い視点で世界を見つめ、そして自分自身をも見つめなおすことができたなら、「永遠」という時のスパンから自分の人生を見つめなおすことができるなら、私たちの人生に対する見かたは必ず変えられていきます。

さらに鷲は「自分の力で羽ばたくのではなく、風の力で舞い上がる」という性質を持っています。地表の空気が暖められて上昇したり、斜面をのぼる気流を「上昇気流」といいます。その風にのって、鷲は翼を大きく広げて、羽ばたかずに旋回しながら高度をあげていきます。ある程度の高度まで上昇すると、翼を広げたまま羽ばたかずに、重力を利用してグライダーのように飛んでいくそうです。

つまり鷲は、風の流れを読み取り、風に身を委ねているのです。自分の力ではなく、風の力を利用して飛んでいます。それにひきかえ、私たち人間はいかに自分の力で生きようとしてしまっているでしょうか。自分の力で頑張ってみても、どうにもならない時、尚も自分自身の力を絞り出し、燃え尽きてしまうような時もあります。

風が起こるのをじっと待ち、ひとたび風が吹くならば、翼を広げ、その力に身を委ねるように、しなやかに、自由に、生きていく事を学んでいきたいと思います。風が吹くまでは休んでもいいのです。私たちは自分の力だけで頑張って生きていく必要はありません。それが鷲の翼に乗せられたものの信仰です。

自分の力で生きていこうとするなら「若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れる」だろう、と預言者イザヤは語りました。(イザヤ書40章30節)

「しかし主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」(イザヤ書40章31節)

 

2021年1月17日「神殿での少年イエス」今村まさゑ協力牧師

「神殿での少年イエス」今村まさゑ協力牧師

ルカによる福音書2章41節~52節

ベツレヘムで誕生なされたイエスさまは、きよめの期間を過ぎて宮詣でをすませ、ナザレでお育ちになったとあります。そして、マタイ福音書2章13節以降に、ヘロデ王が命を狙っているのでエジプトに避難なさり、王が死んだとのみ告げを受けてナザレに帰り住んだと記されています。「幼子はたくましく育ち、知恵に満ち」とあります。ナザレの村は、なだらかな山々に囲まれ、アネモネや野生のシクラメンなどが咲き、糸杉やナツメヤシの木々が茂っていました。空にはコウノトリが群れて舞い、山には岩だぬきが・・ そのような自然の中で、イエスさまは村の子どもたちと野山を走り回られ、たくましく育たれたのでしょう。また、ユダヤの子どもたちは幼い時からシナゴーグ(会堂)で、ラビ(律法の教師)から、聖書の教育を受けていましたので、「幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵に包まれていた。」の通りです。

さて、41節からですが、両親は毎年エルサレムに旅をしたとあります。イスラエルの3大祭りの筆頭は過超祭です(他に除酵祭、仮庵祭)。イスラエル民族にとって最も大切な祭りで、祖先がエジプトの奴隷であった時に、労働力を惜しむエジプト王に、神は10の災いの最後に、鴨居の柱に羊の血を塗れば災いを過越すが、血を塗らなかった家の長子はことごとく死んだのです。王の長子も死にました。エジプト王は遂に、イスラエル人の脱出を認めたという出来事がありました。その恵みを記念する祭です。鴨居に塗った羊の血とは、まさにイエスさまの流される十字架の血潮を象徴していました。神の命により(出23:14~、申16:16)イスラエルの男子は祭りを厳守しましたので、150キロの道のりを4~5日かけての旅をしたのです。無事に都に着き、祭りが終わり帰路についたときのことです。(43節)一日分を歩いて、イエスさまが居ないことに気づき、両親は6人の子ども(マルコ6:3)を親戚や知人に託して引き返しました。「三日の後、イエスが神殿の境内で、学者たちの真ん中に座り、質問しておられるのを見つけた」のです。疲労困憊していた両親はイエスを見て驚き、母親は「なぜ、こんなことをしてくれたのです」と。するとイエスは、こともなげに「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分に父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」「ここにいるのは当たり前」とは「ここに居ない訳にはいかない」という必然性を表す言葉です。神殿にいることが当然で、神の子としての自覚をもっておられたということがわかります。イエスは両親とナザレに帰り18年間「両親に仕えてお暮しになった」のです。

「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。」(52節)と結ばれています。神と人とに愛されたとは、人々との関係のなかに存在し、神に仕え、また、人に仕える歩みをなさった証でしょう。

『愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一語によって全うされるからです。』(ガラ5:13)  参照聖句(イザヤ55:9)

 

 

2021年1月10日「信じたとおりになるように」加山献牧師

「信じたとおりになるように」加山献牧師

マタイによる福音書8章5節~13節

カファルナウムはローマ軍の駐屯地として栄えた街でした。その街で働く一人の指揮官が謙遜な心で、主イエスのもとにやって来ました。彼の願いは自分の僕(おそらく彼の部下だと考えられる)を病気から救ってほしい、ということでした。

彼は非常に部下思いの隊長であったことがわかります。彼は一人一人の兵卒を心から愛し、労っている上司だったのです。

3つの福音書の中で、この百人隊長の信仰は模範的なものとして描かれています。このような聖書箇所を読む時、果たして私はこのような立派な信仰を持つことができているだろうかと、どこか心もとなく感じることもあるでしょう。

しかし、“どれほど強く信じることができるのか”ということが重要なのではありません。たとえ、からし種のような小さな信仰であったとしても、“私たちは「誰を」信じているのか”ということが大切なのです。

百人隊長は、イエス・キリストの言葉に人を癒し、立ち上がらせる力があることを信じました。彼が出会ったイエス・キリストに私たちも出会いました。そして、彼が信じたイエス・キリストを、私たちもまた信じているのです。

「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」(13節)

私たちが何を信じるかで、私たちの人生が決まります。そして「誰を」信じるのかを、私たちは選ぶことができます。目の前の厳しい現実に私たちの心を明け渡すのか、それとも生ける神の言葉であるキリストに心を向けるのか、それは私たちの選択です。私たちが何を信じるのかで、私たちの人生が変わってくるのです。

 

 

2021年1月3日「御心ならば」加山献牧師

「御心ならば」加山献牧師

マタイによる福音書8章1節~4節

すると、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち、重い皮膚病は清くなった。 (マタイ福音書8:2~3)

聖書の時代、このツァラアトと呼ばれている皮膚病は、当時の医療ではなす術がなく、最も恐れられている病気の一つでした。患者は肉体的に非常に気の毒な状態ありましたが、その苦痛を一層耐え難くしていたことがありました。それは、当時の病人は完全に人間の社会から追放されていた、ということです。

彼らは当時のパレスチナでは城壁のある町に入ることはできませんでした。同じ病にかかった人たちと生活する小さな村が点在していて、そこに隔離された状態で生活しました。絶対に街の人には会わないようにしなければならず、健康な人の方から病気の人に挨拶することも禁じられていました。皮膚病の人からは常に4キュピト以上離れていなければならないというルールもありました。(4キュピトは約180センチ)

この患者には一つの確信がありました。自分が人と会うならば、必ず避けられる。下手をすると石を投げられることもあった。けれども、この人だけは私を遠ざけない、この人だけは自分を迎えてくれる、ここに彼の信仰がありました。だからこそ彼は“イエスに近寄り、ひれ伏し”ました。(2節)

主イエスには深い憐れみがありました。それは掟破りの愛と呼べるものでした。福音書の強調点は、イエスは「手を差し伸べて」この人に触れた、ということです。主イエスは2メートル以上近づいてはいけない、挨拶をしてもいけない、と定められていたこの人に手を伸ばし、触れられました。

暖かい人の手の温もり、もう何年も感じたことのなかった人の手の感触をこの人は体験したのです。肉体だけではなく、この人の心もたちまち癒やされたことでしょう。この人の孤独が破られた瞬間でした。

新改訳の聖書では「わたしの心だ、清くなれ」(3節)という訳をとっています。主イエスの御心は私たちの心を癒し、私たちの孤独を破ることです。そして、主イエスの癒しは差別と断絶に満ちた世界に変革をもたらすのです。

 

 

2020年12月27日「弟子になる」朱承圭協力宣教師

「弟子になる」朱承圭協力宣教師

マタイによる福音書4章18節~22節

 

イエス様は神の国建設のために弟子たちを呼び集めました。本日の聖書箇所には、イエス様の招きに応じて献身する弟子たちの姿があります。

 

1) 弟子たちはイエス様に呼ばれた時、何も言い訳しませんでした。

“イエス様。魚をとってから従います。”

“イエス様。お金をたくさん稼いでから従います。”

“イエス様。3年間だけ待ってください。その後に従います。”

このようには言いませんでした。20節に「すぐ」、22節にも「すぐ」とあるように、弟子たちは即座に招きに応じて献身しました。

 

2) 神の国に必要な献身は決断の伴った献身です。弟子たちの献身には決断が必要であったし、妨げもありました。弟子たちの献身に対する困難は、同じく20節、22節に書いてあります。

弟子たちはイエス様が呼んだとき 20節“網を捨てて“従いました。また、22節“父をおいて”従いました。

それは簡単ではない決断でした。弟子たちは船を手放しました。経済的なチャレンジがありました。また、職業を置いて献身しました。それはとても大きな冒険でした。また、愛する家族たちとの別れにも耐えなければなりませんでした。皆様の信仰生活の中にも、数多くの現実的な障害があるかと思います。(お金、時間、両親…)

 

3) 弟子たちの喜びをもって献身することができた根本的な理由は、ヨハネ福音書1章35節~37節に書いてあります。その理由とは、主に対する“信頼”でした。実はイエス様と弟子たちの出会いはその日の出会いが初めてではなかったです。

ヨハネ福音書1章36節において、バプテスマのヨハネはイエス様を指し、次のように言います。“見よ、神の小羊である。”

この言葉を聞いたヨハネの二人の弟子はイエス様に従いました。イエス様と弟子たちとの出会いは、この時にありました。

弟子たちはイエス様と深い交わりを通して深い信頼が築かれていきました。このように弟子たちの献身は感情的な献身ではありませんでした。イエス様と弟子たちとの深い“信頼”に基づいた献身でした。

 

4) 弟子たちが十字架の道にまで従うことができた秘訣はイエス様に対する“信頼”でした。ここでの信頼と献身は同義です。もっと深い献身ができるように神様に人格的に出会ってください。神様から呼ばれるときに“アーメン”と献身できるように神様との深い信頼の関係をつくってください。

イエス様は弟子たちを「人をとる漁師」として招きました。同じようにイエス様は私と、そして皆さんお一人お一人を弟子として招いておられます。弟子の人生は十字架の人生です。使命を持つ者の人生です。それは決して簡単な生き方ではありません。その故に、毎日毎日、神様に深く出会っていきましょう。

 

 

2020年12月13日「マリアの賛歌」今村まさゑ協力牧師

「マリアの賛歌」今村まさゑ協力牧師

ルカによる福音書2章46節~56節

2000年前のある日、ガリラヤのナザレに住むおとめマリアに、神から遣わされた天使ガブリエルは「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる。」と告げました。驚きおそれるマリアに「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高きかたの子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。・・」マリアは天使に言った。「どうしてそのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高きかたの力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも年を取っているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」そこで天使は去っていった。と聖書は語っています。

天使のみ告げに応じたマリアは、両親にも打ち明けることができないまま、エリサベトのもとへと急ぎました。ところが、マリアの挨拶を聞くや、声高らかに「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」

マリアが何も語らぬ前に、エリサベトは「胎内のお子さま」「わたしの主のお母さま」と敬い、孫のような若きおとめに、ぬかずく・・何という姿でしょう。

賛歌の前半は一人称です。わたしの魂・わたしの霊・わたしの救い主・わたしに偉大なことを・・。「主をあがめる」とは、主を大きくするという意味で。神を大きくする時、自分や物が小さくなる。自分が大きいと傲慢になり、他人が大きいと劣等感におちいる。神を大きく生きる時―これらから自由になれるのです。

後半は、神のみ業による逆転が語られます。主はその腕で力をふるい、思いあがる者を打ち散らし、権力有る者をその座から引き下ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を追い返えされる。マリアは全部、未来形ではなく、成就した過去形で述べています。へりくだった魂こそ、低き馬小屋まで下って来られたイエスに会える場所なのです。(参照聖句:申命記8:11~ 詩51:19 マタイ25:40 詩102:19)

 

 

2020年12月6日「優しい王様はどこですか」加山献牧師

「優しい王様はどこですか」加山献牧師

マタイによる福音書2章1節~12節

  「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占 星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。』」(1節~2節)

東方の学者たちは、「王の誕生を祝う心」を持っていました。しかも彼らは、自分の属する国の世継ぎではなく、他の国の王として生まれた幼子を礼拝するために長い旅をしてきたのです。

国と国とが常に緊張関係にあった古代中近東において、他国に対する尊敬に基づいた行動は稀であり、価値あるものといえます。“自国中心主義”が台頭している現代においても、同じことが言えるでしょう。

さらに、この学者たちには「救い主を求める心」がありました。彼らは、高い地位とその博識さにも関わらず、自分が罪を赦され、救われる必要があることを認めることができる謙遜な心をもっていました。その謙遜さが彼らを遠方の国より、イエス・キリストのもとに導いたのです。

 「東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」(9節~11節)

異国人である彼らの礼拝はマタイ福音書の重要な指針を伝えています。イエス・キリストはユダヤ人のみならず、「世界のすべての人のための救い主としてお生まれになった」ということです。

私たち一人一人の信仰の歩みも、この星に導かれた学者たちの旅のように、救い主のもとを目指す長い旅路のようなものです。愛であられるお方、心から慕い求める主イエスと顔と顔をあわせて相まみえるその時を目指し、東方の学者たちのように信仰の旅を続けましょう。

 

 

 

2020年11月29日「永遠に残るもののために」加山献牧師

「わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。」(第一コリント3章9節)

① 教会の土台

教会はこの世界に何のために存在しているのでしょうか。なぜ神さまは教会を必要とされたのでしょうか。聖書の中で語られている、「人が一人でいるのは良くない」というみ言葉どおり、神さまはこの教会という場所で私たちと出会い、共に生きることを願ってくださったのです。神さまを愛し、人を愛するという生き方は、まさに教会を舞台としてなされていくのです。

神の教会-神との出会い、そして隣人との出会い-は、主イエスの犠牲の上に打ち立てられました。主イエスの十字架と復活がなければ、この世界に教会は存在しなかったし、神の民が共に集まることはなかったでしょう。まさにイエス・キリストこそが教会の土台なのです。

 

② 永遠に残るもののために働く

使徒パウロは同じ手紙の中で「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」と記しました(第一コリント13章13節)。

私たちは、主なる神さまの偉大な愛を信じる信仰を持つことができます。信仰により、私たちの人生に希望が与えられます。現実の世界がどんなに厳しいものであっても、私たちは失望におわらない希望を知っているのです。私たちはその希望を握り続け、離しません。否、その希望が私たちを捕らえて離さないのです。そして私たちは、この教会という場所において、神さまからいただいた愛と希望を隣人に分かち合うことができます。教会でのすべての奉仕活動は、この目的にたどり着くのです。実は私たちは、教会という舞台において、“永遠に残るもののために働くこと”、その栄誉ある働きにあずかっているのです。

 

 

2020年11月22日「神は我々と共におられる」今村まさゑ協力牧師

「神は我々と共におられる」今村まさゑ協力牧師

マタイによる福音書1章18節~25節

一週繰り上げの待降節第一の礼拝として、マリアの婚約者ヨセフに臨んだイエス・キリストの誕生の次第をみてまいりましょう。

若い二人は晴れて結婚する日を楽しみに、しあわせな日々を過ごしていました。ところが突然、マリアのところに天使ガブリエルが来て「おめでとう。恵まれた方、主が共におられます。マリア、恐れることはない。聖霊があなたに降り、いと高き神の力があなたを包む。あなたは身ごもって男の子を産む・・・。親類のエリサベトも、年を取っているが、もう6か月になっている。・・・」(ルカ1:26~)

マリアは13,4歳のおとめです。ヨセフとの交際も清らかな関係でした。マリアの驚き、恐れは想像を絶します。当時、姦淫の罪は石打による死刑です(申22:22)両親にもヨセフにも語れぬまま、天使が告げたエリサベトがいるユダの町へ駆け出しました。

3か月間、祭司ゼカリアとエリサベトのところに滞在し、落ち着きを得たのでしょうマリアはヨセフのもとに帰り一切を打ち明けました。

19節「ヨセフは正しい人」とあります。曲がったことが嫌いなヨセフには、如何に考えようと理解することのできないことでした。

マリアへの思いはせめて密かに縁を切ること、さらし者にしないことでした。ヨセフの失望、落胆は計り知れないものでした。ヨセフに拒否されれば、マリアは到底、生きてゆくことはできなかったでしょう。ヨセフが悶々と考えていると、「主の天使が夢に現われ告げました」「ダビデの子ヨセフ、恐れず、マリアを受け入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は

「神は我々と共におられる」という意味である。」(イザヤ7:14)

これは、700年前から預言されていました。24節「ヨセフは眠りから覚めると、天使が命じた通りにマリアを受け入れ、」子の父となることを決心したのです。

よく処女降誕なんて馬鹿げているといって軽々に、キリストの福音を拒否する人がおられますが、「聖霊によって身ごもった。宿った。」とは、まさに神の霊、神の力、神の御業です。天地万物を一週間で創造された神に、不可能はないのです。

故に、今年のクリスマスこそは、「インマヌエル!神が共にいてくださる」喜びを受け止められる魂を祈ります。

(参照聖句:マタイ28:20  マタイ18:19  ヨシュア1:9  詩編46:1)

ヨセフは一介の大工でした。何の権力もない人でした。神はそのヨセフに神の御子を預けられ、人類を罪から救う神の大計画を実現されるのです。マタイの1節からの系図、その完成のところ、16節にヨセフの名は記されています。ハレルヤ!!