カテゴリー別アーカイブ: 礼拝メッセージ

2020年9月20日 「あなたのためにも誰かが祈っている」 加山 献 牧師

出エジプト記17章8節~16節

 

人は誰でも、誰かに支えられ生きています。モーセに率いられ、エジプトから脱出し、奴隷の状態から解放されたイスラエルの民は、約束の地カナンを目指し、旅を続けていました。その旅の途中、彼らは思いがけない敵に戦いを挑まれたのです。

エジプトから持ってきた選別の宝を略奪しようと試みるアマレク人と戦うために隊長として任命されたのは若きヨシュアでした。彼が戦っている間中、モーセはずっと陰で祈っていました。モーセの両隣には、彼の祈りを支えるアロンとフルがいました。

私たちの人生にも思いがけない戦いがありますが、戦いの時にはいつも隣人の祈りと支えがあるのです。ヨシュアは祈られていました。私たちも祈られ、助けられることを恥じる必要はありません。人として生きていく以上、誰もが助けられる必要があるのです。

今日もあなたのために祈る隣人がいます。それが教会という共同体です。ヨシュアのように、激しい戦いの最中にあっては、目の前のことに必死で、祈られていることがわからないものです。むしろ祈られていたことに気付くのは、死線をくぐりぬけ、ほっと一息ついた後だったりします。

たとえ祈られていることを感じることができなくても、あなたは多くの兄弟姉妹よって、確かに祈られ、愛されているのです。ぜひ、そのことを信じていただきたいと思います。

そのような多くの祈りの中で、ひときわあなたのために心を込め、愛を込めて祈っている方がおられます。

 

「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ福音書22章32節)

 

これは、これから自分を裏切ってしまうペテロのために、主イエスが語った言葉です。ペテロが大きな試みに遇うその前に主イエスは前もって祈っていてくださったし、十字架への道を歩まれる中においても、常に弟子たちを愛し、祈り続けてくださったのです。

同じように、主は私たち一人一人のためにも祈ってくださっています。

 

「復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」(ローマ8章34節後半)

 

「この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。」(ヘブライ7章25節

 

主イエスは天に昇られ、神の右の座に着かれ、私たちのために祈ってくださっている、というのです。私たち一人一人の信仰のために、今、この時も祈ってくださっている主の声が聞こえますか?私たちのために祈ってくださるその声に耳を澄ませながら、戦いの時も勇敢に生きてゆきたいと思います。

 

 

 

 

2020年9月13日「裁判官でなく、弁護士であれ」加山献牧師

 

マタイによる福音書7章1節~6節

「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」(1節~5節)

 

「人を裁いてはならない」とイエス・キリストは言われました。自分自身の悪いところは棚上げにして、他の人の些細な欠点ばかりに目を留めてしまう、、、私たちは皆、そのような傾向を持っています。

自分の目の中の大きな太い丸太に気付き、まず自分の目からその丸太を取り除きなさいと、主イエスは勧めておられます。そうすれば、はっきり見えるようになって、他の人をお助けできるようになる。まったく、その通りです。

英語の聖書では「汝、裁くなかれ」を”Do not Judge”と訳されています。”Judge(ジャッジ)”という英単語は、スポーツの「審判」という意味で使われるように、ひとつのルールに乗っとってゲームを導くことを意味します。スポーツにおいてルールがあることは大切であり、審判の働きは重要です。

しかし、ここで主イエスが取り扱われたのは、私たちは皆「自分なりのルール」を持っており、自分の価値観、自分の道徳観、自分の人生観で他の人を測る、という問題です。私たちは皆、この「自分ルール」に従って、この人は良い(セーフ)、この人はだめ(アウト)と決めつけてしまう性質をもっています。

創世記に描かれているアダムとエバの罪は、「善悪の知識の木」から実を取って食べてしまったことでした。つまり、「何が良くて何が悪いかはわたしが決めます」ということが罪のはじまりでした。神様を差し置いて、この私が「私の基準」に従って善悪を決めることがはじまりました。そうするとアダムはエバを、エバは蛇を責めはじめたのです。

”Judge(ジャッジ)”という英単語が示すもう一つの役職は「裁判官」。この社会において、裁判官も大切な存在です。この世の法律に従って、何が正しいかを判断し、守るべきものを守り、罰すべきものを罰する、それが裁判官の務めです。

お伝えしたいことは、そのような制度としての裁判官が必要ない、という意味ではありません。では聖書が語る「人を裁いてはならない」とはどういう意味なのでしょうか。究極的に人を裁くということは神の領域である、ということです。キリストが私たちに求めておられるのは、裁くものとしての生き方ではなく、弁護者としての生き方なのです。

 

「神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」(6節)

 

犬や豚は当時のユダヤ社会では大変忌み嫌われた動物でした。今でも厳格なユダヤ教やイスラム教の方は豚肉を避けられます。ですが、キリスト教はそのように考えません。なぜでしょうか?イエス・キリストの教えと存在が律法(それまでの宗教的伝統)に対する理解を変えたからなのです。

 

「それから、イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」(マタイ福音書15:10~11)

 

「更に、次のように言われた。『人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。』」(マルコ福音書7:20~21)

 

上記の二カ所は“汚れたものとは、実は私たちの内側にあるのだ”という主イエスの教えです。私たちの内側に潜む獣に、私たちの大切なものをわたしてはいけない。私たちの怒りや妬み、その他のあらゆる負の感情に人生を明け渡してしまうなら、それらは踏みにじられ台無しになってしまいます。

「汝、裁くなかれ」という教えは、他の人のため、健康的な人間関係を育むため、ということもありますが、何よりもまず、それは私たち自身のためなのです。やがてこの人生を終えて、神さまの前に立つ時に、神様は「あなたの学歴、職歴、その他の功績を聞かせてください」とは尋ねられません。あなたがどのようにキリストに応答し、神を愛したか。そして、あなたがどのように隣人を愛し、人とどのように接してきたかを神は尋ねられるでしょう。「裁いてはならない」とは、具体的に人を愛する生き方につながっているのです。                                                  (9月13日)

 

 

2020年9月6日「神にある喜び」宝田豊牧師

「神にある喜び」宝田豊牧師(ノーステキサス日本語バプテスト教会)

フィリピの信徒への手紙4章4節~7節

フィリピの手紙はパウロが獄中にあって書いた手紙です。彼自身が苦しい状況にありながらも、フィリピの教会に対して、彼は力強く語っています。その力強いメッセージの中心は「喜ぶ」ということです。4章の中だけでも、「喜ぶ」という言葉が17回も使われています。パウロにとって「喜ぶ」ということがいかに大切なことであったかがわかります。

「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」(4節)

ただ単に喜びなさいというのではなく、“主において”喜びなさい、とパウロは語っています。英語の聖書では“In Christ”という言葉がここで使われています。これは「キリストの内にあって」、「キリストに支えられて」、あるいは「キリストが共にあるからこそ」喜びなさい、という命令なのです。

私たちが何故喜べるのか。私たちが今どんな人生を歩んでいるとしても、それはキリストの内にあって支えら、守られている人生だからです。だからこそ、主にあっていつも喜べる人生なのです。

しかし、すべてが順風満帆にいくわけではありません。私たちが人間として生きていく以上、さまざまな悩みや問題があります。喜びがあるから悩んではいけないということはありません。確かに悩みがある、という事が現実なのです。

「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(6節)

神は、私たちに心を注ぎだすことを求めておられます。「神に申し上げるがよい。」(口語訳)これは“神に知っていただく”という意味の言葉が使われています。一人で悩むのではなく、神に知っていただきなさい。あなたの心の真実を、あなたのその痛みを、すべて神に知っていただきなさい、というのです。その時に、神はあなたの想いに必ず応えてくださいます。このように書かれています。

「そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(7節)

コロナ禍の中にあって、これから訪れるであろう嵐に対して、私たちはどのような想いを向けているでしょうか。キリストの内にある私たちは、どのような状況にあっても喜べることをぜひ知っていただきたいと思います。

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2020年8月30日「父なる神に喜ばれる子たち」朱承圭協力宣教師

「父なる神に喜ばれる子たち」朱承圭協力宣教師

マタイによる福音書3章13節~17節

今日の聖書箇所では、私たちにとっては少し奇妙と思えるようなことが起こりました。イエス様はバプテスマのヨハネからバプテスマを受けようとされ、バプテスマのヨハネはそれを断った、というのです。バプテスマのヨハネはイエス様が神様の御子であることを知っていたからです。

イエス様が受けられたバプテスマと、人々が受けたバプテスマは異なります。民のバプテスマは自分たちの罪のために受けたバプテスマです。しかし、イエス様のバプテスマはご自身の罪のためのバプテスマではありません。それは全人類の罪のために受けたバプテスマだったのです。

イエス様が従順に従われた時、どんなことが起きたでしょうか?イエス様が従順された時“大きな奇跡”が起きたのです。天が開かれ、聖霊が鳩のように下り、神様の御声が聞こえてきました。

 

“これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。”

 

私は皆さんが従順することによって、天が開くことを経験する奇跡の主人公となることを願います。皆さんが従順する時、家庭の中で天が開かれることを願います。教会、民族、全世界で天が開かれることを願います。神様の国のために色んな事(礼拝を守るなど)を従順したみなさんを祝福します。しかし、イエス様の従順は簡単なものではありませんでした。どんな困難があったでしょうか?

イエス様の従順には“十字架”の困難がありました。イエス様のバプテスマは全人類の罪のために十字架を担うという“決断”です。十字架は人類史上、最も残酷なローマの刑法でした。十字架にかかる人は鞭で39回打たれ、そして激痛によって気絶したり目覚めたりを繰り返しながら、死んでいくことが十字架の死だったのです。このようにイエス様の従順には“十字架”という大きな障害があったのです。

皆様が神様の命令に従順する時必ず障害があると思います。皆様が神様の命令に従おうとする時、どのような困難が予想されるでしょうか。しかし、イエス様には十字架の恐れと恐怖よりも、もっと重要なことがありました。それは“神様の義、神様の計画”を実践することでした。皆様!神様の御心が成されることを願われるでしょうか?皆様の人生を通して神様の計画が成就されることを心より願います。

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2020年8月23日「いったい神はどこにおられるのか」 加山献牧師

【忘れられない場所】

出エジプト記に出てくる地名は、イスラエルの人々にとって特別な場所でした。そこには忘れられない経験、大切な教訓、あるいは記念すべき出来事がありました。レフィディムは、イスラエルの民にとってそのような場所だったのです。

「あの日、あの時、あのような体験をしたから、今の自分がある。」、「大変な苦労、困難だったけれども、振り返ってみると、あの体験こそが今の自分を祝福している。」 そのような人生のターニングポイントを、きっと誰もが持っていると思います。

 

【いったい神はどこにおられるのか?】

出エジプト記17章7節において、普遍的な人類への問いが投げかけられています。イスラエルの民は“「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言って、モーセと争い、主を試した”というのです。

イスラエルの民にとって、レフィディムは神の奇跡を体験する場所となりましたが、苦しみのさなかにあっては、とてもそうは思えませんでした。しかし、試練の時、神がどこにおられるかわからないという時こそが、神を体験する機会となり得るのです。

 

【しかし、神はおられる】

神はおられます。わたしたちがどう感じていようとも、神は現実のお方なのです。神が存在していることは、わたしたちの感情で測り知れないほど深遠な事実です。そして「あなたと共にいる」と約束してくださったお方は、その約束を決してお忘れになることはありません。

 

【神はおられる、十字架におられる】

渇いた民のために、打たれた岩から水が流れ出たように、主イエスも打たれて、その裂かれた脇から、世の罪と私たちの心の渇きを癒すために、血と水が流れ出ました。私たちはその打傷によって癒されたのです。

イエスの十字架はわたしたちの救いのためでしたが、それと同時に、十字架は神がわたしたちとご一緒にいてくださる証なのです。栄えを捨て、人となり、十字架の死に至るまで忠実であられた神は、わたしたちの苦しみの最も深いところにさえ共にいてくださるのです。                                             (8月23日)

 

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2020年8月16日「平和のために」今村まさゑ協力牧師

「平和のために」今村まさゑ協力牧師

マタイによる福音書10章34節~39節

今朝は平和を覚える礼拝です。「八月や 六日、九日、十五日」という句があります。(作者不詳)8月をよく表し、6日は広島の原爆記念日、9日は長崎の原爆記念日、そして、15日の終戦記念日を偲んでいる句です。私達も真に平和を願い二度と戦争はしないと決意して生きたいと思います。

私は6歳の時が終戦の年でした。幼い経験でしたが戦争がもたらしたものは、悲惨、永遠の別れ、取り返せぬ苦しみ・・であって、何一つよいものはありませんでした。戦争程、愚かな行為はありません。絶対に二度と、繰り返してはならないと確信しています。

さて、今朝のマタイ10章は、イエスさまが12人を弟子として選び、彼らを派遣するにあたり、いろいろと励まし、忠告し、覚悟を求め、指図を与え教えておられる箇所であります。

本日は34節からですが、イエスさまは「平和の君」と呼ばれ、そのご生涯を通して誰しもが愛と平和のお方と信じております。ご自身、山上の説教で「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」と語られ、平和を作り出し、実現することを奨めておられます。そのお方がなぜ、「平和ではなく剣を投げ込むために来たのだ。」と言われるのでしょう。

思ってはならないとは・・慣習に従って考えるな・・の意です。当時の人々の平和とは、ローマ帝国の圧政を打ち倒し、神の支配を実現して平安をもたらす政治的なメシアを待望しておりました。家族は家長が第一で、男性優位、年功序列、女こどもは数に入らない。(例:パンの給食のときも、男5,000人・・)(出エジプトの時も、イスラエルの民は壮年男子60万人・・と。)

しかし、主イエスさまがもたらされた平和は、神と人との間の平和です。(ローマ5:1) 「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。」(ヨハネ14:27)「実に、キリストはわたしたちの平和であります」(エフェソ2:14)の通りです。

35「わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に。嫁をしゅうとめに。」人、娘、嫁・・・ いずれも、当時は弱き立場で、異を唱えることはできなかったのです。そのような、服従のなかの平和ではなく、キリストが仲立ちとなられる神との平和の実現のため、家族の者が敵となる、そのために一石を投じられたのです。(他の箇所では「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ」(マタ5:44)と言っておられます)

37節からは「わたしにふさわしくない。」が三回、繰り返されています。釣り合わないということです。

39「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」 この言葉は、キリスト教信仰の奥義を明らかにしています。

榎本保朗師は「もしあなたが、神であるわたしを第一とするなら、あなたの父も、あなたの母も息子も娘も、わたしが守ることを信じなさい。」ということであると記しておられます。イエスさまを第一に愛し従うことが重要です。私達の主イエス・キリストは私達の弱さも、すべてご存知で助け導いてくださるのです。

礼拝メッセージ音声↓(こちらのほうが音がクリアーです)

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2020年8月9日「神の国と神の義を」加山献牧師

【神の国と神の義を求めよ】

「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」(マタイ6:33、新共同訳)

神の国と神の義を求めるとは、神を信じて、この神の働きを自分の人生に歓迎すること生き方を表しています。神が私に願っておられることを探し求め、神の心を私の心として求めていく生き方です。主イエスは、私たちにとって一番大切な事を、一番初めに求めていきなさい、と教えられたのです。

神の国とは、神が治める所、つまり神さまがご支配される領域を指しています。私たちが神の国を求めていくときに、心が神様に支配され、人生が神様に支配されます。一人一人がその生き方に召されていくときに、個人的なことだけでなく、家庭、職場、この町、この国、そしてこの世界に神さまの御心が形造られていくのです。

神の義とは、神が私たちに対して願っておられる正しい行いです。しかし、それだけではありません。聖書で使われている「義」とは“「関係概念」の言葉だ”と言われています。つまり、「神と正しい関係にある事」を表しているのです。しかもその正しい関係は、自分の努力によって得られるものではなく、イエス・キリストへの信仰によって与えられるものだ、というのです。つきつめて考えると、「義」とは主イエスを自分の救い主として受け入れた時に与えられる関係のことなのです。

【これらのもの】

「そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:33、新共同訳)

“これらのもの“とは、私たちの人生における、あらゆる必要を指し示しています。必要はたくさんあるかもしれません。衣食住、心の安心、様々な問題の解決、人生の目的、経済的な必要・・・、私たちは祈りの内にこれらのことを求めても良いのです。

32節でも“これらのもの”について語られています。

「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。」(マタイ6:32、新共同訳)

人は誰でも思い煩いを持っています。悩み、苦しみ、悲しみ、辛かった事、悔しかった事。でも神はご存知である、よくわかっていてくださる、というのです。だからこそ信仰の基本にかえる事が大切です。「まず神を第一に求める事」。第一に、イエス・キリストを通して与えられる神との交わりを求め、他の誰でもなく、神からしか受け取れないものをいただくのです。

「明日のことを心配するのはやめなさい。神は明日のことも心にかけてくださるのですから、1日1日を力いっぱい生き抜きなさい。」(マタイ6:34、リビングライフ)        (8月9日)

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2020年8月2日「悩まなくてもいいんだよ」加山献牧師

「悩まなくてもいいんだよ」加山献牧師

マタイによる福音書6章25節~31節

新型コロナウイルスの感染拡大が止まらず、日を追うごとに感染者数が増えています。日毎のニュースに一喜一憂する私たちの心は、このウイルスに完全に振り回されていると言ってよいでしょう。

主イエスは「心配することはない」「思い悩むな」と言われました。このメッセージを聞いていたガリラヤの人々も、重い税金に苦しみ、大変貧しい生活を強いられ、ローマの圧政に耐えていました。明日、何を食べればいいのか。明日、何を着ればよいのか。明日の命のことさえも不確定な状況でした。

そのような貧しいガリラヤの人々に主イエスはいつも希望のメッセージを語られました。だから主の周りにはいつも希望に飢え渇いた人々が集まっていたのです。

【あなたは価値あるものだから】

第一に、「あなたは神の目に価値あるものだから、思い悩むな」と主イエスは言われました。私たちは「自分は尊い存在である」ということをどのように知ることができるでしょうか。私たちは多くの場合、「働き」によって、何が成し遂げられるのかということによって、自らの価値を測ってしまうことがあります。

しかし主は言われました。「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」(26節)

神の御手の中で、自由に大空を飛ぶ鳥たちのように、わたしたちも、神に愛され、守られていることを確信しつつ今日の日を歩みたいと思います。

【あなたは美しいものだから】

第二に、“全能の神が、あなたを美しく整えてくださっているが故に思い煩うな”と主は言われます。「なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか。信仰の薄いものたちよ。」(28節~30節)

儚く散っていく草花でさえ、神は心に留めてくださり、美しく装ってくださいます。花が散るように過ぎていく短い私たちの人生であっても、神はいつも見守ってくださり、美しく装ってくださいます。私たちの命は、神の目に美しいのです。神が私たちの命をぞんざいに扱われることは決してありません。

「信仰の薄いものたちよ」、信仰を受け取りなさい、とイエスさまは優しいみ声をもって招いておられます。世の荒波の中で右往左往する私たちでさえも、「それでもだいじょうぶだ」と言えるような心の平安、それこそが信仰です。神は私たちに、信仰を与えたいと願っておられます。心からの安心、心からの平安を、今日受け取りましょう。

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2020年7月26日「朝に主の栄光を見る」加山献牧師

(1)エリムからの出発(1節)

「イスラエルの人々の共同体全体はエリムを出発し、エリムとシナイとの間にあるシンの荒れ野に向かった。それはエジプトの国を出た年の第二の月の十五日であった。」

エジプトから約束の地カナンを目指して旅を続けるモーセとイスラエル民が立ち寄ったエリムは、ありがたいオアシスでした。そこには十二の泉と70本のなつめやしが茂る完全なオアシスでした。しかし、十分な休息を取った後、出発の時がきて、民は荒れ野に入っていきました。エリムは素晴らしいところでしたが、オアシスでは体験できない恵みがあるからこそ、神さまは民を導いていきました。この後、イスラエルの人々は砂漠の中でなければ手にすることができない、神さまの力、神さまの憐れみを、体験することになります。

 

(2)民の不満(2節~3節)

民に問題が起きました。「荒れ野に入ると、イスラエルの人々の共同体全体はモーセとアロンに向かって不平を述べ立てた。イスラエルの人々は彼らに言った。『我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。』」

エジプトを旅立ってからすでに1ヶ月が過ぎてきました。パンが底をつき、エリムから持ってきたなつめやしもなくなると、人々はモーセとアロンに不満をぶつけました。ここに、人間の変わりやすい姿が描かれています。あれほど神さまへの感謝と賛美にあふれていた人々が、ひとたび苦しみが起こると、手のひらを返したように振る舞ったのです。

 

(3)天からのパン『マナ』(4節〜5節)

しかし、神さまは人々の苦しみに対して、すぐに答えをくださいました。それは日毎の糧として、天からのパンを降らせてくださることでした。イスラエルの人々はこの天からのパンを「マナ」と名付けました。(31節)

 

(4)夕暮れに主を知り、朝に主の栄光を見る(6節〜7節)

ヘブライ語で荒れ野のことを「ミドゥバール」と言います。それは「言葉」を意味する単語「ダーバール」から派生した言葉です。ユダヤの人々は昔から、荒れ野こそが、神さまの口から出るひとつひとつの言葉を聞き取る特別な場所である、と考えていました。「荒野」は神さまの臨在される場所であり、神の民が訓練を受ける場であり、新たな神さまの導きが示される場でした。

私たちの人生においても、荒れ野を通る時があります。荒れ野を旅する中で、何度も「夜」を体験します。私たちの荒れ野にも「夜」があるのです。ですが、その時は思い起こしたいと思います。必ず暗い夜の闇は破られて、私たちは必ず朝に主の栄光を見ます。

主の栄光とは何でしょうか。それは「神さまの本質」を表す言葉です。朝になって、天からのパンをいただく時に、その事の中に、神さまの本質を見るだろう、ということです。神さまの本質とは、つまり、「愛」と「憐れみ」です。神さまの本質である「愛」こそが、私たちのつぶやきと不満に対する答えです。神さまの愛と憐れみの現れであるイエス・キリストこそが、私たちの満たされない思いに対する、答えであられるのです。                   (7月26日)

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2020年7月19日「キレネ人シモン」今村まさゑ協力牧師

今朝の箇所は、イエスさまが十字架に磔にされるゴルゴダと呼ばれる丘まで、十字架を背負って歩まれる道で、力尽きた主に代わって十字架を無理に担がされた男の出来事です。

イエスさまは十字架に架けられる前夜、一日中忙しく、その夜、弟子たちとの最後の晩餐をもたれましたが、食事の後、ゲッセマネと呼ばれるオリーブの園で、血のような汗を滴らせて祈り終えられたとき、弟子の一人であるユダの裏切りによって捕らえられ、大祭司カイアファの所へ連行され、夜通し、不当な裁判が行われたのです。

「さて、祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にしようとしてイエスにとって不利な偽証を求めた。・・・そして、イエスの顔に唾を吐きかけ、こぶしで殴り、ある者は平手で打ちながら『メシア、お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ』と言った。」(マタイ26:57~)「夜が明けると、イエスを縛って引いて行き、総督ピラトに渡した。」(27:1~)長々とヘロデ王やローマの総督ポンテオ・ピラトの尋問は続きました。

「ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから十字架に付けるために引き渡した。兵士たちは、官邸、総督官邸の中に、イエスを引いて行き部隊の全員を呼び集めた。そして、イエスに紫の服を着せ茨の冠を編んでかぶらせ、『ユダヤ人の王、万歳』と言って敬礼し始めた。また何度も、葦の棒で頭をたたき唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした。このようにイエスを侮辱したあげく、紫の服を脱がせて元の服を着せた。そして、十字架につけるために外へ引き出した。」(マルコ15:15~21)

キレネ人シモンは春の収穫を終え、エルサレムに巡礼者としてやって来たのでしょうか。異様な人だかり、何があるのか・・・三人の犯罪者の処刑が行われるらしい。たまたま、そこを通りかかっただけのシモンに、突然、兵士の槍が彼の肩に触れたのです。・・・

手と足に釘打たれ、頭蓋骨と呼ばれる丘に磔にされたイエスさまと犯罪人の三本の十字架。丘にまで登ってきた民衆は、容赦なく、イエスを罵倒し、口ぐちに嘲笑っていった。

「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで選ばれた者なら、自分を救うがよい。」

「お前がユダヤ人の王なら、そこから飛び降りてみろ。」(ルカ23:35、36)

そのとき、イエスは言われた。

「父よ、彼らを赦してください。自分が何をしているか知らないのです。」(ルカ23:34)シモンは耳を疑ったことでしょう。自分を殺す人々のために執り成しの祈りを捧げるとは・・どうして・・なぜ・・不思議にしずかにとてつもない愛が、心に染みたことでしょう。

その後、キレネ人シモンの家族は主イエスを信じる一家となったことがわかるのです。

シモン自身は、使徒言行録2:9、13:1(初代教会の大きな働き人に)

息子二人は、マルコ15:21(アレクサンドロとルフォスとの父シモンというキレネ人)

シモンの妻は、ローマの信徒への手紙16:13(パウロが信仰の母と呼んでいる)

兄弟姉妹!私たちも、今一度シモンのように、十字架を背負って、背負い直してみましょう。シモンは、最初はイエスさまが負うべき十字架を代わって背負った不運な者と思っていました、

しかし、本当は、自分が負うべき十字架の死を、主イエスさまが身代わりとなって十字架に架って死んでくださったのだ・・・と分かったのです。                  (7月19日)