05. 7月 2019 · 2019年6月23日「ザアカイの救い」今村まさゑ協力牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「ザアカイの救い」今村まさゑ協力牧師

ルカによる福音書19章1節~10節

 

イエスさま最後のエルサレムへの旅もあと20㎞、オリエント世界最古の町エリコに入りました。2節の「そこにザアカイという人がいた。」とありますが、原文では「見よ。」と記されています。重要な人物、重要な出来事であることを意味しています。当時の徴税人はローマに納める税金を勝手に上乗せして取り立て、上乗せした分は自分のために横取りするという悪事を行っていたので、当然のことながら人々からは嫌われ、ユダヤ人(神の民)としては認めず、誰もが罪人と差別していました。金は貯め込み、頭にまでなってはいましたがザアカイは孤独でした。

3節に「イエスがどんな人か見ようとした」とあります。実はザアカイの「見ようとした」という動詞と、5節のイエスの「見上げて」という動詞は、ギリシャ語では同じゼーデオで、ザアカイの欲求とイエスの滅びる魂を救う意志が重なり合っているのです。「啐啄同時」という熟語があります、雛が誕生を待って内側から微かな音を発する、親鳥が外側から殻をつついて割る、それが同時であるように、ザアカイの欲求に対して「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、あなたの家に泊まらねばならない」と主は言われたのです。

クリスマスの時、羊飼いたちに告げられた「今日、あなたがたのために救い主がお生まれになった」と同じように。彼は急いで降りて来て喜んでイエスを迎えました。人が何と言おうと、イエス様が「ザアカイ、」と名前を呼んでくださった。誰一人、自分の家に来て泊ってくれる友は居なかった・・・ザアカイは嬉しくて「主よ!」と呼ばわりました。単なる人としてのイエスではなく、救い主イエスをお迎えしました。「主よ、貧しい人に財産の半分を、だまし取った人々には4倍にして返します」と、当時の律法を遥に超える返済を申し出ました。イエスは「今日、救いがこの家を訪れた。」「この家に完成した」と宣言されました。ザアカイ一人が救われるのではなく、この家・・家族も、使用人も皆が救われるのです。「この人もアブラハムの子なのだから。」とは、神の祝福を受け継ぐ事のできるユダヤ人であるのだから。

「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」(10節) イエスさまがこの世に来られた目的は、生きる希望を失い、喜びは失せ、迷い、滅びに向かっている者を捜して救うためであると述べておられます。「高い所に留まっていないで、急いで降りて来なさい。」

私たちも名前を呼んでおられるイエスの声を聞き「今日」ザアカイのように喜んでイエスを迎えようではありませんか。

「わたしをお遣わしになった父が(神が)引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。」(ヨハネ6:44)

 

27. 6月 2019 · 2019年6月16日「恐れの奴隷ではなく、神の子」加山献牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「恐れの奴隷ではなく、神の子」 加山献牧師

ローマの信徒への手紙8章14~16節

世界ではじめて父の日が祝われたのは、1910年6月19日でした。米国ワシントン州に住んでいた女性ソノラさんが、教会で「母の日」の説教を聞き「父の日」もあるべきだと考えたことがきっかけだったそうです。ソノラさんのご家族は、お母さんを早くに亡くし、お父さんが男手一つで、6人の子どもを育てあげました。このお父さんが天に召された後、ソノラさんはお父さんへの感謝の気持ちから、自分が通う教会の牧師に頼み、父親の誕生月であった6月に「父の日」を祝う礼拝をしてもらいました。この出来事が、6月の第3日曜日の「父の日」の始まりとなりました。父の日の今日、ローマ8章14~16節の言葉が開かれています。

 

1.「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。」(14節)

「導かれる」という言葉は、私たちの立ちどころが移されることを意味しています。ある場所から導き出されて、もうそこには戻らないということです。早良教会の先代の牧師であられた今村幸文先生が子どもメッセージの際によく歌ってくださった賛美があります。「福音の汽車にのってる、天国行きに。罪の駅から出て、もう戻らない。」罪の駅にはもう戻らない、古い自分、今までの自分にはもう戻らない。これが私たちの信仰の歩みです。私たちにも、神様が導こうとされている、約束の場所があることを覚えたいと思います。

 

2.「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。」(15節)

15節の「神の子とする霊」という言葉は、正確には「子たる身分を授ける霊」と訳せます。本当は受けるに値しないはずの者が、子としての地位、子としての特権を恵みとして受けることができた、ということです。それは主イエスが、持っておられたすべてのものを、私たちに与えてくださった、ということを表しています。本来、神から遠く離れていた罪人の私たちが、イエスさまの持っておられた子としての身分をいただいて、神を『アッバ、父よ』、お父さん、と親しく呼びかけることができるようになりました。

 

3.「この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。」(16節)

「神の霊」に対して「わたしたちの霊」という言葉があります。私たちの霊、私たちの魂は、私たちの心の深いところで、無意識のうちに自分が何者であるかということを探し求め、証明しようとすると言われています。また、私たちに与えられた環境、もしくは私たちの成し遂げることのできた何かが、私たちを外側から支えることもあり得ます。

しかし聖書は、私たちは神の子である、という最高のアイデンティティを私たちに提供します。もはや私は何者であるのか、どこに向かっていくのかということを悩むことはありません。「この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって、(私たちの内側から)証ししてくださいます。」

 

15. 6月 2019 · 2019年6月9日「永遠に一緒だよ」加山献牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「永遠に一緒だよ」 加山 献 牧師

ヨハネによる福音書14章15節~31節

ペンテコステとは、弟子たちに聖霊が与えられたことを祝う日曜を指し、聖霊降臨祭とも呼ばれます。教会では、父なる神、子なるイエス・キリスト、そして聖霊、この三位一体の神を信じています。では、聖霊なる神様とは一体どのようなお方なのか。ヨハネによる福音書14章16節にはこのようにあります。「・・・父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」イエス・キリストが父なる神に対して願われたことは、私たちと永遠に結びつくことでした。ヨハネは聖霊を表す言葉として、「パラクレートス」という言葉を好んで用いました。古代ギリシャの言葉で「弁護者、傍らに立つように呼ばれた者」という意味です。

1.【弁護者】

罪の故に、本来私たちは裁かれるべき者であったと聖書は語っています。しかし、同時に弁護者がおられます。私たちが引き出される裁きの座で「この者の罪は赦されました、十字架の血潮によって、赦されました」と宣言してくださる弁護者が共にいてくださるのです。今日も、聖霊なる神様は私たちに赦しを宣言しておられます。「あなたは赦されている、あなたは愛されている」と。

2.【助け主】

また、当時の軍事用語で「援軍」という意味でも使われていました。ある軍隊が敵の前で意気消沈し、落胆している時に、彼らの胸に新しい勇気を与えるために送られる「助け主」を意味していました。イエスさまは弟子たち言われました。「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。」聖霊は、あなたの救いを確証させる、助け主です。

3.【教師、導き手】

「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」

キリストが天に昇られた後、聖霊なる神さまがすべてを解き明かしてくださいました。教会を教え、宣教を導かれたのは聖霊なる神様の働きでした。私たちがどんなに遠くに離れていても、イエスさまが語った言葉に引き戻してくださるのです。道に迷い、どんなに神様から離れていっても、何度でもイエスさまのところに連れ戻してくださる、聖霊なる神は私たちの人生のガイド、導き手です。

4.【慰め主、平和を与える方】

「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。(27節)」

イエスさまの約束は、私たちの内側にある不安の只中にあっても、平安であり続ける、永遠の平和です。永遠に私たち共におられる聖霊の働きは、どんな嵐の中にあっても、私たちにこの永遠の平安を思い起こさせる、力ある働きです。イエス・キリストの与える平和は嵐の中での平和です。人生のどんな嵐も、この平和を奪い去ることはできません。

 

 

 

 

15. 6月 2019 · 2019年6月2日「すべてにまさる義」加山献牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「すべてにまさる義」 加山 献 牧師

マタイによる福音書5章17節~20節

 

この聖書箇所で主イエスは2つのことを語っておられます。第一に「主は何のために来られたのか」ということ、第二に「どのような人が神に受け入れられるのか」、ということです。

1.主は何のために来られたのか

「わたしが来たのは律法や預言者を・・・完成するためである(17節)。」 主イエスは「律法」と「預言者」を完成し、成就する者として、ご自身を示されました。

「律法」とは聖書の最初の5つの書物、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記を指します。その中心となるのはモーセの十戒に代表される「戒め」です。また、「預言者」とはイザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書、ダニエル書などの旧約聖書の書物を表します。その内容は人類に対する神の「約束」です。「律法」と「預言者」という言葉が同時に語られる時、それは常に旧約聖書全体を意味していました。つまり、旧約聖書に示されたすべての「戒め」と「約束」を完成し、成就するために主はこの地に来られたのです。主はそのことをはっきりと宣言されました。

2.どのような人が神に受け入れられるのか

当時の律法学者はひとつひとつの教えに「小さな戒め」と「大きな戒め」という序列をつけていました。ある教えを尊び、ある教えは無視するような者たちも現れました。確かに「モーセの十戒」のように重要な戒めが存在します。主ご自身も「敬神愛人」を他の教えよりも重要視されました。しかし「最も小さな掟」(19節)を無視して良いのではありません。そのようなところから、私たちの信仰に破れが生じます。主は、「小さなことにも忠実であってほしい」と語っておられるのです。

信仰者の心には、「どのようにすれば神の基準を満たし、合格できるのか、どのようにすれば私たちが救われるのか」という問いが生じます。律法学者とファリサイ派の人々は聖書に書かれていること以上に、細かい規則を守り、行いに励むならば、神に認めてもらえると考えました。彼らは律法に忠実に歩もうと厳格な清さを求める生活をするうちに高慢になり、人々を裁くようになりました。これが「律法学者とファリサイ派の義」です。(20節)

主イエスの言われる「律法学者やファリサイ派の人々の義にまさる義」(20節)とは私たちの働きの報酬ではなく、神からの賜物です。私たちが救われるのは行いによるのではなく、イエス・キリストを救い主として信じる信仰によります。それはどのような行いにもまさっています。行いは、救いに至る手段ではなく、神様の恵みに対する応答なのです。私たちは、神の恵みに応答する者として、小さなことにも忠実でありましょう。

 

 

 

 

01. 6月 2019 · 2019年5月26日「神と共に歩む」加山献牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「神と共に歩む」加山献牧師

ミカ書6章6節~8節

 

ミカは今から約2800年前に南王国ユダで活躍し、人々の罪を指摘し、警告を発した預言者でした。この当時の人々の心は神から遠く離れ、ただ形だけの礼拝をおこなっていたのです。

預言者ミカは「どのようにして私たちは神に近づくべきか」と問いかけます。続く聖書箇所において、主が私たちに求めておられることは「儀式そのもの」ではなく、「捧げもの質や量でもない」、ということが明らかにされています。そして8節に、私たちに対する神からの3つのリクエストが語られています。第1の要求は「正義を行うこと」、第2に「慈しみを愛すること」、そして第3は「へりくだって神と共に歩むこと」です。

1.「正義を行うこと」 旧約聖書の表現で、世の中が乱れているのは「それぞれが自分の目に正しいとすることを行っていた」からだ、という言葉があります。(士師記17章6節等)神の要求される「正義」に応えるためには、「自分自身の正しさ」ではなく「神の目から見て何が正しいことなのか」と、いつも自分を吟味し、聖書の言葉と自分を照らし合わせ、神との親密な祈りの時を過ごすことが必要になってきます。

2.「慈しみを愛すること」 慈しみには「へセド」という言葉が使われています。これは神の憐れみ、神の変わらない愛、神の有する慈しみを表す言葉です。神が愛されるように、人を愛し、慈しみを持って生きていきなさい、という非常に難しい要求なのです。

神の慈しみに生きるためには、まず私たち自身が主の愛に満たされる必要があります。私たちの心は、どれほど愛されていたとしても、さらに愛されることを求め、常に飢え渇いているのではないでしょうか。すべての人は無条件の愛、無限の愛がなければ本当の満たしを得られないのです。そのような私たちの為に、神は目に見える方法でその愛を表してくださいました。それは十字架です。主の慈しみに生き、それを隣人に分かち合うために、私たちはまず、十字架のもとにひざまずき、主の愛による満たしを経験しましょう。

3.「へりくだって神と共に歩むこと」 ヘブル書10章10節(新改訳)に「イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。」とあります。キリストが私たちの罪のための完全な供え物として、ただ一度、十字架の上で流された血によって、私たちは聖なるものとされました。私たちは自分の力、自分の行いで神に至る道を開くことはできません。私たちの捧げものでその道を開くこともできません。神の方から、その道を開いてくださり、共に歩もう、と招いておられます。へりくだって、イエス・キリストという道を受け入れ、神と共に歩むことが、私たちに許されているのです。

 

25. 5月 2019 · 2019年5月19日「今はわからないけれど」加山献牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「今はわからないけれど」 加山献 牧師

創世記37章3~5節、18~36節

 

ヨセフの生涯を通して、主は深い摂理をもって人の一生に介入し、御旨を成し遂げてくださる方であることを知ることができます。

父ヤコブは平等に兄弟たちを愛することができず、不平等な、偏った愛を実践してしまいました。わたしたちはここに人間的愛の限界を見ます。

父の偏愛の結果として、憎しみに心を支配されて、心の平安を保てなかったのは、兄たちの問題でした。兄たちの姿を通して、感情をコントロールするのではなく、感情に支配されてしまう人間の弱さがあることを知らされます。

「家族」は人間が生きていく上で、最も強い支えとなり得ます。しかしながら、この現代社会においても、「家族」という絆が破れ、「家族」という存在に傷つき、苦しんでいる人々が多くいることも事実です。ヨセフの生涯は「家族の絆」の回復の物語です。もし回復を願っている関係があるのならば、ヨセフの生涯に大いに学ぶことがあります。

若き日のヨセフは、あまりにも正直で、素直すぎる一面がありました。ヨセフは、“兄たちが自分にひれ伏す”という意味深な夢を見ましたが、彼はこの夢をまったく包み隠さず、兄たちに語り聞かせてしまうのです。5節には「ヨセフは夢を見て、それを兄たちに語ったので、彼らはますます憎むようになった」とあります。しかしこれは、神がヨセフに見させてくださった特別な夢だったのです。

やがてヨセフは奴隷としてエジプトに売られますが、後に、奴隷の身分からエジプトの総理大臣に抜擢されるまでに用いられることになります。このヨセフが、やがて父と兄弟たちを大飢饉から救い出すのです。その間、ヨセフの生涯を支え続けたのは、神に対する信仰であり、神が見せてくださった夢でした。

私たちにも、今はわからない、今はとても理解できない、という現実があるかもしれません。けれども神がわたしたちに見せてくださった夢(ビジョン)があるならば、それを何度でも想い返したいと思います。たとえ現実が厳しくても、すべては神の描いているシナリオのプロセスの中にあることを信じましょう。安心して、今日という日に与えられた課題に立ち向かいましょう。神が私たちの間に植えてくださった種子は必ず実を結びます。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(へブル11:1 新改訳) 私たちは主が与えてくださった夢(ビジョン)を望み、信じ続けるものでありたいと思います。

 

18. 5月 2019 · 2019年5月12日「モーセの母・ヨケベデの信仰」今村まさゑ協力牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「モーセの母・ヨケベデの信仰」 今村まさゑ協力牧師

出エジプト記2章1~10節

 

今朝は母の日礼拝です。全ての人に母を与えて下さった神に感謝を捧げましょう。「あなたの父が楽しみを得、あなたを産んだ母が喜び躍るようにせよ。」(箴言23:25)

さて、人類史上、最も偉大な人物と言われるモーセを養い育てた母・ヨケベテに学びたいと思います。今日の聖書箇所には、「レビ人の男と娘」と記されていますが、民数記26章59節に「アムラムの妻はヨケベト、息子アロンとモーセ、娘ミリアム」と記されています。BC1300年、先祖のヤコブは、息子ヨセフの功績によりエジプトのゴシェンの地に移住を許され、一族70人は400年を経て200万人に増えていました。過去の業績を知らない新しい王は、増え続けるヘブライ人を恐れ「生まれた男の子は一人に残らずナイル川に放り込め」と全国民に命じたのです。そのとき生まれたのがモーセでした。

三か月は隠し通したもののもはや限界。家族は何とか赤ん坊を助けたいと知恵をしぼり遂に箱舟のような籠に防水加工を施し、祈りを込めてナイル河畔の葦の茂みに置いたのです。籠の中に寝かされた赤ん坊が心配で姉のミリアムは遠くから見ていました。そこへ水浴びに来た王女は籠に気付き侍女たちに取り上げさせたのです。「開けてみると赤ん坊がおり、男の子で、泣いていた」とあります。泣くということで思い出すのは創世記21章9~21節のアブラハムの仕え女、ハガルとイシュマエルの荒野での場面でしょう。「神は、幼子と母親の泣き声を聞いて」助けられました。イエスさまも山上の説教で「あなたがた、今、泣いている人々は幸いである。笑うようになるからである。」と言われました。私たちも辛い時には思い切り泣きましょう。主が聴いていてくださいます。

王女はヘブライ人の子であることを承知で、不憫に思い何とか助けようと思ったのです。7~8節「その時、その子の姉が王女に申し出『この子に乳を飲ませる乳母を呼んで参りましょうか。』『そうしておくれ』と王女が頼んだので、娘は早速その子の母を連れて来た。」

何という神のストーリーでしょう。ヨケベテはわが子を王女の息子として安全と手当てを受けて愛しいわが子を養育することになったのです。一家は心をこめて祈りの日々を過したことでしょう。やがて王女の子としてエジプト人のあらゆる学問、教育を受け、遂には過酷な奴隷状態にあった同族200万人の出エジプトのリーダーとして、神がモーセを選び導かれるのです。三つ子の魂百までの通り両親から揺るがぬ信仰を与えられていたモーセは、その大偉業を果たすことができたのです。(ヨケベテとは「神に栄光あれ」の意味)

 

10. 5月 2019 · 2019年5月5日「それでもあなたはわたしの光」加山献牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「それでもあなたはわたしの光」加山献牧師

マタイによる福音書5章13節~16節

 

主イエスは弟子達に、また集まっていた人々に「あなたがたは地の塩である」と宣言されました。古代社会では、塩は大変高価で、貴重なものでした。まずここに主イエスの想いがつまっています。私たちひとりひとりは主イエスの目に、かけがえのない、高価で尊い存在である、ということです。「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ書43章4節、新改訳)この言葉はそっくりそのままイエス・キリストのメッセージなのです。

そして、塩の最も大切な、最も特色ある性質は、味をつけることです。主イエスは弟子達に「この世界に、味をつけるものでありなさい」と勧めておられます。塩のかたまりを、それだけで食べる人はいません。塩は料理の中に溶けていき、自らの姿を隠した時に、初めて相手に味をつけることができます。同じように、私たちは時には己の姿を隠し、人の見ていないところで、-たとえ誰も評価してくれなかったとしても-、誠実に生きるものでありたいと思わされます。「あなた」という人がいてくれる、ただそれだけで生きていける「誰か」がいるはずです。また、その「誰か」がいてくれるから、生きていける「わたし」がいます。地の塩として生きるとは、私たちが互いに溶け合って生きることなのかもしれません。そのようにして、私たちは「生きる喜び」を互いに味わうことができます。

主イエスは続けて弟子たちに語られました。「あなたがたは世の光である。」これは私たちが主と同じ性質を持ったものに、変えられていることを示しています。「世の光」となるために、もっとしっかりしなければ、もっと良い「わたし」にならなければ、と煩うことはありません。私たちはもうすでに「世の光」なのです。私たちの行いによってではなく、恵みによって、光とかえられたのです。

私たちと主イエスの関係も、ちょうど月と太陽のようなものです。自分だけでは輝くことはできない。ただ主の光を浴びて、その光を反射するだけです。イエスさまのように強い光を放つことはできない、けれどもそのかすかな光で、暗い夜を照らすのです。ですので、私たちがなすべきことは、主イエスの光を目一杯、浴びることです。この方に心を向け、この方の十字架に目を注ぎ、この方の十字架の道を従い、そして、恵みによって、この方と共に生きていくことです。月の光は、太陽の光が存在することの揺るがない証であるように、私たちひとりひとりも、救い主が確かにおられる、ということの証となり得るはずです。

たとえ、私たちの内側に罪が潜み、深い暗闇があったとしても、この私たちの闇を照らすために光として、イエス・キリストが来てくださいました。むしろ私たちの欠けや破れから、この方の光が溢れ流れるのです。私たちは今日、もうすでに、恵みによって、地の塩であり、世の光です。

 

04. 5月 2019 · 2019年4月28日「エマオでのふたりの開眼」今村まさゑ協力牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「エマオでの二人の開眼」 今村まさゑ協力牧師

ルカによる福音書24章13~35節

 

日曜日の早朝、イエスは復活されて墓には遺体がなく、代わりに墓に天使たちが現れ「イエスは生きておられる」と告げたと婦人たちから聞きながら、二人の弟子は11㎞ほどのエマオへと歩を進めていました。イエスこそイスラエルを解放して下さる方だと望みをかけていたのに捕らえられ処刑されてしまった、自分たちにも追手が迫るかもしれない。

一刻も早くエルサレムから離れ郷里に帰ろうと急ぎながらも、数日の出来事を論じ合っていました。そこへ復活されたイエスご自身が二人に近づき話し合いに加わりました。

三日前に十字架刑が行われましたが、今回は特別で、朝の9時に釘打たれ12時になると昼なのに全地は暗くなり、それが3時まで読いた。そして遂に息を引き取られると地震が起こり、神殿の垂れ幕が真二つに裂けた。エルサレム中が騒然となっているのに、全くそのことを知らないなんて呆れた旅人だと説明し始めました。知識的には分かっていても肝心なことが信じられない二人に「ああ、物分かりが悪く、心が鈍い」と言われます。心の反応が遅い、神のみ心に追いつくのに遅すぎるという意味です。そこでイエスは、聖書全体から説き明かしご自分について説明されました。受難予告(ルカ18:32~)通リの苦しみを受けて神の栄光に入るはずではなかったのかと。

2~3時間の道のりはあっという間に過ぎ、夕やみが訪れ二人の旅も終わりです。しかし、もっと話を聞きたい二人は、無理に引き止め夕食に招きます。そこから主客が逆転し「イエスはパンを取り、讃美の祈りを唱えられた」。祈りの言葉は記されていませんが、もしかすると「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。すべての祝福の源である父なる神。あなたの与え給うたこのパンを祝して下さい。アーメン」というような言葉であったかも知れません。「祈りを唱えられパンを裂いて渡して下さった時、二人の目が開け、イエスだと分かった」と記されています。そして分かったと同時に、その姿は見えなくなったのです。見えなくなったのに、心は燃え出していたのです。一時的ではない。燃やされ続ける炎が二人の魂に灯されたのです。鈍感だった二人が、33節では「時を移さず出発して、エルサレムに戻った」のです。戻ってみると散り散りに逃げていた11人の弟子たちが集まっていて「本当に主は復活して現れた」と言っていたのです。二人も、「道で起こったことや、パンを裂いて下さった時にイエスだと分かった次第を話した。」私たちも互いに証しをし合いたいものです。そして、祈りましょう。

「主なる神よ。よみがえり、今、生きておられるイエス・キリストに、われらを結びつけてください。」 ブルームハルト牧師(ドイツ)「夕べの祈り」より

 

 

27. 4月 2019 · 2019年4月21日「すべての人が生かされる」加山献牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「すべての人が生かされる」 加山 献 牧師

第一コリントの信徒への手紙15章12~22節

 

第一コリント書の15章において、パウロは「福音とは何か」という大切なテーマについて語っています。15章3節には、福音の「最も大切なこと」として、次の3つの要素が挙げられています。第一に「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと」、第二に「葬られたこと」、第三に「聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと」です。この3つのことがキリスト教信仰の根幹です。

ところがコリント教会の中には、復活を信じることができない人々がいました。教会に反対する人々ではありません。キリストを信じ、礼拝に集っている共同体の一部に、そのような人々がいたのです。彼らは、キリストの復活だけではなく、死後、「自分がもう一度生きるものとされる」ということも信じられませんでした。

パウロはキリストの復活を神話や伝説ではなく、歴史上の事実として語っています。「キリストは本当に死人のうちからよみがえられた」これがパウロにとっての事実でした。キリストの復活こそが、パウロの、また教会の宣教の出発点でした。彼にとって、十字架だけを語り、復活を語らないならば、それは福音とはならないのです。

19節でパウロは続けます。「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。」 「復活の希望」は人類が抱きうるあらゆる希望の中で、最も強い光を放っています。神がキリストを通して人間に与えた最も大きく、最も美しい贈り物はこの「復活の希望」だといっても良いでしょう。

21節と22節には、アダムとキリストの対比があります。「死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。」

アダムは神から離れ行く人間を代表し、キリストは神に完全に従順する人間を表しています。エデンの園で、人は神に背を向けて離れていきました。聖書はこの神から離された状態を究極的な「死」の状態だと呼んでいます。神は罪を犯した人に向かって「アダム、お前はどこにいるのか」「どこにいるのか」と問いかけられたのです。アダムの精神的立ち位置を問われていたのです。なぜ、あなたは私から離れていくのか、と問いかけられたのです。

しかし、ゲッセマネの園で、神は人との交わりを取り戻す道を開かれました。神の子の命と引き換えに、ご自身の命と引き換えに、すべての人を取り戻されたのです。キリストは十字架の死の後、復活されました。主のいのちに私たちひとりひとりも結び付けられています。今日、そのことをはっきりと確信したいと思います。