カテゴリー別アーカイブ: 礼拝メッセージ

2019年11月3日「認められたい、愛されたい」加山献牧師

「認められたい、愛されたい」加山献牧師

マタイによる福音書6章1~6節、16~18節

当時の人々は「施し、祈り、断食」という三つの行いを、とても大切にしていました。しかし、イエスさまは今回の聖書箇所で「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい」(1節)と語られました。

人は誰でも自分以外の人に認められたいという欲求を持っています。それは、ある程度は自然なことです。他者から認めてもらうこと、必要とされることは人間が生きていくために必須です。誰でも、達成したことを褒めてもらえれば、やはり嬉しいですし、やりがいも感じることでしょう。この心の求めは、心理学では「承認欲求」と呼ばれています。

私たちは実に、他者に受け入れられたいと思って、生きるものではないでしょうか。父に受け入れられたい息子、母に受け入れられたい娘、夫に愛されたい妻、妻から認められたい夫、先生やコーチから褒められたい生徒、友人たちから認められたい若者。ありのままの自分を受け入れてくれる家族や友人を持っている者は幸いです。

しかし今、強く申し上げたいことは、すべての人は全宇宙を作られた偉大な方から、愛され、認められ、受け入れられている、という事実です。私たちの承認欲求は、まず神の愛によって充足するべきなのです。

世間は素晴らしい成果を上げた時には「すごい」と言ってくれることがしばしばです。しかし、キリストはただ私たちが存在しているだけで「すばらしい!」と感嘆してくださるお方です。何故なら私たちは神の作品であるという一点で素晴らしい存在であるからです。

何かができたから褒められるのではありません。キリストは私たちをそのまま愛しておられます。何故なら神は初めから、愛するために私たちを造ってくださったからです。これが人間存在の原点なのです。

神は、頑張っている私たちを愛しておられますが、頑張れない私たちのことも愛しておられます。隠れたことを見ておられる神は、私たちの罪を暴くためだけに私たち見ておられるのではありません。私たちの苦労、私たち流す涙を見て、必ず報いてくださいます。

人間はこの神から離れて、自分のことを最も大切に思っていてくださる存在を忘れて生きています。この神から離れている状態を聖書は「罪」と語っています。無条件に愛する神様を、人は見失っています。見失っているということ以上に、人は神を捨てたのです。人類にとって、これほど大きな損失はありません。神の愛によって生まれたからには、神の愛によって生きるべきです。私たちは、認められ、受け入れられ、愛されていることを知る者となりましょう。

 

 

2019年10月27日「解放のはじまり」加山献牧師

「解放のはじまり」加山献牧師

出エジプト記2章11節~25節

モーセはエジプト王ファラオによる、迫害の最中に生まれてきました。しかし、彼は王室に引き取られ、当時の最高水準の教育を受けました。この事が、のちにイスラエルの指導者となってリーダーシップを発揮していくために大きな役に立ちました。モーセが王宮で育った奇跡は、神の深いご計画の一部だったのです。

成長したモーセは、自分の同胞がエジプト人に打たれているのを見た時、それを見過ごすことができませんでした(11節)。ついにそのエジプト人に打ちかかり、殺人を犯してしまったのです。その翌日にもモーセは同じ場所に出ていきました。今度はヘブライ人同士が喧嘩をしているところに居合わせ、その仲裁しようとしました。ところが「誰がお前を我々の監督や裁判官にしたのか。お前はあのエジプト人を殺したように、このわたしを殺すつもりか」と仲間だと思っていたヘブライ人に遠ざけられてしまったのです(13節)。殺人を犯してしまったことが公に知られると、モーセは逃亡せざるを得なくなりました。モーセはその時持っていた地位と名誉、権力と誇りを一瞬にして失ったのです。

エジプト人の中にも、ヘブライ人の中にも自分の居場所を見出せず、逃亡者となったモーセはミディアン地方にたどり着きました。そこでミディアンの娘ツィポラと結婚して家族を持ちます。ツィポラとの間に生まれた息子の名は、自分の境遇「寄留者(ゲール)」にちなんで、ゲルショムと名付けられました。この息子の名前は、自分の力で世界を変え、自分の力で自分の居場所を作り出すことのできなかったモーセの心境を表わされています。神の器として用いられるために、モーセは砕かれる必要がありました。そしてもう一度形作られる必要があったのです。やがて彼はこの荒野の中で神と出会い、神のみもとに自分の居場所を見出すようになるのです。

24節からは、神が主語となっています。神が民の叫びを聞き、契約を想い起し、人々を顧み、御心に留められました。モーセが何者であるかによらず、神が神であられるから、この解放の始まりが告げられているのです。私たちが何者であるかによらず、ただ神の憐れみによって、私たちに十字架の救いが与えられたことも同様です。出エジプトはイエス・キリストの十字架の救いを指し示すものであったことを覚えましょう。

 

 

2019年10月20日「金持ちとラザロ」今村まさゑ協力牧師

「金持ちとラザロ」今村まさゑ協力牧師

ルカによる福音書16章19節~31節

イエスさまは、多くの譬え話をして真理を分かり易く説かれました。この箇所で興味深いのは、大金持ちの名は挙げられず、物乞いをしていた男の名はラザロであったと語られるのです。この譬え話はイエスの話を聞いて嘲笑った「金に執着するパリサイ派の人々」に対してされたのです。金持ちは王が着るような衣服を身にまとい、毎日、贅沢にお祭り騒ぎをして遊び暮らしていました。この金持ちの門前に、できものだらけのラザロが横たわり、金持ちの食卓からの捨てられたもので生きていました。野良犬がやって来て舐めてくれることが、慰めでありました。やがて、ラザロは死にましたが、葬ってくれる者もいませんでした。しかし、天使たちによって天国へと連れて行かれました。さて、金持ちも死んで葬られました。葬られたというのは、立派な葬儀が行われたということを示します。ところが、金持ちは陰府(よみ、地獄)で、さいなまれながら目を上げると、はるかに宴席で、こともあろうか、あのラザロが、イスラエルの父祖アブラハムのとなりで満ち足りている姿が見えたというのです。金持ちは大声で「父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロを遣わして、炎の中でもだえ苦しんでいるわたしの舌に、指先に浸した水で冷やしてください」と叫びました。しかし、それはできない。天の国と陰府は越えられないのです。金持ちはそうであれば、まだ生き残っている五人の兄弟の所に、警告にラザロを遣わしてくださいと願いましたが、これも叶いませんでした。

生きている人々には、「モーセと預言者がある」。つまり「聖書」がある。聖書を読まないのであれば、他の誰を遣わそうと「その言うことを、聞き入れはしないだろう」(31節)と明言しています。金持ちとラザロ、この二人は相次いで死に、金持ちは陰府に、ラザロは天国に、その理由をイエスさまは触れておられません。ただ、ラザロという名は、「神は助け」の意であり、「神の助けなしに、生き得ぬ者」であることを語っています。金持ちにも良いところは幾つもありました。門前に哀れな者が居ても追い払わず、捨てた残飯とはいえ食することをゆるし、名前までも覚えていました。また、兄弟に対しても、悔い改めて地獄に来ぬように、必死で執り成すなど中々なものです。しかし、「律法の文字の一画がなくなるよりは、天地の消え失せるほうが易しい。」(16章17節)とあるように、神の掟、神の言は滅びることはない。神の真理、それは揺らぐことはない。」わたしたちの命は、この世の死で終わらないのです。復活の命を信じ、御国への憧れに生きる者は、この地上の働きが無駄にならないことを信じて生きるのです。最後に「コリントの信徒への手紙(一)15章58節」を読み、祈ります。

 

 

 

 

2019年10月13日「小さな命を守りたい」加山献牧師

「小さな命を守りたい」加山献牧師

出エジプト記1章15節~2章10節

出エジプト記から、モーセの誕生の影で活躍した五人の女性たちに注目してみたいと思います。過酷な労働環境の中でも人口増加し続けたヘブライ人に対して、エジプト王ファラオはヘブライ人シフラとプアを呼び、恐ろしい命令をくだしました。

 

【シフラとプア】

シフラとプアは今でいう師長さんのような助産師のまとめ役であったと考えられます。男の子が生まれたならば、その場で殺すように命令が下りましたが、二人はファラオに従わず、命がけで密かに赤ちゃんを生かしておきました。彼女たちの真っ直ぐな信仰と勇気ある決断が、やがてイスラエル民族の出エジプトという歴史的事件につながりました。

 

【ヨケベデ】

エジプト王は「生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め」と恐ろしい命令をだします。この頃、やがてヘブライ人をエジプトから約束の地へ導き上っていく英雄、モーセが生まれます。母親のヨケベドは、神がお造りになった命の美しさ、命の尊さを見て、モーセを見殺しにすることができませんでした。知恵を絞り、パピルスの籠を編んでアスファルトで防水し、そこにモーセを入れてナイル川の葦の茂みにおきました。神様にこの赤ちゃんの命を委ねたのです。

 

【ミリアムとファラオの娘】

ミリアムはナイル川に流された赤ちゃんの無事を見届けるために立ちました。そこに水浴びにやってきたファラオの娘である王女が、モーセを入っている籠を見つけます。父親の命令に背くことを知りながら、ヘブライ人の赤ちゃんの命を救って養子にする決断をしました。モーセが生き延びるためには、この5人の女性たちの存在が必要でした。彼女たちのうち、一人でも欠けていたら、モーセの小さな命が生きる道は閉ざされていたはずです。

 

現代社会は育児放棄、虐待、中絶などの問題を抱え、小さな命が軽んじられている社会といえるかもしれません。教会はこの5人の女性たちのように、小さな命を守るために祈り、行動するものでありたいと思います。

 

 

 

2019年10月6日「あなたの敵を愛しなさい」加山献牧師

「あなたの敵を愛しなさい」加山献牧師

マタイによる福音書5章38節~48節

 

「あなたの敵を愛しなさい。」イエス・キリストが語られた最も重要な教えのひとつです。イエスさまは「それがあなたがたにはできるはずだ」とわたしたちを励ましてくださっています。

1.自分自身がどのような存在かを深く知る

他者を愛するために必要な最初のステップは、自分自身を深く知ることです。聖書は、私たち人間が神の愛をよって造られたことを告げています。また、イエス・キリストの十字架を通して、わたしたちは自分が、どれほど神にとって大切で、かけがえのない存在であるかを知ることができます。日ごとに神の無尽蔵の愛を受け取り続けていただきたいと思います。愛されている人ほど深く愛することができます。あなたは天地を造られた神に愛されています。だからあなたは愛することができる人なのです。

2.「なぜ」敵を愛さなければならないか

故マーティン・ルーサー・キング牧師は「闇によって闇を消し去ることはできない。光だけが闇を追い払うことができる。憎しみによって憎しみを消し去ることはできない。愛だけが、それをできるのである。」と語りました。キング牧師は非暴力を貫き、愛によって憎しみを克服しました。私たちひとりひとりも、愛によって世の敵意を取り除く和解の務めに召されています。

また「赦せない、愛せない」という想いは、私たちを「本当の自分」から遠ざけます。なぜなら、私たちは愛し愛される存在として造られたからです。他者を嫌い、憎み、傷つける「わたし」は「本当のわたし」ではありません。他者を心からいたわり、慰め、励ます。そのような優しいわたしが「本当のわたし」なのです。「本当の自分」を取り戻すために、私たちは敵をも愛する愛を求め、日々祈りましょう。

3.不完全ながら、「完全」を目指して成長するものとして

しかしながら、わたしたちは自分の力で人を愛することはできません。わたしたちは自分の中に完全な愛が備わっていないことを知っています。しかし神は、わたしたちの心に、すべての人を愛したいという願いを備えてくださるのです。

48節には「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」とあります。ここで使われている「完全」(テレイオス)という言葉は「成人した、円熟した、成熟した」という意味も持っています。信仰の高みを目指し、この地上の最後の日まで、御国につく朝まで、愛することにおいて成長し続けるものでありたいと思います。

 

 

 

2019年9月29日「わたしについて来なさい」ラス・ボーグ宣教師(日本バプテスト宣教団)

「わたしについて来なさい」ラス・ボーグ宣教師

ルカによる福音書9章23節

イエス様がこの世におられた時に、多くの方々に「わたしに従って来なさい」また「わたしについてきなさい」と招かれました。聖書は私たちにこのように教えています。 「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない。」現在もイエスキリストは生きておられ、自分に従って来る人達を呼んでおられます。クリスチャンと言う意味は、イエス・キリストに従っていく者のことです。私達は、日々イエス・キリストに従い、そしてイエス・キリストがその御心を私達に表わし、私達の行くべき道を示し、私達の人生を導いてくださるのです。

ルカによる福音書9章23節はこう教えています。それから、イエスは皆に言われた。「私について来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。」私達がイエス様の弟子になれば、日々、毎日、イエス・キリストについて行く必要があります。また、自分を捨てるとはどういう意味なのでしょうか?それは、自分自身の行きたい道よりも、主イエスキリストがあなたの為に準備された道を求め、進むという事です。主があなたの為に準備された道は、決してやさしい道ではないかもしれません。しかし、その道を進んで行き、振り返った時、神様がその道へ導いて下さった理由が少しわかるかと思います。またその理由を知り、心が満たされるでしょう。

私たちがクリスチャンになり、イエス様に従う決断をした時以来、私たちの人生はもう自分自身のものではなく、イエス様のものなのです。ですから私たちは神様の御心と神様の導きに従います。イエス様はこの教会におられる皆さんを招かれ、また私達も彼について行く決断をしました。そしてイエス様を自分の人生の主とし、その生涯を彼に捧げる決断をされたと思います。神様の私達に対する愛と恵みは、私たちの想像を超えるものです。私達が自分の人生の主導権を神様に完全に委ねる時、私達はその愛と恵みをさらに深く感じる事が出来ると思います。神様の愛と恵みは忠実で、どんな物も神様の愛から私達を引き離すことは出来ません。

「私について来なさい」「私に従って来なさい」こう言われたイエス・キリストからの招きに対して、全てを捨てて従ったシモンペテロとアンデレ等の様に、私達も受け止めて行きたいと思います。

 

 

 

 

2019年9月22日「守れなかった約束はありますか?」加山献牧師

「守れなかった約束はありますか?」加山献牧師

マタイによる福音書5章33節~37節

ユダヤの人々は、「誓いを果たす」ということを最高の美徳としていました。ところが旧約聖書には、律法(律法は神との契約=約束事の一部分と言えます)を守りきることができなかった人間の歴史が赤裸々に記されているのです。そのような歴史を持つ民に対して、主イエスは言われました。「しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。」

神との約束を守りきれなかった結果、人類は神との断絶を経験するようになりました。そのすべての呪いと罰を背負うために、また、神と人間の絆を再び取り戻すために主イエスはこの地に来てくださったのです。そして、主イエスは完全な生き方を通して、律法の要求を満たしてくださいました。

「一切誓いを立ててはならない」という主イエスの新しい教えは、神に対して誓いを立てて、その約束を守ることによって救いを得る必要がなくなった、ということを示しています。しかしながら、旧約聖書の律法はすべて必要なくなった、という意味ではありません。律法の原則的な部分は、今でも私たちの生活を導くガイドライン、倫理基準として生き続けています。

37節を新改訳で見ると「あなたがたの言うことばは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』としなさい」とあります。自分が間違っていたと気づいたのならば、取り繕わずに、素直に「はい」と認める。できないと思ったことは、正直に「いいえ」と断る。そのような実直な生き方も求められているといえます。しかし何にもまさって、「あなたがたはいつも真実な言葉を語るものであってほしい」という主イエスの大きな願いがここにあります。37節は「それ以上のことは、悪い者から出るのである」と結ばれています。「悪い者」とは悪魔を指して使われている言葉です。なんと、悪魔という存在が人の唇に偽りを語らせ、互いの信頼関係を失わせて、社会の基盤を乱している、というのです。

現代は様々な情報が行き交っている社会です。テレビやインターネットを通して様々な意見が聞こえてきます。何が真実なのかわからない、どの言葉を信じていのかわからない、そのような混乱した時代に私たちは生かされています。真実よりも、むしろ感情や個人的信条のアピールの方が影響力をもつ時代なのです。この真実が失われた時代の中で、イエス・キリストだけがただ一人、常に真実な言葉を語る方であったことを想い起しましょう。

誓いを果たせなかった人間に対して、神は救いと恵みの約束を示してくださいました。ご自身が約束されたことについて、どこまでも誠実で、真実であられた神の義を、私たちは受け取ることができます。神の人類に対する約束はことごとく成就し、その誓いは果たされてきました。主イエスこそが神の約束の最大の成就なのです。

私たちはこの難しい時代にあって、キリストの御言葉に命の力を見出し、神の言葉そのものであるキリストを聞き、キリストを語る教会として召されていることを覚えましょう。

 

 

2019年9月15日「白髪になるまで、背負っていこう」加山献牧師

「白髪になるまで、背負っていこう」加山献牧師

イザヤ書46章1節~10節

 

「わたしに聞け、ヤコブの家よ、イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」(イザヤ書46章3節~4節)

この聖書箇所において、聖書の神はどのような方なのか、神ご自身が預言者イザヤの口を通して語っておられます。

 

1.私たちを造られた神 (私たちの過去における神)

第一に、この神は私たちを造ってくださった方です。人間が想像力を働かせて、自分たちにとって都合の良いように作り上げた神ではありません。はじめに神がこの世界を、そして人を創造されたのです。神みずから、ご自身の似姿にかたどり、人格的に生きる存在として、私たちひとりひとりを大切に造ってくださったのだと聖書は語ります。

 

2.私たちを背負ってくださる神 (私たちの現在における神)

第二に、この神様は私たちを背負ってくださる方です。人間は皆、「神に背負われている存在である」と聖書は強調しています。私たちは生まれた時から -原語によると生まれる前から- この方に担われてきました。そして、私たちが老いる日まで、「白髪になるまで、背負っていこう」とこの神は約束してくださったのです。神に背負われていない人間はどこにもいません。私たちはこの世界のどこにいても、広く、暖かい、神の背中の温もりを感じながら生きていくものでありたいと思います。

 

3.私たちを救い出してくださる神 (私たちの未来における神)

第三に、聖書の神は私たちを救い出してくださる神です。神は私たちの人生最後の日まで、私たちを背負い続けてくださいますが、それだけではありません。その先の新しい世界まで、私たちを導いてくださるのです。私たちの人生は墓で終わるのではありません。人類最大の問題である「死」から、私たちを救い出してくださる神がおられる、というのです。

そのために、神はひとり子イエス・キリストをこの地に遣わしてくださいました。イエス・キリストが十字架を背負われたのは、私たちの罪のためでした。私たちを罪と死から救い出すためには、他に方法がなかったのです。それほどまでに、この神は私たちを想い、愛してくださいました。十字架の愛と赦しを受け取りましょう。私たちはこの神に造られ、背負われ、救い出される存在なのです。

 

 

 

2019年9月8日「世に打ち勝つ信仰」今村まさゑ協力牧師

「世に打ち勝つ信仰」今村まさゑ協力牧師

ヨハネの手紙第一 5章1節〜5節

 

主イエスの12人の弟子のうち4人は漁師でした。シモンと弟アンデレ、ヤコブと弟のヨハネである。シモンにはペテロ(岩)、ヤコブとヨハネにはボアネルゲス(雷の子ら)と呼ばれました。特に、ペテロ、ヤコブ、ヨハネは大事な場面に同行を許されました。ヤイロの娘が死んだとき「タリタ、クム」と生き返らせたとき(マルコ5:21~)、また、山上の変貌(ルカ9:28~)ゲッセマネでの祈り(マタイ26:36~)の時も、三人を近くに置かれました。

しかし、ヤコブとヨハネは密かに、自分たちを将来イエスの右、左に座らせてほしいと願い出て、弟子たちの反発を買ったこと(マルコ10:35)がありました。けれど、やがてヨハネは、福音書、手紙、黙示録を執筆するほどに成長しました。今朝のヨハネの手紙は紀元90年前後、エペソで書かれました。内容は、神の愛を知ること、互いに愛し合うことの素晴らしさが記されています。若い時には雷の子と呼ばれるほど気性が激しかった人物が、「愛の人」に変えられたのです。

1節の「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれたものです。」これは「聖霊によらなければ誰も『イエスは主である』とは言えないのです。」(第一コリ12:3)の通りです。そして、4節「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。」聖霊を受け、「神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。」(ローマ8:31~)「だれが神に選ばれた者を訴えるでしょう。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。」

この「キリストの愛」は、キリストに対する私たちの愛ではなく、私たちに対するキリストの愛です。ローマ8:37に「わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。」とある通りです。さらに、10の事例が記されています。「死も、命も、天使も、支配するものも、現代のものも、未来のものも、力あるものも、高いところにいるものも、低いところにいるものも、他のどんな被造物も、・・・わたしたちを引き離すことはできないのです。」

ヨハネは言います。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)

苦難の向こう側に勝利があるのです。ハレルヤ!

 

 

 

2019年9月1日「帰ろう、ふるさとへ」加山献牧師

「帰ろう。ふるさとへ」加山献牧師

第一ペトロの手紙2章22節~25節

 

聖書の至る所に、人間は羊飼いのもとを離れた迷子の羊のようであると表現されています。ペトロは教会の人々にあてた手紙の中で「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。」と記しています(25節)。迷子の羊のようであったとは、そして魂の牧者のもとに帰ってきたとは、一体どういう意味なのか、これらのことについて考えてみたいと思います。

 

① 自分がどこにいるのかわからなくなっている

第一に、迷子であるとは、往々にして、自分が今どこにいるのかわからなくなっている、ということです。羊は一旦羊飼いとはぐれると自分が一体どこから来て、どこに向かっているのか完全にわからなくなってしまうそうです。同じように人間も、自分はどこから来て、どこに向かっていくのか、自分はなぜ生まれ、なぜ今日の日を生きているのか、存在の根源的目的を見失っている者であるといえます。

しかし、神が造られた世界に、神によって造られた私たちが生かされているのは偶然ではありません。人間には一人一人、神による尊い目的があり、私たちが今いる場所は神がある目的のために導いてくださっている場所である、ということです。そして私たち人類の究極的な存在目的は、いつの日か父なる神のもとに帰ることなのです。

 

② 戻るべき場所がある

聖書は、神が人となってこの世界に来てくださった、と告げています。それは人がもはや自分の力で神のもとに帰れなくなったからです。私たちがまことの神のもとに戻るためには神の方から人間の所に来てくださり連れ戻してくださる必要があったのです。

神という存在から目を背けて、離れ去っていることを聖書は罪と呼んでいます。キリストの死は、私たちの罪の問題を解決するための、私たちのための死だったのです。「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず」(23節)、キリストが忠実に痛みを耐え抜かれたのは、私たちを愛し、私たちをどうしても取り戻したいと願ってくださったからなのです。十字架は罪の赦しのしるしです。私たちの魂の故郷である、父なる神のもとへ、赦されているものとして、愛されているものとして、帰っていきましょう。