カテゴリー別アーカイブ: 礼拝メッセージ

クリスマス礼拝・キャンドルサービスのご案内

今年も、早良教会ではクリスマス礼拝、キャンドルサービスを開催いたします

どなたでも、歓迎いたします。

どうぞ、お気軽にお越しください。

皆様のお越しをお待ちしております。

なお、入り口では消毒などの感染症対策にご協力をお願いします。

式中も換気を行いますので、あたたかい服装でお出かけください。

 

 

 

 

2020年11月8日「揺るがない岩の上に立つ人生」加山献牧師

「揺るがない岩の上に立つ人生」加山献牧師

マタイによる福音書7章24節~29節

 「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。 」(マタイ福音書7章24節~25節)

主イエスは山上の説教(マタイ福音書5章~7章)の締め括るにあたり、この「家と土台」のたとえ話を語られました。ご自身の教えをただ聞くだけではなく、“聞いて行うものとなる”ように、ガリラヤの丘に集まった聴衆を励まされ、それぞれの場所に送り出されたのです。

 「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」(マタイ福音書7章26節~27節)

岩の上に家を建てた人も、あるいは砂の上に家を建てた人も、二人とも同じように自分の家を建てあげることができました。しかし、雨が降り、川があふれ、洪水や嵐が襲ってきた時に、両者の違いが明らかになったのです。いったい何を土台にして人生を築いていたかが、試練の時に問われたのです。

 「イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。」(第一コリント3章11節)

使徒パウロはイエス・キリストの存在そのものが私たちの人生の土台であると語っています。しかも、その土台は既に据えられている、というのです。キリストは私たちの一番低いところに降ってきてくださり、私たちを下から支えてくださっているお方である、ということを表しています。実に主イエスは、神と等しいお方であったのに、人と同じ姿をとられ、仕える者となられました。そして十字架の死に至るまで従順に歩まれたのです。

それは私たちを下から支え、試練の時に私たちを背負い、私たちが抱えるすべての重荷を一身に引き受けてくださるためだったのです。人生の中で最も暗い道を歩むような時にも、イエス・キリストは私たちを一番低いところから支え、抱きかかえて、持ち運んでくださる救い主なのです。

自分自身の力を土台にして人生を建て上げることもできます。しかし、私たちの力は時に脆く崩れやすいものです。キリストを信じる新しい人生というのは、今までの人生を全部リセットする事ではなく、土台を入れ替えることです。これまであなたが歩んで来た人生を否定することではなく、あなたの大切な人生を揺るぎないものに造りかえるために必要なことなのです。

聖書の神、キリストは私たち一人一人を大切に思っておられます。この方の提供する「揺るがない土台」を、是非あなたのものとしてください。

 

 

2020年11月1日「狭い門から入りなさい」加山献牧師

「狭い門から入りなさい」加山献牧師

マタイによる福音書7章13節~23節

「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」(13節~14節)

【すべての人が招かれている】

「狭い門から入る」とは、キリストを信じ、キリストと共に歩むことを指しています。しかし「それを見出すものは少ない」と主イエスは言われました。

しかし、第一に知っておきたい事実は、主はすべての人を命へと招いておられる、ということです。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。」(マタイ11章28節)と語られた通り、主は柔和な方であり、すべての人を救いへと招いておられます。

すべての人を愛され、すべての人を招いておられる主がおられるなら、命に通じる門を見出す者がそれほどまでに少ないというのは、どういった理由からなのでしょうか。

それは、主イエスは柔和な方であると同時に、謙遜な方であられるからです。主は無理矢理に人々を従わせることはなされず、人間の自由意志を尊重される方なのです。その結果、主はすべての人を招かれているのですが、その素晴らしい招きに応える人は意外にも少ないのです。

私たちは自分が疲れていること、重荷を負っているということを認めようとせず、自分の弱さ、自分の罪深さを認めようとしない性質を持っています。それが私たちの罪です。狭き門を狭くしているのは、神ではなく、他ならぬ私たち自身の罪なのです。

【狭き門を見出すためには】

自分の弱さを認める:人は誰もが重荷を持って生きています。ところが私たちは、時に重荷を持っていないかのように振る舞い、弱さを覆い隠して生きていくことがあります。自分には十分な力があり、神の助けなど必要ないと感じる人がおられるかもしれません。しかし、私たちの持つすべての力、才能、経験はすべて神からのいただきものであり、そもそも人生そのものが神によって造られた賜物なのです。人生が問題なく順調であるならば、人は神に感謝すべきでしょう。

しかし人は誰でも、人生の歩みの中で、疲れ、倒れることがあります。自分に助けが必要であると認めることはプライドが妨げる、難しいことですが、自分の弱さをまっすぐに見つめ、告白し、頼るべきお方に頼りましょう。

自分の罪を認める必要がある:「狭い」という言葉は、ギリシア語で“ステーノス”という単語がつかわれています。「うめき、嘆き」を意味する言葉です。どうして狭い門から入る人が少ないのか。つまり、自分が抱える罪の問題から逃げ、目を背ける人が多いということです。聖書は私たちの罪の問題を指摘します。自分の弱さ・汚さ・罪を認める者だけが、この「狭き門」を見出すのです。「私は大丈夫です。私に問題はありません」と言い張らずに、その重荷をおろしていただきたいと思います。そして、その後に続く命に至る細い道を歩んでいただきたいと願います。その道は、共に重荷を担ってくださる方と、ずっと一緒に歩んでいく喜びの道なのです。

 

 

 

2020年10月25日「協力宣教と成功的伝道」朱承圭協力宣教師

「協力宣教と成功的伝道」朱承圭協力宣教師

ルカによる福音書10章1節~5節

この聖書箇所にはイエス様が弟子たちと共に伝道する姿が出てきます。イエス様は12名の弟子たちだけでなく、70人(新共同訳では72人)の伝道者たちを選び、伝道訓練をおこないました。イエス様の伝道訓練には理由がありました。(1、3節)

イエス様が弟子たちを訓練する理由は、伝道には“霊的戦い”が伴うからです。イエス様は70名の伝道者たちを送るときどのようなお気持ちだったのでしょうか。「小羊をおおかみの中に送るようなものである」(3節)とあります。パレスチナの羊飼いたちは羊たちをおおかみから守るためにいつも不安な想いを抱いていました。イエス様の心は羊飼いの心そのものでした。イエス様はまだ訓練されていない弟子たちを気にかけておられました。

かつて、イエス様は40日間の断食祈祷の終わりに、サタンからの試みに遭われました。だからこそ、イエス様はサタンの悪賢さを誰よりもよくご存知でした。イエス様はご自分を試みたサタンが、同じように70人の弟子たちの信仰を揺さぶることをよくご存知でした。

このように伝道は“霊的戦い”です。弟子たちはイエス様が生きられたように、一生伝道者の人生を歩まなければなりませんでした。

伝道は霊的戦争であるからこそ、イエス様は弟子たちが霊的戦いに勝利する秘訣を教えてくださいました。その勝利の秘訣は“神様ただ一人”を頼ることです。

4節には次のようにあります。「“財布”を持って行くな。袋を持って行くな。靴を持って行くな。人たちとあいさつもするな。」ある意味、そのすべては弟子たちに必要なことでした。弟子たちにはお金が必要です。しかし、お金を頼るなとイエス様はおっしゃいました。日常の糧も必要です。しかし、食べることのために心配するなとおっしゃいました。パレスチナ地域を旅する人たちにはサンダルも必要です。しかし、イエス様はこれらのものも心配するなとおっしゃいます。イエス様は“挨拶するな”とさえ言われました。ユダヤ人たちは人に出会うとき“シャローム”と挨拶し、交わることが好きでした。しかし、イエス様は人にも頼るなとおっしゃったのです。どういうことでしょうか。イエス様はただ神様お一人だけに頼りなさいとおっしゃったのです。霊的戦いに勝利する秘訣はただひとつ、神様お一人だけを頼ることだけなのです。

2節です。「そのとき、彼らに言われた、『収穫は多いが、働き人が少ない。だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい。』」 伝道とは霊的戦いです。霊的戦いは主が来られるその日まで継続されなければならないのです。継続的に伝道者の人生を生きるために最も必要なことは何でしょうか。

継続的に伝道者の人生を生きるためには“イエス様の心”が必要なのです。それは人を“憐れむ心”が必要である、ということです。イエス様の目は、多くの人が地獄に落ちる情景を見、イエス様の耳は“助けてくれ”と叫ぶ声が届きました。収穫を待つ滅びゆく魂を憐れみ、イエス様は耐えきれませんでした。

継続的な伝道者の人生を歩んでいくためには“イエス様の心”が必要です。人を憐れむ心が必要です。私たちは何よりもまず、イエス様の心をお与えくださいと祈るべきです。イエス様のように人を憐れむ心を求めるのです。憐れみの心こそが、一生伝道者として生きることを可能にします。伝道は霊的戦いだからこそ、お金によらず、人によらず、ただ神様お一人に頼るときに勝利が与えられます。霊的戦いは主が来られるその日まで続けられるべきです。アーメン!

 

 

2020年10月18日「先ず、最後に来た者から」 今村まさゑ協力牧師

マタイによる福音書20章1節~16節

今朝の話は、前章の19:16~富める青年が「先生、永遠の命を得るには、どんな善い事をすれば善いのでしょうか」との質問に答えて語られた「天の国」の譬え話です。従って19:30と20:16「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」。に囲まれています。

日雇い労働者は夜明け前から広場に集まって、一日の糧を得るために雇い主が現れるのを待っていました。(当時の労働時間は、どこの国でも、夜明けから日没まででした。)早朝に、一デナリオン(家族を養うのに足る額)の約束で、雇われた人々は喜んで畑に向かいました。ところが、このぶどう園の主人は、9時にも、12時にも、3時にも広場に出かけ、まだ立っている人々に、「あなたたちもぶどう園に行きなさい。」と、畑に送ったのです。彼らは喜んで働きました。

主人は、5時ごろにも行って見ると、ほかの人々がまだ立っていたので「なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか」と尋ねると、「だれも雇ってくれないのです。」主人は彼らに「あなたたちもぶどう園に行きなさい」と送りました。

夕方になって、主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と(申24:15)言ったのです。

支払いは通常、夜明け組から順に払いますね。ところが、この主人は、最後に来た者から一デナリオンずつ支払いました。彼らは驚き喜びました。何という恵みでしょう。最初に雇われた人達は、もっと多くもらえるだろう思っていた。しかし、一デナリオンであった。それで、受け取ると、主人に不平を言ったのです。

『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、熱い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』 主人はその一人に「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。」感謝ではなく、不平をいう者に「友よ、」・・と呼ばれる。マタイに3回だけ。(22章12。 26章50。参照)

「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」これが天の父のこころなのです。職を求めて一日中広場に立っていたその悲しみや苦しみを思いやり、そこに救いの手を伸ばして下さる方なのです。 「それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』妬むとは、羨ましい気持ちから生じます。

今朝の話の鍵は、自分は何時にぶどう園に行った者かです。夜明け組は・・・若くして救われた人たちなのか・・・或いは、アブラハムやイサク、ヤコブ・・・ペテロやパウロ・・・私自身は、まさしく夕暮れにぶどう園に入れて頂いたと、心から感謝しました。5時からの者であることを覚えて、今週も主にあって励んでまいりましょう。(イザヤ書 55章8節)参照

 

 

2020年10月11日 「すべてのことは報われる」 加山献牧師

「すべてのことは報われる」 加山献牧師

出エジプト記18章1節~12節

① 人生には苦労がある

モーセの人生には多くの苦労がありました。モーセはエジプトの国で奴隷とされているイスラエルの家庭に生まれてきました。それにもかかわらず、奇跡的な方法でエジプト王ファラオの宮殿で王子として育つことになったのです。しかしあることがきっかけで、ファラオの怒りにふれ、命を狙われるようになり、同胞からも拒絶されたモーセはエジプトの王宮を後にして荒れ野をさまよいました。エジプト人にもなり切れず、イスラエル人にも受け入れられないということを通して、彼は孤独を味わったのです。

 

② それでも人生には慰めがある

モーセは砂漠をさまよい、ミディアンというところに身を落ち着けました。そこで一人の女性と出会い、結婚し、二人の子どもに恵まれた。そこで生まれた一人目の子どもには「ゲルショム」(寄留する者)と名付けました。モーセの中で「寄留者」「よそ者」としての意識が強かったからでしょう。しかし二人目の子どもには「エリエゼル」(神は助け)と名付けました。ずっと独りだったモーセは、このミディアンの荒れ野で「家族」と出会えたのです。彼は「自分はここにいていいんだ」と思える「居場所」を見つけたのです。美しい家族はモーセに対する神さまの慰めでした。

 

③ 人生には使命がある

ミディアンで平和に暮らしていたモーセに、ある日突然神さまが現れて、「エジプトに行って、奴隷とされているイスラエルの民を解放しなさい」という使命を与えられました。そこでモーセはしばらく家族と離れ、単身赴任状態でこの働きにあたったのです。実の兄であるアロンと合流して、エジプト王と交渉にあたりました。様々な出来事を経て、出エジプトを果たし、約束の地カナンを目指したのです。

 

④ 人の一生は証である

「モーセはしゅうとに、主がイスラエルのためファラオとエジプトに対してなされたすべてのこと、すなわち、彼らは途中であらゆる困難に遭遇したが、主が彼らを救い出されたことを語り聞かせると、エトロは、主がイスラエルをエジプト人の手から救い出し、彼らに恵みを与えられたことを喜んで、言った。・・・」(出エジプト記18章8節~9節)

義理の息子が信じている神さまはなんと誠実で、なんと力ある神さまだろうか、異教の神に仕える祭司であったしゅうとのエトロはそのように感じました。そしてモーセ達と共に神さまを礼拝したとあります。

私たち一人一人にも人生の物語があり、証があります。私たちが今日生きているということ、ただそのことだけでも、誰かの勇気と励ましになり得るのです。だから心からお互いを祝福しあいたいと思います。「色々あったと思うけれど、生きてきてくれてありがとう。そしてこれからもよろしく」、と。

 

⑤ すべてのことには報いがある

「信仰によって、モーセは成人したとき、ファラオの王女の子と呼ばれることを拒んで、はかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待される方を選び、キリストのゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝よりまさる富と考えました。与えられる報いに目を向けていたからです。信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているようにして、耐え忍んでいたからです。」 (ヘブライ人への手紙11章24節~27節)

へブル書の著者は上記のようにモーセの生涯を述べています。私たちも与えられる報いに目を向け、目に見えない方を見ているようにして歩んでいきたいと思います。

 

 

2020年10月4日「探しものはなんですか」加山献牧師

「探しものはなんですか」加山献牧師

マタイによる福音書7章7節~12節

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」(7節~8節)

人は何を求めて生きているのでしょうか。人は生まれた時から何かを探し求めて生きている存在だといえます。生まれたばかりの赤ちゃんは生まれた時に「オギャー」と産声をあげます。それは、赤ちゃんが初めて自分の力で呼吸しはじめたしるしです。人は生まれた時から空気を求め、やがて食物を求め、飲み物を求めるようになります。意識してもしなくても、私たちは常に「求め」の中に生かされているのです。究極的には愛されることを求め、受け入れられることを求め、誰かと繋がることを求めているのです。

「求めなさい、探しなさい、そして門をたたきなさい」と主イエスは語られました。まず主は私たちに行動を促しています。行動なくしては結果はない、ということです。

イエスさまは、求めている者の内の何人かが与えられるのではなく、「だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」(8節)と約束してくださいました。私たちは探し求める者としての人生を歩むものでありたいと願います。

「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。」(11節)

次に「与える方の存在がある」と主イエスは強調されました。私たちに良いものを与えようとしておられる父なる神さまがおられる、そして私たちは神に愛されている子どもである、というのです。別の福音書によれば、主は次のようにも言われました。

「私が道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ福音書14章6節)

「私は門である。私を通って入るものは救われる。」(ヨハネ福音書10章9節)

あなたが探しているもの-本当の幸せ、本当の命-それがこの私である、あなたがずっと探していた人生の答えはこの私なのだ、というキリストの宣言です。父なる神さまが私たちのために与えてくださった、最も良いものは、神の独り子イエス・キリストです。この方を信じることによって与えられる、十字架による罪の赦し、平安、喜び、永遠の命、これらはすべて、私たちに与えられており、私たちが受け取るべき贈り物です。神さまが私たちに与えようとしておられる素晴らしい贈り物を今日、受け取りましょう。

 

メッセージ音声↓

礼拝動画↓

 

 

2020年9月27日「帰ろう!父さんの家」今村まさゑ協力牧師

「帰ろう!父さんの家」今村まさゑ協力牧師

ルカによる福音書15章11節~32節

ルカ福音書15章は、イエスさまが3つの譬えを語られていますが、主題は「無くしたものを捜し求める持ち主」の話です。「100匹の羊」「銀貨10枚」そして、「放蕩息子」です。

ある日、弟息子は元気な父親に遺産を要求しました。父親は二人に財産を分け与えました。幾日も経たぬうちに弟息子はすべてを金に換えて、遠い国に旅立ち、放蕩の限りを尽くして財産を使い果たしてしまいました。あいにくひどい飢饉がおこり食べるにも困り始めました。ようやく得た仕事は豚の世話でした。イスラエル人にとって豚は汚れた動物で、最低の仕事でしたが、その豚が食べるいなご豆で腹を満たしたかったが、誰もくれる人がいなかった。

父のもとを遠く離れて自由を満喫したかった弟息子は、しみじみ孤独を体験しました。そこで彼は我に返ったのです。『父のところでは、あんなに大勢の雇人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇人の一人にしてください」と。そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き接吻した。さらに、父親は一番良い服と指輪と履物を、僕たちにもってこさせ、肥えた子牛を屠って「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」と祝宴を始めたのです。服・指輪・履物は、主人の息子であることの証でした。上等の服は義を表します。アダムとエバが裸であることを知り、いちじくの葉をつづり合わせて腰を覆った時、神は皮の衣を作って着せられた。(創3:7,21)ことを想起します。

ところで、孝行息子と見られていた兄が、弟の帰りを喜ぶ父に腹を立て、怒って家に入ろうとはせず父親が出て来てなだめました。兄は『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。これは「奴隷として仕えた」という言葉です。言いつけに背いたことは一度もありません。・・・それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかった。ところが、あなたのあの息子が、あなたの身代を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ祝うのは当たり前ではないか。』この父親こそがキリストの神であります。

事実、神は一人一人を創造し、命を与え、自由意志を与え、見守り続けておられるのです。神は、私たちがどれほど落ちぶれても、罪人であっても、見放したり、見捨てたり、忘れることなく、無条件で受け入れてくださると聖書は語っています。

私たちは、自分が神に愛されている者、失われてはならない価値ある存在であることを知って、生きる意味と勇気を与えられるのです。ハレルヤ!

 

礼拝動画↓

 

 

2020年9月20日 「あなたのためにも誰かが祈っている」 加山 献 牧師

出エジプト記17章8節~16節

 

人は誰でも、誰かに支えられ生きています。モーセに率いられ、エジプトから脱出し、奴隷の状態から解放されたイスラエルの民は、約束の地カナンを目指し、旅を続けていました。その旅の途中、彼らは思いがけない敵に戦いを挑まれたのです。

エジプトから持ってきた選別の宝を略奪しようと試みるアマレク人と戦うために隊長として任命されたのは若きヨシュアでした。彼が戦っている間中、モーセはずっと陰で祈っていました。モーセの両隣には、彼の祈りを支えるアロンとフルがいました。

私たちの人生にも思いがけない戦いがありますが、戦いの時にはいつも隣人の祈りと支えがあるのです。ヨシュアは祈られていました。私たちも祈られ、助けられることを恥じる必要はありません。人として生きていく以上、誰もが助けられる必要があるのです。

今日もあなたのために祈る隣人がいます。それが教会という共同体です。ヨシュアのように、激しい戦いの最中にあっては、目の前のことに必死で、祈られていることがわからないものです。むしろ祈られていたことに気付くのは、死線をくぐりぬけ、ほっと一息ついた後だったりします。

たとえ祈られていることを感じることができなくても、あなたは多くの兄弟姉妹よって、確かに祈られ、愛されているのです。ぜひ、そのことを信じていただきたいと思います。

そのような多くの祈りの中で、ひときわあなたのために心を込め、愛を込めて祈っている方がおられます。

 

「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ福音書22章32節)

 

これは、これから自分を裏切ってしまうペテロのために、主イエスが語った言葉です。ペテロが大きな試みに遇うその前に主イエスは前もって祈っていてくださったし、十字架への道を歩まれる中においても、常に弟子たちを愛し、祈り続けてくださったのです。

同じように、主は私たち一人一人のためにも祈ってくださっています。

 

「復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」(ローマ8章34節後半)

 

「この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。」(ヘブライ7章25節

 

主イエスは天に昇られ、神の右の座に着かれ、私たちのために祈ってくださっている、というのです。私たち一人一人の信仰のために、今、この時も祈ってくださっている主の声が聞こえますか?私たちのために祈ってくださるその声に耳を澄ませながら、戦いの時も勇敢に生きてゆきたいと思います。

 

 

 

 

2020年9月13日「裁判官でなく、弁護士であれ」加山献牧師

 

マタイによる福音書7章1節~6節

「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」(1節~5節)

 

「人を裁いてはならない」とイエス・キリストは言われました。自分自身の悪いところは棚上げにして、他の人の些細な欠点ばかりに目を留めてしまう、、、私たちは皆、そのような傾向を持っています。

自分の目の中の大きな太い丸太に気付き、まず自分の目からその丸太を取り除きなさいと、主イエスは勧めておられます。そうすれば、はっきり見えるようになって、他の人をお助けできるようになる。まったく、その通りです。

英語の聖書では「汝、裁くなかれ」を”Do not Judge”と訳されています。”Judge(ジャッジ)”という英単語は、スポーツの「審判」という意味で使われるように、ひとつのルールに乗っとってゲームを導くことを意味します。スポーツにおいてルールがあることは大切であり、審判の働きは重要です。

しかし、ここで主イエスが取り扱われたのは、私たちは皆「自分なりのルール」を持っており、自分の価値観、自分の道徳観、自分の人生観で他の人を測る、という問題です。私たちは皆、この「自分ルール」に従って、この人は良い(セーフ)、この人はだめ(アウト)と決めつけてしまう性質をもっています。

創世記に描かれているアダムとエバの罪は、「善悪の知識の木」から実を取って食べてしまったことでした。つまり、「何が良くて何が悪いかはわたしが決めます」ということが罪のはじまりでした。神様を差し置いて、この私が「私の基準」に従って善悪を決めることがはじまりました。そうするとアダムはエバを、エバは蛇を責めはじめたのです。

”Judge(ジャッジ)”という英単語が示すもう一つの役職は「裁判官」。この社会において、裁判官も大切な存在です。この世の法律に従って、何が正しいかを判断し、守るべきものを守り、罰すべきものを罰する、それが裁判官の務めです。

お伝えしたいことは、そのような制度としての裁判官が必要ない、という意味ではありません。では聖書が語る「人を裁いてはならない」とはどういう意味なのでしょうか。究極的に人を裁くということは神の領域である、ということです。キリストが私たちに求めておられるのは、裁くものとしての生き方ではなく、弁護者としての生き方なのです。

 

「神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」(6節)

 

犬や豚は当時のユダヤ社会では大変忌み嫌われた動物でした。今でも厳格なユダヤ教やイスラム教の方は豚肉を避けられます。ですが、キリスト教はそのように考えません。なぜでしょうか?イエス・キリストの教えと存在が律法(それまでの宗教的伝統)に対する理解を変えたからなのです。

 

「それから、イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」(マタイ福音書15:10~11)

 

「更に、次のように言われた。『人から出て来るものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。』」(マルコ福音書7:20~21)

 

上記の二カ所は“汚れたものとは、実は私たちの内側にあるのだ”という主イエスの教えです。私たちの内側に潜む獣に、私たちの大切なものをわたしてはいけない。私たちの怒りや妬み、その他のあらゆる負の感情に人生を明け渡してしまうなら、それらは踏みにじられ台無しになってしまいます。

「汝、裁くなかれ」という教えは、他の人のため、健康的な人間関係を育むため、ということもありますが、何よりもまず、それは私たち自身のためなのです。やがてこの人生を終えて、神さまの前に立つ時に、神様は「あなたの学歴、職歴、その他の功績を聞かせてください」とは尋ねられません。あなたがどのようにキリストに応答し、神を愛したか。そして、あなたがどのように隣人を愛し、人とどのように接してきたかを神は尋ねられるでしょう。「裁いてはならない」とは、具体的に人を愛する生き方につながっているのです。                                                  (9月13日)