19. 5月 2018 · 2018年5月6日 「胸をはって生きていこう」 加山 献 牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

『胸をはって生きていこう』 ローマの信徒への手紙5章1~11節

加山 献 牧師

ある心理学者が人間を不幸にする感情がふたつあると言いました。ひとつは憎しみ、もうひとつは罪悪感だそうです。憎しみは「他人」を赦すことができないということであり、罪悪感は「自分」を赦すことができないということだそうです。

ローマ書5章は「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから・・・」という言葉ではじまります。「義認」という言葉があります。「義認」は聖書の教えの中で大切な要素の一つであり、わかりやすくいうと、正しい人と認められるという意味をもっています。いったい誰から、正しい人と認められることだというのでしょうか。人の基準で正しいものと認められるという意味ではありません。わたしたちは、神様の目から見て、神様の基準で正しいものと認められたというのです。

わたしたちは行いによって義とされたのではなく、信仰によって、義とされたということに注目したいと思います。昨年は宗教改革があって、500年目の年でした。マルティン・ルターがこの改革の立役者でした。彼は人一倍、神様に認められることを求めていた人でした。しかし、正しくあればあろうとするほど、救いの確信も得られず罪悪感にさいなまれていたのです。彼はローマ書の研究に没頭しているときに次のことに気づいたといいます。自分はもうすでに神に認められ、受け入れられていたという事実に。

神は聖なる方で、圧倒的なきよさのゆえに少しの罪も見過ごすことのできない方です。その正しさのゆえに、私たちの罪を大目に見ることはできないお方なのです。「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。」(8~9節)まさに「十字架」、それは神の義と神の愛の出会えるところなのです。

わたしたちの罪を見過ごすことはできない、しかしわたしたちを愛してやまない神がイエス・キリストを十字架によって、私たちの罪の代価を全て支払ってくださったのです。わたしたちはキリストの血によって、それを信じる信仰によって、義とされ、正しいものとされ、認められ、受け入れられ、許されました。わたしたちはもはや自分自身を責め立てる必要はありません。謙虚に、それでも胸をはって生きていくことがゆるされているのです。  (5月6日)

11. 5月 2018 · 2018年4月29日「私たちの真ん中に立ち給うキリスト」 今村まさゑ 協力牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「私たちの真ん中に立ち給うキリスト」 今村まさゑ 協力牧師

ヨハネによる福音書20章24~29節

今朝の箇所は復活記事の最後の出来事です。トマスと言えば疑い深い人の代表のように思い勝ちです。しかし、ラザロを復活させるためユダヤへ戻ろうとされるイエスさまが、石で撃ち殺されるかも知れないと案じ反対する弟子たちに、「行って共に死のうではないか」と言ったのはトマスでしたし(11:16)、また決別の話をされた時、「何処に行かれるのか解りません」とイエスさまに率直に問い「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない」(14:6)と語って頂けたのもトマスのお陰でした。

そのトマスが、主がご復活された日の夕方に10人の仲間たちに現れた時、どこに行っていたのか居なかったのです。数日後、戻ってきた彼に「私たちは主を見た」と告げた時、25節の通り、「主の手やわき腹の釘跡に、自分の指を入れて見なければ決して信じない。」と言い張りました。8日の後、弟子たちは家の全ての戸に鍵をかけ息をころしていました。トマスも一緒でした。ユダヤ人を恐れ閉じこもっている彼らの中へ主は入って来られ、皆の真ん中に立ち「平安があるように」と言われ、トマスに「あなたの指を、わたしの手とわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と語られました。まるでトマスを目指して入って来られたようです。20章はじめのマリアには「触れてはいけない」と言われましたが、トマスには「指を入れてみて、信じなさい」と。トマスは答えて「わたしの主、わたしの神よ」と言ったとあります。トマスは、もはや指を入れる必要を感じなかったのです。おそらく、跪き、ひれ伏し、主が十字架上で「わが神、わが神・・」と叫ばれたように「わたしの主、わたしの神よ」と叫ばずにはおれませんでした。24節に、「ディディモと呼ばれるトマスは」とありますが、これは「双子」の意味です。もう一人のことは書かれていません。ある学者が言っています。この双子の一人こそ、疑い深いあなた自身ですと。

しかし、この弱いトマスの祈り、叫びをどれ程多くの人々が捧げてきていることでしょうか。「わが主、わが神・・」と。最後に、私たちに対するペテロの言葉があります。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今、見なくても信じており、言葉では言い尽くせない、すばらしい喜びに満ち溢れています。」(ペテロ第一1:8)

(4月29日)

26. 4月 2018 · 2018年4月22日「光よあれ」 加山 献 牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

創世記1章1節~5節 「光よあれ」 加山 献 牧師

神様は「言葉」によってこの世界を造られました。そして、最初につくられた被造物、それが「光」でした。この「光」とはどのようなものなのでしょうか。

第一に光は暗闇を照らし、真実を伝えます。聖書は、わたしたちひとりひとりは神に愛され、かけがえのない価値をもつ存在であることを伝えます。しかし同時に、わたしたちは皆、暗闇の中にいる、といいます。ヨハネによる福音書12章46節でイエス・キリストは「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た」と語りました。ひとたびキリストの光に照らされるのであれば、暗闇の中に潜んでいる「本当のわたし」の姿が明らかになります。本当の自分の状態を知るためには「光」が必要です。「光」の前に出ていくときに、自分には助けが必要だということに気づくことができます。

第二に光は罪を消し去ります。体にタトゥーという刺青を入れることが、ある若い方々の間で流行しています。ところが、タトゥーを入れた人の90%くらいの方々が、あとで後悔して消したいと思っているそうです。皮膚に焼きこんであるので、いくらお風呂で体を洗っても消えません。しかしこの、皮膚そのものに焼き込まれた入れ墨を消す方法があります。レーザー治療です。光には、一旦体に染み付いたものを分解して消し去る力があるというのです。同じように、やり直すことのできない過去の過ちがわたしたちを責め立てることがあります。心の痛みが内側からわたしたちを締め付けることがあります。でもキリストの光は、それらを消し去る光なのです。

第三に、光にはぬくもりがあります。この春の日差しのように、光にはぬくもりがあります。人が生きていくためにはぬくもりは欠かせません。キリストの光はあなたの内側から輝き、あなたを決して離れることはなく、心の奥からあなたをあたためます。

ヨハネ福音書の1章1節~5節は創世記の1章1節~5節と、密接に関わりあっています。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」最後の「理解しなかった」という言葉は「打ち勝たなかった」と訳することもできます。暗闇は光に勝つことができなかったのです。闇が支配する世界に向かって「光あれ」と言われた神様は、わたしたちの闇を照らす光として、わたしたちのもとに来てくださいました。わたしたちの人生に勝利をもたらす真理の光を喜ぶ一週間を過ごしましょう。

21. 4月 2018 · 2018年4月15日 「神を見出す場所」 今村幸文 協力牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「神を見出す場所」 今村幸文 協力牧師

詩編42編1節~6節

私たちは人生の心地よい体験の中では自然に神の存在を感じ、見出します。しかし私たちは人生の暗黒と災いが迫ってくる時には、「神はどこにいるのか」と叫びます。しかし本当に神を見出したいならば、私たちは人生の荒れ野で神を見出さなければならなくなります。

今朝の聖書箇所は、詩編42編1~6節です。「涸れた谷に鹿が水を求めるように」アー、ハアーあえぎながら水を求めて谷に降り、川辺まで辿り着いたのにそこには水は、ない。ただ渇いた床が露出しているばかりです。水を求めた鹿の無念と失望感が伝わってきます。この詩人はふと我に返るのです。「わたしも渇いている」と。この詩人の渇きは、「命の神に」向かっての魂の渇きだというのです。詩人は、今は、捕囚の民のひとりとなって神を知らない異教の民の中で水になぞらえた神の不在を嘆いているのです。「いつ御前に出て神の御顔を仰ぐことができるのか」「昼も夜も私の糧は涙ばかり」42編の詩人は、死ぬほどの重い病の苦痛にあるのかもしれません。瀕死の状態の中で「お前の神はどこにいる」と絶え間なく愚弄する人々がいるのです。内なるもうひとりの自分も「お前がそんなに苦しんでいるのに、神は何もしてくれないのか」と問いかけて来るのです。詩人は魂が空になるほど祈りに集中して思い起こすのです。「喜び歌い、感謝をささげる声の中を祭りに集う人の群れと共に進み、神の家に入り、ひれ伏したことを」。この詩人は、かつての礼拝の交わりと讃美の懐かしさというだけでなく、神殿にいます神の臨在の霊的な躍動を思い起こして、新しい力を感じているのではないでしょうか。

キリスト信仰は、キリストと私の個人的関係を意味するだけでなく、キリストと教会という礼拝共同体の中で信仰が培われ成長させられるのです。「なぜ、うなだれるのか、わたしの魂よ、なぜ呻くのか」です。「神を待ち望め、わたしはなお告白しよう。『御顔こそ、わたしの救い』と。わたしの神よ」この詩人の問題の中心は、神との結合点、神を見出す場所です。新約聖書の福音に生きる私たちは、イエス・キリストとの結合点、イエス・キリストの体なる教会との結合点こそ神を見出す場所なのです。

12. 4月 2018 · 2018年4月8日「悲しい道ではない」 加山 献 牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「悲しい道ではない」 加山 献 牧師

ルカによる福音書24章13節〜35節

聖書は、なぜ彼らが道中イエスさまに気づかなかったのかシンプルに説明しています。「二人の目は遮られていた」(16節)というのです。彼らは悲しみや失望感によって目が遮られていたということです。わたしたちにとっても、すぐそばを歩んでいてくださるイエスさまを見えなくさせるものがあるでしょうか。

また、クレオパたちは、イエスさまに対して間違った期待を抱いていました。「私たちはあの方こそ、イスラエルを解放してくださると、望みをかけていた」(21節)とあります。当時、イスラエルはローマ帝国の支配下にあり、植民地でした。彼らはイスラエルが独立し、繁栄を回復するための指導者を待ち望んでいたのです。そして、イエスさまこそがこの革命のリーダーとなって自分たちを引っ張っていってくれる存在だと考えていました。それに対し、イエスさまが「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」(27節)とあります。ご自分について説明された、ということは、神さまの全人類に対する、壮大な救済計画について解き明かされたということです。その計画は十字架で頂点に達します。30節で「イエスさまが賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」というのは、いうまでもなく、主の晩餐を表しています。二人の目が開けたのは、二人が十字架の意味を、自分たちのために裂かれたイエスさまのみからだの意味を理解した瞬間でした。

二人の弟子は、生きておられるイエスさまに気づいたあとに、エルサレムに向かって引き返しました。今まで悲しく、寂しく歩んできたその道を引き返していったのです。もう日も傾いて、あたりは暗くなりました。でも、その道はもう悲しい道ではありませんでした。イエスさまが生きている、その喜びの知らせを見出したからです。

12. 4月 2018 · 2018年4月1日「ガリラヤに行こう」 加山 献 牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「ガリラヤに行こう」 加山 献 牧師

マタイによる福音書28章1節〜10節

安息日が明けた朝、つまり日曜日の朝にマグダラのマリアともう一人のマリアが墓を見にいったとあります。彼女達は墓の中にイエスさまを探しましたが、イエスさまはそこにはおられませんでした。「墓」は、イエスさまを閉じ込めておくことはできなかったのです。「墓」は「死」の象徴です。イエスさまは人類最大の問題である「罪」と「死」に打ち勝ったことを表しています。そして「墓」は過ぎ去った「過去」の象徴でもあります。イエスさまを「墓」の中に探すということ、それはイエスさまを「過去」の中に探すことでもあります。

生きておられるからこそ、イエスさまは、今もわたしたちの人生に影響を与えることができます。この方が生きておられるから、今日もわたしたちに希望があります。この方が今日も生きておられるから、わたしたちの人生は悲しみで終わることはありません。この朝、わたしたちは死んで墓の中に眠っている方ではなく、今も確かに生きておられるイエスさまを礼拝しています。

復活されたイエスさまは弟子たちに新しい命令を与えられました。それは「ガリラヤに行きなさい」という命令でした。ガリラヤとは、弟子たちがイエスさまと出会った場所でした。弟子たちにとってガリラヤは、思い出がいっぱい詰まった始まりの場所だったのです。

しかしながら、イエスさまが十字架にかけられる時、弟子たちはみんな逃げ出してしまいました。イエス様に従うことに挫折してしまったのです。そしてイエスさまは墓に葬られました。全てが終わったかのように思えました。しかし、復活のイエスさまは言われました。「ガリラヤに行きなさい」。もう一度やってみよう、もう一度新しくはじめてみよう、ということです。

わたしたちも信仰に挫折する時があります。信仰の生活に倦怠感を覚える時がやってきます。そんな時は、イエスさまと出会った場所に帰る時です。イエスさまと出会った日を、この方に一生ついていこう、と決断した日を思い起こす時です。その場所でイエスさまは私たちの涙を拭ってくださり、私たちの疲れを癒してくださいます。今日、「墓」の中にイエスさまを探しておられますか?もしくは、過ぎ去った「過去」にイエスさまを探しておられるでしょうか?今日も生きておられるイエスさまは「ガリラヤに行こう、そこでわたしに会うことになる」と言われます。

31. 3月 2018 · 2018年3月25日「私たちの罪を担ってくださったキリスト」 今村幸文牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「私たちの罪を担って下さったキリスト」    

第一・ペテロの手紙2章21~25節

今村幸文牧師

「たわむれに母を背負いて そのあまりかろきに泣きて三歩歩まず」石川啄木

私たちの生活は、そのために誰かが血を流すような苦しみをしている、そのことによって

始めて支えられているということです。それなしで成り立つほど人生は甘くありません。

だからといって誰かをほしいままに犠牲にすることは許されませんが、よく考えてみると

私たちの生活は大抵どこかで尊い犠牲によって守られています。「あなたたちは生まれた時

から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで

白髪になるまで背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、

救い出す」(イザヤ46章3,4節)。

聖書を一貫しているのは、この洞察であって、それは主イエスの十字架において頂点に達します。

苦しみが人を駄目にするか、成長させるかの違いは、苦しみの中において苦しみの意義を省察・

省みて調べることの有無によります。主イエス・キリストが苦しみを受けられたのは、わたし

たちのため」であり、キリストが模範を残されたのも「わたしたちに」対してでありました。

私たちは先ず、このキリストの苦難と忍耐のわざの対象とされることによって、このキリスト

の恩恵に対する応答として服従と忍耐をなすことを求められています。

キリストの受難の光のもとで、人間の受難が意味付けられ支えられるのです。

私たちがキリストの苦難に与るとも言えるし、また私たちの苦難をキリストが担いたもうたとも

言えるのです。 24節、25節では、キリストの受難が、私たちの贖罪(罪が赦され神との正しい

関係に入るため)の受難であり、その受難によって私たちが救済されること、罪からの救いが

説かれています。この個所の背後にイザヤ書53章があります。24節の前半「十字架にかかって、

自らその身に私たちの罪を担ってくださいました。私たちが罪に対して死んで、義(救い)によって

生きるようになるためです。」は、イザヤ53章12節にこうあります。「彼が自らをなげうち、

死んで罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをした

のは、この人であった。」十字架を担って苦しむ神こそ、私たちを助けることのできる神なのです。

26. 3月 2018 · 2018年3月4日「わたしたちを誘惑に遭わせず」今村幸文牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

『わたしたちを誘惑に遭わせず』

マタイ6章13節 ヤコブ1章12~15節             今村幸文牧師

今週のみ言葉は「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」となっています。わたしたちのいつもの祈りは「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」です。口語訳聖書では「私たちを試みに会わせないで悪しき者からお救い下さい」です。二つの違いがあります。第一は誘惑と試み(試練)であり、第二は悪い者と悪です。

先ず、第一の誘惑と試練ということですが、原文のギリシャ語では両方の意味に訳される「ペイラスモス」という言葉です。ヤコブの手紙1章2節にも「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。また1章12節にも試練を耐え忍ぶ人は幸いです」とあります。とすると「我らを試みに遭わせず」と祈ることは、ヤコブの手紙のみ言葉と矛盾します。従って新共同訳の「わたしたちを誘惑に遭わせず」との訳が良いということになります。

誘惑とも試練とも訳される「ペイラスモス」はわたしたちが何によって生きているかを明らかにする意味で、わたしたちの正体を明らかにするものです。試練と誘惑ははっきり分けて考えられません。始めからこれは有益な試練だ、これは罪の誘惑だと二種類のものがあって、わたしたちに向かって来るのではありません。

この世でわたしたちが経験するすべてのことが、わたしたち自身の受け止め方によって試練となったり、誘惑となったりするのです。同じことが、もしわたしたちが、信仰によってそれに立ち向かうならば試練となり、信仰によらず、自分の無自覚な欲望によってそれに顔を向けるならば、それは誘惑となるのです。

第二の違いである悪と悪しき者サタンについて考えておきましょう。

悪いことから救い出されたいとの願いは、結局は悪魔の支配から救い出されたいということです。

主イエスは十字架につけられる前夜に弟子たちのために祈り、その祈りの中でこう言われました。ヨハネ17章15節です。「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守って下さることです。」

み言葉によって悪しき者サタンの誘惑に打ち勝たれたイエス・キリストの名によってわたしたちは、サタンと戦い、勝利することができるのです。                     2018年3月4日

24. 3月 2018 · 2018年3月18日「土の器に盛られた至宝」今村幸文牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

先週の宣教要旨 

「土の器に盛られた至宝」    

第二・コリントの信徒への手紙 4章1~12節

今村幸文牧師

聖書は人間をどう見ているか、ということを思いめぐらせて創世記2章7節にこうあります。

「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。

人はこうして生きる者となった。」

人間の形成とその生命との中に神の創造の意志と働きを知ることができます。

今日のみことばに「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています」とあります。

人間は土の器であるというのです。土の器は、鉄や銅の器に比較しますと弱く脆いものです。

人の生涯を、生、老、病、死という言葉で言い表すことがあります。生きる悩み、老いる厳しさ、

病む辛さ、死の悲しみがわたしたちの人生に付き纏っています。
また土の器を金や銀の器と比較しますと殆ど光を発散しません。人間は神の命の息を吹き入れ

られた者として神の意志に従い、神の霊の導きに従って生きるはずの者です。しかし人間は自分

のみを主張し、自我の増大、拡大を図り、神の創造の意志を無視し、人を軽視し、自然や動植物を

乱獲し、生態系の秩序を破壊して来ました。罪とは神の意志に逆らうことです。人間の罪はこの世を

暗黒にしてきました。金や銀以上に輝く存在となるように神によって創造されているにもかかわらず、

神との関係を拒否し、自己中心を貫いてきました。

人間という器は、誠に土の器に過ぎないことが分かります。しかしそのような土の器について、

パウロは「このような宝を与えられている」と言っています。「このような」とは、

神のことば(2)、福音(3)、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光(4)、

イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光(6)と記されている宝です。要約すれば、

「世の光なるキリスト、福音」と言ってよいでしょう。まさに土の器に盛られた至宝です。

5節にこうあります。「わたしたちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス

・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身はイエスのためにあなたがたに仕える僕なの

です。」十字架の主は、復活の主です。土の器はどこまでも土の器ですが、それはキリスとの

死を現わし、復活の命を現わすことに用いられるのです。八方破れのわたしたちですが、

イエス・キリスト・福音の故に十字架の光、復活の光が現われる器とされるのです。

(3月18日)

17. 3月 2018 · 2018年3月11日 「主の最後の祈りを心に刻む」  今村まさゑ協力牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

先週の宣教要旨 

「主の最後の祈りを心に刻む」

ヨハネによる福音書 17章6~19節

今村まさゑ協力牧師

私たちキリスト者にとって、祈りの友が与えられているという程、ありがたいことは

ないと思います。ましてや、神に祈られている、主キリストがこれほどまでに祈ってくだ

さっている・・今朝の17章は十字架に架けられる前日、13章の洗足の出来事からの一日を

5章を費やして書かれた最後の祈りの個所です。古来「大祭司の祈り」といわれ、内容は

3つと言えますが、その2つ目、弟子たちのことを切々と父なる神に願い執り成しているところです。

まず6節に「世から選び出して」とありますが、これは弟子たち、つまり私たちクリスチャンは

神より選び出された者であるということです。自分の意志で選んでキリストの教会に属していると

思いがちですが、実は「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、

汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」(エペソ1:3~)

9節の「彼らのためにお願いします」と繰り返されています。また11節では「彼らを守って

ください」と繰り返されています。何よりも「彼ら」という言葉が23回も記されています。

そして14節、16節に「わたしが世に属していないように彼らも世に属していないからです。」

つまり私たちはこの世にありながらも、世に属する生活ではいけない、世に属さない生き方を

目指しましょう。この世の価値観、この世のことを重要視しない。目指すは神の国であり、

神からの評価です。また、17節の「真理によって、彼らを聖なる者として下さい。あなたの

御言葉は真理です。」6節ですでに、「彼らはあなたのものでしたが」とある通り、

父なる神の者でありながらキリストのみ言葉を受け、それを真理として信じ、受け入れ、

従うことによって、聖別されていくのです。

さらに18節で、ご自分が世に遣わされたように、「わたしも彼らを世に遣わしました」と祈ら

れるのです。礼拝の祝祷は派遣の祈りでもあるのです。罪と汚れに満ちた世へと送り出さ

れる者であります。そのために、主はご自身を捧げてくださいました。

「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら

、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:32)