カテゴリー別アーカイブ: 礼拝メッセージ

2020年3月22日「この海を渡ろう」加山献牧師

「この海を渡ろう」加山献牧師

出エジプト記14章5~16節

【解放されたものを再び捕らえようとする力】

エジプトでの奴隷生活から解放されたイスラエルの民は、意気揚々とエジプトから出ていきました。ところがエジプト王ファラオは心変わりし、えり抜きの軍隊を整え、再びイスラエルを奴隷にするために出撃したのです。

ところで私たちは、主イエスに出会い、主イエスを信じ、どのような状況から救われ、救われつつあるのでしょうか。何が変わり始め、どのような新しい出発をしたのでしょうか。私たちは主イエスによって罪と死の問題、それに付随するあらゆる問題から、すでに救い出されているものなのです。

しかし、解き放たれ自由にされたものを再び支配しようとして追いかけてくる力があるのです。はるか昔に手放したはずの恐れや不安が、再び襲ってくることがあるかもしれません。過ぎ去ったはずの古き支配者が私たちを離そうとせず、追いかけてくることがあるのです。

しかしモーセは「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない」(13節)と人々を励ましました。私たちもこのモーセの励ましに深く耳を傾けたいと思います。この人生の歩みにおいては、私たちを追い詰めようとする様々な出来事があります。しかしながら、「もう二度と、永久にそれらを見ることはない」という、私たちの人生にもたらされる確かな勝利についての良き知らせがあるのです。

【主があなたたちのために戦われる】

「主があなたたちのために戦われる」という宣言の言葉に注目したいと思います。イスラエルの道は海にさえぎられ、後ろからは世界最強の軍隊が迫っていましたのです。もう自分たちの力ではどうすることもできない状態でした。自分で自分自身を救うことのできない人間の弱き姿がここにあります。ですが、自分の力が尽きた時こそが神の御業が現れる絶好の時なのです。

どんなに神を強く信じていても、怖いものは怖いかもしれません。夜の闇が一番深くなる夜明けの時に、民は海に向かって踏み出していかなければなりませんでした。聖書の中で何度も何度も「恐れるな」と語られているのは、私たちの人生には恐れを抱かせるような問題が山のようにあるからです。

人生の苦難の責任を神さまに問いただすのではなく、私自身がこの苦難や問題に問いかけられている者へと変えられていく必要があります。神さまを被告人の席につけて「なぜなのですか」と問い詰めるのではなく、私たちの方が神さまに問われている立場に身を置き換えるのです。

イスラエルの民は神さまのことばを信じて、前に向かって歩み出しました。するとその先に、神さまの力と救いを経験しました。同じように、私たちに必要なことは、キリストのことばを信じて、一歩踏み出すことです。この海を渡りましょう。もし、まだキリストをご自身の救い主として信じておられない方がおられましたら、ぜひイエス・キリストを救い主として、心に受け入れてください。心からお勧めします。

 

 

 

 

 

2020年3月15日「イエスと二人の犯罪人」今村まさゑ協力牧師

「イエスと二人の犯罪人」今村まさゑ協力牧師

ルカによる福音書23章32~47節

受難節(レント)を如何お過ごしでしょうか。今朝は最も大切な箇所として御言を頂き、主の贖いの尊さを心に刻みたいと思います。「十字架上の七言」のうち三言が今朝の箇所に記されています。イエスさまが十字架につけられたのは9時であったとマルコは記していますが、実は前夜から一晩中、不当な裁判で引き回され殴打、鞭打ちで全身は血だらけ、立っていることさえ不可能な状態でした。イエスさまと共に左右に犯罪人も三本の十字架が立ちました。多くの人々がいました。民衆、議員たち、祭司長や律法学者たち、兵士たちが口々に罵しり続けました。弟子たちの多くは、状況が不利になるや主の弟子であることを恐れて、身を隠したのです。

「他人を救った。もしメシヤなら、神から選ばれた者なら、ユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」犯罪人も「自分自身と我々を救ってみろ」と嘲笑したのです。{その時、イエスは言われた。「父よ、彼らをおゆるし下さい。自分が何をしているのか知らないのです。」(34節)と。主イエスさまにとって十字架から飛び降りることなど容易なことでしたが、ご自分を救わぬことで、死ぬべき人類の罪の身代わりとなって救いの道をひらかれたのです。これが十字架の意味であり神の愛なのです。

第二コリント5章21節にこうあります。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちは、その方によって神の義を得ることができたのです。」何という恵みでしょうか。

「父よ、彼らを赦してください。」この執り成しの祈りを真近で聞いたもう一人の犯罪人は、肉体が張り裂けるような苦しみのなか、「お前は神をも恐れないのか。」と、神への畏敬の念にかられ愚かな罪人がいたことを思い出してほしいと願ったのです。するとイエスさまは、「アーメン、アーメン、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(43節)と言われました。大罪人であっても罪を悔い改めるなら赦されるのです。キリストの十字架の身代わりの故に、無条件に赦され神の国に招き入れて下さるのです。

昼の12時頃、全地は暗くなり3時頃まで続き、太陽は光を失っていた。イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」(46節)こう言って息を引き取られたのです。この出来事を一部始終、目撃した百人隊長は「本当に、この人は神の子だった。」と言って神を讃美したと記されています。

そして、三日目の朝、主イエスさまはご復活されたのです。今年は4月12日が復活祭(イースター)です。ハレルヤ!

 

 

 

 

2020年3月8日「御心がなりますように」加山献牧師

「御心がなりますように」加山献牧師

マタイによる福音書6章10節

主の祈りの第3の願い「御心がなりますように」という祈りを通して、3つのポイントで考えていきたいと思います。

①わたしたちの思いと異なる神さまの心

私たちの思いよりも遥かに高い神さまの御心、私たちの計画よりも遥かに勝る神さまの道があります。私の願いを神さまに届けることよりも、神さまがこの私たちに願っておられることを実現するために祈る、そこに祈りの本質があります。

天で行われている、神さまの御心が地でもなされるように、この世界で、私の心のうちになされるように祈っていきたいと思います。

②神の心を尋ね求める

私たちの人生は決断の連続です。一つ一つの決断が私の人生を左右します。理性的に考えなくてはなりません。しかし、信仰を持っている人は何が神さまの御心であるか、尋ね求める、ということです。

私の思いを置いて、天の父に私の人生を委ねる時に、私の選ぶべき道、私のとるべき態度、私の語るべき言葉、私が生きるべき人生に導かれていきます。

神さまにすべてを委ねて生きる人生の、最も優れた模範はイエス・キリストご自身です。マルコによる福音書14章32節~36節『アッバ、父よ、・・・しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。』と祈られています。

③究極的な神の心ー救い

父なる神さまはどのような思いでこの祈りを聞かれていたでしょうか。御子イエスさまが十字架の道を進まれる姿を、涙を持って見つめておられたことでしょう。私たちが飲むべき裁きと怒りの杯をイエスさまが飲み干してくださり、代わりに私たちに赦しと救いの杯を与えてくださいました。イエス・キリストを信じるものが一人も滅びないで、永遠の命を得ること、すべての人が救われることが、神さまの御心です。

神さまはこの世界に対して、私の人生に対して、関心を持っておられ、明確な救いの意思を持っておられます。この神さまの救いが、神さまの心が世界でなされてますように、求めていきたいと思います。受難節(レント)の時に入っています。イエスさまの御苦しみを通してなされた神の御心を求め、祈りましょう。

 

 

 

 

2020年3月1日「新しい出発」加山献牧師

「新しい出発」加山献牧師

出エジプト記12章31節~39節

1.新しい出発

出エジプト記のテーマは「脱出」です。イスラエルの民はエジプトに囚われ、閉じ込められ、厳しい労働を課せられて、苦しんでいました。そこから神さまに救い出され「脱出」する。それが出エジプト記のテーマです。

私たちも、自らの人生をそこになぞらえて、重ね合わせるようにして、このみことばをいただいていきたいと思います。私たちが閉じ込められている、抜け出すことのできない現実、神さまが、私たちをそこから救い出してくださる、「脱出」させてくださる。

私たちはどんなところに閉じ込められているのでしょうか。私たちは、どんな現実に囚われていて、動けなくなっているのでしょうか。人間関係、経済的な状況、過酷な労働、自分自身の内側にある葛藤、不安、怒り、孤独、悲しみ・・・、私たちは様々なしがらみの中で苦しみ、そこから動けずにいるかもしれません。しかし、神さまが私たちをそこから救い出し、持ち運んでくださる。究極的には、神さまが私を「罪と死」から救ってくださる。それが出エジプトの語る福音です。

2.酵母を入れないパンが指し示すもの

ユダヤの人々は聖書の時代から現在に至るまで、出エジプトの出来事を記念して過越の祭りを祝っていますが、今でもこの祭りの時には、酵母を入れないパンが食べられます。この酵母を入れないパン(=種なしパン)は聖書の中で特別な意味を持って語られています。

主イエスは「ファリサイ派の人々のパン種(=自己義認)とヘロデのパン種(=高慢な心)によく気をつけなさい」と戒められ(マルコ8章15節)、使徒パウロはコリントの教会に宛てた手紙の中で、「いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。」(第一コリント5章6節)とコリントの教会の人々を励ましました。

パン種(酵母)は聖書の中で、自己義認、高慢な心、悪意、そして罪を象徴しています。自分自身の心に悪意、高慢、自己中心などの罪が入ってこないように、よく心を見張るものでありたいと願います。

3.種なしパンと主の晩餐

種なしパンの最も重要な意味は、それがイエス・キリストご自身を指し示している、ということです。全く罪のないお方が、私たちのために裂かれた、ということです。

私たちは「自分をよく確かめた上で、パンを食べ、杯から飲むべきです」と教えられています。主の晩餐を受ける時、自分の心を確かめることが大切です。しかしながら、「私はこのパンと杯を受けるに値しない、私はふさわしくない」と恐れないでください。「こんな私が赦されたのだ、こんな私が受け入れられたのだ」と感謝して、主のからだと血とを受け取っていただきたいと思います。「主の晩餐を受けるにふさわしいもの」とは、主の救いを受け入れたもののことです。「私は罪人です。私を憐んでください」と主の前に悔い改めたもののことです。パン種の入っていないパン、罪なき方である主イエスをいただいて、私たちは今日も救いを受け取りつつ信仰の旅を歩みましょう。

 

 

2020年2月23日「過越の夜」加山献牧師

「過越の夜」加山献牧師

出エジプト記12章21節~28節

過越の祭りは、ユダヤ民族にとって変わってはならない、失われてはならないものとして受け継がれてきたものでした。この祭りはユダヤの三大祭りのひとつとして、現在も祝われています。

【過越の夜、何が起きたのか?】

今から約3000年前のこと、モーセはエジプト王ファラオのもとへ遣わされ「奴隷となっているイスラエルの民を解放してください、そうでないとまた災いがエジプトに降ります」という警告のメッセージを語りました。モーセはこれまで、すでに9回も警告のメッセージを伝え、その度にエジプトを災害が襲いました。そして10番目の最も恐ろしい災いがエジプトを襲おうとしていたのです。それは、エジプトに住んでいる全ての家庭の初子(長男)の命が失われる、というものでした。

しかしイスラエルの家の子どもは、不思議な方法でその災いから免れることができる、というのです。それは、家族ごとに一頭の羊を屠り、戸口の柱と鴨居にその羊の血を塗りなさい、という不思議な指示でした。それを守ればイスラエルの家には災いが訪れず、神様の裁きはその家を通りすぎ、「過ぎ越し」ていった、というのです。

この出来事を記念する過越祭は、エジプトからの脱出、救いと解放を証しして、次の世代に伝えていくための伝統となりました。そして「死」という災いがイスラエルの家を過ぎ越していったことを記念するものとなったのです。

 

【過越の食事と主の晩餐】

主イエスは十字架にかかられる前の夜、弟子たちと共に過越の食卓に着かれました。一般的に「最後の晩餐」として知られている場面です。「皆、この杯から飲みなさい。これは罪が赦されるように、多くの人のために流される、私の契約の血である。」(マタイ5:27~28)

新約の時代を生きる私たちにとって、主の晩餐式とは、どのようにして神が私たちを救ってくださったのか、どのようにして私たちは罪の縄目から解放されたのかを、思い起こし、次の世代に伝えていくための儀式です。そして、出エジプト記で犠牲になった過越の羊は、やがて来られるキリストを指し示すものなのです。

 

【人は何によって救われるのか?】

私たちを救うのはイエス・キリストの血潮だけです。これを離れて、私たちの救いはありません。誰にでも「死と向き合う」その日はやってきます。死は私たちのドアを一軒一軒回り、私のドアをノックする日が必ずやってきます。

そのような状況の中で、私たちを慰めるのは、行いでも、品性でも、功績でもありません。その時、私たちを慰めるのは、私を愛し、私のために命を捨てられた、キリストだけが私たちの慰めです。小羊の血には力がある。このことを過越の夜は語っています。

 

 

 

2020年2月16日「恐れるな。あなたはわたしのもの」今村まさゑ協力牧師

「恐れるな。あなたはわたしのもの」今村まさゑ協力牧師

イザヤ書43章1節~3節

イザヤ書は小聖書といわれる。聖書は旧約39巻と新約27巻、合わせて66巻です。イザヤ書も66章。1章~39章までが第一イザヤ、40~66章までが第二、第三イザヤです。その内容も旧約は律法、預言、諸書から成り、イスラエル民族の罪の歴史が記され、新約はキリストの誕生によって、全人類の罪が贖われるという救いの福音が中心です。イザヤ書も39章までは暗く厳しい亡国の悲しみ、裁きの内容で、40章からは慰めに満ちた救いの希望の言葉が語られています。イザヤは前8世紀に生まれた最も偉大な預言者といわれています。(イザヤ6:1~13、10:20~22)

イザヤ書のバビロン捕囚とは、南ユダの最後の王、ヒゼキヤは捕らえられ目前で自が王子たちや貴族たちもすべて殺され、王自身は両眼をつぶされ、青銅の足枷をはめられ、約1000㎞の道のりを引かれていったのです。(エレ39:6~、列王下19~20章)

今朝の43章は、神に対して犯した罪の結果、国は滅びバビロン捕囚の身である人々に対して創造主なる神が、今、再びこう言われる。「恐れるな。わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」と。

放蕩息子は遂に豚の餌で空腹を満たしたいと思うほどに身を持ち崩し、息子ではなく雇人の一人にと恐れつつ故郷に近づいた時、まだ遠くに居たのに走り寄って抱きしめた父のように、「恐れるな。あなたはわたしのもの」と言って下さるのです。「わたしは主、あなたの神、聖なる神、あなたの救い主。」わたしこそあなたの主、神であると繰り返されています。

「罪が支払う報酬は死です。」(ロマ6:23)捕らわれた者を解放するためには身代金が必要です。3節のエジプト、クシュとセバはエチオピアのことで紅海沿いの大国を代償とする。それほど「わたしの目にはあなたは価高く、尊く、わたしはあなたを愛する・・」と言っておられるのです。更に、5節で「恐れるな。わたしはあなたと共にいる。」絶望と恐れのなかにいた捕囚の民に帰還が告げられていくのです。「わたしは、あなたを贖う。あなたの名を呼ぶ。」確かに多くの人々が名を呼ばれました。

「恐れるな。アブラムよ。」(創15:1~ 22:1~) 「モーセよ。」(出3:4~)「サムエルよ。」(サム上3:1~ ) 「ザアカイ、」(ルカ19:1~)「マリア」(ヨハネ20:15~)「ラザロ、」(ヨハネ11:38~)「ピリポ、」(ヨハネ14:9)そして今朝、私達に対しても「見よ、わたしは世の終わりまで、いつも、あなたと共にいる。」(マタイ28:20)と語っておられます。横尾家の旅立ちを祈りましょう。

 

 

 

2020年2月9日「渇いている人は誰でも」加山献牧師

「渇いている人は誰でも」加山献牧師

ヨハネによる福音書7章37節~39節

イエスさまは弟子たちと共に、エルサレムに上って来ていました。ユダヤの三大祭りのひとつ仮庵祭という秋の祭りを祝うためでした。

◆時期:仮庵の祭りについて

かつてイスラエルの人々がエジプトから、約束の地であるカナンを目指して旅をした時、40年間荒野でテント生活した、ということを思い起こすための祭りでした。砂漠で飲み水に困っていたイスラエルの民に対して、神さまが岩から泉を湧き上がらせて助けてくださったことを記念して水の歌が歌われます。「マイム・マイム」というヘブライ語のフォークソングの歌詞も仮庵の祭りで歌われるイザヤ書の聖句からとられています。

◆ 状況:注目される主イエス

ガリラヤ地方の人々はいつもイエスさまの話を聞いていましたが、エルサレムの人やその他の地域から来ている人々にとっては、年に三回ある巡礼祭、都詣での期間が唯一、イエスさまと接触するチャンスでした。

一方では、妬みに燃えていた宗教的な指導者たちはイエスさまをとらえる機会をうかがっていました。この時からわずか半年後、もうひとつの巡礼祭である過越の祭りの時にイエスさまは十字架にかけられます。多くの人の関心がイエスさまの言動に集まっていたのです。

◆ メッセージ:生ける水、主イエスからの救いの招き

祭りが最も盛り上がる時に、「渇いている人は誰でも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」イエスさまは大声で言われました。

(1)誰が救いに招かれているのか?

イエスさまは「渇いている人は誰でも」と呼びかけられました。分け隔てなく、すべての人がこの救いに招かれています。

(2)誰が招きに応答するのか?

それは心に渇きを覚えている人、自分が渇いている、ということを知っている人です。私たちはどれほど、自分の魂の渇きに注意を向けているでしょうか?物質的な豊さの中にあっても、私たちは心の渇きを忘れないものでありたいと願います

(3)信じたものに与えられる泉とは?

「私を信じるものは、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」とイエスさまは言われました。この泉は溢れ流れて、渇いた大地を潤します。そして私たちの隣人を生かします。

イエスさまはこの半年後、十字架、復活、昇天を通して栄光を受けられることになります。そして、翌年のペンテコステの日に、教会に聖霊が注がれました。今は教会の時代であり、聖霊の時代です。私たちの内に与えられた聖霊の働き、この泉の流れを閉ざすことなく、解き放つ者でありたいと願います。

 

 

 

2020年2月2日「御国が来ますように」加山献牧師

「御国が来ますように」加山献牧師

マタイによる福音書6章10節

主イエスが教えてくださった「御国が来ますように」という祈りについて考えましょう。主イエスの宣教において「御国」(=神の国)は最も重要なテーマでした。主が公の働きを開始され、最初に語られたのも「時は満ち、神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じなさい」という神の国についてのメッセージでした(マルコ1:15)。

ところで皆さんは、カルチャーショックを体験されたことはあるでしょうか。学校や職場が変わった時、新しい教会に移って来た時、新しい集団生活や結婚生活をはじめた時も、他の人との関わり合いの中で、文化の違い、育ってきた環境の違いというものを体験することがあります。

もし私たちが神の国(神のご支配の中)に入っていくならば、どのようなカルチャーショックを体験するのでしょうか。「貧しいものは幸いです。」「悲しむものは幸いです。」「あなたの敵を愛しなさい。」主の言葉によって表現された価値観、この世の文化とは全く違う真逆の価値観を体験するのです。

実は主イエスが語られた神の国は新しいものではなく、もともと人間が神との間に持っていた自然の関係だったのです。しかし罪が人に、そしてこの世界に入ってきたことにより、御国の文化は逆転させられてしまったのです。それまで神中心だった世界観が、自分中心の人生観に移り変わりました。価値観が自己中心に移ってしまったために、私たちは神様の愛や周りの人の愛を「自分の力」で勝ち取らなければならない存在になってしまったのです。

価値観の逆転が起こると共に、関係性の断絶がおきました。人と人との関係に、そして人と神様の関係に断絶がおきました。つまり、罪は全ての関係性を「条件つきの関係」に閉じ込めてしまったことになります。条件付きというのは、すなわち「人はありのままに愛され、ありのままに愛することができなくなった」ということです。

聖書が語る「神の国」には「すでに」と「いまだ」という二つのアスペクトがあります。主イエスの到来により、すでに修復された関係(神と人との関係、人と人との関係)があります。「実に神の国はあなたがたの只中にあるのだ。」(ルカ17:21)ありのまま愛されることができるという領域、ありのままの他者を愛することができる、という文化が回復され、私たちの間に「すでにある」のです。

ところが「いまだ」この世界には神の国が届いていない場所があります。この世界には憎しみがあり、敵意があり、戦争があり、貧困があり、差別があり、分断があります。それどころか、私たちの内側にも、この心の中にも、神の国が広がりきっていない領域があるのです。「御国を来らせてください」と祈りましょう。この世界に、この国に、私たちの住むこの街に、そして私の心に「御国を来らせてください」と祈りましょう。

この神の国を世界に広げていくことが教会の使命です。「あなたはありのままで愛されている。」「あなたはありのままの他者を愛することができる。」これが私たちの語るべきメッセージ、私たちの生きるべきメッセージです。これが御国の文化です。やがて、主がもう一度来られ、私たちを迎えてくださる時、この愛の御国が最終的に完成されるのです。 その希望を仰ぎ見つつ、私たちは今日も祈りましょう。「御国が来ますように。」

 

 

 

2020年1月26日「あなたはできる」加山献牧師 通訳:朱圭承宣教師

「あなたはできる」加山献牧師 通訳:朱圭承宣教師

出エジプト記4章10節~17節

4章2節で、神さまはモーセに言われました。「あなたの手にあるものは何か。」モーセは「杖です」と答えました。それは彼が今まで、羊を導くために用いてきた杖でした。杖は、モーセの経験、通らされて来た道の象徴です。その杖を用いて、モーセはイスラエルの民を導いていくことになります。その杖を手にとって、モーセは紅海を分け、岩から水を流し、渇いた民の喉を潤しました。

同じように、今、私たちの手の中にあるもので神さまはみ業を成し遂げられます。それは、私たちが通らされてきた道のり、成功や挫折、様々な経験であるかもしれません。神にとって、私たちの人生にむだなことはひとつもなかったのです。

10節でモーセは「わたしは弁が立ちません。わたしは口が重く、舌の重い者なのです」と語りました。さらに13節には「ああ主よ。どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください」とまで神さまに語りました。そして14節、「主はついに、モーセに向かって怒りを発して言われた」とあります。怒るに遅く、憐れみに富んでおられる神さまが、ついにお怒りになったのです。

なぜ神さまはここでお怒りになったのでしょうか?神さまにとって、モーセの代わりはどこにもいなかったからなのです。モーセが立ち上がらなければ、誰も成し遂げられない働きがあったのです。同じように、わたしたち一人一人にも神さまが願っておられる人生があります。その使命を全うするために、わたしたち召されているのです。

「わたしはできません」とモーセは言いました。しかし神さまは「あなたはできる」と言われたのです。一人一人に召された人生があります。時に、神さまが与えられた人生は重たく感じられることがあるかもしれません。でもたったひとりでそれを背負っていくのではありません。人生を共に生きていく兄弟姉妹がいます。そして、聖霊なる神として、わが内におられるキリストがおられます。「さあ、あなたはこの杖を手に取って、しるしを行うがよい。」(17節)「あなたはできる」と言われる主のみ声に耳をかたむけましょう。

 

 

 

2020年1月19日「御名が崇められますように」加山献牧師

「御名が崇められますように」加山献牧師

マタイによる福音書6章9節

【主の祈りの強調点】

主の祈りは「天におられる、私たちの父よ」という呼びかけの言葉に、七つの願いが続いています。第一に「御名が崇められますように」、第二に「御国が来ますように」、第三に「御心がなりますように」、この前半部分の三つの願いは神の栄光に関する事柄を祈っています。それらに対して後半の三つの祈りは、私たちの生活の上での具体的な必要を願い求めています。「日毎の糧をお与えください」、「罪をおゆるしください」、「試みにあわせずお救いください」という祈りです。そして最後に「国と力と栄えとはあなたのものです」というダビデの祈りが旧約聖書から加えられています。

主の祈りの一つ一つの願いには優先順位があり、大切な方から順番に並んでいると言われています。つまりキリスト者が最優先に祈り求めていくべき事柄は、この世界において、また私たちの生活のあらゆる場面において「神の御名が崇められること」である、というのです。

 

【御名を崇める-聖さの意味】

ギリシア語本文を直訳すると「あなたの名前は聖なるものとされよ」という命令形なります。私たちを含めた、この世界のすべてが、神の存在に真の価値を見出し、神の御名を賛美するように、という祈りです。崇めるという言葉はギリシア語で「ハギアゾー」となっています。「聖なるものとされる、聖別される」という意味です。ヘブライ語の「カドーシュ」という言葉にまで遡ると、神の御名がこの世界のあらゆるものとはっきり「分かたれ、区別される」ことを意味しています。

ある面において、この祈りは「神の御名は天において崇められている、けれども実は地においては崇められていない」という現実を前提としています。教会の働きは、神さまが尊ばれないこの世界にあって、他の何ものにも変えられない、大切な存在として、神さまを宣べ伝えることです。

旧約聖書で明かされた神の名「יהוה(YHWH)」は、かつては「エホバ」と呼ばれ、現在は「ヤハウェ」とも呼ばれています。しかし、正確な発音は歴史の中で失われてしまいました。しかし新約聖書は、イエス・キリストという、もうひとつの御名を私たちに示しました(フィリピ2:10、ヨハネ福音書17:11など)。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」(使徒4:12)

主の御名が聖なるものとされるために、この御名の尊さを恥じることなく世に向かって宣言していきましょう。