18. 1月 2019 · 2019年1月13日「心の大掃除」 加山 献 牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「心の大掃除」 加山献牧師

マタイによる福音書5章9節

 

山上の説教で語られた8つの祝福の中で、イエス・キリストは「心の清い人々は幸いである、その人たちは神を見る」と語られました。正直なところ、私たちは「心の清い人々」という言葉を聞くとき、「私のことではない」としり込みしてしまう者です。私たちは皆、清さに程遠い自分の姿を知っているかもしれません。

ここで使われている「清さ」(カタロス)という言葉にはいくつかの概念があります。1つは宗教的な清さです。儀式や習慣、決まり事を誠実に守ることによって得られる「清さ」があると人々は考えていました。当時の文化では、宗教的なルールを忠実に守っている人こそが清い人であり、そのような人々が尊ばれていました。案外、私たちも宗教的な習慣を守ること自体に意義を感じているかもしれません。それらはなにも悪いことではありません。しかし、主イエスは私たちの目に見える外面的な事柄よりも、むしろ私たちの「心の奥」に何があるのかを問われるのです。

「清さ」(カタロス)という言葉にもうひとつ別の意味があります。「純粋である」ということです。水を混ぜていないぶどう酒、もみがらを完全に取り除いた穀物、最も良い小麦粉だけで作られたパンなど、混じり気のない純粋なものを表す言葉でした。イエスさまは、宗教的なルールを守って得られる外面的な「清さ」よりも、むしろ私たちの「心」の「純粋さ」を求められています。

アルヒホイツというドイツの聖書学者は「心が純粋である」という状態を、次のようにわかりやすく例えています。人間と神の関係性において「純粋である」ということは「トランプのカードを隠さないでいるような状態である」というのです。ババ抜きをやっている時の事を想像してください。もし手持ちのカードを相手に見せていたらゲームになりません。ですが、私たちと神さまの関係において、隠しておきたい事を隠したままでいるならば、心の純粋な状態ではないというのです。「神さま、これが私のジョーカーです。これが私の心の問題です」と、神にすべてを明け渡して取り除いてもらう必要がある、というのです。

主イエスが私たちの心の扉をノックして、お入りになろうとされる時「イエスさま、ちょっと待ってください、これはとてもお見せできません」という状態が私たちにはあるかもしれません。ですが、心の清い状態とは心が完全に美しく整っている状態を指すのではなく、むしろありのままの自分の心にイエスさまをお迎えする事だと思うのです。

私たちの心の、なかなか落ちなかった汚れ、傷ついたこと、悲しかったこと、悔しかったこと、間違ってしまったこと、イエス・キリストにしか落とせない心の汚れや傷があります。「これも捨てなければ、あれも捨てなければ」と思いつつ溜まってしまった、自分ではどうすることもできなかったもの。誰かをゆるせない心、自分をゆるせない心、後悔、罪悪感、思い出したくない過去の記憶・・・。主イエスは労ってくださり、私たちと共に背負ってくださいます。これが十字架の意味です。私たちの過去過ちが全部なかったことになるわけではありません。けれども、もう一人ですべてを背負っていく必要はないのです。心の清い人とは完全な人のことではありません。純粋に、単純に救い主を心にお迎えする人なのです。

「神を見る」ということについても考えてみたいと思います。もともと旧約聖書では「神を見る」という表現自体がとても恐れ多いことでした。ところが今や、イエス・キリストに出会うならば、誰でも神を見ることができます。正確に言うと、誰に対してでも、神はご自身を現してくださいます。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(ヨハネによる福音書1章18節)主イエスを「知る」ということによって、私たちは神に出会います。また、神が私たち一人一人をどのように想ってくださっているのかを、主イエスは明らかにしてくださいました。そして、イエス・キリストを通して、私たちは神との親密な愛の関係を体験します。主イエスは今日も、私たちの心の扉の前に立たれます。「イエスさま、私の心は狭くて、汚れているけれども、どうぞお入りください、そして私の心に留まってください」とお答えしましょう。黙示録3章20節の有名なみことばがあります。「見よ、私は戸口に立って、たたいている。」 (1月13日)

 

 

 

11. 1月 2019 · 2019年1月6日「恵みの年が来た」加山献牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「恵みの年が来た」 加山献牧師

ルカによる福音書4章16節~30節

 

主イエスは公の活動を開始するにあたって、ガリラヤ地方を最初の宣教地とさました。主はしばしば安息日ごとにシナゴーグと呼ばれる会堂に入って教えられました。お育ちになった故郷ナザレを訪れた際にも「いつものとおり安息日に会堂に入った」とあります(16節)。その会堂は主イエスが幼い頃から通われた、懐かしいシナゴーグでした。会堂での礼拝の中で、イザヤ書が主イエスに渡されました。主イエスにみことばの朗読と解き明かしが委ねられたのです。この時読まれたイザヤ書61章は救い主メシアに関する重要な預言のひとつでした。

「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、 主の恵みの年を告げるためである。」(18節~19節)主はこのイザヤの預言を読み終わると「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と宣言されました。ご自身が来るべき救い主メシアであるという事をはっきりと宣言されたのです。人々は異口同音に主イエスをほめて、その口から出る恵み深い言葉に驚いたと22節にあります。しかし、そのほとんどの人々が子どもの頃からの主イエスを知っていました。そのことが彼らのつまずきとなりました。そこで主イエスは、旧約の預言者エリヤとエリシャのエピソードを持ち出して、ナザレの人々の不信仰を指摘され、ご自身は他の人々のもとへ向かうことを告げられたのです。

「もしあなた方が良い知らせに飢えている貧しいものでないならば、他の人々がいる。あなた方が解放を待ち望んでいる囚人である事を認めないならば、この解放はあなた方のところには来ない。あなたがたのために素晴らしい神の計画がある。しかし、あなたがたがその神の計画に参加しないならば、恵みの年はあなたがたのところに訪れることはない。」そのように主は言われたのでしょう。

ナザレの人々は目の前に自分たちのための救い主がいるにも関わらず、その人を認めず、殺そうとしてしまいました。なんという悲劇でしょうか。ここにユダヤ教とキリスト教の対立が描かれているわけではありません。聖書の言葉を聞かされた人々の内側に起こる、自分自身との対立が描かれているのです。怒りと拒絶は自分にとって受け入れがたい真実に直面した人々の最後の防御でした。聖書の言葉は私たちの罪を指摘します。私たちの見たくない、認めたくない本当の姿に光を当てます。ですがひとたび、このみことばの前に降参し、服従するならば、自分が良い知らせに飢えている貧しいものであり、解放されるべき囚われ人である事を認めるなら、その人は神の恵みを受け取ることができます。神はすべての人に無償で、一方手的に恵みを与えようとしておられます。わたしたちはそれらの恵みを受け取るべきです。

この新しい年も、神がキリストの十字架によって与えようとしておられる恵みを受け取る続ける年としましょう。赦し、解放、励まし、慰め、信仰、生きる希望、愛、平安、感謝、喜び、永遠の命、人生の目的、それらを受け取ることができる恵みの時代、恵みの年が来たことを主は宣言されました。 (1月6日)

 

 

03. 1月 2019 · 2018年12月30日「神の栄光を讃えるために」今村まさゑ協力牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「神の栄光を讃えるために」 今村まさゑ協力牧師

エフェソの信徒への手紙1章3節~14節

 

エフェソは現在のトルコで、エーゲ海沿岸に栄えたローマ時代の大規模な都市遺跡が人気を集めています。紀元前6世紀に建てられた神殿や円形劇場は24,000人収容の規模で、アルテミス神殿はアテネのバルセノン神殿の二倍の広さでした。豊穣多産を象徴する多数の乳房を持つ偶像神で、神殿娼婦が多く存在し道徳的状況は乱れていました。

使徒言行録18章~20章によれば、パウロは最初3か月ほどの滞在でしたが、アポロ、アキラ、プリスキラが後を継ぎ、翌年、再び訪れて3年間伝道に励み、アジア全域に福音が広がったのでした。

パウロは3節で先ず「父である神はほめたたえられるように」と語ります。これがパウロの常に願っていたことでした。理由は「神は天のあらゆる霊的な祝福で私たちを満たしているから」です。霊的な祝福の第一は、選びです(4節)。「神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者、無力な者を選ばれました」(1コリ1章27節~)それは、「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、神の子にしようと御心のままにお定めになったのです」。

第二は、罪の赦し(7節)です。「キリストの十字架の血によって贖われ、罪を赦されました」。10節に「こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです」。

第三は、約束されたものの相続者(11節)です。御国を受け継ぐことです。

第四は、聖霊の証印です。「キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押された」のです。この聖霊の証印は、御国を受け継ぐための保証なのです。神は(3節)、御子に(7節)、聖霊は(14節)、と三位一体の神の輝かしい恵みの秘められた計画です。父なる神の御業は、キリストによってなされ、聖霊によって私たちの内に実現されるという三位一体の神の働きがそこにあります。

神に選ばれ、救われ、神の者とされたわたしたちの応答、生きる目的は、6節、12節、14節にあるように、「神の栄光をたたえるため」にほかなりません。今朝の聖書には「キリストにおいて」「キリストによって」・・と10回も記されています。また、何と「恵み」ということばの多いことでしょう。2019年の日々も、感謝と喜びをもって神の栄光をたたえる者となりましょう。 (12月30日)

03. 1月 2019 · 2018年12月23日「ひとりじゃないよ」加山献牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「ひとりじゃないよ」 加山献牧師

マタイによる福音書1章18節~25節

 

この聖書箇所に登場するヨセフという人物は、人生における晴天の霹靂と呼べるような出来事を経験しました。なんと彼は、婚約中のフィアンセが妊娠したという知らせを聞くのです。当時のユダヤの文化では、一組の男女の婚約が成立すると「キドゥシン」と呼ばれる儀式が執り行われました。これは二人を聖別する、取り分けるという意味があったそうです。その後、二人は一年間別々に暮らします。この一年間は結婚の準備期間として用いられました。ところがこの大切な時期に、ヨセフは「マリアが妊娠した」という知らせを聞くのです。

「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうとした。」(19節)とあります。しかしながら、彼は依然として混乱と孤独の中にあったことでしょう。大きな悩みを抱えながら眠りについた夜に、天使が夢に現れて「恐れるな」と語ったのです。彼女をそのまま妻として迎えなさいと告げられ、マリアは神の霊によって子を宿したのであり、これは前々から旧約聖書に預言されていたことが起こっているのだと諭されるのです。つまり、ヨセフの身の回りに起こっているすべての出来事は「すべて神がなさっていること」なのだ、というのです。

この一連の出来事から私たちは何を知ることができるでしょうか。第一に、神はすべての出来事の上に確かな計画を持っておられるということです。私たちの目には「混乱」と映る出来事の背後にも、神がおられます。神こそが私たちの人生の上に主権を持っておられる方であり、私たちの人生に起こるすべての出来事に責任を持ってくださる方なのです。

このストーリーから教えられる二番目の点は、神は命を造られる方である、ということです。「あなた」という存在の根本的な作者は神なのです。あなたが生まれてくる前から、神はあなたのことを思い描き、微笑んでおられました。今、あなたが息をしているのは、偶然の出来事ではありません。今日、「あなた」という存在があるのは、神があなたをお造りになられたからです。神がお造りになられたすべてのものには意味があります。ですから「あなた」は神にとってこの上もなく意味のある存在なのです。この命を造られる神が、マリアの胎内に救い主を宿してくださったのです。

第三に、神は人と共におられることを示すために、人となって世界に生まれてきてくださいました。神はいつも、どんな時でもあなたと共におられます。そのことを思い起こさせるために、実際に人として生まれてきてくださったのです。神は私たちを決してお見捨てになりません。神は私たちの孤独を理解し、私たちと共にその痛みを経験してくださるのです。23節には「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」とあります。かつて、イザヤという預言者によって語られた言葉でした。インマヌエルとはキリストのもうひとつの称号です。その意味は「神は私たちとともにおられる」とういうことなのです。 (12月23日)

 

21. 12月 2018 · 2018年12月16日「上側から見るクリスマス」K. J. シャフナー協力牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「上側から見るクリスマス」K. J. シャフナー協力牧師

ルカによる福音書2章1~16節

 

片付けた時に見つけた刺繍はクリスマス物語を違うように見るきかっけとなりました。刺繍を裏から見るとどのデザインが出来上がるかが想像しにくいのです。糸はごちゃごちゃになってカオスのように見えます。しかし上側から見ると一つ一つのステッチが一緒になって、デザインが見えてきます。

クリスマス物語を何度も聞いたことがあると思います。ですが、重要な出来事をもう一度概観してみましょう。紀元前700年頃にミカは救い主がベツレヘムに生まれること預言しました。(ミカ書5章1節)同じく紀元前700年の少し前にイザヤは「おとめが身ごもって男の子を生む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」と預言しました。(イザヤ書7章14節)天使はマリアに「あなたは身ごもって男の子を産む」と告げました。皇帝アウグストゥスは住民登録の勅令を出しました。ヨセフは先祖の出身地であるベツレヘムに旅をしなければなりませんでした。ベツレヘムの宿屋には泊る場所がありませんでした。ベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ち、生まれた赤ちゃんは飼い葉桶に寝かされました。羊飼いたちが生まれたばかりの幼子に会いに来ました。占星術の学者たちは星に従って、イエスを拝むために東の国からユダヤを訪れました。

一つ一つの出来事を見てみると繋がりがなく、全てがランダムなイベントであるとしか考えません。クリスマスのストーリーと同じように自分の人生で起こる出来事も「たまたま」であり、偶然であるように見えます。実はそれは刺繍を裏から見ているようなものです。

クリスマスの出来事は偶然の連鎖ではなく、一つ一つの出来事は神様の働きによって繋がっています。例えば、皇帝の勅令はナザレに住んでいたヨセフとマリアを、預言されたベツレヘムに導くことになりました。クリスマスを上から見ようとすれば、何のデザインが見えるでしょうか。神様は次のようなことを私たちに見せようとされているのではないかと思います。

1) God loves you. 神は、ひとり子をさえ惜しまず与えるほどに、この世界を愛してくださいました。(ヨハネ3章16節 リビングバイブル)

2) God understands you.キリストは人間となり、この地上で私たちと共に生活なさいました。(ヨハネ1章14節 リビングバイブル)

3) God is with you.『その子はインマヌエル〔神が私たちと共におられる〕と呼ばれる。』(マタイ1章23節 リビングバイブル)

4) God is at work in everything. 私たちは、神を愛し神のご計画のうちを歩んでいる人のためには、その身に起こることはすべて、神が益としてくださることを知っているのです。(ローマ8章28節 リビングバイブル)

Merry Christmas!   K. J. シャフナー協力牧師

(12月16日)

21. 12月 2018 · 2018年12月9日「人に神を求めさせる為に」ラス・ボーグ宣教師(日本バプテスト宣教団) はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「人に神を求めさせる為に」ラス・ボーグ宣教師(日本バプテスト宣教団)

使徒言行録17章26節~27節

 

神様を求めるという事について、聖書は何を語っているのでしょうか。詩編25編には次のようにあります。「主よ、あなたの道を私に示し、あなたに従う道を教えて下さい。あなたのまことに私を導いて下さい。教えて下さい。あなたは私を救ってくださる神。絶えることなくあなたに望みをおいています。」これが神様を求めるという事です。このダビデの心こそが、神様をもっと深く知りたいと望む人の心であり、このような祈りこそが、神様を喜ばせたいと思う人の祈りなのです。

次に、使徒言行録17章25節後半から26節の言葉に注目しましょう。使徒パウロは、ギリシャのアテネにおいて、神様を知らない人々に対して、天地創造からイエス・キリストの復活までを網羅し人々に宣教して、次のように言いました。「すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の去るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。神様は一人の人からすべての国の人々を造り出され、全ての人に命と息をお与えになられたのです。」

神様が人類を造られたということが明言されています。それでは何故、神様は人間をお造りになられたのでしょうか?もし神様が人間を造られたのであれば、人は神さまから何を期待されるのでしょうか?続く27節を見てみましょう。これは「人に神を求めさせる為」であり、また「彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことが出来るように」ということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。神様を求める為に人は造られたのです。

詩編53編2節はこのように伝えています。「神は天から人の子らを見渡し、探される。目覚めた人、神を求める人はいないかと。」神様はご自分を求める人に対して、次のようにお答えになられます。「そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら。」(エレミヤ書29章12~13節)

もちろん私達はクリスチャンになった後も、神様を求める事を決してやめません。ルカによる福音書の中ではこう語られています。「それから、イエスは皆に言われた。『わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。』」

私達がイエス様の弟子になれば、日々、毎日、イエス・キリストについて行く必要があります。「自分を捨てる」という事はどういう意味なのでしょうか?それは、自分自身の行きたい道よりも、主イエス・キリストがあなたの為に準備された道を求め、進む、という事です。主があなたの為に準備された道は、やさしい道ではないかもしれません。しかし、その道を進んで行き、後に振り返った時に、神様がその道へ導いて下さった理由がわかるはずです。その理由を知らされる時に、あなたの心は満たされることでしょう。

私達は人生において、多くの悩み、迷いがあります。また、多くの決断をしなければなりません。しかし感謝な事は、聖書の中に神様の導きについての約束がたくさん与えられていることです。その一例は詩編32編です。「わたしはあなたを目覚めさせ行くべき道を教えよう。あなたの上に目を注ぎ、勧めを与えよう。分別のない馬やらばのようにふるまうな。それはくつわと手綱で働きを抑えねばならない。そのようなものをあなたに近づけるな。」「行くべき道を教えよう」と神様が約束されています。このみ言葉に対して、私達の成すべき責任もあります。それは私達が神様に近づくことです。つまり主に従って行き、その御心を絶えず求める事です。これは私達にとって、とても大切な、神様に対する態度です。

(12月9日)

21. 12月 2018 · 2018年12月2日「大逆転の人生」加山献牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「大逆転の人生」 加山献牧師

ミカ書5章1節

 

ミカは紀元前700年ごろに活躍した預言者でした。この時代、南王国ユダでは貧富の差が拡大し、一握りの人々が富を独占していました。預言者ミカは、貧しく、社会的に弱い立場の人々を守るために語りました。搾取の構造をもつ社会政治に告発を語ったのです。

しかしながら、ミカが語った預言は、告発と警告の言葉だけではありませんでした。貧しく弱い人々のために、正しい裁きをおこなう救い主が来られる。そのような希望についての預言もなされていたのです。

「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために、イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。」私たちはこの預言の言葉からいくつかのことを知ることができます。

第一に、神は必ず約束を守ってくださるお方である、ということです。ベツレヘムはエルサレムから8キロほど南にある、ごく平凡な、小さく静かな街でした。イエスさまをお腹に宿したマリアはベツレヘムからはるか北のガリラヤのナザレという街に住んでいました。普通に考えるのであれば、身重の女性が長旅をして、ベツレヘムで出産を迎えることはあり得ないのです。ところがこの時、ローマ皇帝が全支配地域の人口調査を命じたのです。これは税金の徴収漏れが起こらないようにするために厳格に実行された調査だと言われています。そこで一家は住民登録をするためにベツレヘムに向けて旅立ったのです。そして、ベツレヘムに滞在している間にイエス様がお生まれになりました。この瞬間にミカの700年越しの預言が成就しました。神は約束されたことを必ず実行されるお方なのです。

ミカの預言から教えられる第二の点は、神は小さなものに目をとめてくださる、ということです。救い主誕生の良き知らせを最初に聞いたのはベツレヘムの羊飼いたちでした。この世では小さく、ちっぽけに思える存在に神の眼差しが注がれたのです。キリストはすべての人のためにこの地に来られました。しかし、その中でも特に、悩み、悲しんでいる人々にイエスさまの眼差しは向けられています。これこそがクリスマスの使信なのです。

クリスマスはとても楽しく、喜びにあふれた季節です。しかし、誰もが同じように楽しいわけではありません。クリスマスを病院で過ごさなければならない方々も多くおられます。クリスマスも休みなく働き続けなければならない人もいます。もしくは愛する人を失って、初めてのクリスマスを過ごす方々もおられます。教会はこのような方々に届けるべきメッセージがあります。「神は必ず私たちの人生に勝利の歌をもたらしてくださる」というメッセージです。

小さく、取り柄のなかったベツレヘムに、全世界の救い主、イエス・キリスト誕生の地としての称号を与えられた神は、私たちの人生にも大逆転をもたらしてくださる方です。悲しみを喜びに、嘆きを笑いに変える救い主を、心にお迎えするクリスマスを待ち望みたいと思います。

 

 

(12月2日)

21. 12月 2018 · 2018年11月25日「わたしはあなたを見捨てない」加山献牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「わたしはあなたを見捨てない」 加山献牧師

創世記27章41~45節、28章10~16節

 

ヤコブは実の兄から命を狙われるほど危険な状態に陥り、叔父の住むハランを目指し、荒れ野を旅しはじめました。私たちはヤコブの家族を見る時に、神が特別な目的のために選ばれたはずの家族が、バラバラになっている現実を見ます。

聖書の中に登場する人々は皆、決して完全無欠ではありませんでした。誰もが私たちと同じように失敗し、私たちと同じように悩み苦しむ人間でした。ですから、神が聖書の中でどのように人々を励まされたのかを知ることは、今日、神が私たちをどのようにして励ましてくださるのかを知ることにつながります。この聖書箇所では、神は如何にヤコブに出会い、励ましを与えてくださったのでしょうか。

ヤコブが神と出会った場所は荒れ野の中でした。日の暮れた、辺りには何もない、真っ暗な荒れ野の中で、まったくの孤独を感じるような場所で神はヤコブに現れてくださいました。

私たちも人生の荒れ野を通ることがあり、静かな孤独を感じる時があります。しかし、荒れ野の中でこそ、神が語りかけてくださいます。私たちの人生のどんなに厳しい荒れ野も、孤独も、神は祝福の場所に変えてくださるのです。

この夜、神ご自身がヤコブの夢の中に立ち、声をかけてくださいました。「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」(15節)家族の関係が捻じれ、実の兄に命を狙われ、父を騙すようなことをして家を出てきてしまったヤコブは「もう故郷には帰れないかもしれない」と感じていたことでしょう。しかし、彼は「わたしはあなたと共にいる」「あなたをこの土地に必ず連れ帰る」「わたしはあなたを見捨てない」と約束してくださる方に出会えました。

そして、ヤコブは眠りから覚めて言いました、「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」 今まで父イサクから唯一の神とその祝福の約束について聞かされてきたかもしれません。頭では、知識では、なんとなく神がおられることを知っていたかもしれません。けれどもヤコブはこの時初めて、いつも共に歩んでくださっていた、そして今も共に歩み続けてくださっている神を「体験」しました。

私たちの信仰は、頭で理解する事柄だけでなく、神と出会うという「信仰的体験」を要求します。それぞれがどのような信仰理解を持つかはとても重要です。しかし、「わたしは神に愛されている」「神はわたしと共におられる」「神はわたしを見捨ててはおられない」という「信仰的体験」も人生を生きる上で重要です。

信仰がよりリアルに研ぎ澄まされる、そのような体験ができる場所は一体どこなのでしょうか。人生の荒れ野の中でも、孤独の中でも、神は私たちに出会ってくださるというのです。だから私たちは人生のどのような道も恐れずに歩んでいきたいと思います。

(11月25日)

21. 12月 2018 · 2018年11月18日「わたしは復活であり、命である」今村幸文協力牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「わたしは復活であり、命である」今村幸文協力牧師

ヨハネによる福音書11章25節~27節

 

今日のみ言葉は、ヨハネ福音書11章25~27節です。先ず11章では、マリアとその姉妹マルタの兄弟ラザロの病と死が語られています。病と死は私たちの現実です。今朝私たちは先に天に召された兄弟姉妹方を偲び、肉体的な死で終わらない命の主に礼拝を献げるために御前に集まって参りました。

教会の宣教の言葉が、ある人に届く時、その時その場で主イエス・キリストとその人との出会いが起こります。主イエス・キリストの言われる命とは、原語でゾエーとなっていて肉体的な死でさえも奪いとることのできない命であることを意味しています。

主イエス・キリストは、今日のみ言葉で「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」と言われました。主イエスが墓の中にいるラザロに向かって「ラザロ、出てきなさい」と大声で叫ばれると死んでいた人が手と足を布で巻かれまま出て来たのです。このことは、父なる神が主イエス・キリストをお遣わしになったことを周りにいる群衆に信じさせるためであったのです。よみがえったとはいえ、ラザロの命は、やがてまた死ぬ地上の命に過ぎません。主イエスによるラザロの復活は「死んでも生きる」命の「しるし」です。

「復活であり、命である」主イエス・キリストを信じることによって私たちは、死が持つ絶望と虚無の力に勝利するのです。わたしたちの悲しみに同情してくださる十字架の主イエス、死と戦い、勝利された復活の主イエスを信じることが「死んでも生きる」命です。

主イエスは「わたしは復活であり、命である。このことを信じるか」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであると、わたしは信じております。」信仰は私たちの所有物ではなく、主イエスの問い「あなたはこれを信じるか」にマルタのように信じて応答し、告白することによって成り立つ、主イエス・キリストとの命のつながり、交わりです。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは自らの力によるのではなく、神の賜物です。」(エフェソ2章8節)神の賜物としての信仰に注目させられます。「信じます」この信仰の告白が、死に勝ち、希望に生きる力なのです。主イエス・キリストを信じることが、神の力、聖霊を受けることであり、キリスト者・クリスチャンをつくり、教会をたて、愛と平和と希望の世界を築くのです。

(11月18日 召天者記念礼拝)

※奇しくもこの復活についてのメッセージが、今村幸文先生の早良教会における告別説教となりました。

 

21. 12月 2018 · 2018年11月11日「愛を中心において」宮田祐亮牧師(野方キリスト教会) はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「愛を中心において」 宮田祐亮牧師(野方キリスト教会)

ヨハネの手紙第一4章7節~21節

 

使徒ヨハネはこの手紙の中で教会の人々に呼びかけました。「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。」(7節)多くの人々にとって、「愛」という言葉は何だか漠然としていて、抽象的にとらえられているかもしれません。しかし、そうではありません。「愛」とは、わたしたちのこの人生でしっかりと体験できるものなのです。わたしたちは愛し、愛され、「愛」を体験するために生まれてきたのです。

4章19節には、わたしたちが「何故」愛するのか。「愛する理由」が記されています。「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。」(19節)神がまずわたしたちを愛してくださった、というのです。神はどのようにわたしたちを愛してくださったのでしょうか。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」のです。(ヨハネ福音書3章16節)そして、神の独り子イエスは十字架の死に至るまで忠実であられました。それほどまでに、イエス様はわたしたちを愛してくださいました。

ところが4章17節には「この世でわたしたちも、イエスのようである」とあります。どのようにしてわたしたちもイエス様のようである、というのでしょうか。イエス様の歩みは、父なる神様に愛されながら、弟子たちを愛していく歩みでした。同じように、わたしたちひとりひとりも、父なる神様に愛されながら、教会で、家庭で、職場の中で、周りの人々を愛していく歩みが求められているのです。

さて、愛するといっても具体的にどのように愛を示せばよいのでしょうか。第一に、相手と共に時間を過ごすことです。「喜ぶものと共に喜び、泣くものと共に泣く」ことです。第二に、相手のために祈ることです。一緒に時を過ごせば過ごすほど、相手の苦しみや人生の課題も見えてきます。相手の悩みや痛みを知ることによって、わたしたちはより具体的に隣人のために祈ることができます。「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。」(18節)わたしたちはこの愛を中心において生きていくのです。

(教会組織13周年記念礼拝 11月11日)