23. 8月 2019 · 2019年8月4日「大宴会をしよう」加山献牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「大宴会をしよう」加山 献 牧師

列王記下6章8節~23節

 

紀元前9世紀頃のことです。アラムとイスラエルという二つの国の間には一触即発の緊張関係がありました。アラムの王とその軍隊は、度々イスラエル王を待ち伏せし、危害を加える機械を狙っていましたが、イスラエルには神の人、預言者エリシャがおり、イスラエルの王に的確な助言を与え、事前に危険を回避させていたのです。

そこで、アラム王の矛先はイスラエル王ではなく、預言者エリシャに向かいました。まったく予期していなかった危機に直面したとき、エリシャの召使いであった若者は混乱しエリシャにすがりました。「ああ、御主人よ、どうすればいいのですか。」(15節)

ところがエリシャは、この絶体絶命と思える危機の中で、まったく動揺せず、完全な落ち着きをはらっていたのです。若者とエリシャとでは何が違ったのでしょうか。

 

1.「エリシャは万軍の主を見ていた」

若者は自分を取り囲んでいるおびただしい敵を見ていました。つまり目の前に迫った問題のことで頭がいっぱいだったのです。しかしエリシャは、自分を守り、救い出してくださる存在に目を向けていました。彼は「恐れてはならない。わたしたちと共にいる者の方が、彼らと共にいる者より多い」(16節)と若者を諭しました。

私たちが困難に取り囲まれるとき、もう終わりか、と思い怖気付くとき、私たちを取り囲み、守っている万軍の主がおられることを想い起しましょう。求める者には、危機の只中においても、状況を正しく理解し、神の軍勢を見る信仰が与えられます。

 

2.「緊張関係を解決する大宴会(和解)のチャンスを模索する」

この後、エリシャはアラムの軍隊の目をくらまし、北王国イスラエルの首都サマリアまで連れて行きます。彼らが目を開けてみると、敵陣のど真ん中にいた、というのです。イスラエル王にとって、敵軍を打ち破る千載一遇のチャンスが訪れたのです。

しかし、エリシャは神の御思いを次のように宣言しました。「打ち殺してはならない。彼らにパンと水を与えて食事をさせなさい。」(22節)「そこで(イスラエルの)王は彼らのために大宴会を催した。彼らは食べて飲んだ後、自分たちの主君のもとに帰って行った。アラムの部隊は二度とイスラエルの地に来なかった。」(23節)

二つの民族間の緊迫した関係に解決をもたらしたのは、「戦い」ではなく「大宴会」だったのです。国家間の緊張関係が高まる今日、約3000年前に預言者エリシャを通して語られた神の言葉は、今も生きています。世界のすべての国民が、主の食卓という一つのテーブルに招かれている現実を覚え、主を賛美します。

 

 

 

 

04. 8月 2019 · 2019年7月28日「人生は不公平だけど」加山献牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「人生は不公平だけど」加山 献 牧師

創世記41章37節~52節

 

ヨセフは17歳で奴隷として売られ(創世記37:2)、30歳になるまで自由の身になりませんでした(創世記41:46)。彼は人生の中でも最も楽しく、喜ばしいとされる時期を、奴隷として、また囚人として過ごしました。ヨセフのここまでの人生は不条理に満ちていたといえます。しかし、彼の人生のから2つのことを学びたいと思います。

 

1.「神は、この苦しみの中でも、ずっとヨセフと共にいてくださった」

創世記の中で、繰り返し語られてきたメッセージです。ヨセフがどんな苦しみを通らされても、神さまはひとときも離れることはありませんでした。むしろ不条理の中にこそ、神は共にいてくださいます。そして最も大切なことは、ヨセフはその事実を知り、またその現実を確信していた、ということです。

人は幸せであるために、多くのことを望むかもしれません。ですが、本当に必要なことはただ一つだけです。主のもとにすわり、主のみ声に聴くことです。「私の恵みは、あなたに十分である」という主の言葉が指し示すとおり、神の恵みの極みである主イエスが一緒にいてくださいます。もうそれで、十分なのです。どのような苦しみの時にも、私たちは、共にいてくださるキリストによって平安を体験するのです。

 

2.「神はいつの日か、私たちを引き上げてくださる」

人生には、不公平だと思える出来事が起こります。ある人は平穏な家庭に生まれ育ち、ある人は家族との問題に苦しむことがあります。健康に生活する人がいると思えば、突然の事故や突然の病に襲われる方もあります。ですが、ヘブル書6章10節には次のようにあります。「神は不公平な方ではありませんから、あなたがたの働きや愛を忘れたりなさいません。」(新改訳2017) 神はあなたの流したすべての涙を知っておられます。神は、あなたの負ったあらゆる苦労を、また他者に対する愛の行いを、決してお忘れになる方ではないのです。

神は、私たちの信仰を鍛えるために、もしくは私たちの目をご自身に向けさせるために、ひとときの間、試練を用いられることがあります。それは神の愛です。しかし神は、私たちを苦しみの中に捨て置かれたままにはなさりません。私たちを悲しみから、その暗闇から、必ず引き上げてくださいます。どんな心の痛みも、いつか必ず、主は拭い去ってくださいます。私たちの将来にはすべての苦労に対しての報いがあるのです。聖書において、この報いは終末的かつ将来的な希望として語られています。しかし、天国まで待たずとも、今、この教会で、この礼拝の中で、ぜひ天国を体験していただきたいと思います。神の圧倒的な臨在に触れることのできる場所が確かにある。早良教会がそのような場所であってほしいと思います。たとえ人生が不公平だったとしても、全てに報いてくださる神の約束があることを忘れずに、日々を歩んでまいりましょう。

 

 

04. 8月 2019 · 2019年7月21日「主イエスが再び来られるときまで」今村まさゑ協力牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「主イエスが再び来られるときまで」 今村まさゑ協力牧師

第一テモテへの手紙6章11節~16節

 

旧約聖書には75回「神の人よ」と出ているようですが、新約聖書では今朝の11節とテモテ第二3:17の「神の人が、神に仕える人は、」の2箇所だけです。パウロにとって如何に若きテモテへの祈りが大であったかが窺えます。同時に、これは現代の私たち一人一人のキリスト者への呼びかけでもあるのです。

避けるべきこととは、偽教師との対峙、そして、金銭欲との戦い(6:3~)です。金銭欲は貪欲で限りがなく、すべての悪の根であると聖書は指摘しています。避けるとは「逃げる、隠れる」ことだとギリシャ語は語ります。私たちが求めるべきことは、正しさ・神に対する畏敬・信仰、愛・忍耐・柔和です。これら避けることと求めることを継続せよパウロは勧めています。

「信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。」イエス・キリストをわが救い主と信じた時に、永遠の命は約束されているのではないか。確かにその通りですが、サタンはその永遠の命を狙って執拗に不信仰へと罠を仕掛けてくるのです。

だから、神のみ言は必ず実現すると信じ続けることが重要なのです。互いに愛し合い、困難を忍耐し、とげとげしくではなく柔和に励むのです。「万物に命をお与えになる神」は、その永遠の命を得るために私たちを召されたのです。バプテスマのときに各自、信仰告白をしたことを「多くの証人の前で立派に信仰を表明した」ではないかと評価してくださいます。

その私たちに、神とキリストとの御前で命じられるのは再臨のキリストのことです。2000年前に来臨された救い主を、神が定められた時に再び現してくださる。14節には次のようにあります。「わたしたちの主イエス・キリストが再び来られるときまで、おちどなく、非難されないように、この掟を守りなさい。」

13節に出てくるポンティオ・ピラトとは、ローマから派遣されていた総督です。主イエスが「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」と語られた時、ピラトが答えた「真理とは何か」という(ヨハネ18:36~37節)問答は興味深いです。ローマ帝国は当時、繁栄を極めていました。しかし、この世の繁栄は一時的でエジプトもアッシリアもバビロンもペルシャもギリシャも滅び去りました。しかし、神の国は永遠に続くのです。

15~16節で、パウロは神を讃えずにはおれなくなったのです。「神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。この神に誉れと永遠の支配がありますように、アーメン。」テモテは、パウロの6つの手紙の共同執筆者となり、エペソ教会の初代監督を務めました。

 

 

 

24. 7月 2019 · 2019年7月14日「神さまの畑」加山 献 牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「神さまの畑」 加山 献 牧師

第一コリントの信徒への手紙3章5節~9節

 

第一コリント3章9節に次のようにあります。「あなたがたは神の畑、神の建物なのです。」 教会とは「神の畑」であり「神の建物」である、という二つの比喩的表現がなされています。今回は「神の畑」という比喩を中心に考えていきたいと思います。

この手紙を受け取ったコリントの教会は、信仰に入って間もない人々によって構成されていました。ところが教会が始まって5年も経たないうちに、彼らは多くの問題を抱えるようになっていました。そのひとつに「仲間割れ」という問題がありました。

コリントの教会はパウロによってその礎が据えられ、パウロの後にアポロという働き人がコリントの教会を訪れ、指導しました。パウロもアポロも誠実な働き人でしたが、彼らが去った後に「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロにつく」と言い出す人々が現れ、このことが「仲間割れ」の原因となったのです。そこでパウロは、この手紙の中で次のように語っています。「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。」(6節~7節)

一人一人の信仰者は教会という畑に植えられて、成長していくものである、というのです。このことはコリントの教会だけではなく、私たちの教会にも、他の全ての教会にも当てはまることです。

野菜や果実が成長していくならば、最終的には実を結ぶことが期待されます。むしろ実を結ぶことこそが、全ての労苦の目的であると言えます。耕し、種を蒔き、水を注ぐ働き人が備えられ、神が恵みと憐れみによって信仰者を成長させてくださるのは、実を結ぶという最大の目的の故です。

私たちは、この教会にあって、また各々の人生において、どのような実を結ぶことを期待されているのでしょうか。ガラテヤ書5章には私たちが結ぶべき九つの実が紹介されています。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」(ガラテヤ5章22節~23節)

様々な信仰の実について述べられていますが、第一に「愛される」ことと「愛する」ことが挙げられています。人間の愛は時に不完全です。しかし、イエス・キリストの十字架は私たちの魂を根底から支える、ただ一つの完全な愛です。ぜひこの愛を受け取り続けていただきたいと思います。教会は、この十字架の愛が撒かれ、実を結ぶ、神さまの畑なのです。この畑で共に神の愛を受け取りながら、30周年を目指していきましょう。

 

17. 7月 2019 · 2019年7月7日「感情を支配する」加山献牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「感情を支配する」加山 献 牧師

マタイによる福音書5章21節~26節

 

私たちは楽しい時、嬉しい時に、笑って喜びを表現することができます。感情は紛れもなく、神様が人間に与えてくださった良い贈り物です。ところが私たちは、時として感情を上手にコントロールできず、感情に心を支配され、その結果として望ましくない結果を刈り取ってしまうことがあります。「怒り」は私たちにとって最も律しがたい、手ごわい感情のひとつです。

「殺すなかれ」、これは十戒の教えの一つです。しかし主は「殺すなかれ」という戒めを、「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける」と全く新しく語り直されました。「殺すなかれ」という戒めを行いだけの問題ではなく、私たちの心の問題とされたのです。主イエスは、私たちに対して「感情を支配する」こと求めておられる、と言えるでしょう。

 

1.怒りを手放す(21節~22節)

「腹を立てる」という言葉は、詳しくは「腹を立て続ける」という継続の意味があります。イエス様は一時的な怒りよりも、「ゆるさない怒り」を戒められています。一時的に怒ってしまうことは仕方がないかもしれません。「怒る」ということ自体が罪なのではありません。しかし、どのような理由であっても、私たちは怒り続けたままではいけません。

2.赦し、赦されること(23節~24節)

怒りを手放すために、イエス様は「赦す」ことの大切さついて教えておられます。同じように、「赦される」ことも大切です。あなたが神を礼拝する前に、誰かが私に対して反感を持っている、怒っている、そして自分がどうやら加害者である、と気づいた時は、へりくだって、率先して赦しを求めるようにしなさい、とイエス様は言われました。それが神様の求めている礼拝者の姿です。

3.謝罪

自分に対して反感を持っている人に赦していただくためには、へりくだって「謝る」ことが必要です。「私が間違っていました」と心から認めることはとても苦しいことかもしれません。しかし、自分の過ちを認めるということは、私たちの心に驚くべき解放を与えます。

4.和解(25節~26節)

25節からは自分を責め立てる敵との和解がテーマです。「さもないと・・・あなたは牢に投げ込まれるにちがいない」という主の言葉が指し示す通り、このメッセージを聞いている私たち一人一人が有罪確実なものであることを、主は前提とされています。自らの罪を謙虚に認めて赦しを請う、ということは、私たちのプライドと感情が邪魔をしてなかなかできないことです。しかし主は、私たち一人一人に、感情に支配されるのではなく、感情を支配して生きていくことを勧めてくださっています。

 

 

 

 

17. 7月 2019 · 2019年6月30日「主が共におられたので」加山献牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「主が共におられたので」 加山 献 牧師

創世記39章1節~23節

 

「主がヨセフと共におられたので」、この聖句は創世記39章の中に4回も繰り返されています。この章にとどまらず、神が人と共にいてくださる、という主題は聖書全体を通して、至る所で繰り返し語られています。

ヨセフの人生は苦難の連続でした。ところが39章の2節以下では次のようにあります。「主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ。彼はエジプト人の主人の家にいた。主が共におられ、主が彼のすることをすべてうまく計らわれるのを見た主人は、ヨセフに目をかけて身近に仕えさせ、家の管理をゆだね、財産をすべて彼の手に任せた。」

ヨセフは実の兄弟に捨てられて、人生のすべてを失い、奴隷となってポティファルの家にやってきました。しかし、彼はこの場所で忠実に仕え、主人の信頼を得ました。ヨセフがポティファルの家に持ち運んだものは、自分の境遇に対する不満でもなく、人生を悲観する心でもなく、神の臨在と神の祝福でした。私たちもまた、神の臨在と祝福を、どんなところにでも持ち運ぶものでありたいと思います。

ヨセフに次の災難が起きました。ポティファルの奥さんがヨセフを誘惑してきたのです。しかし、誰も知らないようなところでも、自分の行いを熱いまなざしで見つめておられる神様がおられることを、彼は常に意識していました。

人生を生きていく時に、困難を避けて通ることはできません。欺き、試練、誘惑に直面しながら、それでも人は生きていかなければなりません。エレミヤ、ヨブ、バプテスマのヨハネ、パウロ等の信仰の先人たちも何度も様々な困難を通りますが、聖書は証言しています。神は彼らと共におられました。

ヨセフは無実の罪で監獄に入れらることとなりました。しかし、この事も神さまの深い計画のうちにありました。私たちの人生においても、時には理解できないことが起こります。しかし、全ての出来事が神の手にあるということを知るならば、私たちの試練に対する見方は変わります。

後世の詩人がヨセフの生涯を想い、詠った詩が詩編105編16節~19節に記録されています。「主はこの地に飢饉を呼び、パンの備えをことごとく絶やされたが、あらかじめひとりの人を遣わしておかれた。奴隷として売られたヨセフ。主は、人々が彼を卑しめて足枷をはめ、首に鉄の枷をはめることを許された。主の仰せが彼を火で練り清め、御言葉が実現するときまで。」

 

05. 7月 2019 · 2019年6月23日「ザアカイの救い」今村まさゑ協力牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「ザアカイの救い」今村まさゑ協力牧師

ルカによる福音書19章1節~10節

 

イエスさま最後のエルサレムへの旅もあと20㎞、オリエント世界最古の町エリコに入りました。2節の「そこにザアカイという人がいた。」とありますが、原文では「見よ。」と記されています。重要な人物、重要な出来事であることを意味しています。当時の徴税人はローマに納める税金を勝手に上乗せして取り立て、上乗せした分は自分のために横取りするという悪事を行っていたので、当然のことながら人々からは嫌われ、ユダヤ人(神の民)としては認めず、誰もが罪人と差別していました。金は貯め込み、頭にまでなってはいましたがザアカイは孤独でした。

3節に「イエスがどんな人か見ようとした」とあります。実はザアカイの「見ようとした」という動詞と、5節のイエスの「見上げて」という動詞は、ギリシャ語では同じゼーデオで、ザアカイの欲求とイエスの滅びる魂を救う意志が重なり合っているのです。「啐啄同時」という熟語があります、雛が誕生を待って内側から微かな音を発する、親鳥が外側から殻をつついて割る、それが同時であるように、ザアカイの欲求に対して「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、あなたの家に泊まらねばならない」と主は言われたのです。

クリスマスの時、羊飼いたちに告げられた「今日、あなたがたのために救い主がお生まれになった」と同じように。彼は急いで降りて来て喜んでイエスを迎えました。人が何と言おうと、イエス様が「ザアカイ、」と名前を呼んでくださった。誰一人、自分の家に来て泊ってくれる友は居なかった・・・ザアカイは嬉しくて「主よ!」と呼ばわりました。単なる人としてのイエスではなく、救い主イエスをお迎えしました。「主よ、貧しい人に財産の半分を、だまし取った人々には4倍にして返します」と、当時の律法を遥に超える返済を申し出ました。イエスは「今日、救いがこの家を訪れた。」「この家に完成した」と宣言されました。ザアカイ一人が救われるのではなく、この家・・家族も、使用人も皆が救われるのです。「この人もアブラハムの子なのだから。」とは、神の祝福を受け継ぐ事のできるユダヤ人であるのだから。

「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」(10節) イエスさまがこの世に来られた目的は、生きる希望を失い、喜びは失せ、迷い、滅びに向かっている者を捜して救うためであると述べておられます。「高い所に留まっていないで、急いで降りて来なさい。」

私たちも名前を呼んでおられるイエスの声を聞き「今日」ザアカイのように喜んでイエスを迎えようではありませんか。

「わたしをお遣わしになった父が(神が)引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。」(ヨハネ6:44)

 

27. 6月 2019 · 2019年6月16日「恐れの奴隷ではなく、神の子」加山献牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「恐れの奴隷ではなく、神の子」 加山献牧師

ローマの信徒への手紙8章14~16節

世界ではじめて父の日が祝われたのは、1910年6月19日でした。米国ワシントン州に住んでいた女性ソノラさんが、教会で「母の日」の説教を聞き「父の日」もあるべきだと考えたことがきっかけだったそうです。ソノラさんのご家族は、お母さんを早くに亡くし、お父さんが男手一つで、6人の子どもを育てあげました。このお父さんが天に召された後、ソノラさんはお父さんへの感謝の気持ちから、自分が通う教会の牧師に頼み、父親の誕生月であった6月に「父の日」を祝う礼拝をしてもらいました。この出来事が、6月の第3日曜日の「父の日」の始まりとなりました。父の日の今日、ローマ8章14~16節の言葉が開かれています。

 

1.「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。」(14節)

「導かれる」という言葉は、私たちの立ちどころが移されることを意味しています。ある場所から導き出されて、もうそこには戻らないということです。早良教会の先代の牧師であられた今村幸文先生が子どもメッセージの際によく歌ってくださった賛美があります。「福音の汽車にのってる、天国行きに。罪の駅から出て、もう戻らない。」罪の駅にはもう戻らない、古い自分、今までの自分にはもう戻らない。これが私たちの信仰の歩みです。私たちにも、神様が導こうとされている、約束の場所があることを覚えたいと思います。

 

2.「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。」(15節)

15節の「神の子とする霊」という言葉は、正確には「子たる身分を授ける霊」と訳せます。本当は受けるに値しないはずの者が、子としての地位、子としての特権を恵みとして受けることができた、ということです。それは主イエスが、持っておられたすべてのものを、私たちに与えてくださった、ということを表しています。本来、神から遠く離れていた罪人の私たちが、イエスさまの持っておられた子としての身分をいただいて、神を『アッバ、父よ』、お父さん、と親しく呼びかけることができるようになりました。

 

3.「この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。」(16節)

「神の霊」に対して「わたしたちの霊」という言葉があります。私たちの霊、私たちの魂は、私たちの心の深いところで、無意識のうちに自分が何者であるかということを探し求め、証明しようとすると言われています。また、私たちに与えられた環境、もしくは私たちの成し遂げることのできた何かが、私たちを外側から支えることもあり得ます。

しかし聖書は、私たちは神の子である、という最高のアイデンティティを私たちに提供します。もはや私は何者であるのか、どこに向かっていくのかということを悩むことはありません。「この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって、(私たちの内側から)証ししてくださいます。」

 

15. 6月 2019 · 2019年6月9日「永遠に一緒だよ」加山献牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「永遠に一緒だよ」 加山 献 牧師

ヨハネによる福音書14章15節~31節

ペンテコステとは、弟子たちに聖霊が与えられたことを祝う日曜を指し、聖霊降臨祭とも呼ばれます。教会では、父なる神、子なるイエス・キリスト、そして聖霊、この三位一体の神を信じています。では、聖霊なる神様とは一体どのようなお方なのか。ヨハネによる福音書14章16節にはこのようにあります。「・・・父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」イエス・キリストが父なる神に対して願われたことは、私たちと永遠に結びつくことでした。ヨハネは聖霊を表す言葉として、「パラクレートス」という言葉を好んで用いました。古代ギリシャの言葉で「弁護者、傍らに立つように呼ばれた者」という意味です。

1.【弁護者】

罪の故に、本来私たちは裁かれるべき者であったと聖書は語っています。しかし、同時に弁護者がおられます。私たちが引き出される裁きの座で「この者の罪は赦されました、十字架の血潮によって、赦されました」と宣言してくださる弁護者が共にいてくださるのです。今日も、聖霊なる神様は私たちに赦しを宣言しておられます。「あなたは赦されている、あなたは愛されている」と。

2.【助け主】

また、当時の軍事用語で「援軍」という意味でも使われていました。ある軍隊が敵の前で意気消沈し、落胆している時に、彼らの胸に新しい勇気を与えるために送られる「助け主」を意味していました。イエスさまは弟子たち言われました。「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。」聖霊は、あなたの救いを確証させる、助け主です。

3.【教師、導き手】

「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」

キリストが天に昇られた後、聖霊なる神さまがすべてを解き明かしてくださいました。教会を教え、宣教を導かれたのは聖霊なる神様の働きでした。私たちがどんなに遠くに離れていても、イエスさまが語った言葉に引き戻してくださるのです。道に迷い、どんなに神様から離れていっても、何度でもイエスさまのところに連れ戻してくださる、聖霊なる神は私たちの人生のガイド、導き手です。

4.【慰め主、平和を与える方】

「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。(27節)」

イエスさまの約束は、私たちの内側にある不安の只中にあっても、平安であり続ける、永遠の平和です。永遠に私たち共におられる聖霊の働きは、どんな嵐の中にあっても、私たちにこの永遠の平安を思い起こさせる、力ある働きです。イエス・キリストの与える平和は嵐の中での平和です。人生のどんな嵐も、この平和を奪い去ることはできません。

 

 

 

 

15. 6月 2019 · 2019年6月2日「すべてにまさる義」加山献牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「すべてにまさる義」 加山 献 牧師

マタイによる福音書5章17節~20節

 

この聖書箇所で主イエスは2つのことを語っておられます。第一に「主は何のために来られたのか」ということ、第二に「どのような人が神に受け入れられるのか」、ということです。

1.主は何のために来られたのか

「わたしが来たのは律法や預言者を・・・完成するためである(17節)。」 主イエスは「律法」と「預言者」を完成し、成就する者として、ご自身を示されました。

「律法」とは聖書の最初の5つの書物、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記を指します。その中心となるのはモーセの十戒に代表される「戒め」です。また、「預言者」とはイザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書、ダニエル書などの旧約聖書の書物を表します。その内容は人類に対する神の「約束」です。「律法」と「預言者」という言葉が同時に語られる時、それは常に旧約聖書全体を意味していました。つまり、旧約聖書に示されたすべての「戒め」と「約束」を完成し、成就するために主はこの地に来られたのです。主はそのことをはっきりと宣言されました。

2.どのような人が神に受け入れられるのか

当時の律法学者はひとつひとつの教えに「小さな戒め」と「大きな戒め」という序列をつけていました。ある教えを尊び、ある教えは無視するような者たちも現れました。確かに「モーセの十戒」のように重要な戒めが存在します。主ご自身も「敬神愛人」を他の教えよりも重要視されました。しかし「最も小さな掟」(19節)を無視して良いのではありません。そのようなところから、私たちの信仰に破れが生じます。主は、「小さなことにも忠実であってほしい」と語っておられるのです。

信仰者の心には、「どのようにすれば神の基準を満たし、合格できるのか、どのようにすれば私たちが救われるのか」という問いが生じます。律法学者とファリサイ派の人々は聖書に書かれていること以上に、細かい規則を守り、行いに励むならば、神に認めてもらえると考えました。彼らは律法に忠実に歩もうと厳格な清さを求める生活をするうちに高慢になり、人々を裁くようになりました。これが「律法学者とファリサイ派の義」です。(20節)

主イエスの言われる「律法学者やファリサイ派の人々の義にまさる義」(20節)とは私たちの働きの報酬ではなく、神からの賜物です。私たちが救われるのは行いによるのではなく、イエス・キリストを救い主として信じる信仰によります。それはどのような行いにもまさっています。行いは、救いに至る手段ではなく、神様の恵みに対する応答なのです。私たちは、神の恵みに応答する者として、小さなことにも忠実でありましょう。