カテゴリー別アーカイブ: 礼拝メッセージ

2021年4月18日「新しい命に生きる」加山献牧師

「新しい命に生きる」加山献牧師

ローマの信徒への手紙6章4節

「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。」 (ローマ6:4)

ルカ福音書にザアカイという人物が登場します。ザアカイは人々から税金を取り立てることが仕事でした。金持ちでしたが、みんなに嫌われ、友達の少ない、寂しい日々を過ごしていたと思われます。主イエスはそのようなザアカイのところにきて「ザアカイ、今日はあなたのところに泊まりたい」と語られました。

主を食卓に迎え、ザアカイは新しい人生を生きていく決心をしました。「貧しい人に施します。人々から騙し取った分は4倍にして返します。」 彼がそのように宣言すると、主は次のように言われました。「今日、救いがこの家を訪れた。」

主イエスの語る救いとは、具体的に人の生き方が変えられていくことを含んでいます。ザアカイの人生は奪い取る人生から与える人生に、獲得する人生から分かち合う人生に変えられていったのです。

イエス・キリストご自身も与え続ける方でした。人々に勇気を与え、希望を与え、癒しを与え、希望を与え、そしてついに十字架によってその命をも注ぎだされました。主はすべてのものを与え尽くした方だったのです。キリストを信じるということは、そのようなキリストに似たものに変えられていく、変えられ続けていく歩みを意味します。

「わたしたちはバプテスマによってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなった」 と使徒パウロは記しました。古い自分はキリストと共に葬られました。今までは、生まれたままの自分が、生まれたままの自我によって、生まれたままの欲望を持って、生まれたままの考えで生きてきました。いつも自我が中心にありました。そのような古い私が葬られ、そして新しい私が生まれる。キリストと共に生きる私が産声をあげる。自分のために生きる私ではなく、他人のために生きる私、隣人のために生きる私、神様のために生きる私が産声をあげたのです。

 

 

2021年4月11日「イエス・キリスト 地上宣教命令」朱承圭協力宣教師

「イエス・キリスト 地上宣教命令」朱承圭協力宣教師

マタイによる福音書28章16節~20節

この聖書箇所には、イエス様が地上のご生涯の最後の場面で、弟子たちに語られる姿がでてきます。イエス様は弟子たちと3年間共にいました。そして天に昇られる前に、弟子たちに最後の命令されたのです。イエス様が弟子たちにされた最も大きな命令はどのようなものだったのでしょうか?(19節)

イエス様は弟子たちに3つのことをおっしゃいました。

一つ、すべての民を弟子としなさい。

二つ、バプテスマを施しなさい。

三つ、主の教えを守るように教えなさい。

韓国語訳の聖書では命令形が4つ出てきます。“行きなさい”“弟子としなさい”“バプテスマを施しなさい”“守るように教えなさい”です。しかしギリシャ語本文で見ると、“弟子としなさい”だけが命令形であり、残りの三つは分詞形となっています。言い換えれば、弟子とするために行くべきであり、弟子とするためにバプテスマを施すべきであり、弟子とするために御言葉を教えるべきだということです。

そしてイエス様は、弟子たちに“インマヌエルの約束”をしてくださいました。イエス様は弟子たちに「世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる」とおっしゃったのです。しかしこの時、弟子たちはイエス様の言葉が何を意味するのかよく分からなかったことでしょう。実はイエス様は“聖霊なる神様”が弟子たちと共にいるということを言われたのです。

弟子たちは五旬節のとき屋根裏部屋で聖霊なる神様を体験し、その体験から“インマヌエル”の言葉の意味を悟りました。怖がりだったペテロが勇敢になりました。イエス様が行われた奇跡が弟子たちを通して同じように起こるようになりました。驚くべき事が次々と起こったのです。イエス様のお言葉のように、神様は弟子たちと共におられたのです。

みなさんは弟子でしょうか?イエス様の遺された言葉のとおり、次の“弟子”を育ててください。それは簡単なことではありません。その働きに対する集中が必要です。お約束の通り、神様はみなさんと共にいてくださいます。それは小さくて狭い道ですが、価値ある人生なのです。私はみなさんとご一緒に、この尊い働きに加わることができ幸せです。イエス様は「世の終わりまで私たちと共にいてくださる」と約束されました。主に感謝します。

 

 

2021年4月4日「転がる石のように」加山献牧師

「転がる石のように」加山献牧師

マルコによる福音書16章1節~8節

安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。 (マルコ16:1~3)

聖書箇所には、三人の女性の姿が描かれています。彼女たちは安息日が終わるとすぐにイエスさまのご遺体のもとに向かいました。女性たちはその道すがら思い起こしました。「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか。」 彼女たちは、大きな石が行く手を阻んでいる、ということを知りながらも、“行かなければならない”という強い想いに駆られて、押し出されるように踏み出していったのかもしれません。

私たちは人生において、様々な問題に出会います。コロナウイルスもその一つでしょう。仕事を失われた方もいます。世界には病気や怪我に悩まれる方々がおられます。愛する人を失い悲しんでおられる方々もおられます。これらの問題は、私たちを暗い墓の中に閉じ込めてしまおうとする重く大きい墓石のようです。

自分の力ではどうすることもできない困難に出会うことがあっても、この聖書の言葉に、共に勇気づけられたいと思います。

ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。(マルコ1:4a)

石は既に転がされていた・・・彼女たちが憂いていた巨大な障害物は既に取り除かれていたというのです。この女性たちの聖なる体験が指し示すように、私たちの人生の墓石も、既に取り除かれていることを信じます。人生におけるあらゆる問題を、この希望によって乗り越えていけるという意味だけではありません。「墓」に象徴される「死」という人類最大の敵が、主の復活によって克服され、打ち砕かれたのです。

この三人の女性たちは、“せめて最後に主の御体に油を塗り、御墓を良い香りで満たしたい。せめて最後に、もう一度、心から愛する方、慕わしいイエスさまにお会いしたい。” そのような切なる想いで墓に向かっていました。しかし、これは主イエスと女性たちとの旅路の終焉の時ではなく、すべてのストーリーの始まりの時だったのです。まさに福音の完成と宣教の始まりの朝だったのです。

墓では一人の若者(=天使)が彼女たちを待っていました。彼は二つのメッセージを携え遣わされました。一つは「主は生きておられる」という復活のメッセージです。二つ目のメッセージは「あなたはその復活の主イエスと出会うことができる」というものでした。

これこそが、今に至るまで教会の語り続けるイースターのメッセージです。そうです。主は今も生きておられ、あなたの人生を共に生きてくださる救い主です。復活の主は今日もあなたに出会ってくださり、あなたに驚くべき希望を与えてくださるのです。

 

 

2021年3月28日「苦難の僕、イエス・キリスト」今村まさゑ協力牧師

「苦難の僕、イエス・キリスト」今村まさゑ協力牧師

イザヤ書53章1節~12節

イザヤ書1章1節に「アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて見た幻。これはユダの王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの治世のことである。」 つまりイエス・キリストのことが、700年前に預言されたのです。

ある神学者は、「53章は第五の福音書」。また「もはや預言ではなく福音である」。また、М・ルーサー牧師は、「暗記すべき章」と言っている。

イザヤは、「わたしの聞いたことを、誰が信じられようか。」と述べているが、イエスの時代の人々も、現代の人々も、何も変わっていないのが現実です。

しもべ、若枝の生い立ちは、荒廃、苦難のなか「見るべき面影も、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。」とあります。しかし、内側には神の栄光の輝きがありました。(イザヤ11:1)近づいて来られるイエスを見て、バプテスマのヨハネは『見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ』(ヨハネ1:29)と叫んでいる。

「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し無視していた。」

人々が待望していたメシア像は、政治的、軍事的にイスラエルを復興してくれる人だった。だが、「彼が担ったのはわたしたちの病、わたしたちの痛みであったのに。わたしたちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。」

「彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。」まさに十字架の苦しみのことです。(マタイ26章、27章)

十字架の贖いこそ、誰も、考えもしなかった神の姿、神の愛、神の知恵、神の憐れみであったのです。「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵により無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。」(ローマ3:24~25)

「わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方向に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて 主は彼に負わせられた。」

「苦役を課せられて、かがみ込み 彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、彼は口を開かなかった。」(エレミヤ11:19)(マタイ27:14) 沈黙されたイエスさまの姿の中に、饒舌な愚かさを痛感し、沈黙をまなびたいものです。

「わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり 命ある者の地から断たれたことを。」 心に深くとどめ、思い巡らせ、感謝の日々を、共に生かせて頂きましょう。

 

 

2021年3月21日「君もそこにいたのか」加山献牧師

「君もそこにいたのか」加山献牧師

ルカによる福音書23章13節~25節

 ピラトは三度目に言った。「いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。」ところが人々は、イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた。その声はますます強くなった。そこで、ピラトは彼らの要求をいれる決定を下した。そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求どおりに釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた。 (ルカ23章22節~25節)

ローマ帝国からユダヤの支配を任されていた総督ピラトは民衆を召集し、一晩中主イエスを取り調べた結果、「私はこの人に罪を見出せない」と語りました。そして一つのことを提案しました。それは「鞭打って釈放しよう」という提案でした。これは、鞭打ちという罰を与えることで、ある程度ユダヤ人の要求にも応えつつ、罪のない人を死刑に処することから免れさせる、という打開策でした。しかし、その提案がなされるや否や、大騒ぎになりました。民衆はあくまでも「イエスを十字架につけろ」と叫び続けたのです。

 

「君もそこにいたのか」(黒人霊歌、新聖歌113番) という讃美歌があります。

 「君もそこにいたのか 主が十字架に付くとき

  ああ何だか心が震える 震える 震える 君もそこにいたのか

  君も聞いていたのか 釘を打ち込む音を

  ああ何だか心が震える 震える 震える 君も聞いていたのか」

また詩人の水野源三さんは「私がいる」という詩の中で次のように詠っています。

  ナザレのイエスを 十字架にかけよと

  要求した人 許可した人 執行した人

  それらの人の中に 私がいる

あくまで主を十字架につけよと叫び続けた民衆、圧力に屈して罪のなき神の子を死に渡してしまったピラト、無条件の恵みにより鎖の縄目から解かれたバラバの姿、今日、私たちは自分自身をどこに見出すでしょうか。

 

 

2021年3月14日「信仰の大きさ」朱承圭協力宣教師

「信仰の大きさ」朱承圭協力宣教師

マタイによる福音書15章21章~28節

イエス様が悪霊にとりつかれた娘をいやされる場面です。イエス様はこの娘の母親、ツロとシドンに住む女性の信仰を誉めました。

「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように。」その時に、娘はいやされた。(28節)

信仰によって奇跡を呼び起こし、大いなる恵みを体験したこの女性はどのような人だったでしょうか?この女性は“カナンの女”でした。つまり、ユダヤ人ではない異邦人だったのです。

信仰による奇跡はすべての人の前に平等に与えられています。信仰による奇跡は信じる人すべてに与えられる神様のプレゼントであり、恵みなのです。イエス様を信じておられるでしょうか?みなさんも信仰の奇跡に出会うことができるのです。神様はユダヤ人を愛しておられるように、私たちを含めたすべての民族をも愛してくださっているからです。

ところが、この箇所では、イエス様はカナンの女の信仰を3回試されたのです。

第一次試験です。カナンの女はイエス様に向かって叫びました。「わたしをあわれんでください。」しかし、イエスはひと言もお答えにならなかった。(23節) なんと主イエスは一言もお応えにならなかったのです。

第二次試験です。イエス様がおっしゃいました。「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところだけに遣わされている。」(24節) なんと今度は、女性の願いをはっきり断られたのです。しかし、カナンの女は諦めませんでした。「主よ、わたしをお助けください。」(25節)切なる想いで、涙と共に訴え続けました。

三次試験が始まりました。“答えて言われた、「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。”(26節)

衝撃的な発言です。普通の人であれば傷ついてあきらめてしまうかもしれません。しかし、カナンの女は変わらずにイエス様を信じ続けたのです。「小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます。」(27節)

みなさん、彼女のようにイエス様を信じ続けるでしょうか?信仰には試験(テスト)があります。カナンの女のように“信仰の確信”を持ちたいと願います。皆様にもたくさんの信仰の試しがあると思います。試練の中にあっても確信を持って最後まで信じてください。そしてイエス様だけをしっかりとつかんでください。

 

2021年3月7日「嵐のただ中で眠る」加山献牧師

「嵐のただ中で眠る」加山献牧師

マタイによる福音書8章23節~27節

「イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った。」(23節)

弟子たちが遭遇した嵐は、イエス・キリストに従ってきたからこそ、出会うことができた嵐でした。私たちにも主に従うが故の試練を経験することがあるかもしれません。そのような人生の嵐を通り越した先に、また試練それ自身に、主は明確な目的を持っておられます。

「そのとき、湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになった。」(24節前半)

マタイがここで使っている「激しい嵐」と訳されている言葉は、もともと「サイスモス」 (揺り動かす)という言葉です。マルコとルカの福音書にも、同じエピソードが記録されていますが、マタイだけがこの「揺り動かしが起きた」という表現を使っています。この嵐は、私たちの信仰を目覚めさせ、私たちの信仰を鍛え、私たちの信仰をさらに強く成長させるための、神様の「揺り動かし」だったのだ、という気づきがマタイにあったことを示しています。

「イエスは眠っておられた。」(24節後半)

きっと主イエスはお疲れになっていたのだろう、とよく言われます。教えを語られ、多くの人を癒やし、街から街へ、村から村へ旅を続けられていました。人として生きられたイエス様も私たちと同じように疲れを覚えられたのです。しかし、もう一つ語られることは、この嵐のただ中でも、主は父なる神に信頼しきっておられたのだ、ということです。まさに私たちの模範とすべき、目指すべき平安がここにある、というのです。

信仰者は何があっても決して恐れてはならない、怖がってはならない、という意味ではありません。どんなに信仰が強くても、怖いものは怖いものであり続けると思います。しかし、信仰者であるならば、どのような時にも、すべては父なる神の御手の中にあり、主イエスはいつもそばにいてくださる、という事実を信じることが許されています。

もう自分の手に負えないような試練の只中にいる時、自分の力でじたばたしてもどうにもならない時は、委ねることが最善の選択であるということがしばしばあります。あきらめても良いし、手放しても良いのです。だから、思いわずらいを捨てて、疲れているなら、もうこれ以上頑張れないなら、この嵐の中で一緒に眠ろう、あなたは休んで良いのだ、と主イエスはご自身の平安の中に私たちを招いておられます。

 

 

2021年2月28日「ほかに神はいない」加山献牧師

「ほかに神はいない」加山献牧師

主エジプト記20章1節~3節

神はこれらすべての言葉を告げられた。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。(出エジプト記20章1節~3節)

 

上記の聖書箇所は十戒の序文と第一戒に当たる部分です。ここでは神様のことについて二つのことが示されています。

①人格的な神

第一にこの神様は人格を持っておられる、人格的な神様である、ということです。「わたしは主、あなたの神」と語られているとおり、偉大な神が「わたし」と「あなた」という関係でわたしたちと向き合ってくださる、というのです。わたしたちはこの聖書が語る神と、出会うことができます。むしろ神の方から私たち一人一人に出会ってくださるのです。聖書の神様は、私を見つめ、私と向かい合ってくださり、私たちと共に喜び、共に泣いてくださる方です。このように「私」と向き合ってくださる神は他にはおられないのです。

②救いの神

二番目に、この神様は救いの神です。わたしは「あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」と語られているとおりです。

既にエジプトの縄目から救い出された人々にこの戒めが与えられた、ということに注目したいと思います。戒めを守ることによって救われたのではなく、救いは既に完成していたのです。救いという恵みが戒めに先行しています。十戒とは、恵みに応答する生き方なのです。

民の救いのために尊い小羊の血が流されて犠牲となったことを想い起したいと思います。かつてエジプトに起こった災いの時に、子羊の血をその扉に塗っていた家庭は、災いが過ぎ越していったのです。

私たちはレント(受難節)の季節を迎えています。私たちの救いのために神の小羊である主イエスが犠牲となられ、痛みを負ってくださったことを思い起こす季節です。

世界広し、といえども、私たちのために恥とそしりを身に受けて、鞭打たれ、唾を吐きかけられ、十字架にかけられた神が他にいるのでしょうか。どんなに大きな犠牲を払ってでも、永遠に私たちを取り戻し、私たちと共に生きたい、と願ってくださった神様は、この方だけなのです。どうしてこの神様に背を向けて良いでしょうか。どうしてこの神様の愛に答えなくても良いでしょうか。まさに、私たちにとって、この方をおいて「ほかに神があってはならない」のです。

 

 

2021年2月21日「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」今村まさゑ協力牧師

「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」今村まさゑ協力牧師

マタイによる福音書6章33節~34節

2月17日(水)~イースター(4月4日)の前日までが受難節です。主イエスさまが私たちを愛して苦難の十字架を負って下さったことを感謝し祈りを捧げましょう。今朝の5章~7章は「山上の説教」といわれる主の説教の数々が記されています。ガリラヤ湖(北西岸)をすぐ近くに見下ろせる小高い(125m)場所に、回廊が美しい八角形の「山上の垂訓教会」が建てられています。

今朝は、6章25節からの「思い悩むな」のところに注目してみましょう。「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と思い患う人々に、「空の鳥を見よ、野の花を見よ」と諭される。一日だけしか咲かない野の花でも見事に装われる神は、人々をそれ以上に守られる。思い煩いは無益である。

「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。」ペテロも「思い煩いは、何もかも神に任せなさい。神が、心にかけていてくださるからです。」(Ⅰペテロ5:7)と記しています。

思い煩いを取り除く二つのことが、以下の33節と34節です。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」第一に、神の国と神の義とは三位一体の(父なる神・子なる神・聖霊なる神)が支配される神の王国のことで、求め続けよと命令形の言葉です。

「そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」。(あなたに前に置かれる)の意。「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。」明日を支配しておられるのは神ご自身であり、神の領域に踏み込んではならないのです。従って、思い煩いは、不必要であり、無益であり、有害であるのです。

「主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう。」(ヤコブ4:15)と考えるべきです。「その日の苦労は、その日だけで十分である。」のです。

私たちキリスト者の生き方は、思い煩いから解放され、軽やかに、爽やかに、今日一日を生ききることに全力を注ぎましょう。神さまが父として心配して下さるのです。

「主をたたえよ。日々、わたしたちを担い、救われる神を。」(詩68:20)

 

 

2021年2月14日「休める場所を探す神」加山献牧師

「休める場所を探す神」加山献牧師

マタイによる福音書8章18節〜22節

 そのとき、ある律法学者が近づいて、「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言った。マタイ8: 

 ここに一人の律法学者が出てきます律法学者は当時の宗教的なリーダであり、旧約聖書のエキスパートでしたそのようなの目に、主イエスは、今までに出会ったどの教師よりも優れてい偉大な人物と映りました。彼は最高の名誉ある称号である「先生」(ヘブライ語で「ラビ」)という言葉で、主に呼びかけたのです 

 主イエスの教えは型破りで、それまで築き上げられてきた宗教の枠組みを根底から揺るがすようなものでした。そのような背景の中で、この律法学者がイエスに従っていきたい、と申し出たことは奇跡的なことだといえます。しかしイエスは、ご自身に従ってくる時に、どのような犠牲を払わなければならないのかを、真実な心で、諭されました。  

 イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」(マタイ8:20)  

 イエスに従う道は十字架の道であり、殉教の道もありました今まで得てきた知識、今まで積み上げてきた経験、人々から勝ち取った信頼、輝かしい経歴、自分の世界観、自分の人生哲学、その全てを捨てて、幼な子のようになって、私についてくることができるかそのように、主は律法学者にチャレンジされました。誰も幼な子のようにならなければ、神の国に入ることはできない、というのです。 

 主イエスと弟子たちに、実際に泊まる場所がなかったわけではありませんでした。旅人をもてなすことがユダヤの最大の美徳でしたので、旅の途中泊めてくれる人たちもきっとおられたことでしょう 

 主は物理的に寝泊りする場所について語られたのではなく、人々の精神的態度について語っておられるのです。最終的に人々はを受け入れませんでした。「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けたのです 

 イエスの教えが素晴らしいという人はいっぱいいます。キリスト教という宗教が築き上げた文化が美しいと感じる人も多くおられることでしょう。けれども、と共に生きようとする人は非常に少ないのですイエスを心の中心にお招きして、どうぞここに来ください、と告白する人々が求められているのです 

 今日も、イエスはぼろぼろの旅人の姿で、私たちの心の前に立たれます私たちは主に休み場を提供することができるでしょうか私たち自身がキリストの枕となって、心を開くことができるだろうか。休み場を探される神が、今日も私たちの前に立たれることを覚えたいと思います。