31. 10月 2018 · 2018年10月21日「戦うことを選ばない」加山献牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「戦うことを選ばない」加山献牧師

創世記26章26節~33節

イサクはゲラルという地域に寄留者(外国人)として住み始めました。12節には「イサクがその土地に穀物の種を蒔くと、その年のうちに百倍もの収穫があった」とあります。しかし、その土地の住民はイサクをねたむようになり、イサクの父アブラハムが、かつて掘った井戸をすべて塞ぎました。当時、井戸を失うということは命に関わる大問題でした。それは砂漠の中での飲み水を失うことであり、作物を育てるための水も失われることでもありました。イサクはこの時、考えられないような不当な仕打ちを受けたのです。

16節で、その土地の住民のリーダーであったアビメレクがやってきてイサクに告げました。「あなたは我々と比べてあまりに強くなった。どうか、ここから出て行っていただきたい。」アビメレクの語るところによれば、イサクは彼らと比べて「あまりに強くなった」ということですが、イサクはその力でもって戦うことを選ばなかったのです。一生懸命耕した畑も、一生懸命種を撒いて育てた作物も手放して、イサクはそこを去ってゲラルの谷へ降りていきました。

ゲラルの谷にも父アブラハムが掘った井戸がいくつかありましたが、それらの井戸もペリシテの人々によって埋められていました。パレスチナの水脈は深く、必然的に井戸も深く掘らなければなりません。イサクはこれらの井戸を僕たちと一緒に掘り起こして、父アブラハムが付けたとおりの名前を付けました。ところが現地の羊飼いたちがイサクの羊飼いたちと争って「この水は我々のものだ」と言いだしました。きっとイサクの僕たちの中には「イサク様、断固戦いましょう。この井戸は私たちのものです。あなたのお父様が最初に掘り当てて、今度は私たちが汗水流して掘り直したのです、彼らに渡してはなりません」と主張する人もあったでしょう。ですがイサクは、今度もそこから離れていきました。イサクはそれらの井戸を「エセク(争い)」「シトナ(敵意)」と呼び直しました。彼は「争い」と「敵意」から離れていったのです。

やがて、アビメレクが軍隊の代表者2名を伴ってやってきました。この3人で来たということにイサクに対する最大限の敬意が表わされています。イサクはたずねました。「あなたたちは、わたしを憎んで追い出したのに、なぜここに来たのですか。」 すると彼らは答えました。「あなたと契約を結びたいのです。」そこでイサクは彼らのために祝宴を催した、というのです。

あの時こんなことをされた、あの時はこんなひどい扱いを受けた、そのような想いをイサクも持っていなかったわけではありません。ですが彼は、そのような想いに縛られませんでした。彼らのために祝宴を開き、彼らと一緒に喜び楽しむことを選びました。「祝福」は相手の態度から出たのではなく、イサクの選び取りであり、イサクの決断でした。相手がどうであろうとイサクは「祝福」を与えました。この世界では報復に対する報復が繰り返しおこなわれています。誰がどのようにこの連鎖を断ち切るのでしょうか。この世界にはイサクのように生きる人々が求められています。      (10月21日)

31. 10月 2018 · 2018年10月14日「患いを負い病を担ってくださる主」今村まさゑ協力牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「患いを負い病を担ってくださる」今村まさゑ協力牧師

マタイによる福音書8章14~17節

現代人は多忙な生活をしていると思いますが、イエスさまの一日はそれに勝る働きであったと今朝の箇所からわかります。朝、大勢の群衆を見て、山に登られ、「山上の説教」(5章から7章)を終え、山を下りられたが、ライ病を 患っている人の願いに応えて癒され、さらに百人隊長の中風の僕を癒し、ようやくペトロの家に帰られたが、ペトロのしゅうとめが、高い熱で寝込んでいたのをご覧になり癒された。元気になったしゅうとめは起き上がってイエスをも てなした。ここまでが一日の終わりでありますが、「夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。」「それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現 するためであった。『彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。』(17節)」この「負い」とは、「背負って持って行ってしまう」「取り 除いてしまう」の意味です。 今朝はこのマタイの叫びにも似た17節に注目したいと思います。数百年前から預言されてきた謎のような『彼』、詳しくはイザヤ書53章(第二イザヤ) の『彼』こそが、一日中、行動を共にし、山上で語られた言葉の数々、行われ た数々の御業・・ああイエスこそが、預言され続けてきた彼だったとマタイは気付いたのです。

私の妹のけい子は5年前に召されましたが、戦時中、医者も薬も氷も手に入らぬ時にはしかになり、高熱のため脳を侵され、知恵遅れとしての学童期を過ごしました。中学を終えると、すぐに職業訓練のため、ある病院に預けられました。ある日、両親は呼び出され、父親の分からぬ子供を身ごもると大変だからと院長に説得され、不承不承、盲腸の手術として承知してしまいました。本人は何一つ分からぬまま不妊手術をされてしまいました。当時、優生保護法(戦後3年、1948年)が制定され(その第一条、法律の目的は)「不良な子孫の出生を防止する」でした。知恵遅れや精神障害者が対象とされ、全国で強制的に実施されました。確かに知的な遅れはありましたが、その精神、心情、情緒は純真無垢、いつも穏やかに過ごしておりました。両親亡き後、30年近く共に住みましたが、その間にクリスチャンとして、いつも喜び感謝の日々 でした。私もマタイのように大声で証します。「あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」(イ ザヤ46:3)

31. 10月 2018 · 2018年10月7日「何が心を満たすのか」加山献牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「何が心を満たすのか」加山 献 牧師

マタイによる福音書5章6節

イエス様が語られた8つの祝福の4番目の祝福は次の通りです。「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。」イエス様が言われる「義」とはいったいどのようなものなのでしょうか。この言葉は、人間の目から見た正しさではなく、神様の基準から判断される圧倒的正しさ、揺るがすことのできない正しさを表しています。

旧約聖書が語っている二つの出来事に注目したいと思います。それは創造と堕落です。私たちが住んでいるこの世界は偶然に存在しているのではありません。天と地、この世界の全ては神様の意志によって造られ、神様の意思によって保たれ、存在しています。私たちひとりひとりも偶然に存在している訳ではありません。神様が丁寧に愛を込めてひとりひとりを造ってくださり、今、私たちはここにいるのです。

ところが、本来良いものとして造られた世界が堕落してしまったのです。神様がご覧になって「甚だ良い」と言われた世界が、もはやあるべき姿を持っていないのです。人が「神のようになる」という誘惑に勝てなかった時、人と神との関係が破れ、人と人との関係が破れ、人間と自然界の関係も破れてしまいました。人が「善悪を知る木の実」を食べてしまった時から、善悪の判断の基準は神から人に移ってしまいました。「私」という人間が善悪を判断し、他人を裁き、神をも判断するようになってしまったのです。

ですが聖書が語る三番目の出来事があります。失われた世界を回復して、取り戻そうとする神様の意志、救いの計画です。神様は、人間との関係を回復されることを望まれました。私たちがあるべき姿に戻される時、人間同士の関係が癒され始めます。全ての民族、全ての家族、全ての隣人の間に和解の働きが起こされます。人間と自然界の関係も修復されます。私たちが「義を求める」とは「神の願われる本来あるべき姿」に戻ろうとすることです。そして、この世界の破れ口に立って執り成し、神の正義が実現されるための働き人となる事なのです。

渇いている、という自覚がなければ、私たちは求めることができません。私たちは今一度、自分自身の魂に目を向けてみたいと思います。私たちの飢え渇きとは、イエス・キリストへと結びつくということです。そこに「満たし」があります。本来あるべき姿の私に戻りたい、神様との正しい関係に戻りたい、このような飢え渇きを持つ人は幸いだと、イエス様は言われます。(10月7日)

12. 10月 2018 · 2018年9月30日「わたしはあなたの子どもです」 加山 献 牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「わたしはあなたの子どもです」 加山 献  牧師

ガラテヤの信徒への手紙3章26節~4章7節

 

ガラテヤ書の大きなテーマは「クリスチャンとは一体何者なのか」ということです。キリストを信じた者は「神の子」とされた。パウロはこの手紙の中で何度もそのように繰り返しています。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。」(26節)

皆が神の子とされたなら、私たちはひとつの大きな家族です。「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(28節)と言われているとおり、私たちは民族、社会的地位、性別も超えてひとつの家族とされました。教会の中でお互いを兄弟姉妹と呼び合うのはその為です。生物学的な家族関係ではありませんが、霊的な絆を持っているのです。ひとつの教会だけの話ではありません。世界中のすべての国のすべての教会の人々がキリストにある家族なのです。

パウロは、ガラテヤ書3章において律法の良い点についても説明しています。この律法があったから、人は自分の罪を認識することができ、キリストの元に導かれ、キリストに出会う時まで守られた、というのです。一方、律法の負の側面についても語られています。人々にとって律法が喜びではなく重荷になっていました。慣習や決まり事を守れないことにより、罪悪感を抱く人々もありました。皆と同じようにできないから、社会からはじき出されている人々がいました。律法そのものは悪いものではありませんでした。しかし、その背後に人を孤独にして恐れに陥れようとする力が働いていた、というのです。

私たちを縛るあらゆる束縛を打ち消すために、キリストは生まれてきてくださいました。4章4節~5節には次のようにあります。「時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。」

キリストが人として生まれてきてくださったのは、私たちに神の子としての身分を与えてくださるためでした。「ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。」(7節)ここに「クリスチャンとは一体何者なのか」という問いの究極的答えがあります。私たちはもはや恐れや不安の奴隷ではなく、罪責感や劣等感の奴隷でもありません。私たちは神の子です。

12. 10月 2018 · 2018年9月23日「見捨てられたと思う時に ~ エリヤから学ぶ」 K・J・シャフナー 協力牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

『見捨てられたと思う時に ~ エリヤから学ぶ』 K・J・シャフナー  協力牧師

列王記上19章1~18節

 

エリヤという旧約聖書の預言者から学びたいと思います。神様は彼を用いて御自分の力を示されました。たとえばエリヤの祈りによって3年間雨が降らなかったこと、僅かの小麦粉と油で奇跡的に養われたこと、亡くなった男を生き返られたこと、大勢のバアルの預言者との対決のことなどがあります(17~18章)が、それらの出来事にはそれほど心惹かれませんが、19章の出来事は私の心に響きます。

4節に彼の見捨てられていた気持ちが見られます。「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖に勝るものではありません。」なぜ彼がそう語ったのかを考えましょう。一つの要因は恐れです(3節)。イゼベル女王は彼を殺すと脅しました。そして対決の後、エリヤの感情に変化が見えます。勝利の高い山から失敗の低い谷に落ちてしまったのです。次の要因は疲労でした。マラソンの何倍もの距離を進み、彼は心身ともに疲れていました(3節)。また5節には、彼の無力感や自己憐憫の気持ちが見えます。「わたしは一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうと狙っています。」最後に彼の精神状態に影響与えたことは、彼を支え、彼の考え方の間違いを指摘してくれる友がいなかったことです。エリヤは逃亡中に「自分の従者をそこに残し」ました(3節)。一人ぼっちとなったエリヤは見捨てられているという気持ちに陥ってしまったのです。

次に神様はエリヤの気持ちをどのように扱われたかについて考えましょう。最初に神様は彼に必要な休みと栄養を与えられました(3~5節)。御使いはパン菓子と水を用意しました。その後、神様はエリヤの話に耳を傾けてくださいました。彼はついにその鬱積した感情を解放することができたのです。神様の問いかけは、彼を新しい考え方に導きました。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」その問いの中で、エリヤは自分の恐れ、自分の感情に向き合うことができました。そして神様に対する考え方も変わりました。神様はエリヤに御自身の姿を現わされました。エリヤは激しい風、山を動かす地震や火を体験しましたが、神様はその中におられませんでした。神様は御自分の「静かにささやく声」を通してエリヤに現れました。そしてエリヤに新しい仕事を与えられました(15~18節)。新しい王、新しい預言者に油を注ぐように指示され、バアルに膝むいていない7,000人が残っていることを彼に知らせました。

見捨てられたと思う時という気持ち気は珍しくないもので、聖書の中に登場人物にも教会の人々にも現れるものでもあります。エリヤの体験から学びましょう。

12. 10月 2018 · 2018年9月16日「この旅の目的」 加山 献 牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「この旅の目的」 加山 献  牧師

創世記24章1~14節、50~58節

多くの日を重ねて歳をとったアブラハムは、心から信頼を寄せていたひとりの僕を呼び、ひとつの願いを託しました。故郷の町まで出かけて、息子イサクのために嫁を見つけてきてほしい、というのです。ヘブロンからナホルの町までは約740キロありました。その旅路は福岡市から静岡県静岡市までの距離に相当します。ラクダに乗って移動しても、片道8日間ほどの遠い道のりがありました。しかし、この僕はアブラハムと同様に高齢であったにもかかわらず、途中で旅をあきらめることはしませんでした。僕は忠実にその道を歩み、見事にアブラハムの親戚の娘であるリベカと出会い、旅の目的を達することができました。

私たちの人生も旅のようなものです。人は誰でも、神様から大切な願いを託され、荒れ野を進む旅人のような存在です。神様が私たちに命の日々を与え、それぞれの人生に使命を与えてくださったのは、きっと私たちを心から信頼してくださっているからです。

年老いた僕にとって、旅の目的は、イサクの花嫁を整えることでした。私たちの旅の目的は如何なるものでしょうか。創世記24章になぞらえるならば、私たちの人生の使命は「キリストの花嫁」と呼ばれる「教会を整えること」と申し上げたいと思います。

花嫁は結婚式に向かってすべてを整えていきます。ダイエットをします。エステにも行きます。髪の毛も丁度良い長さにして、美容室にも行きます。ドレスもいくつも試着して自分にピッタリ合うものを探します。そして花嫁は未だかつてなかったほど、美しく着飾って、整えられて、結婚式にのぞみます。「私はありのままで愛されているので大丈夫です」と言って、普段着で、ノーメイクで登場する花嫁はいません。「ありのままで愛されている」ことに間違いはありませんが、それでもその日のために自分自身を整え、磨いていくのです。

イエス様にお会いするその日のために教会もすべてを整えていきます。必要とされているのは外面的な美しさではなく、内面的な美しさです。今まで以上にお互いを愛し合い、仕え合い、助け合っていく群れとして成長し続けましょう。教会の中だけではなく、世に対する奉仕にも熱心でありたいです。教会の働きを整えるのは私たちひとりひとりです。リベカはいつでも花嫁として迎えられる心の準備ができていました。同じように私たち教会も、いつでも主の前に立つ準備が出来ているなら幸いです。主に会う備えに励みましょう。

12. 10月 2018 · 2018年9月9日「救いの衣・恵みの晴れ着」今村幸文協力牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

『救いの衣・恵みの晴れ着』 今村幸文牧師

イザヤ書61章10節

 

レンブラントは「光の画家」と言われています。光と闇の対比がどの絵にもよく描かれています。そしてその光の射している部分が、その絵の中心であり、テーマです。レンブラントの作品に「放蕩息子の帰宅」という題の絵があります。新約聖書の中にある主イエスのたとえ話に出てくる父と子の姿を描いたものです。父親の前で膝まずいている息子の背中を両手でしっかり抱いている父親に光が射しています。この父と子の物語は、家出、流浪、帰宅という三つの内容から成っています。

第一は家出です。青年となった弟息子は、財産の分け前を願い出て父親の許しを得、父親の目の届かないところに自由を求めて家出をします。

第二は流浪です。彼は父から受けた財産を浪費して行くという仕方で生きて行くのです。放蕩三昧の暮らしの末、金の切れ目が縁の切れ目となり、大勢だった友達も皆彼を見捨て、挙句の果てに飢饉が彼を襲い、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどでした。

第三は帰宅です。彼は人生のどん底で自分の人生を呪い、友人や環境を呪い、自分の意志の弱さを嘆きました。そして人生の闇の中で狂いはどこから来たかを考え、自分が父親の元を離れたこと自体に思い至りました。

聖書にはこうあります。「彼は我に返って言った。父の元へ帰って言おう。私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。雇人のひとりにしてください。」 人生を暗黒にするものは、私たちの罪です。人間の創造者であり、天の父である神の元を離れること、それが罪です。その罪からの救いのために神はひとり子イエス・キリストをこの世界、歴史の中に遣わし、その十字架と復活によって神を神とし、人を人とする命の道を開いてくださいました。 放蕩息子は父親の元へ帰って行きました。彼が父親を見つける前に父親は彼を見つけ走り寄り首を抱き接吻したのです。そしてかれが罪を告白するのを聞きながら、言いました。「急いで一番良い服を持って来てこの子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。」と。

イザヤ書61章10節にこうあります。「主は救いの衣をわたしに着せ、恵みの晴れ着をまとわせてくださる。」 救いの衣・恵みの晴れ着について新約聖書は、イエス・キリストこそ私たちの救いの衣・恵みの晴れ着であると明言します。「あなたがたは、イエス・キリストを着なさい。」(ローマ13章14節)

10. 9月 2018 · 2018年9月2日「優しい心を育てよう」加山献 牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

『優しい心を育てよう』 加山献 牧師

マタイによる福音書5章5節

「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ」とイエス様は言われました。ここで使われている「柔和」という言葉は二つの関係について語っています。第一に神様と私の関係についてであり、第二に私と隣人との関係についてです。

私たちが神様に対して「柔和である」ということは、神様に対して謙虚であり、へりくだっているということです。神様の前に、罪人である自分を認めて、自分の弱さを受け入れることが信仰の重要なステップです。同じように、人に対して「柔和である」ことも大切です。宗教改革者のカルヴァンは「柔和な人たちとは、侮辱されても容易に怒ることなく、・・・穏やかで、優しい人を意味している」と語りました。

マタイ福音書の中で、この「柔和」(ギリシア語でプラウス)という言葉は、もう二カ所で使われています。ひとつはエルサレム入場の場面です。「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」(21章5節)イエス様は力をふるう王としてではなく、謙虚に仕える者として、優しい王様としてこの地に来てくださった、ということです。

もう一カ所は「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(11章28~30節)別の訳の聖書では「わたしは心優しく、へりくだっているから」と訳しています。私たちはイエス様から優しさを学ぶことができる、というのです。そのような人々は「地を受け継ぐ」とあるように、イエス様に学ぼうとする時に耕すべき「場」が与えられます。私たちひとりひとりに与えられている嗣業の地を、イエス様と一緒に耕していきましょう。

10. 9月 2018 · 2018年8月26日「誰かのための声となる」加山献 牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

『誰かのための声となる』 加山献 牧師

ヨハネによる福音書1章14~23節

バプテスマのヨハネは、イエス・キリストが公の活動を始める少し前に、ヨルダン川付近で宣教活動をはじめ、ただひたすらにキリストを指し示し続けた人でした。当時の人々はバプテスマのヨハネの語るメッセージに注目し、多くの群衆が彼の周りに集まってきました。「もしかしたらこの人が救い主メシアなのではないか」と考える人もあり、また他の人は「偉大な預言者と謳われたエリヤの再来ではないか」と考えました。そこで、エルサレムの人々はバプテスマのヨハネのもとに使いを出して「あなたは、どなたですか」と尋ねさせたわけです。バプテスマのヨハネは預言者イザヤの言葉を引用して「わたしは荒れ野で叫ぶ声である」と答えました。

荒れ野で叫ぶ「声」であるとは、「私は誰かに何かを伝える存在」であるということです。同時に「私はいずれ消えていく存在である」という意味にも聞きとれます。声帯から声が発されて、空気を揺らして、誰かの耳に届きます。ひとつひとつの空気の振動はわずかな時間で消えていきます。

同じように、私たちの人生も儚く過ぎてゆき、やがて消えていきます。私たちが世を去った後、一体この地上に何が残るのでしょうか。私たちはいったい何を残したいでしょうか。たとえ儚く過ぎてゆく人生であっとしても、私たちもまた、「誰かのための声」となるために生まれてきました。私たちは一人一人違った声質を持っており、まったく同じ声紋を持っている人が二人といることは非常に稀であるそうです。荒れ野のような時代の片隅で、私たちは光を指し示す唯一無二の「声」として、それぞれの場所に遣わされているのです。

10. 9月 2018 · 2018年8月19日「あなたの声は聞かれている」加山献 牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

『あなたの声は聞かれている』 加山 献 牧師

創世記21章9~21節

 

高齢で子どもがいなかったアブラハムに対して「あなたの子孫は夜空の星のように多くなる」という神様の約束がありました。しかしそれから10年ほど経っても、サラには子どもが生まれませんでした。そこでサラは、自分の召使いであったハガルという女性をアブラハムの側女とすることを提案しました。アブラハムもその提案を受け入れました。旧約聖書の時代、正妻の不妊で後継ぎが生まれない場合は、側女をめとって後継ぎをもうける、ということが珍しくなかったのです。そうして、アブラハムとハガルの間にイシュマエルという男の子が生まれました。

しかし、再び神様がアブラハムに現れて「あなたとサラの間に生まれる子どもが約束の子である」と言われました。その後、神様の約束どおり、アブラハムとサラの間にイサクが生まれてきたわけです。このイサクの子孫がやがてひとつの国民になり、その国民の中から全人類の救い主が生まれてくる。これが神様の壮大な計画だったのです。そのように考えると、ハガルとイシュマエルは神様のプランの外側にいるように感じます。

ところが、この一連の聖書の記述の中でとても興味深いことがあります。このイシュマエルという男の子が生まれてきたことに関して、神様は一言もアブラハムとサラを咎めませんでした。むしろ、神様はこのイシュマエルに対しても何度も祝福の言葉を語られているのです。イシュマエルの人生からわかることは、神様にとって望まれないで生まれてきた子どもは一人もいない、ということです。たとえ人がどのように判断しようとも、全ての命は神様によって望まれて生まれてきたのです。

ベエル・シェバの荒れ野をさまよっている時、イシュマエルは泣きながら思ったことでしょう。「こんなことになるなら、生まれてこなければよかった。」でも神様は母ハガルに言われました。「わたしは、必ずあの子を大きな国民とする。」わたしたちも人生の荒れ野を通る時、行き先もわからずさまよう時があります。しかし恐れることはありません。荒れ野こそが神様と出会える場所なのです。神様は荒れ野に佇む私たちの泣き声を聞いて、答えてくださる方なのです。