10. 7月 2018 · 2018年6月24日「新しくされている」K.J.シャフナー 協力牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

『新しくされている』 K.J.シャフナー 協力牧師

エフェソの信徒への手紙4章17~32節

 

神様は今年度、早良教会において、どのような新しいことをおこなってくださるでしょうか。神様は私たちに新しい心を与え、石の心を肉の心へと変えてくださいます(エゼキエル書36章26節)。パウロは古い人間を脱ぎ捨て、新しい人を身に着けるように勧めています。このエフェソの箇所にこの新しい生き方は4つの領域で見えてきます。

1)話し方が変わります。 偽り(25節)、腐敗をもたらす汚い言葉(29節)、わめきやののしりを脱ぎ捨て(29節)、代わりに真理(25節)、恵みを与える言葉、人を作り上げるのに役に立つ言葉(29節)を身に着けるようになります。

2)感情が変わります。人間が感情を抱くのは自然ですが、それが心に根おろすことがないようにとパウロは勧めます。怒り(26節)、恨み(31節)が憤りや復讐に拡大しないように。

3)働き方も変わります。(28節)財産を増やすためではなく、自分の生活を支え、他の人を助けるために働くようになります。

4)人との接し方も変わります。心が神の恵みによって新しくされている人は互いに体の一部になって、互いに益になり、親切で理解のある愛の心を持つ者となり、赦されているように赦し合うように変わります(25節、32節)。

このプロセスは神の恵みによって始まり、朝毎に新たなる恵みによって続けられます。神様はその業を成し遂げてくださると約束されています(フィリピ1章6節)。パウロはローマの信徒に「この世に倣ってはならず。むしろ心を新たにして自分を変えていただく」ように勧めています(12章2節)。私たちが古い人を脱ぎ捨て、新しい人を身に着けるように選ぶことによって、神様は私たちを新しくしてくださいます。

10. 7月 2018 · 2018年6月17日「備えあれば憂いなし」 加山 献 牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

『備えあれば憂いなし』 加山 献 牧師

創世記22章1節~19節

 

創世記22章において、アブラハムは大きな試練を経験しました。なぜ神はこのような恐ろしい試練をアブラハムにお与えになったのでしょうか。ブルッグマンという聖書学者はアブラハムのこの試練について次のように説明しています。「神は、誰が信仰について真剣であるかを見極め、誰の人生の中で、神として働くことができるかを判断するために試みられる。」つまり神は、信じる者の人生の中で神として働いてくださる方だというのです。確かに、神は信じる者とタッグを組み、その人生のうちに働いてくださる方であることをアブラハムの人生を通して知ることができます。

さらに、アブラハムは人類の歴史の中で、最も父なる神さまの悲しみと愛を知る人物となったと言えます。2節で神は次のように命じています。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて行きなさい。」愛するひとり子をささげなければならない、そして自分がそれを実行しなければならない、という父の悲しみがここにあります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)愛するひとり子を十字架に引き渡すという父なる神の悲しみを思い起こします。7節以降には、アブラハムとイサクはゆっくり、静かに、一緒に歩いて行く様子が描かれています。しかし、息子イサクがその静寂を破ります。「献げ物にする小羊はどこにいるのですか」と父アブラハムに聞くのです。アブラハムは答えます。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」アブラハムが語った通り、神はイサクの代わりにささげるための小羊を備えておられました。バプテスマのヨハネが主イエスを指して語った言葉を連想します。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」(ヨハネ1:29)

創世記22章は神について二つのことを示しています。神は試みる方であり、同時に神は備えてくださる方である、ということです。第一コリント10章13節にはこのようにあります。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」モリヤの山の小羊がイエス・キリストを指し示していたように、わたしたちにとっての逃れの道もイエス・キリストを示しています。「神は真実な方です。」カトリックのフランシスコ会は「神は信頼に値する方です」と訳しています。まさにその通りです。父なる神さまが備えてくださった小羊は、わたしたちに天国行きの切符をもたらしました。しかしそれだけではなく、わたしたちがその目的地に向かうまでの道中、時には辛く厳しいこの道のなかで、逃れの道となってくださるのです。                          (6月17日)

20. 6月 2018 · 2018年6月10日 「祈り、讃美、奉献」 今村幸文 協力牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

『祈り、讃美、奉献』  今村幸文 協力牧師

歴代誌上29章1~17節

ダビデは神殿建築のために多くの備えをしてきました。そして、この聖書箇所において、ダビデはイスラエルの全会衆を前にして、奉献の奨めをします。「わたしは、わたしの神の神殿に対するあつい思いのゆえに、わたしの個人の財産である金銀を、聖所のために準備したこれらすべてに加えて、わたしの神の神殿のために寄贈する。・・・今日、自ら進んで手を満たし、主に差し出す者はいないか。」(3~4節)するとイスラエルの民は「全き心を持って自ら進んで主にささげた」とあります。

更にダビデは感謝の祈りを主にささげました。祈りはわたしたちの信仰生活の呼吸そのものです。主イエスも祈りの生活を大切にされました。神殿建築という大きな働きを前にして、ダビデは祈りによって主に向かい合っています。

ダビデの祈りは讃美から始まっています。「わたしたちの父祖イスラエルの神、主よ、あなたは世々とこしえにほめたたえられますように。偉大さ、力、光輝、威光、栄光は、主よ、あなたのもの。まことに天と地にあるすべてのものはあなたのもの。・・・わたしたちの神よ、今こそわたしたちはあなたに感謝し、輝かしい御名を賛美します。」(10~13節)ここに、わたしたちがダビデの祈りに学ぶところがあります。わたしたちの祈りと讃美はつながっているでしょうか。ついつい願いの祈りばかりが多くなってしまいがちのわたしたちです。主が弟子たちに教えてくださった祈りのように「御名をあがめる」祈りを心がけていきたいです。

14節では、王であるダビデが次のように言うのです。「このような寄進ができるとしても、わたしなど果たして何者でしょう、わたしの民など何者でしょう。」主の前にあっては何者でもないわたしであることをわきまえている祈りです。ダビデは次のように続けます。「すべてはあなたからいただいたもの、わたしたちは御手から受け取って、差し出したにすぎません。」わたしたちには、自分の持っているものを自分のものと思う心が入り混じっていないでしょうか。ダビデが祈っているように、わたしたちの持っているものすべてが主によって与えられたものなのです。与えられたものを主にお返ししていく、それが「奉献の心」です。

20. 6月 2018 · 2018年6月3日 「教会が教会であるために」 加山 献 牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

『教会が教会であるために』 加山 献 牧師

第一コリントの信徒への手紙12章12~27節

コリントはローマ人、ギリシャ人、ユダヤ人が共存し、裕福な人々と貧しい労働者、そして多くの奴隷が住む街でした。このコリントの街に立てられた教会は、自ずと多種多様なバックグラウンドを持った人々が集まるようになりました。そしてコリントの教会が抱えていた問題の一つに、なかなか一致できない、ということがありました。この教会の人々にパウロが書き送った手紙、第一コリント12章の中に後世の教会が大切に受け継いできたメッセージがあります。それは27節「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」という言葉です。この大切な使信を3つの要点で考えて見たいと思います。

第一に、ひとりひとりが必要とされている、ということです。居ても居なくても、どちらでもよいという人はひとりもいません。福音書の中で99匹の羊を残して、はぐれた一匹の羊を探し求める羊飼いの例えがありますが、ここでもまさに同じことが言われています。ひとりひとりが大切なのです。22節ではこのように書かれています。「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。」一般的に、弱さは歓迎されません。わたしたち自身も自分の弱さを克服して、強くありたいと願います。ですが今日の聖書の言葉は、その価値観が逆転しています。わたしたちは弱さの故に神さまを頼り、弱さの故に神さまの栄光を見ます。確かに生きていく強さも必要です。ある意味で、人生には強さを身につけなければならない局面が多いです。しかし同時に人間には限界があるということを覚えたいです。この世界には、弱いままでも、泣いたままでも受け入れてくれる場所がある。教会はまさにそのような場所です。

第二に、ひとりひとりが違った存在であるということです。教会には一致が必要ですが、一致というのは、全員が完全に同じような人になることではありません。17節には「もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。」という言葉があります。ひとりひとりが違っているからこそ、お互いに補い合えるのです。

第三に、一つの部分が苦しめば、全体が共に苦しむということです。一人の人に悲しみがあれば、私たちは共に悲しむ存在でありたいです。そして、悲しいこと、苦しいことがあれば、ぜひひとりで抱え込まないでください。それを皆に公表する必要はありませんが、信頼できる誰かに分かち合ってください。喜びに関しても同じです。一人の人に喜びがあれば、私たちはみんなでそのことを喜びたい。喜ぶものと共に喜び、泣くものと共に泣く、それが教会の交わりです。

07. 6月 2018 · 2018年5月27日 「かわらない約束」 加山 献 牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

『かわらない約束』 加山 献 牧師

創世記12章1~4節

アブラハムは紀元前2000年ごろに古代メソポタミアのウルという大都市で生まれたと言われています。創世記12章1節で神はアブラハムに語られます。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。」ここで神さまはアブラハムの人生に向かうべき場所を与えられました。

ヘブライ人への手紙11章8節~9節には次のようにあります。「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。 信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。」さらに16節には次のようにあります。「ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです。 」ヘブライ書によるとアブラハムが最終的に目指していた目的地、神さまが示された地は、天の故郷だというのです。

創世記12章2節、3節は次のように続きます。「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」ここにアブラハムに対する神さまの約束があります。

アブラハムの子孫を大いなる国民とし、アブラハムの名を高める、という約束があります。しかし、最も重要な約束はこれです。「地上のすべての民族は、あなたによって祝福に入る。」この神さまの約束は、アブラハムの人生の使命と密接に結びついています。それは地上のすべての国を、すべての民を祝福する、という使命です。「祝福」と訳されているベラカーというヘブライ語は、根源的には「命を与える」という意味を持っています。アブラハムからイスラエルに、イスラエルからキリストが顕れ、キリストから教会に祝福の使命が受け継がれたのです。言い換えてみると、教会は命を与える使命を持っています。それはキリストの命を与えていく、ということです。今から約4000年前に神さまがアブラハムに約束された「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」という、今もかわらない約束は、この教会の働きのうちに成就して続けています。                                     (5月27日)

30. 5月 2018 · 2018年5月20日 「聖霊の賜物」 今村まさゑ 協力牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

『聖霊の賜物』 ルカによる福音書8章43~48節

今村まさゑ 協力牧師

今朝はペンテコステ(聖霊降臨)礼拝です。ペンテコステとはギリシャ語で「第50」の意で、キリストが十字架で殺され3日後に復活された日より7週間を経た翌日、今年は4月1日がイースターでしたから5月20日の今朝がその記念日なのです。「一同が一つになって祈っていると、突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。・・」(使徒言行録2:1~)

つまり神の霊が信ずる者の上に降り、キリストの教会が誕生していった記念の日です。礼拝の後、幸いなことにダウン症の光君の信仰告白・バプテスマ式が行われます。まさに聖霊の働きを目で見ることでしょう。なぜなら「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」(第一コリント12:3)

今朝の聖書箇所ですが「ときに、12年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえない女がいた。」当時の律法では、出血が続くのは汚れを意味し、共同生活からも礼拝生活からも断たれ、それが12年間の長きに及び、経済的にも絶望の只中に居りました。が、彼女は遂に行動を起こしキリストに近寄ったのです。女は、群衆に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れると、直ちに出血が止まった。女はすぐさま身を隠そうと思ったでありましょうが、「わたしに触れたのはだれか」と言われた。周辺の人々は皆、自分ではないと答えますが、イエスは「だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ。」服に触れたからではなく、絶対的なキリストの力が病を治したのです。女は震えながらひれ伏し、触れた理由とたちまちいやされた次第を皆の前で話したのです。ここで女は、初めて人格的にキリストに向き合えました。

人格という語元は「顔」です。顔と顔を合わせることが人格的交わりです。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と。イエスが女を探し出したのは、咎めるためではなく、真に立ち上がらせ交わるため、病が治ったということが公にされ宣言される必要があったためでした。幼稚で迷信的な女の行動を「あなたの信仰」と言って正し導き励まして下さる。何という恵みでしょうか。復活されたキリストは今も生きておられ、聖霊として今も働いておられます。「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」(ヘブライ12:2)今週も安心して遣わされていきましょう。 (5月20日)

30. 5月 2018 · 2018年5月13日 「もう泣かなくてもいい」 加山 献 牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

『もう泣かなくてもいい』 ルカによる福音書7章11~17節

加山 献 牧師

聖書には母親にまつわる物語がたくさんあります。そのひとつである「ナインのやもめ」として知られている母親のストーリーに注目してみたいと思います。

主イエスと弟子たちは旅の途中「ナイン」という町に訪れました。そこで主イエスはある葬儀の列と出会われました。「イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。」(12節)この母親は連れ添ってきた伴侶に先立たれ、そして今度は彼女の生きる支えであったであろう、ひとり息子もなくしてしまったというのです。

13節で、主イエスはこの母親をみて憐れに思ったとあります。この憐れに思ったというのはただかわいそうに思った、ということとは違います。はらわたがちぎれそうになるほどの痛みを、胸がはちきれそうな痛みをからだの内側から覚えていたということです。そして、この母親に言われたのです。「もう泣かなくともよい」。なぜ主イエスは絶望の中にある女性に「もう泣かなくともよい」と語ることができたのでしょうか。それはイエス様ご自身が、この悲しみに終焉をもたらす方であったからです。

15節では、主イエスは息子をその母親にお返しになりました。愛する家族や友人を先に天に送ることは、私たちにとって本当に辛いことです。しかし、主イエスはいつの日か、愛する人たちとの再会を備えてくださる方であることを、私たちは思い起こしたいです。

愛する人を天に送ったものの悲しみに寄り添ってくださる方がいます。そしてイエス様は必ず愛する人を返してくださいます。その希望に基づいて、イエス様は今日も私たちに宣言されます。「もう泣かなくてもいい。」私たちの新しい一週間の歩みがこの希望に基づいたものでありますように。 (5月13日)

19. 5月 2018 · 2018年5月6日 「胸をはって生きていこう」 加山 献 牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

『胸をはって生きていこう』 ローマの信徒への手紙5章1~11節

加山 献 牧師

ある心理学者が人間を不幸にする感情がふたつあると言いました。ひとつは憎しみ、もうひとつは罪悪感だそうです。憎しみは「他人」を赦すことができないということであり、罪悪感は「自分」を赦すことができないということだそうです。

ローマ書5章は「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから・・・」という言葉ではじまります。「義認」という言葉があります。「義認」は聖書の教えの中で大切な要素の一つであり、わかりやすくいうと、正しい人と認められるという意味をもっています。いったい誰から、正しい人と認められることだというのでしょうか。人の基準で正しいものと認められるという意味ではありません。わたしたちは、神様の目から見て、神様の基準で正しいものと認められたというのです。

わたしたちは行いによって義とされたのではなく、信仰によって、義とされたということに注目したいと思います。昨年は宗教改革があって、500年目の年でした。マルティン・ルターがこの改革の立役者でした。彼は人一倍、神様に認められることを求めていた人でした。しかし、正しくあればあろうとするほど、救いの確信も得られず罪悪感にさいなまれていたのです。彼はローマ書の研究に没頭しているときに次のことに気づいたといいます。自分はもうすでに神に認められ、受け入れられていたという事実に。

神は聖なる方で、圧倒的なきよさのゆえに少しの罪も見過ごすことのできない方です。その正しさのゆえに、私たちの罪を大目に見ることはできないお方なのです。「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。」(8~9節)まさに「十字架」、それは神の義と神の愛の出会えるところなのです。

わたしたちの罪を見過ごすことはできない、しかしわたしたちを愛してやまない神がイエス・キリストを十字架によって、私たちの罪の代価を全て支払ってくださったのです。わたしたちはキリストの血によって、それを信じる信仰によって、義とされ、正しいものとされ、認められ、受け入れられ、許されました。わたしたちはもはや自分自身を責め立てる必要はありません。謙虚に、それでも胸をはって生きていくことがゆるされているのです。  (5月6日)

11. 5月 2018 · 2018年4月29日「私たちの真ん中に立ち給うキリスト」 今村まさゑ 協力牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「私たちの真ん中に立ち給うキリスト」 今村まさゑ 協力牧師

ヨハネによる福音書20章24~29節

今朝の箇所は復活記事の最後の出来事です。トマスと言えば疑い深い人の代表のように思い勝ちです。しかし、ラザロを復活させるためユダヤへ戻ろうとされるイエスさまが、石で撃ち殺されるかも知れないと案じ反対する弟子たちに、「行って共に死のうではないか」と言ったのはトマスでしたし(11:16)、また決別の話をされた時、「何処に行かれるのか解りません」とイエスさまに率直に問い「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない」(14:6)と語って頂けたのもトマスのお陰でした。

そのトマスが、主がご復活された日の夕方に10人の仲間たちに現れた時、どこに行っていたのか居なかったのです。数日後、戻ってきた彼に「私たちは主を見た」と告げた時、25節の通り、「主の手やわき腹の釘跡に、自分の指を入れて見なければ決して信じない。」と言い張りました。8日の後、弟子たちは家の全ての戸に鍵をかけ息をころしていました。トマスも一緒でした。ユダヤ人を恐れ閉じこもっている彼らの中へ主は入って来られ、皆の真ん中に立ち「平安があるように」と言われ、トマスに「あなたの指を、わたしの手とわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と語られました。まるでトマスを目指して入って来られたようです。20章はじめのマリアには「触れてはいけない」と言われましたが、トマスには「指を入れてみて、信じなさい」と。トマスは答えて「わたしの主、わたしの神よ」と言ったとあります。トマスは、もはや指を入れる必要を感じなかったのです。おそらく、跪き、ひれ伏し、主が十字架上で「わが神、わが神・・」と叫ばれたように「わたしの主、わたしの神よ」と叫ばずにはおれませんでした。24節に、「ディディモと呼ばれるトマスは」とありますが、これは「双子」の意味です。もう一人のことは書かれていません。ある学者が言っています。この双子の一人こそ、疑い深いあなた自身ですと。

しかし、この弱いトマスの祈り、叫びをどれ程多くの人々が捧げてきていることでしょうか。「わが主、わが神・・」と。最後に、私たちに対するペテロの言葉があります。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今、見なくても信じており、言葉では言い尽くせない、すばらしい喜びに満ち溢れています。」(ペテロ第一1:8)

(4月29日)

26. 4月 2018 · 2018年4月22日「光よあれ」 加山 献 牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

創世記1章1節~5節 「光よあれ」 加山 献 牧師

神様は「言葉」によってこの世界を造られました。そして、最初につくられた被造物、それが「光」でした。この「光」とはどのようなものなのでしょうか。

第一に光は暗闇を照らし、真実を伝えます。聖書は、わたしたちひとりひとりは神に愛され、かけがえのない価値をもつ存在であることを伝えます。しかし同時に、わたしたちは皆、暗闇の中にいる、といいます。ヨハネによる福音書12章46節でイエス・キリストは「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た」と語りました。ひとたびキリストの光に照らされるのであれば、暗闇の中に潜んでいる「本当のわたし」の姿が明らかになります。本当の自分の状態を知るためには「光」が必要です。「光」の前に出ていくときに、自分には助けが必要だということに気づくことができます。

第二に光は罪を消し去ります。体にタトゥーという刺青を入れることが、ある若い方々の間で流行しています。ところが、タトゥーを入れた人の90%くらいの方々が、あとで後悔して消したいと思っているそうです。皮膚に焼きこんであるので、いくらお風呂で体を洗っても消えません。しかしこの、皮膚そのものに焼き込まれた入れ墨を消す方法があります。レーザー治療です。光には、一旦体に染み付いたものを分解して消し去る力があるというのです。同じように、やり直すことのできない過去の過ちがわたしたちを責め立てることがあります。心の痛みが内側からわたしたちを締め付けることがあります。でもキリストの光は、それらを消し去る光なのです。

第三に、光にはぬくもりがあります。この春の日差しのように、光にはぬくもりがあります。人が生きていくためにはぬくもりは欠かせません。キリストの光はあなたの内側から輝き、あなたを決して離れることはなく、心の奥からあなたをあたためます。

ヨハネ福音書の1章1節~5節は創世記の1章1節~5節と、密接に関わりあっています。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」最後の「理解しなかった」という言葉は「打ち勝たなかった」と訳することもできます。暗闇は光に勝つことができなかったのです。闇が支配する世界に向かって「光あれ」と言われた神様は、わたしたちの闇を照らす光として、わたしたちのもとに来てくださいました。わたしたちの人生に勝利をもたらす真理の光を喜ぶ一週間を過ごしましょう。