02. 12月 2017 · 2017年11月26日「救いをもたらす神の恵みの現れ」今村幸文牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

救いをもたらす神の恵みの現れ 

テトス2章11~15節

神の恵みはどこに現れたのでしょうか。先ずイエス・キリストの降誕、誕生であり、そしてその生涯、十字架、復活などにおいて現わされました。

神の恵みは人類の歴史とキリスト者の人生や生活に方向転換を齎らしました。

神の恵みが現れた目的

第一、神の恵みは、私たちのどんなわざにもよらず、ただ神の憐れみによって、罪と滅びから救い出したもうのです。神の恵みは、私たちが不信心と現世的な欲望を捨てて自己自身の生き方を思慮深くし、神のみことばに従って隣人に対して正しく振舞い、神に対して信心深く向き合い、生活するためです。

第二は、祝福に満ちた希望に生きるためです。この世は武力、権力、財力が横行し、人間のはかりごとが巡らされ、紛争、抗争、戦争などによる失望と野望と絶望が漂っています。神の恵みによって神との関係を正しくされた者は、キリストの姿に似た者とされ、神の御国に入れられ御国を継ぐ者となるのです。

13節に、イエス・キリストを偉大な神であり、と記されています。

これは聖書が書かれた当時の皇帝を神と呼ぶ皇帝礼拝を批判してイエス・キリストは神である、と主張しているのです。もうひとつは、父、御子、御霊は、一体であるという三位一体の神信仰が表されているということです。聖書の神は、父として、御子キリストとして、聖霊として豊かに働かれる唯一の神です。

キリストが私たちのためにご自身を献げられた目的

第一に、私たちをあらゆる不法から贖い出すためです。不法とは、神の戒めに背く行為です。そのような行為をもたらす私たちは、罪の力の下に服させられています。そのような状態から私たちを解放するためにキリストは十字架において罪に勝利し復活して新しいいのちに生きる力を与えてくださったのです。

第二に、良い行いに熱心な民をご自分のものとして清めるためでした。良い行いとは、神の戒めに従うことです。神の戒めは、十戒に代表されます。

教会は神からの愛を受けて、神への愛と隣人への愛に熱心な神の民です。「良い行いに熱心な民をご自分のものとして清める」の清めるとは、聖霊によって聖化されることです。教会は、聖霊によって聖化されていかなければなりません。教会は私たちのものではなく、キリストのものとされなければなりません。

02. 12月 2017 · 2017年11月19日「天に蓄えられている財産を受け継ぐ者」今村幸文牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

天に蓄えられている財産を受け継ぐ者

ペトロ一、1章3~9節  今村幸文牧師

今朝は召天会員会友を偲びつつ、ご遺族の上に主の御慰めを祈りペトロの手紙を通して主なる神のみことばを聴いて礼拝を捧げたいと思います。

先ず今日のみことばは、「ほむべきかな」という言葉で始まっています。この讃美はペトロの第一の手紙全編に響き渡っています。死者を偲ぶのになぜ「ほむべきかな」でしょうか。それは讃美の理由、内容を知らなければなりません。

「イエス・キリストの父なる神」こそが、真に讃美されるべき神であるからです。イエス・キリストにあってこそ、神がご自身を愛の神として決定的に現わしておられるからです。神を讃美すべき最も根本的な理由は、このイエス・キリストにおける救いの恵みです。天に召された兄弟姉妹は、その救いである

十字架と復活の福音を知り、罪と死からの救いを信じて人生を生き、主なる神のみもとに召されたのです。それ故、「ほむべきかな」です。

「あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました」

私たちが受け継ぐべきものを約束されています。その財産とは何でしょうか。

パウロの言葉でいえば、「御国を受け継ぐ」ことです。ペトロの手紙で言えばそれは終わりの時に現わされるように準備されている救いの完成です。その救いにやがて与るのです。この救いの明らかになる時、それを今日のみことばで「イエス・キリストが現れる」と言っています。イエス・キリストが現れる時、先に召された兄弟姉妹とわたしたちは、称賛と光栄と誉れをもって覆われてしまうのです。最後に試練と喜びについて、みことばに聴いておきましょう。  さて私たちの地上における生活の現実は試練です。生、老、病、死と言いますが、試練の連続です。試練と喜びは元来、相容れない甚だしく異質な経験であり、どのようにしても結び付くことはできません。試練を喜びに転換させるものが三つあります。第一は人間の側における何ごとかではなく、神の救いの計画とわざです。第二は、試練が「しばらくの間」の苦しみだ、ということです。試練がどんなに長くても、救いの祝福の永遠性の前で圧倒的に限定されている、ということです。第三に、試練は信仰生活を試し、精錬して、それを純金よりも貴いものとなし、終末の日に称賛と光栄と誉れをもたらすのです。

17. 11月 2017 · 2017年11月12日「神が備えてくださる」今村まさゑ協力牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

先週の宣教要旨神が備えてくださる。」  

創世記 22章1~19節   今村まさゑ協力牧師

今朝の礼拝は、早良教会「教会組織12周年記念アシュラム」のプログラム「開心の時」

として覚えていただき、いつも以上に主に心を打ち開いていただきたいと願っております。

さて、世界の三大宗教といわれるキリスト教、ユダヤ教、イスラム教が共に諸国民の父、

信仰の父と呼ぶアブラハムのことは、12章から記されています。ノアの長男の10代目

ぐらいと思われます。22章1節に「これらのことの後で」とありますのは、簡単に言えば、

75歳の時にメソポタミヤの遊牧民であった父や親族と離れて「わたしの示す地に行きなさい。

あなたを大いなる国民とし、祝福し、名を高める。」との神の言葉に従い、アブラムは若く

して父を亡くした甥のロトも連れ、南下しカナン地方(イスラエル)に入った時「あなたの

子孫にこの土地を与える」と。しかし、アブラムには跡取りはいませんでした。

ロトとの別れ、救出、ロトが自ら選び住んだソドムのための執り成し、ソドムの滅亡。

子を望む妻の願いを聞き入れ女奴隷ハガルによるイシユマエル誕生、イサク誕生の予告、

この間25年間。遂に、アブラハム100歳の時イサクが誕生しました。

イサク誕生で喜び、安堵したはずなのに、妻サラは長子イシマエルの存在を疎ましく思い、

二人を追い出してしまいます。そのような時に、神は「あなたの愛する息子イサクを、

焼き尽くす献げ物としてささげなさい」と命じられました。神はアブラハムを試された(1節)。

試すには証明、挑戦の意味もあります。(ヘブル12:5~6も参照)アブラハムは即、従順し、

翌朝はやく、イサクを連れて神の命じられたモリヤの山(歴代下3:1)へと旅立ちました。

三日目にエルサレムが遠くに見えた時、ロバに乗せていた薪をイサクに背負わせ、自分は火と

刃物を手に二人は山を目指しました。イサクは不思議に思い始めます。「お父さん、火と薪は

ありますが、焼き尽くす献げ物の小羊はどこにいるのですか。」アブラハムは答えます。

「私の子よ、献げ物の小羊はきっと神が備えて下さる。」

アブラハムの信仰はどこから得たのでしょう。ヘブル11:17には、「神が死人の中から人を

甦らせる力があると信じた」その御手にイサクを委ねたのです。

祭壇を築き、刃を振り下ろそうとしたその時、「その子に手を下すな。あなたが神を畏れる者

であることが、今、分かった」。後ろの茂みに一匹の雄羊がいた。

アブラハムはその場所をヤーウエ・イルエ(主は備えて下さる)と神を讃えました。

(2017・11・12)

09. 11月 2017 · 2017年11月5日「キリストにあって一つ」 今村幸文牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

先週の宣教要旨

キリストにあって一つ」  

エフェソの信徒への手紙 2章11~22節

今村幸文牧師

エルサレムで最初に成立した教会の構成員は、皆ユダヤ人でした。福音を伝えた人たち、

ペトロ、ヤコブ、ヨハネもユダヤ人ですし、彼らが伝道した相手もユダヤ人たちでした。

従ってイエスをメシア(キリスト)救い主と信じるユダヤ人たちの集まりとして教会は

成立したわけです。そこに異邦人、つまりユダヤ人から見て外国人が加わるようになります。

伝道がユダヤを越えて小アジアから地中海世界全体に広がって行くと異邦人は益々多くなり、

ユダヤ人キリスト者と異邦人キリストの間には亀裂や対立が少なくありませんでした。

ところで現代はあらゆるところに対立や憎しみや敵意が存在しており、それが、私たちを

不幸にしています。お互いが持っている様々な違いによって他の人に対する憎しみや敵意を

抱くようになっております。これはほんとうに悲しむべきことで身近なところでは、家庭、

学校、職場においても見られますし、また社会においても世界においても見られる現象です。

しかし本当の理由は、こうしたお互いが違いを持っているということにあるのではなく、

人間が罪を持っているというところにあります。

キリストはユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者の罪を身代わりに背負い十字架に

かかられたのです。キリストが傷つかれることによって当事者であるユダヤ人と異邦人が

自分の罪に目覚め、お互いに心から和解するようになったのです。

キリストは私たちの平和でありキリストにおいて一つとされるのです。

最後にエフェソ書における三つの教会像について言及しておきましょう。

第一は、聖なる民としての教会です。これは旧約聖書のイスラエルの民との連結性を示し、

世界における神の祝福の器という使命が新約聖書の教会において実現されているという

確信をあらわしています。

第二は、神の家族としての教会です。人間的なあらゆる壁を突き破る神を中心とした

人間の愛の交わりの共同体という側面を強調しています。神は父であり、キリスト者は

すべて神の子であり、互いに兄弟姉妹なのです。

第三は、聖なる神殿、父なる神の住まいとしての教会です。教会の土台は使徒や預言者で

あり彼らは神の言葉、福音に立つ人々です。そのかなめ石はキリストであり、教会は御霊に

よって成長し続けるのです。   ( 2017・11・5 )

04. 11月 2017 · 2017年10月29日「信仰によって与えられる神の義」今村幸文牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

先週の宣教要旨

「信仰によって与えられる神の義」

ローマの信徒への手紙 3章21~26節

ルターが悔い改めのない免罪符販売に対する95カ条の質問を公にしたのが宗教改革の

口火になりました。1517年10月31日でした。今年はそれから500周年となったのです。

ルターは、神は罪ある人間をその義をもって審き、苦しめ脅かしている。そのような神を

さえ信じねばならないのか。このような苦悩の中でルターは聖書と取り組み始めました。

1513年から詩編、ローマ書、ガラテヤ書と講義を続ける間に、ルターは全く新しい光で

聖書を読むに至ったのです。ある時、ローマ1章17節の「神の義はその福音の中に啓示され

信仰に始まり信仰に至らせる。これは信仰による義人は生きると書いてある通りである」と

いう聖句に接して突然霊感に打たれ、当時のカトリックの教えのような、神の義は人を審く

義ではなく、信仰によって義としたもうところのその神の義であることを悟ったのです。

ルターはこの神の義は私たちが獲得する義ではなく、私たちが、ただ受け身で受けることが

できる義として恵みの神がお与えになったものだということに気がついたのです。

その時、ルターは「天国の門が突如として開かれたようにさえ感じた」と述べています。

ローマ3章の21節は1章17節の反復です。「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と

預言者によって立証されて、神の義が示されました。」

この神の義、神の義しさに生き抜くことが、どんなに大切な、どんなにすばらしいことであ

るか。「神の義」という言葉よりも「神の愛」「神の救い」という言葉の方が分かりやすいと

も言えます。けれどもパウロは、それではどうしても伝わらないことがあると考えていました。

神の義、神の義しさが貫かれてこそ初めて人間の救いが成り立つのです。神の義として現れて

こそ、神の愛は、まことの愛として貫徹されるのです。神の義としか呼べないものが、そこに

あるのです。しかもそれが愛そのものであり、救いとなり、私たちと正しい関わりを持ち続けて

くださる神のわざを語る言葉となるのです。

神が神でいてくださることは、素晴らしいこと、それは主イエス・キリストの十字架の救いの

わざに現れた神のわざであると知ること、それこそ神の義の神髄を知るということです。

まさに「十字架の下ぞ、いと安けき、神の義と愛の会えるところ」です。

2017年10月29日 今村幸文

04. 11月 2017 · 2017年10月22日「十字架の恵み」竹田浩先生 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

先週の宣教要旨

「十字架の恵み」

ペトロ第Ⅰの手紙2章21~25節

竹田 浩先生

Ⅰ、十字架は、神の御子イエス・キリストが私たちの罪を担って、罪の解決をして

くださったことです。「私たちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。

その私たちの罪をすべて主は彼に負わせられた。」イザヤ53章6節。

罪とは、人間の肉の業です。「肉の業は明らかです。それは姦淫、わいせつ、好色、

偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、

泥酔,酒宴、その他このたぐいのものです」ガラテヤ5章19~21節。

人間は神の方向に向いて生きなければなりません。罪は迷い、それぞれの方角に向かって

行く、的はずれ(ハマルテイヤ)です。父なる神は私たちの罪を担ってくださったのです。

罪の解決のためには、十字架が必然でありました。

Ⅱ、十字架は、苦しみ、苦難の道です。「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。

汗が血の滴るように地面に落ちた。」ルカ22章42節。

Ⅲ、十字架は、とりなし、身代わりの死です。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何を

しているのか知らないのです。」

「3時にイエスは大声で叫ばれた。エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ、これは『わが神、

わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である」。ルカ23章34節。

罪の故にわたしが叫ばなければならないのに、主イエス・キリストが身代わりとなって見捨て

られたのです。わたしは十字架を仰ぐ時、いつも勿体なく、涙があふれ泣けてきます。

Ⅳ、十字架は模範です。「あなた方が召されたのは、このためです。というのは、キリストも

あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。」

ペトロⅠ、2章21節。十字架は仰いで救われ、担って救いの完成に至らせられるのです。

最後に主キリストの模範に従って三つのことを教会員の皆さんが目指し実行されるならば、

御教会は成長し主の祝福に与ることができます。

  • 毎週の主の日の礼拝を守る。
  • 収入の10分のⅠの献金をする。
  • 教会に仕え、他者に仕える。    (秋の特別集会の講師・福岡新生教会協働牧師)
15. 10月 2017 · 2017年10月8日「金持ちの青年」今村まさゑ協力牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

先週の宣教要旨「金持ちの青年」

マタイによる福音書 19章16~22節

今村まさゑ協力牧師

 

今朝の個所は、主イエスさまがいよいよご自分の時が迫っていることを承知の上で、

ガリラヤを去りヨルダン川の東岸を通り、エリコからエルサレムへの旅の途中の出来事です。

多くの群衆が従う中、ファリサイ派の離婚に関しての問に答え、子どもたちを祝福され、

金持ちの青年の永遠の命を得るための問答を終え、ぶどう園の労働者の話、そして、

三度目の受難予告・・ と続く中での話です。

議員で大変な金持ちの男が近寄って来て聞きました。「どんな善いことをすれば永遠の命を

得ることができるでしょうか。」行いによる救いです。イエスは言われます。

「なぜ善いことについて尋ねるのか」命は行為によって得られるのではない。善いお方、

つまり、唯一人の神さまだけが、命を握っておられるのに。

そして、「もし」が繰り返されます。マルコの平行記事をみると「イエスは彼を見つめ、

慈しんで言われた」とあります。主の愛の眼差しに気付かない自信に満ちた男。17節に

「もし命を得たいなら、掟を守りなさい。」21節に「もし完全になりたいのなら、持ち物を

売り払って、貧しい人々に施しなさい。それから、わたしに従いなさい。」命はイエスさまご自身です。

「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14:6)と明言しておられます。

又、持ち物とは健康、能力、財産・・限度がありません。持ち物に支配された自己充足的生き方

から解放されなければなりません。「何よりもまず、神の国と神の義とを求めなさい。」

(マタイ6:33)と語っておられます。「青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。」のです。

しかし、彼は立ち留まるべきでした。どんなに地位や財産があろうとも、貧しく飢えて食べるものも

着るものも眠る所も無い人々のことを省みる事が出来ない自分を、イエスの前に投げ出すべきでした。

自己中心の、弱い者を憐れんで下さいと留まるべきでした。主の足元にひざまずく時、主は何の善き業が

できなくとも、「わたしに従いなさい。」と招いて下さったはずです。7つの悪霊から救われた

マグダラのマリアはずーっとイエスのそばに居続けました。そのマリアにご復活の主は一番に

ご自分を現わされ「マリア」と声をかけられたのでした。

最後の晩餐の後、逮捕される前のイエスの祈りの中に「永遠の命とは、唯一のまことの神であられる

あなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ17:3)とあります。

07. 10月 2017 · 2017・10・8「引き算的な生き方」今村幸文牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

先週の宣教要旨

「引き算的な生き方」

士師記7章1~7節       今村幸文牧師

 

人生には二つの生き方があります。足し算的生き方と引き算的生き方です。

一つは、「足し算的生き方」です。人生とは「足していくこと」だと考える生き方です。

お金や財産や所有物を増し加えていくこと、それが人生における目的であり、意味である

と言う生き方です。そして今日ではお金や物だけではなく、知識や教養も足していくもの

であると考えられているようです。その証拠に知識や教養の多い人ほど立派だという常識が

あるのではないでしょうか。

ところでこの「足し算」には限界がないのです。いくら足しても終わることがありません。

欲望充足的生き方と言ってもよいでしょう。

もう一つの生き方があります。それは引き算的な生き方です。

ルカによる福音書10章38節、39節の主イエスのお言葉にこうあります。

「マルタ、マルタあなたは多くのことに思い悩み心を乱している。しかし必要なことは、

ただ一つだけである。」どうしても必要な唯一つとは何でしょうか。

かつてミデイアン人、アマレク人、東方の諸民族がイスラエルを攻めてきた時ギデオンと

彼のひきいるすべての民は、朝早く起きエン・ハロドのほとりに陣を敷きました。

その数は3万2千人の民が集まっていました。ところが主なる神はギデオンにその数は多すぎる

から、恐れおののいている者は帰せと言われました。こうして民の中から2万2千人が帰り、

1万人が残りました。

主なる神はギデオンに民はまだ多すぎる、と言われました。更に引き算の方法として

泉の水の飲み方が試されました。その飲み方とは、多くが膝をついて水を飲みましたが、

300人は水を手に掬ってすすった者たちでした。300人は油断のない用心深い飲み方を

したということです。

私たちは目に見える数や量を価値判断の基準にしてしまいます。ギデオンと残された300人で、

敵の大群に立ち向かわなければなりません。

そこで必要なただ一つのことは、神の恵みと神の力の偉大さを知ることです。

ギデオンと兵士300人は、神の計画と神の導きによって敵の大軍を追い散らすことができたのです。

ギデオンたちの生き方は、文字通り引き算的生き方でした。数や量に左右されない、神のみに聴き従う

生き方でした。そこに神のみわざ、神の力が働いたのです。

01. 10月 2017 · 2017年10月1日 「主に祈られて」 川久保拓也神学生 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

先週の宣教要旨「主に祈られて

ルカによる福音書 22章31-34節   川久保拓也神学生

イエス様に「信仰がなくならないように」と言われてペトロはさぞびっくりしたことでしょう。

「自分のイエス様への信仰がなくなるわけがない!他の弟子たちはそうかもしれないが、

自分だけはそんなことになるはずはない!」そう思っていたことでしょう。ですから彼は

すぐさまこう答えるのです。「主よ、ご一緒になら、牢に入って死んでも良いと覚悟しております。」

なんとも勇ましいペトロらしい答えです。彼のその言葉にはおそらく嘘はなかったでしょう。

彼は心からイエス様を敬愛していたでしょう。しかしただ一つ彼が誤っていたのは、自らの力や

想いや信心によって自分を過信していたことです。そのような自分自身を頼りにしている信心深さが

いかに脆いかをイエス様はよくご存知でした。

そしてイエス様はペトロにある役目を託されています。 ペトロはこの後、イエス様の言われた通り

、イエス様を否定してしまいます。そして、自分自身の弱さに打ちのめされ、イエス様の死という

大きな喪失と挫折を経験することになります。ペテロの心中には様々な感情が渦巻いていたのだと

思います。イエス様を裏切ってしまった後悔、自分自身への怒りや情けなさ、イエス様という

大きすぎる存在を失った喪失感と悲しみ、そして何よりイエス様への親愛の感情。喪失と絶望の

底にあったペトロは、しかし、やがて立ち直り、初代教会の指導者となっていきます。

ペトロを立ち直らせ、力づけたのはなんだったのでしょうか?自分自身の思いや能力でしょうか?

いえ、ペトロはそのようなものが無力であることを痛感させられたはずです。

ペトロを立ち直らせたのは、イエス様の祈りに他なりませんでした。

「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。」 このイエス様の祈りこそが、

ペトロの信仰を支え、励まし、強め、力づけたのです。そしてまたイエス様は、立ち直らされた者

として、兄弟たちを力づけるように言われています。

「だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」イエス様は、立ち直らされた

者として兄弟を力づけていく、兄弟のために祈っていくそのような関係へとペトロを招かれています。

それはまた私たち教会にも投げかけられている言葉だと思うのです。人間が立ち直った時には、

ペトロが立ち直った時には、我々が救われた時には、人を力づけ、祈るために生きているのです。

救われて生きるということは人を助けて生きているということです。人に力を与えるために今、

生きているのです。主はそのために、私たちのために祈り続けていてくださいます。

27. 9月 2017 · 2017・9・10「主にまかせよ、汝が身を」今村幸文牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

主にまかせよ、汝が身を

ローマ8章18~28節   今村幸文牧師

18節の冒頭に「現在の苦しみ」とあります。これは直接には使徒パウロが生きていた第一世紀の半ばころを指しています。しかし間接には終末の時が来るまでの歴史の時―神に反する力が強く働いている時を意味しています。私たちが生きている現在の時にも様々の苦しみがあります。パウロは現実の苦しみを痛感すると共に、「わたしたちに現わされる栄光」を語ります。神の栄光は先ず、主イエス・キリストがこの世界と歴史の中に来てくださったこと、十字架と復活、聖霊降臨において現わされ、遂には現在の時が終わって主の日が来たり、神の最後の審判が行われ、悪の力が打ち砕かれる時に現わされます。ところで三つのうめきがあります。

第一は被造物のうめきです。ここには天地万物が救いを求めてうめき苦しんでいるという悲壮な事実が記されています。美しい自然の背後に生存競争が行われ、豊かな資源が人間の利欲のために悪用され、肥沃な土地が戦争のために荒廃に帰する中で、全被造物が究極の救いを求めてうめいているのです。

第二にキリスト者たちのうめきがあります。キリスト者は「霊の初穂を頂いている私たち」と言われます。信徒は、キリストを信じた結果として聖霊を与えられています。その意味で信徒はすでに救われ、神の子とされた者です。しかし信徒の救いはまだ始まったばかりで、その完成は将来に残されています。従ってキリスト者のうちにも救いの完成を待ち望む深いうめきがあります。

第三は、聖霊のうめきです。全被造物と信徒と同じように聖霊もうめいています。すべての信徒における聖霊のうめきがあります。「弱い私たち」自分で自分を助けることのできない人間の絶望的な危急があります。

しかし霊自らが、言葉に表せないうめきをもって取り成してくださるのです。

最後に28節に触れておきましょう。ここで信徒たちは「神を愛する者たち」「御計画に従って召された者たち」と言い換えられています。

神への本当の愛とは、私たちのために惜しげもなくご自身を引き渡したもう

神の愛を率直な感謝と喜びをもって受け取るところのその信仰以外のなにものでもないのです。そのような私たちを神はただ御霊を送って助けるだけではなく、私たちのまわりに生ずるあらゆる出来事を共に働かせてくださるのです。そして万事を益と変えてくださるのです。「主に任せよ、汝が身を」