カテゴリー別アーカイブ: 礼拝メッセージ

2020年1月12日「イエス・キリストから目を離さない」今村まさゑ協力牧師

「イエス・キリストから目を離さない」今村まさゑ協力牧師

ヘブライ人への手紙12章1節~3節

新年を迎え、思いを新たに、み言葉に聴き従う年でありますようにお祈りいたします。今朝、与えられましたみ言葉は、ユダヤ人キリスト者を励ますものです。ネロの迫害(64年)と、再びドミテイアヌス帝(81~96年在位)の脅威が迫っていた時期。十字架で殺された男をなぜ信じるのかとキリスト者は異端視され、嘲られ、苦しめられ、見世物にされ、捕らえられ、財産を奪われ・・初代のキリスト者たちは命がけの日々でした。80年から90年頃に書かれた手紙というより信仰を失わないよう忍耐を強く勧める説教のような内容です。

①   神の言葉に聞き従おう(1章1節~4章13節)

②   信仰をしっかり守り、礼拝に励もう(4章14節~10章31節)

③   イエスを仰ぎ見つつ忍耐をもって走りぬこう(10章32節~13章21節)と。

1節の「おびただしい証人の群れ」とは11節の20人のつわもの達、一人一人、その信仰の歩みが詳しく聖書に記されていて、その彼らが、私達を励ましている。わたし達の信仰生活を邪魔するすべての重荷、罪を、潔く捨てよう。

2節の創始者(信仰の動機を与え、救い出してくださったお方)で、完成者(成熟へと導き、永遠のいのちを与え給うお方)である「イエス・キリストを見つめながら」走りぬく。「このイエスは御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び」とあります。イザヤ書53章5節、6節を噛みしめたいと思います。

「彼が刺し貫かれたのは、わたしの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。かれの受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方向に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた。」

今年、くりかえし、このイエス・キリストさまの贖罪を考えて生きましょう。「疲れた者、重荷を負う者は、わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11章28節)とあります。私の絡みつく罪の一つは「ねばならない」という律法主義でありますが、主の恵みによって日々感謝のうちに軽やかに疲れ知らずの信仰で走りたいと願っています。「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。」(13章7~8節)アーメン。最後にヘブライ人への手紙13章20節を読んで、お祈りいたしましょう。

 

2020年1月5日「天におられるわたしたちの父よ」加山献牧師

「天におられるわたしたちの父よ」加山献牧師

マタイによる福音書6章7節~9節

「主の祈り」は新約聖書の2カ所に記されています。ルカ11章とマタイ6章「山上の垂訓」とです。ルカとマタイの記録を通して、主イエスは様々なところで、頻繁にこの祈りを教えられていたと考えられます。

主が教えられたこの祈りは、二つの点で革命的でした。第一に他の祈りと比べると圧倒的に短いということ、第二に他の祈りと比べると圧倒的にわかりやすいということです。当時のユダヤ教の祈りや、バビロニアの魔術に使われる祈祷文などと比べると、圧倒的に短く、意味が明瞭だったのです。

7節では「祈るときは、異邦人(父なる神を知らない人々)のようにくどくどと述べてはならない」と言われました。祈りには、ただ言葉の数を多くするよりも、もしくは覚えた文言をただ繰り返すよりも、もっと大切な意味があるのだ、ということを主イエスは教えられたのです。

続く8節に鍵となる言葉があります。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」わたしたちがどんなことに困っていて、どんなことで傷ついていて、どんな願いや必要を持っているのか、わたしたちが祈る前から神はすべてを知っていてくださる、というのです。

祈りとは、人間が語る言葉のみを意味するのではなく、神と人とを結ぶ絆を意味します。祈りとは、わたしたちの必要をすべて知っておられる神と人との交わりであり、イエス・キリストを通して人に与えられた特権なのです。その上で主イエスは「だから、こう祈りなさい」と主の祈りを教えられました。

『天におられる私たちの父よ。』「天」とは神さまの領域を指し示しています。人の力では絶対に入っていくことのできない神さまの領域を表しています。神は天におられ、人は地の上にいます(コヘレト5:2)。「天が地をはるかにこえて高いように、神の道は、人の道よりも高い(イザヤ55:9)」という御言葉もあります。そのように偉大な神が、イエス・キリストにあって、「わたしたちのお父さん」と呼ばれることを望んでくださった、「わたしたちのお父さん」になってくださった、ここに驚くべき恵みがあります。

人間は家出をした子どものような存在でした。しかし神は「まだ遠く離れていたのに、父は子を認め、憐れに思って走り寄り、その首を抱いて接吻した。」(ルカ15章) 「だから、このように祈りなさい」という主イエスの呼びかけは「父なる神さまの元に帰りなさい!」という呼びかけそのものです。「来なさい。帰って来なさい。悔い改めて、方向を変えて、子よ、父なる神さまの元へ、あなたのいるべき場所に戻って来なさい。」主の祈りを祈る時、「天にまします、われらの父よ」と祈る時、この呼び声が、今日もわたしたち一人一人にかけられていることを覚えましょう。

 

 

2019年12月29日「イエス・キリストの尊い血潮」ラス・ボーグ宣教師

「イエス・キリストの尊い血潮」ラス・ボーグ宣教師

エフェソの信徒への手紙1章7節

クリスマスはとても特別で楽しいシーズンです。クリスマスの時には、イエス・キリストの誕生をお祝いします。私達が必要とする救い主を、神は天国から遣わされたのです。何よりも神の子イエス・キリストがこの世界に送られた理由は、十字架にかかる為でした。

今朝、私達は「主の流された尊い血しお」という讃美歌を歌いました。その歌詞の内容は、十字架につけられた主イエス・キリストについてです。特に十字架にかけられたイエス・キリストの体から、私達の罪を赦す為に注ぎ出された尊い血潮ということです。歌詞は聖書からの引用が多く、とてもパワフルに心に伝わってきます。新生讃美歌にあるこの曲は、オリジナルの英語から日本語に訳された曲です。作詞者はRobert Lowryというアメリカ人牧師で、もとの歌詞は英語で書かれました。実はこの曲の英語版の歌詞は初め質問から始まっているのです。それは「What can wash away my sin?」。その意味は「何が私の罪を洗い流すことが出来ますか?」という意味で、次の歌詞は、その質問に対する答えを歌っています。「Nothing but the blood of Jesus. 」この言葉の意味は「ただイエスキリストの流された尊い血潮でのみ」という意味です。これははっきりした答えですね。ただ主イエス・キリストの流された尊い血潮でしか、方法がないのです。

この讃美歌にあるこの質問は本当に重要な質問だと思います。「何が私の罪を洗い流すことが出来ますか?」ではこの言葉がどうしてそれほど重要なのでしょうか?聖書はこう宣言しています。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています」(ローマの信徒への手紙3章23節)。そして、ヘブライ人への手紙9章27節ではこう述べています。「また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように。」神の言葉によると、すべての人は罪を犯したので、死後にはその罪に対する裁きを受ける事が定まっています。これは現実なのです。ですから、「何が私の罪を洗い流すことが出来ますか」という質問は非常に大切で、考えるべき質問です。その為に、この讃美歌が繰り返しこの質問に対する答えを思い出させてくれます。

イエス様の尊い血潮だけなのです。2節の「主の流された尊い血潮で罪を赦され、つくり変えられて」と3節の「主の流された尊い血潮でわれらの罪は全てあがなわれ」である歌詞は、エフェソの使徒への手紙1章7節に書いてある真実を思い起こさせます。「私達はこの御子において、その血によって購われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。」私達クリスチャンは何によって購われ、何によって罪を赦されたのでしょうか?この御言葉が宣言しています。私達はイエスキリストの血によって購われ、罪を赦されました。これは神様の豊かな恵みを示しているのです。

 

 

 

2019年12月22日「わたしの心に来てください」加山献牧師

「わたしの心に来てください」加山献牧師

ルカによる福音書2章1節~7節

人々は、モーセやエリヤよりも偉大な預言者として来られる救い主を待ち焦がれていました。救い主は、あのダビデ王よりもさらに偉大な王として来られると、人々は信じていました。そして遂にその日がやってきたのです。

わたしたちが注目したいことは、王の王、全世界の人々の救い主としてお生まれになったこの方の「泊まる場所がなかった」(ルカ2:7)ということです。ベツレヘムは多くの旅人たちでにぎわっていました。懐かしい友人や親族と再会し、集まって、楽しく過ごしている人々も多かったことでしょう。宿屋はどこも満員だったのです。

もし全人類の救い主が目の前にいることを知っていたなら、今まさに、待ち焦がれていた約束の救い主が産まれようとしていることを知っていたなら、人々は喜んでこの夫婦を迎えたことでしょう。この生まれてくる幼子が、やがて自分の罪のために重い十字架を背負っていくと知っていたなら、人々は自分の寝る場所を差し出してでも、この救い主をお迎えしたことでしょう。ですが、その事を誰もわからなかったのです。気付くことができなかったのです。

ある村での降誕劇のエピソードです。クリスマスが近づき、教会学校の先生は今年も子どもたちにそれぞれの役を与えていきました。しかし一人だけ、役を与え忘れられていた男の子がいました。彼は軽度の知的障害を持っている男の子でした。先生はそれに気付くと、慌てて彼に宿屋の主人の役を与えました。

その男の子は自分にも役が与えられたことが嬉しく、毎日自分の部屋で「ここに泊まる場所はない、馬小屋に行け!」と何度も何度も練習しました。本番の日、村の人たちは彼が練習していた通り役を演じることができるか、ハラハラしながら見つめていました。

ついに彼の出番がやってきました。彼は何度も練習した通り、ヨセフ役とマリア役に「ここに泊まる場所はない、馬小屋に行け!」とはっきり宣言しました。教会学校の先生は胸を撫で下ろしました。ところが、彼の目からみるみるうちに涙が溢れ出てきて、ヨセフ役の子どもの足にしがみつくと「行かないで!行かないで!馬小屋なんかに行かないで!僕の家に来て!僕の部屋は狭くて汚いけれど、僕のお部屋でイエスさまを産んでよ!」

今年のクリスマスも、ヨセフとマリアは私たちの心を一軒一軒尋ねてまわります。「今晩泊まれる場所はありますか。もうすぐ子どもが生まれそうなんです。」私たちもこの男の子と同じように言いたいと思います。私の心は狭いけれど、整っていないけれど、お入りください、わたしの心の中に。

 

 

2019年12月15日「田舎からの物語」K. J. シャフナー名誉牧師

「田舎からの物語」K. J. シャフナー名誉牧師

ルカによる福音書2章1節~7節

「ベツレヘム」という田舎町は聖書にいろいろな場面で登場します。私たちがすぐに思い付くのはイエスが生まれた町ということでしょう。イエスが生まれる頃の人たちは「ベツレヘム」を聞くと、何を思い浮かべたのでしょうか。

聖書に出てくるベツレヘムについてご一緒に考えていきたいのです。最初にベツレヘムという町の名が出てくる個所は創世記35章です。ヤコブはお兄さんのところに帰ってきて、彼と和解をし、そこで神様との約束が繰り返されました。当時エフラタと呼ばれるベツレヘムで愛する妻ラケルを難産で亡くします。

次の場面はルツ記にあります。飢饉のときにエリメレクとナオミというご夫妻と息子二人がベツレヘムからモアブに住み移します。息子たちがモアブ人の女性と結婚しますが、彼らは子どもに恵まれず、その後ナオミは夫と息子を亡くします。飢饉が終わったと聞いて、彼女はベツレヘムに帰ろうとします。嫁たちにはモアブに残ることをすすめますが、ルツという嫁は一緒に行くことを断言します。二人はベツレヘムに帰り、ルツは大麦の畑に出て落ち穂を拾いました。その畑は彼らの親戚で、家を絶やさぬ責任のある人、ボアズの畑でした。彼はルツを妻として迎え、子どもが生まれ、その子はダビデのお爺さんとなります。

ダビデはイスラエルの王として選ばれ、ベツレヘムの出身で、羊の番をしていたエッサイの末っ子です。サムエルという預言者は長男や他の兄弟を選ぼうとしていましたが、神様はダビデの心を見抜いて、彼を選びました。

最後に紹介したい個所はミカ書5章1節です。預言者ミカはこのベツレヘムという小さな町から救い主が生まれることを告げました。

一通りベツレヘムに出てくる聖書を見ましたが、そこ物語から何を学ぶかをリストアップしたいのです。神様は計画を持っておられます。それは全人類のためです。神様の計画にタイミングがあります。神様の思いは必ずしも私たちの思いと同じではありません。神様は私たちの苦しみ、悲しみを顧みてくださいます。神様は小さいもの、弱いものをよく選び、用いてくださいます。神様は私たちのために救いの道を作ってくださいました。神様は私たちと共におられます。クリスマスを希望、確信と喜びをもって迎えましょう。

 

 

 

2019年12月8日「助けは来る」加山献牧師

「助けは来る」加山献牧師

詩編121編1節~8節

 

「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る。天地を造られた主のもとから。」(1節~2節)この詩編は「都に上る歌」とタイトルが付いています。ユダヤでは仮庵祭、過越祭、五旬節という三つ大きな祭りが祝われていました。この祭りの度に、人々はエルサレムの神殿で礼拝するために巡礼の旅に出かけていたのです。この詩編から三つのことを考えていきたいと思います。

1 「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。」

エルサレム巡礼にかぎらず、わたしたちの人生そのものが旅のようなものです。時に山々を見上げるようにして「自分の人生はこれからどうなっていくのだろうか」と見渡し、「わたしの助けはどこから来るのか」と問いかけることがあります。聖書は私たちの人生にあらゆる試練や困難があることを隠したりはしません。私たちは目の前のことで忙しく、身近なことにとらわれていることが多いかもしれません。しかし聖書は、私たちに対して、山々をはっきりと見つめるように促します。「あなたはこれを乗り越えなければならない。」「あなたはこのところに助けが必要だ。」これは神さまからの愛のメッセージです。

2 「わたしの助けは来る。」

「われ、山にむかいて、目を挙ぐ。詩篇、第百二十一。」これは太宰治が亡くなる直前に書いた「桜桃(おうとう)」という短編小説の冒頭部分です。彼は人生最後の作品に文語訳聖書の詩編121編を引用したのです。太宰治はかなり聖書を学んでいた人だといわれています。彼の他の作品の中にもたびたび聖書の言葉の引用があります。ところが彼は、最終的に玉川上水に入水して自ら命を絶ってしまいました。彼は自分の罪深さと弱さを知り、苦しんでいたのです。太宰治は自分の人生に存在する険しい山々を知っていました。しかし彼は、この詩編を読みながらも、自分のために「助けが来る」ことを信じることができなかったのです。

聖書の言葉をどれほど学んだとしても、もし「信じる」ことをしないなら、この書物の本当の力を味わうことはできません。信じて受け取ることにより、聖書の言葉は私たちの人生においてその力を発揮するのです。どのような状況の中にあっても、どうか信じてください。あなたのための助けは、もうすでにあなたに向けて備えられているのです。

3 「わたしの助けは来る。天地を造られた主のもとから。」

この助けは天地を造られた神のもとから来ると、詩人は詠っています。アドヴェントの季節です。今回は特別にこのようにお伺いしたいと思います。この「助け」とはどなたのことでしょうか?私たちのとっての(全人類にとっての)究極的な助けである存在、「イエス・キリスト」は既に来られました。ぜひこの方の赦しと救いを受け取ってください。心からお勧めいたします。

 

 

 

2019年12月1日「神さまの名前」加山献牧師

「神さまの名前」加山献牧師

出エジプト記3章11節~15節

モーセは神に尋ねました。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。』」(13節)

神はご自身の名を尋ねられて、次のようにモーセに答えられました。「わたしはある。わたしはあるという者だ」、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」(14節) この言葉から三つのことを考えていきたいと思います。

第一に、この神は、今、現在形で確かに存在しておられる、ということです。存在しているようで存在していない他の神々とは違う。私はたしかに存在し、生きて働いているものである、と神は語られました。

第二に、神は他の何者にも依存することはなく、ただお一人で完結した存在である、ということです。モーセは「わたしは何者でしょうか」(英訳は“who am I?”)(11節)と問いかけました。わたしという存在が何なのか、まったく分からないでいるモーセ(=人間)に対して、神は言われました。”I am who I am”、「わたしはわたしなのだ、わたしは他の何かに依存する必要がまったくないのである」という宣言です。

第三に、わたしは他のすべての存在を呼びおこし、支えているものである、ということです。無から有を生み出し、存在させたもの。何もなかったところに、この世界を生み出し、私たちひとりひとりの存在を支えてくださっている方である、という意味です。

人間はまず、生まれてきた家庭の中で、家族の存在によって自分が何者かを知ります。さらに学校の友人、仕事仲間など、人々と出会い、様々な集団に属していく中で自己認識を形成し、自分の存在の意義を実感していきます。私たちは常に、他の人との関係性の中で、また所属している「場」の只中で「自分は何者であるか」ということを理解し、測り、認識しているのです。そのような関係性は人間にとって必要不可欠であると言えます。

人は誰でも、この世界で孤立し、ひとりぼっちとなり、孤独を味わうならば、もはや自分自身を保つことはできません。しかし、神の場合は違うのです。この神はたった一人で自己充足し、その豊かさのあまりに、満ち足りている方なのです。ところがこの神が ――何者にも依存する必要のないはずの神が――、人を愛し、人に関わってくださり、人を必要としてくださるのです。なんという恵み、なんという喜びでしょうか。人間はこの神を抜きにして、自分が一体何者であるか、その究極的な意味を知ることはできません。この神の前に立つとき、つまり、カルバリの十字架の前に立つとき、人は真に自分が何者であるかを知ることができるのです。

わたしたちは揺るがされることのない存在によって生み出され、支えられています。わたしたちは、絶対的な存在によって、個人的に知られていて、愛されています。しかも、あの十字架の愛によって愛されているのです。

 

 

 

2019年11月24日「私は必ずあなたと共にいる」加山献牧師

「私は必ずあなたと共にいる」加山献牧師

出エジプト記3章1節~12節

エジプトを追われ逃亡者となったモーセは、すっかり自信を失い、ミディアンという地方で、ひっそりと生活をしていました。そのモーセに、神が突然、不思議な形で語りかけたのです。

1.あなたの主権を神である私に渡しなさい(5節)

神は言われました。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたが立っている場所は聖なる土地だから。」イスラエルの文化では、履物を脱いで相手に渡す、ということは「主権をあなたに譲ります」という意味がありました。つまりここで神は「モーセよ、あなたの主権を、神である私に渡しなさい」と言われたのです。

2.神である私があなたを救い出す(7節)

神は奴隷とされているイスラエルの民の叫びを聞き、心を痛めておられました。そして、神ご自身が降ってきてくださり、救い出してくださるということが宣言されています。「降ってくる」とはやがて来られるイエス・キリストのご降誕を指し示しています。この聖書の神は、今私たちが抱えている苦しみ、痛みを知ってくださり、叫びを聞いて、救い出してくださる方です。その究極的成就はイエス・キリストの生涯にあります。

3.約束の地に導いて伴走してくださる神(8節)

さらに、神は民を必ず素晴らしい土地に導き出すと約束してくださいました。この旅の途中で、民は多くの試練に襲われました。もう逃げ出したい、と思うような巨大な敵が何度も立ちはだかったのです。けれども、この旅の間、ひとときも離れることなく、民と共に歩んでくださった神がおられることを、私たちは改めて心に留めたいと思います。

4.神の御業の中で派遣される人(10節)

神はご自身の力をもって、救いの業を成し遂げられると宣言されました(8節)。しかし10節では、神はモーセに対して「行きなさい」と言われるのです。人の努力や頑張りが救いをもたらすのではありません。しかし、神は人類の救いを完成するために、人を用いられるのです。圧倒的な力を持つはずの神が、弱く、限界のある人を選んで、用いられる。これが聖書の逆説的なメッセージです。

神は、宣教という愚かな手段によって信じるものを救おうと、お考えになったのです。』 使徒パウロ (第一コリント1章21節)

自分の力では動けない 自分の力では生きられないと 気づいた瞬間に私をしっかりささえてくださった キリストの御腕が はっきり見えてきた』  瞬きの詩人 水野源三 作

 

 

 

2019年11月17日「天国を見上げて」加山献牧師

「天国を見上げて」加山献牧師

フィリピの信徒への手紙3章12節~4章1節

人は死んだらどうなるのだろうか。天国は本当にあるのだろうか。あるとしたならば、そこはどのようなところなのだろうか。この問題は古くから人類に与えられてきた普遍的な問いです。聖書は天国の様子を次のように語っています。そこにはもはや死はなく、悲しみも嘆きも労苦もない。そして、神さまは私たちの目から涙をすっかり拭い去ってくださる、というのです。(黙示録21章4節)

フィリピの信徒への手紙3章20節には、「わたしたちの本国は天にあります」という宣言があります。天国がわたしたちのゴールであり、目標であり、帰るべき故郷である、ということです。

この手紙はパウロという人によって書かれました。キリストを信じて生きていく、ということが難しい時代に、ぜひ信仰を守り続けて生きていってほしいと、この手紙には綴られています。パウロは信仰をレースにたとえました。同じように、わたしたちひとりひとりの信仰の歩みも、レースに例えられます。苦しい時、倒れる時もあります。しかしわたしたちは、その度に立ち上がり、前に向かって走り続けるのです。そして、イエス・キリストの十字架の救いを受け取ったものは、誰でも天国に迎えられます。

「わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。」(3章20節)イエスさまが迎えに来られて、抱きしめて、天国に持ち運んでくださるまで、私たちも信仰の先輩方に倣い、定められた道のりを大切に走り切りたいと思います。他の人たちに負けないように、競争するという意味ではありません。私たち、それぞれに定められた走るべき道のりがあるのです。なすべき働き、果たすべき役割があります。そして神さまが定めてくださった走るべき道のりを走り通すことが求められています。苦しい時、もう前に進めないと思う時には、ぜひとも、このゴールを見上げていただきたいと思います。

十字架によって開かれた扉がそこにあります。私たちはそこに希望を見ます。そこに光を見ます。ゴールで待っている方がおられます。私たちの救い主、イエス・キリストと、私たちの愛する方々、先に召されたご家族、ご友人が待っている天国を見上げて、今日の日を精一杯駆け抜けていく者でありたいと思います。

 

 

 

 

2019年11月10日「全世界に出ていこう」加山献牧師

「全世界に出ていこう」加山献牧師

マルコによる福音書16章14節~20節

早良キリスト教会に現在の会堂が与えられて、今年でちょうど20年目を迎えます。新会堂感謝礼拝は1999年11月27日に執り行われました。その礼拝プログラムの巻頭言において、初代牧師の松村祐二郎先生は以下のように宣教目標を提示されました。

「私は第一に『ひとつになる教会』、第二に『祈る教会』、第三に『伝道者を生み出す教会』、第四に『神と人の前にへりくだる教会』、第五に『豊かな交わりを持つ教会』を目標にしたいと思います。これらのことに努めて歩むなら『全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16:15)というイエスのみ言葉に応えることができるのではないかと考えています。」

「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」この大宣教命令こそが教会の存在目的です。世界のすべての人がこの良き知らせを聞かなければならない、とイエスさまは言われています。福音とはイエス・キリストの十字架と復活です。イエスさまの十字架によって、天国の門が開かれました。信じるなら、誰でもそこから入っていくことができるのです。この良き知らせを一人でも多くの方にお伝えしたい、それが私たちの教会活動の原動力です。

現在、世界中に教会がありますが、宣教師という存在がなければ、この良き知らせはこれほど世界に広がることはなかったはずです。ですから、日本に来られている宣教師の先生方に心から感謝し、また日本から送り出されている宣教師の働きのためにもますます祈っていきたいと思います。

私たち一人一人の場合を考えてみても、誘ってくださった人がいたから、はじめて教会に来ることができた、という方は多いのではないかと思います。皆さんを教会に誘い、聖書の言葉を宣べ伝えてくださった方が、きっとおられるはずです。

私たちはそれぞれの場所で小さな宣教師として召されていることを覚えていきたいと思います。私たちが味わった神様の愛、この教会で味わったイエスさまを信じる人生の素晴らしさを、喜んで分かちあっていきたいと思います。またより強い感動を持って伝えるために、日毎に深く、主の恵みを味わっていく信仰の歩みを進めていきたいと思います。