カテゴリー別アーカイブ: 礼拝メッセージ

2021年7月18日「わたしの羊を飼いなさい」朱承圭協力宣教師

「わたしの羊を飼いなさい」朱承圭協力宣教師

ヨハネによる福音書21章15節~19節

この聖書箇所には、弟子たちの使命を回復してくださるイエス様の姿があります。イエス様は弟子たちを、人をとる漁師として招きました。しかし、弟子たちは再び魚をとる漁師に戻っていたのです。イエス様は使命を捨てて世に行った弟子たちを訪ねて再び使命を回復してくださいます。

弟子たちの使命は具体的にどのようなものだったでしょうか?イエス様は弟子たちに繰り返しお語りくださいました。

“わたしの羊を養いなさい”

“わたしの羊を飼いなさい”

“わたしの羊を養いなさい”

イエス様は弟子たちを決して諦めませんでした。 再び訪ねて使命に生きる者として立たせくださったのです。弟子たちが使命を果たすべき理由はなんですか?それはイエス様がなさった働きが弟子たちを通して継続されるべきだからです。

早良キリスト教会もまたイエス様がなさったミニストリーを引き継ぎ、継続していくべきです。イエス様がこの地でなさった働きは大きくわけて、教育(Teaching)、 宣教(Preaching)、癒し(Healing)でした。早良キリスト教会が果たすべき使命も同様です。その中でも特に重要なのは伝道です。

18節でイエス様はペトロに次のように言われました。「あなたは・・・両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」

ペテロはイエス様の言葉のように9か月間投獄され、その後鞭打たれ、逆さ十字架に釘打たれて殉教しました。

ペテロだけでなく、ほとんどの弟子たちが殉教していきました。ヤコブはイエス様の弟子たちの中で最初に殉教しました。ピリポはアジア地域で福音を宣べ伝えて殉教しました。マタイはエチオピアで教会をたてて福音を伝え、パルディアで殉教しました。マルコはローマのキリスト人たちのためにギリシャ語で福音書を記録後、殉教しました。

イエス様の弟ヤコブはエルサレム教会の監督としてヤコブ書を記録後、石に打たれ殉教しました。アンデレはアジアで偶像に対敵する説教をしてから十字架で殉教しました。ヤコブの兄弟ユダはパサで福音を伝え殉教し、シモンはアジアとイギリスで福音を伝えながら異邦人たちに十字架で釘打たれ、殉教しました。ヨハネはギリシャにたくさんの教会をたてました。ヨハネはパトモス島に送られ、そこでヨハネの黙示録を書きました。

しかし、殉教は終わりではありませんでした。彼らの蒔いた種によって、新しい次の世代が興っていったのです。イエス様のみ言葉の通り、一粒の種が地に落ちて死ぬときに多くの実りがありました。そのようにして全世界が主に帰っていくのです。アーメン!

イエス様は同じように私たちに聞かれます。“あなたは私を愛するか?”イエス様の質問にみなさんはなんと答えますか? “わたしは主を愛します。“ イエス様の十字架の愛を覚えましょう。その十字架の愛が使命者の人生を導きます。もう一度告白しましょう。“私は主を愛します。”

 

2021年7月11日「喜びの季節がやってきた」加山献牧師

「喜びの季節がやってきた」加山献牧師

マタイによる福音書9章14節~17節

 そのころ、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、「わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と言った。イエスは言われた。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる。」 (マタイによる福音書9章14節~15節)

主イエスはここで、ご自身を花婿に例えられました。世界のどの文化でもそうであるように、ユダヤの文化でも、結婚は特別な祝いの時でした。ユダヤでは一週間、結婚の宴が続きました。親戚、親しい友人、近所の人たちが祝いに訪れて楽しい時を過ごしたのです。日頃から貧しい暮らしをしている人々であっても、婚礼の宴の時ばかりは、人生の喜び、楽しさ、豊かさを思う存分味わうことができました。この婚礼のたとえを通して、三つのことが語られています。

(1)イエスと共にあることは喜びである

主イエスと共に生きる人生は、思わず踊り出してしまうような喜びがあります。主が地上に来られたのは父なる神の愛を示すためであり、自由で、豊かで、しなやかな神の国をこの地に実現するためでした。主イエスはその神の国の喜びを出会う人々と分かち合われました。

(2)それでも悲しみの時はやってくる

 「花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる。」 そのように主は語られました。花婿が奪い取られる時、それは十字架の時です。宣教活動の初めの時から、主イエスは十字架を見つめて続けておられました。主が十字架にかけられた時、弟子たちはたじろぎ、恐れました。自分たちの不甲斐なさに、自分たちの罪の深さに、弟子たちは絶望しました。まさに十字架の時は悲しみの時でした。

私たちの信仰にも、十字架の時がやってきます。これは避けられない事実です。イエスさまに従っていく道は、十字架の道です。私たちもたびたび、自分の不甲斐なさ、自分の罪の深さを示され、悔い改めの祈りに導かれる時があります。それが十字架の時です。

(3)悲しみは喜びに変えられる

しかし、三番目にお伝えしたいことは、悲しみは喜びに変えられる、ということです。悲しみそのものであった十字架は、私たちの人生に永遠の喜びをもたらすものになりました。罪の裁きの象徴であったものが、赦しの象徴に変えられたのです。そして三日目の朝、主イエスは死の力を打ち砕き、復活されました。悲しみは喜びに変えられます。それが私たちの希望であり、私たちの運命です。運命とは教会であまり用いられない言葉ですが、あえて申し上げたいと思います。喜びは私たちの運命です。私たちの人生が今、どのようなところを通っていたとしても、私たちの人生の終着点は主が備えてくださる、人智を超えた喜びの世界なのです。

 

2021年7月4日「永遠の安らぎに生きる」加山献牧師

「永遠の安らぎに生きる」加山献牧師

出エジプト記20章8節~11節

「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」

① 神に出会うために

私たちはなぜ安息日を守るのでしょうか。第一の理由は主なる神に出会い、神と親密な交わりをもち、主の御心をより深く知るためです。神さまは6日間で世界を創造し、7日目に休まれた、とあります。7日目に休まれたのは神さまがお疲れになっていたからではありません。その創られたもの全ての被造物と、特に最後に創られた人間と、共に時を過ごすために、7日目を聖別されたのです。神さまが、安息日を通して私たちに求めていることは、私たちが忙しさから退いて、神さまのもとにとどまり、憩うことです。

② 力を得るため

私たちが安息日を守る第二の理由は、霊的な力を得るためです。どんなに優れたスマートフォンを持っていても、電池が切れてしまったら全く使い物になりません。必ず充電しなければなりません。6日の間、私たち一人一人に与えられた賜物を十分に生かしていくためには、安息日にしっかりと神さまと繋がる必要があります。私たちは礼拝の中で力をいただいて、それぞれの職場、学校、家庭の中に遣わされていくのです。

③ 自由なものとして生きるため

安息日を守る第三の理由は、私たちが自由なものとされたからです。神様はエジプトで奴隷として生活していたイスラエルの人々に解放をもたらしました。同じように、イエス・キリストの十字架と復活により、罪の奴隷であった私たちにも解放の御業がなされました。

何かに追い立てられているような日常から解放されて、ひと時、神と共に安らぐ。それが安息日の礼拝のひとつの意味です。礼拝は神の国の雛形と呼ばれています。教会は天の国の先取り、天国の前味だ、という表現もよく用いられます。安息日を守る、ということを通して、私たちは天国の安らぎを体験します。私たちは地上にいながらにして、永遠の安息をほんの少しの間、この礼拝の中で味わうことが許されているのです。「御心が天になるごとく、地にもなさせたまえ。」

 

2021年6月27日「弟子たちの足を洗われるイエス」今村まさゑ協力牧師

「弟子たちの足を洗われるイエス」今村まさゑ協力牧師

ヨハネによる福音書13章1節~17節

今朝の出来事は「最後の晩餐」の時の行為で、ヨハネ福音書だけに記されております。1節の冒頭に「過越祭のまえのこと」とありますが、「世の罪を取り除く神の小羊」(1:29)として、まさに「この世から父もとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいるご自分の者たちを愛して、愛し抜かれた。」 愛し抜くとは、極みまで愛を完成する、十字架上の最後に「成し遂げられた」(19:30)と言われた言葉と同じ意味なのです。

地上での最後の「食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとい、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、手ぬぐいで拭かれた。」ところが、ペテロの番になった時、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか。わたしの足など、決して洗わないでください」。当時の習慣では、足を洗う仕事は奴隷のすることでした。こともあろうに、師が弟子たちの足を洗うなど前代未聞のことでした。

イエスは答えて「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で分かるようになる。」神の御子が奴隷として仕えられる。ペテロには理解できないことでした。

「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神はご自分を愛する者たちに準備された。」(Ⅰコリント2:9) のです。

「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何の関係もないことになる」とのイエスの言葉に、それならば手も頭も・・・と願うペテロでした。

ユダもペテロも、他の弟子全てが、主を見捨てて逃げ出すことを知りながら、足を洗ってくださったのです。ペテロの歩みは戸惑いと勇み足の連続でした。しかし、その都度、イエスに赦され、おおわれ担われてきたのです。その度に、少しずつ目が開かれたのです。それは、現代の私たちとて同様です。

「既に体を洗った者は、足だけ洗えばよい。」体に洗いとは、バプテスマ(洗礼)のことです。罪の赦しと申請を表す、一度限りの恵みに溢れるバプテスマですが、キリスト者となっても罪を犯してしまう者ゆえに、日々、悔い改めが必要なのです。

最後の晩餐を記念として、キリスト教会は、2000年間、礼典として{主の晩餐式}を行い続けているのです。足洗の後に、ユダが出て行くと、イエスは弟子たちに言われました。

「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いにあいしあうならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ福音書13:34~35)

 

 

2021年6月20日「このお方を父と呼ぶ」加山献牧師

「このお方を父と呼ぶ」加山献牧師

出エジプト記20章7節

「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。」 

 

① 神さまは名前を持っておられる

出エジプト記20章に納められているモーセの十戒を読み進めています。「主の名をみだりに唱えてはならない」は三番目の戒めにあたります。十戒の第三戒で考えてたい三つのことがあります。

第一に、聖書の神は名を持っておられる、ということです。これは意外に私たちがあまり意識していないことであるかもしれません。旧約聖書の中には6859回も、この名が記されているのです。

しかし、時の流れと共に、この神の名をどのように発音するのかは誰にもわからなくなりました。なぜなら、イスラエルの人々は十戒の教えに文字通りに従い、何千年もの間、この名をみだりに唱えることをしなかったからです。学会や教会の宣教の中で、便宜上(もしくはキリスト教の伝統に従い)「エホバ」とか「ヤハウェ」と呼ばれることがあるのですが、正確には、もはやこの神の名をどのように発音するのかは知ることができない、ということが正しい答えです。

 

② 神は聖なる方である

このことを通して教えられることは、この聖書の神は完全に聖なるお方である、ということです。聖書が語る「聖さ」は、ヘブライ語では「カデシュ」、ギリシア語では「ハギオス」という言葉ですが、どちらも同じ意味を持っています。“分たれている、分離している”という意味です。罪ある私たちとはかけ離れた聖さを持っておられる主がおられる、というのです。

 

③ このお方を父と呼ぶ

しかし、三番目にお伝えしたいことは、私たちはこの神を父と呼ぶ、という事実です。完全な聖さを持ち、私たちとはかけ離れた存在であり、天において圧倒的な光の輝きを放つお方を、私たちは「私のお父さん」と親しく呼びかけることが許されているのです。弟子たちが主イエスに対して「祈りを教えてください」と願った時、主は「天におられる私たちのお父さん」と呼びかけることを教えてくださいました。神に対してこのように呼びかけることは革命的なことでした。

神の子であるイエス・キリストにつながることによって、私たちもまた神の子とされる恵みを得ることができ、あらゆる断絶を乗り越えて、父なる神の御許に近づくことが許されるのです。私たちは今日も“畏れつつ、恐れなく”父なる神に近づきましょう。

 

 

2021年6月13日「運命の出会いはすぐそばに」加山献牧師

「運命の出会いはすぐそばに」加山献牧師

マタイによる福音書9章9節~13節

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイ9章12節~13節)

当時、取税人はユダヤ人のコミュニティではとても嫌われていた存在でした。彼らはローマ帝国の支配に加担し、同胞のユダヤ人から搾取して、騙しとることを通して豊かになっていたからです。

ある日、主イエスは取税人であったマタイに対して「わたしに従いなさい」(9節)と声をかけられました。マタイのことを知らないイエスさまではありません。マタイの今までのことを知っておられ、マタイの心の内をよくご存知の主が声をかけてくださったのです。そしてマタイの人生に新しい使命を与えてくださいました。

主イエスは「わたしは罪人を招くために来た」とも言われました。その言葉を聞く時、私たちはほっとします。失敗を繰り返すこともあり、人を傷つけてしまうこともある。何度悔い改めても、変わりきることのできない自分の限界を知らされている。だからこそ「罪人を招くために来た」と語りかけていただく時、私たちは安堵します。主イエスの前では、私たちは他の誰かである必要はありません。そのままの私たちを、主は招いてくださるのです。

しかし、主イエスは病人を癒す医者であられます。罪人がありのままでこの宴に来たならば、やがて罪人は罪人のままではいられなくなるのです。罪人がゆっくり癒やされて変えられていく、そのような喜びの宴があることを私たちは知っています。

人生は誰に(何に)従っていくかで決まります。主イエスに出会えたなら、もう何を失っても大丈夫です。この方こそが、本当の意味で私たちの心を満たし、私たちの魂を潤すお方であられるからです。

「わたしに従ってきなさい、わたしは罪人を招くために来た」と語りかけてくださる方が、今日も私たち一人一人に向かって、神の愛で包むように優しく声をかけてくださいます。

 

 

2021年6月6日「あなたの罪は赦される」加山献牧師

「人々が中風の人を床に寝かせたまま、イエスのところへ連れて来た。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される』と言われた。」(マタイによる福音書9章2節)

【あなたを支える人々がいる】

一人の男の人が床に寝かされたまま、人々に助けられてイエスさまのところに運ばれてきました。ここには他者の支えによって助けられたひとりの人の姿が描かれています。彼は、主イエスのところにさえ行ければなんとかしてもらえる、という一筋の光に縋るような思いだったかもしれません。あるいは既に治りたいという気力を失い、意気消沈していたかもしれません。いずれにしても、彼は自分一人では主イエスのもとに来ることはできませんでした。

悲しみのどん底でうなだれる時。あまりにも大きな試練を前にして、もう信仰が枯渇してしまう時。そのような時に、あなたを担ぎ、あなたを背負い、主イエスのところまで連れて行ってくれる。そのような友を持つものは幸いです。私たちは、時には誰かに助けられ、時には誰かを助けながら生きていく者です。この事のためにこそ、私たちひとりひとりが早良教会に集められ一つの家族とされたことを信じます。

【あなたの罪は赦される】

主イエスは「あなたの罪は赦される」と手足が不自由な人に呼びかけられました。主がこのように語られたのは、この中風の男性が他の人と比べて特別罪深い人間だったからではありません。

第一に、この当時のユダヤでは、病気は罪の結果だったと考えられていました。つまりこの人は、自分の体が不自由になったのは、自分が悪いからなのだと思い込んでいたのです。自分は神に罰せられていると感じ、罪責感に悩まされながら、沈んだ心で生活をしていたのです。

だから主は「病気の人よ」「中風の人よ」などではなく、「子よ」と呼びかけてくださいました。主イエスはどれほど彼を愛してくださったことでしょうか。そして、彼を励ますために「元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と宣言されたのです。

二番目に、この中風の人は他の人と比べて、特別悪い罪人ではなかったが、かといって全く罪がなかったわけでもありませんでした。「義人はいない、一人もいない」という聖書の言葉通り、この人もまた十字架の赦しによって覆われるべき一人の人間だったのです。イエス・キリストは人の罪を赦すために来てくださった救い主であることをこの言葉は表しているのです。

 

 

2021年5月30日「どのような人が神の国に入るのですか?」朱承圭協力宣教師

「どのような人が神の国に入るのですか?」朱承圭協力宣教師

マルコによる福音書10章13節~16節

「イエスに触れていただくために、人々が子どもたちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。」(13節)

子どもは家と教会の喜びです。また、子どもは教会と国家の希望であり、また、家庭の柱です。子どもと訳されている「パイディオン」という語は、幼児から12歳くらいの年齢の子どもを表す語です。

古代世界において、子どもは宝として大切にされる一方、未発達な人間とみなされて軽んじられる存在でもありました。貧しさや病の中にある子どもは、さらに軽んじられ、排除の対象にもなったようです。当時の価値観からみると、この子どもは非常に軽んじられた小さな存在であったと考えられます。

ユダヤの人々には、ラビに手を置いてもらって、子どもを祝福してもらう習慣がありましたし、今もあります。それで、人々が子どもをイエスのみもとに連れてきました。しかし、弟子たちは彼らを叱ったのです。そこでイエスはどのように反応されたでしょうか。

「しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。『子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。』」(14節)

イエスさまはこれを見て憤られました。憤りと訳されている語は、激怒、激昂というような激しい怒りを表す強い表現で、イエス様を主語として用いられているのは新約聖書の中はここだけです。こどもたちが軽んじられたことに対してイエスさまは大変激怒し、「子どもたちをわたしのところに来させなさい」と言われました。それは「来るままにさせておけ」という意味です。弟子たちがそれを妨げたり邪魔したりしてはいけないのです。なぜなら、“神の国はこのような者たちのもの”だからです。

「『はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。』」(15節)

神の国は、このような者たちのものです。神の国にはいるには、こどものように自分の弱さ、頼りなさを認めて、ただひたすらキリストを受け入れなければならないのです。

 

 

2021年5月23日「あなたのそばにいられるように」加山献牧師

「あなたのそばにいられるように」加山献牧師

ヨハネによる福音書16章7節~11節

ヨハネ福音書の14章から16章には、主イエスが十字架にかけられる前に弟子たちに語られた言葉が記録されています。主は「もう間もなく、私は去っていかなければならない」「もうしばらくすると、あなたたちは私を見なくなる」と何度も語られました。これらの言葉は、弟子たちにとっては、思いも寄らない語りかけでした。16章6節には、それらの言葉の故に弟子たちが悲しみに満たされていたとあります。

しかし、悲しむ弟子たちに対して主イエスは語られました。

「実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。」(7節前半)

主イエスを最も必要とする時に、主が去っていく。弟子たちだけがこの悩み多き世界に残されていくことが、どうして「益」となりえるのでしょうか。しかし、イエスは静かに言葉を続けられました。

「わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。」(7節後半)

この「弁護者」は聖書の別のところでは真理の霊、聖霊と呼ばれています。イエスが去ることが益となるのは、まるで選手交代するかのように、この聖霊が私たちに遣わされるからだ、というのです。

主イエスが人の姿をとられ、肉体をもっておられる時には、地球上のすべての人と共にいることはできませんでした。たとえば、主がエルサレムに滞在されている時には、同じ日の同じ時刻にガリラヤの人々と共にいることはおできにならなかったのです。主が人の姿を取られている間は、主も私たちと同じように(神と等しい方であるにもかかわらず)時間と空間という限界の中を過ごしてくださったのです。それは主の大いなるへりくだりの心の顕れでした。

しかし、聖霊なる神にそのような制約はありません。私たちがいつどこにいても、聖霊なる神は私たちと共にいてくださるのです。世界のどこにおいても聖霊はご自身の教会と共にいてくださいます。今、日本中で、また全世界で捧げられているすべての教会の礼拝に主は伴ってくださり、臨在を与えてくださるのです。「世の終わりまでいつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)という主の御約束は聖霊なる神の働きによって、まさに成就したのです。

この礼拝にオンラインで参加している皆様のところにも、またインターネットが利用できずとも祈りを持ってご参加くださっている皆様のところにも、等しくご臨在を与えてくださり、時間と空間を超えて、私たちをつないでくださるお方がおられます。この方こそが聖霊なる神です。

私たちは今日も、たとえコロナ禍の試練の中にあったとしても、聖霊なる神によって一つに結ばれ、一つの家族とされていることを主に感謝します。

 

 

2021年5月16日「夜の訪問者 ニコデモ」今村まさゑ協力牧師

「夜の訪問者 ニコデモ」今村まさゑ協力牧師

ヨハネによる福音書3章1節~15節

サンヘドリンという最高議会の議員であり、ユダヤ教のパリサイ派に属する高齢のニコデモが、ある夜、イエスを訪れました。多分に立場上、人目を避けて来たのではないでしょうか。イエスの言動を見聞きして「神が共におられる教師だ」という事を、感じておりました。

イエスは、ニコデモの質問に答えて、「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」とはっきり言われました。「新たに生まれる」とは、上から(神)の力によらなければ、神の国を見ることはできない。もっと言えば「誰でも、水と霊とによらなければ、神の国に入ることはできないのだよ。」と語られました。「水と霊とによって生まれなければ」とは、バプテスマ(洗礼)の事です。己が罪の悔い改めによって、罪の赦し、体の甦り、永遠の命の希望に生きるのです。

他の聖書の箇所にも、次のようにあります。「聖霊によらなければ、誰も、イエスは主であるとは言えない。」(1コリ12:3) 「御子を受け入れた人、その名を信じた人々には、神の子となる資格を与えた。」(ヨハネ1:12)とあります。

風と霊は、同じ語であり、「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこからきて来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そうである。」霊も同じように自由に吹きうごく、キリスト者は全き自由に生きることを得るのです。ニコデモは、理解することができませんでした。

イエスは三回「よくよく言っておく。信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」と。霊の働きによって人は変えられ心の中に確信が起こされるのです。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。」(エフェソ2:8)

ニコデモはこの後、2か所に登場します。

ユダヤ人指導者たちが、イエスを非難する場で「我々の律法では、罪の証がなければ裁かないではないか」と弁護しています。(ヨハネ福音書7:50~51)また、イエスの処刑後、アリマタヤのヨセフとともに、イエスの遺体を引き取って、手厚く埋葬しています。(ヨハネ福音書19:39~40)

キリストを信じる時、人は新しい生き方に変えられるのです。喜びがあふれ<わたしのためのキリストから、キリストのためのわたし>へと。