カテゴリー別アーカイブ: 礼拝メッセージ

2019年9月29日「わたしについて来なさい」ラス・ボーグ宣教師(日本バプテスト宣教団)

「わたしについて来なさい」ラス・ボーグ宣教師

ルカによる福音書9章23節

イエス様がこの世におられた時に、多くの方々に「わたしに従って来なさい」また「わたしについてきなさい」と招かれました。聖書は私たちにこのように教えています。 「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない。」現在もイエスキリストは生きておられ、自分に従って来る人達を呼んでおられます。クリスチャンと言う意味は、イエス・キリストに従っていく者のことです。私達は、日々イエス・キリストに従い、そしてイエス・キリストがその御心を私達に表わし、私達の行くべき道を示し、私達の人生を導いてくださるのです。

ルカによる福音書9章23節はこう教えています。それから、イエスは皆に言われた。「私について来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。」私達がイエス様の弟子になれば、日々、毎日、イエス・キリストについて行く必要があります。また、自分を捨てるとはどういう意味なのでしょうか?それは、自分自身の行きたい道よりも、主イエスキリストがあなたの為に準備された道を求め、進むという事です。主があなたの為に準備された道は、決してやさしい道ではないかもしれません。しかし、その道を進んで行き、振り返った時、神様がその道へ導いて下さった理由が少しわかるかと思います。またその理由を知り、心が満たされるでしょう。

私たちがクリスチャンになり、イエス様に従う決断をした時以来、私たちの人生はもう自分自身のものではなく、イエス様のものなのです。ですから私たちは神様の御心と神様の導きに従います。イエス様はこの教会におられる皆さんを招かれ、また私達も彼について行く決断をしました。そしてイエス様を自分の人生の主とし、その生涯を彼に捧げる決断をされたと思います。神様の私達に対する愛と恵みは、私たちの想像を超えるものです。私達が自分の人生の主導権を神様に完全に委ねる時、私達はその愛と恵みをさらに深く感じる事が出来ると思います。神様の愛と恵みは忠実で、どんな物も神様の愛から私達を引き離すことは出来ません。

「私について来なさい」「私に従って来なさい」こう言われたイエス・キリストからの招きに対して、全てを捨てて従ったシモンペテロとアンデレ等の様に、私達も受け止めて行きたいと思います。

 

 

 

 

2019年9月22日「守れなかった約束はありますか?」加山献牧師

「守れなかった約束はありますか?」加山献牧師

マタイによる福音書5章33節~37節

ユダヤの人々は、「誓いを果たす」ということを最高の美徳としていました。ところが旧約聖書には、律法(律法は神との契約=約束事の一部分と言えます)を守りきることができなかった人間の歴史が赤裸々に記されているのです。そのような歴史を持つ民に対して、主イエスは言われました。「しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。」

神との約束を守りきれなかった結果、人類は神との断絶を経験するようになりました。そのすべての呪いと罰を背負うために、また、神と人間の絆を再び取り戻すために主イエスはこの地に来てくださったのです。そして、主イエスは完全な生き方を通して、律法の要求を満たしてくださいました。

「一切誓いを立ててはならない」という主イエスの新しい教えは、神に対して誓いを立てて、その約束を守ることによって救いを得る必要がなくなった、ということを示しています。しかしながら、旧約聖書の律法はすべて必要なくなった、という意味ではありません。律法の原則的な部分は、今でも私たちの生活を導くガイドライン、倫理基準として生き続けています。

37節を新改訳で見ると「あなたがたの言うことばは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』としなさい」とあります。自分が間違っていたと気づいたのならば、取り繕わずに、素直に「はい」と認める。できないと思ったことは、正直に「いいえ」と断る。そのような実直な生き方も求められているといえます。しかし何にもまさって、「あなたがたはいつも真実な言葉を語るものであってほしい」という主イエスの大きな願いがここにあります。37節は「それ以上のことは、悪い者から出るのである」と結ばれています。「悪い者」とは悪魔を指して使われている言葉です。なんと、悪魔という存在が人の唇に偽りを語らせ、互いの信頼関係を失わせて、社会の基盤を乱している、というのです。

現代は様々な情報が行き交っている社会です。テレビやインターネットを通して様々な意見が聞こえてきます。何が真実なのかわからない、どの言葉を信じていのかわからない、そのような混乱した時代に私たちは生かされています。真実よりも、むしろ感情や個人的信条のアピールの方が影響力をもつ時代なのです。この真実が失われた時代の中で、イエス・キリストだけがただ一人、常に真実な言葉を語る方であったことを想い起しましょう。

誓いを果たせなかった人間に対して、神は救いと恵みの約束を示してくださいました。ご自身が約束されたことについて、どこまでも誠実で、真実であられた神の義を、私たちは受け取ることができます。神の人類に対する約束はことごとく成就し、その誓いは果たされてきました。主イエスこそが神の約束の最大の成就なのです。

私たちはこの難しい時代にあって、キリストの御言葉に命の力を見出し、神の言葉そのものであるキリストを聞き、キリストを語る教会として召されていることを覚えましょう。

 

 

2019年9月15日「白髪になるまで、背負っていこう」加山献牧師

「白髪になるまで、背負っていこう」加山献牧師

イザヤ書46章1節~10節

 

「わたしに聞け、ヤコブの家よ、イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」(イザヤ書46章3節~4節)

この聖書箇所において、聖書の神はどのような方なのか、神ご自身が預言者イザヤの口を通して語っておられます。

 

1.私たちを造られた神 (私たちの過去における神)

第一に、この神は私たちを造ってくださった方です。人間が想像力を働かせて、自分たちにとって都合の良いように作り上げた神ではありません。はじめに神がこの世界を、そして人を創造されたのです。神みずから、ご自身の似姿にかたどり、人格的に生きる存在として、私たちひとりひとりを大切に造ってくださったのだと聖書は語ります。

 

2.私たちを背負ってくださる神 (私たちの現在における神)

第二に、この神様は私たちを背負ってくださる方です。人間は皆、「神に背負われている存在である」と聖書は強調しています。私たちは生まれた時から -原語によると生まれる前から- この方に担われてきました。そして、私たちが老いる日まで、「白髪になるまで、背負っていこう」とこの神は約束してくださったのです。神に背負われていない人間はどこにもいません。私たちはこの世界のどこにいても、広く、暖かい、神の背中の温もりを感じながら生きていくものでありたいと思います。

 

3.私たちを救い出してくださる神 (私たちの未来における神)

第三に、聖書の神は私たちを救い出してくださる神です。神は私たちの人生最後の日まで、私たちを背負い続けてくださいますが、それだけではありません。その先の新しい世界まで、私たちを導いてくださるのです。私たちの人生は墓で終わるのではありません。人類最大の問題である「死」から、私たちを救い出してくださる神がおられる、というのです。

そのために、神はひとり子イエス・キリストをこの地に遣わしてくださいました。イエス・キリストが十字架を背負われたのは、私たちの罪のためでした。私たちを罪と死から救い出すためには、他に方法がなかったのです。それほどまでに、この神は私たちを想い、愛してくださいました。十字架の愛と赦しを受け取りましょう。私たちはこの神に造られ、背負われ、救い出される存在なのです。

 

 

 

2019年9月8日「世に打ち勝つ信仰」今村まさゑ協力牧師

「世に打ち勝つ信仰」今村まさゑ協力牧師

ヨハネの手紙第一 5章1節〜5節

 

主イエスの12人の弟子のうち4人は漁師でした。シモンと弟アンデレ、ヤコブと弟のヨハネである。シモンにはペテロ(岩)、ヤコブとヨハネにはボアネルゲス(雷の子ら)と呼ばれました。特に、ペテロ、ヤコブ、ヨハネは大事な場面に同行を許されました。ヤイロの娘が死んだとき「タリタ、クム」と生き返らせたとき(マルコ5:21~)、また、山上の変貌(ルカ9:28~)ゲッセマネでの祈り(マタイ26:36~)の時も、三人を近くに置かれました。

しかし、ヤコブとヨハネは密かに、自分たちを将来イエスの右、左に座らせてほしいと願い出て、弟子たちの反発を買ったこと(マルコ10:35)がありました。けれど、やがてヨハネは、福音書、手紙、黙示録を執筆するほどに成長しました。今朝のヨハネの手紙は紀元90年前後、エペソで書かれました。内容は、神の愛を知ること、互いに愛し合うことの素晴らしさが記されています。若い時には雷の子と呼ばれるほど気性が激しかった人物が、「愛の人」に変えられたのです。

1節の「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれたものです。」これは「聖霊によらなければ誰も『イエスは主である』とは言えないのです。」(第一コリ12:3)の通りです。そして、4節「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。」聖霊を受け、「神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。」(ローマ8:31~)「だれが神に選ばれた者を訴えるでしょう。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。」

この「キリストの愛」は、キリストに対する私たちの愛ではなく、私たちに対するキリストの愛です。ローマ8:37に「わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。」とある通りです。さらに、10の事例が記されています。「死も、命も、天使も、支配するものも、現代のものも、未来のものも、力あるものも、高いところにいるものも、低いところにいるものも、他のどんな被造物も、・・・わたしたちを引き離すことはできないのです。」

ヨハネは言います。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)

苦難の向こう側に勝利があるのです。ハレルヤ!

 

 

 

2019年9月1日「帰ろう、ふるさとへ」加山献牧師

「帰ろう。ふるさとへ」加山献牧師

第一ペトロの手紙2章22節~25節

 

聖書の至る所に、人間は羊飼いのもとを離れた迷子の羊のようであると表現されています。ペトロは教会の人々にあてた手紙の中で「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。」と記しています(25節)。迷子の羊のようであったとは、そして魂の牧者のもとに帰ってきたとは、一体どういう意味なのか、これらのことについて考えてみたいと思います。

 

① 自分がどこにいるのかわからなくなっている

第一に、迷子であるとは、往々にして、自分が今どこにいるのかわからなくなっている、ということです。羊は一旦羊飼いとはぐれると自分が一体どこから来て、どこに向かっているのか完全にわからなくなってしまうそうです。同じように人間も、自分はどこから来て、どこに向かっていくのか、自分はなぜ生まれ、なぜ今日の日を生きているのか、存在の根源的目的を見失っている者であるといえます。

しかし、神が造られた世界に、神によって造られた私たちが生かされているのは偶然ではありません。人間には一人一人、神による尊い目的があり、私たちが今いる場所は神がある目的のために導いてくださっている場所である、ということです。そして私たち人類の究極的な存在目的は、いつの日か父なる神のもとに帰ることなのです。

 

② 戻るべき場所がある

聖書は、神が人となってこの世界に来てくださった、と告げています。それは人がもはや自分の力で神のもとに帰れなくなったからです。私たちがまことの神のもとに戻るためには神の方から人間の所に来てくださり連れ戻してくださる必要があったのです。

神という存在から目を背けて、離れ去っていることを聖書は罪と呼んでいます。キリストの死は、私たちの罪の問題を解決するための、私たちのための死だったのです。「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず」(23節)、キリストが忠実に痛みを耐え抜かれたのは、私たちを愛し、私たちをどうしても取り戻したいと願ってくださったからなのです。十字架は罪の赦しのしるしです。私たちの魂の故郷である、父なる神のもとへ、赦されているものとして、愛されているものとして、帰っていきましょう。

 

 

 

 

 

2019年8月25日「いつの日か必ず」加山献牧師

「いつの日か必ず」加山献牧師

創世記45章1節~16節

 

今までのヨセフの人生から、人間の一生は神の深いご計画の中にある、ということを学んできました。ヨセフは信じ続ける人でした。どのような状況の中でも、自分の人生を導いている神がおられる、ということを彼は知っていたのです。

時は大飢饉の時代でした。かつてヨセフを奴隷としてエジプトに売った兄弟たちは食料を求めてエジプトに下ってきました。そして彼らは、時を経てエジプトの高官となっていたヨセフの前に立つこととなったのです。

ヨセフは兄弟たちを赦したいと願っていました。しかし彼は“うまく赦すことができない”というジレンマに陥っていたことを、42章から44章まで続く、ヨセフと兄弟たちとの複雑な駆け引きから読み取ることができます。けれども、この不器用なコミュニケーションこそが、ヨセフにとって赦すための大切なプロセスになりました。

心の傷を乗り越えるために必要なことが二つあると言います。一つは「傷をしっかり認める」ということだそうです。自分がどのようなことで傷ついたのか、どのようなことに痛んでいるのか、しっかり真正面から見つめて、受け入れるということです。二つ目は「正しく忘れ、正しく思い出す」ということです。言い換えると「過去を正しく解釈し、新しく生きていく」ということだそうです。

まさにヨセフは過去を正しく解釈したといえます。彼の言葉に注目しましょう。「『今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。・・・神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神がわたしをファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです。』」(45章5節~8節)

私たちの人生にも「神様がおられるなら、なぜですか?」と問いかけたくなる出来事がたくさんあります。しかし、いつの日か必ずすべてのことが分かる、そのような時がくることをヨセフの生涯は証しています。私たちの人生において、その日はいつ来るかはわかりません。ただひとつ確かなことは、私たちが天国に着く朝、イエスさまと顔を合わせて出会う朝、すべてのことを悟ることができる、ということです。「ヨセフは兄弟たち皆に口づけし、彼らを抱いて泣いた。その後、兄弟たちはヨセフと語り合った。」(15節)いつの日か必ず、そのような時が来ることを信じ、希望を抱くものは幸いです。

 

 

 

 

2019年8月18日「主はわが羊飼い」今村まさゑ協力牧師

「主はわが羊飼い」 今村まさゑ 協力牧師

詩編23編1節~6節

 

旧約聖書の詩編23編は余りにも有名で、洋画の葬式の場面では一番多く牧師が読み上げる聖句ということです。詩編150編中、約半数にダビデの名が記されています。3,000年前に活躍した人物で、少年時代には父の羊の番をし、その時に覚えた石投げ紐と小石一つでペリシテ軍の巨人ゴリアテを打ち取った。そこでサウル王に召し出された。ダビデは竪琴の名手でもあった。後にはイスラエルの2代目の王となりましたが、幾度か罪を犯し泣くこともありました。しかし、新約聖書の1ページのイエス・キリストの系図の中にもダビデの名が6回もでています。また福音書に「ダビデの子よ、、、憐れんでください」とか「ダビデの子にホサナ、、、」とかでてくるほどです。そのダビデの賛歌が今朝の23編です。

様々な経験を積んで年老いたダビデが「主は羊飼い・・」わたしは羊だったと言うのです。羊は弱い動物です。目が余りよくないので食べ物を探すことができない。単独では行動がとれず群れてしまう。すぐ転ぶが起き上がれない。羊は羊飼いが青草の原や水辺に誘導しないと生きてはいけない動物です。

イエスご自身がヨハネ福音書で「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(10:11」また、多くの群衆を見て「飼い主のいない羊のような有様をみて深く憐れまれた」(マルコ6:34)と記されています。3節、「魂を生き返らせてくださった。」幾度も、慈愛と尊厳にふさわしく義の道へと導いてくださったとダビデは賛美します。

4節の死とは、一番深い暗闇の意味で、病気、事故、挫折・・など絶望的な人生の谷を歩む時でも災いを恐れない。なぜか。「あなたがわたしと共にいてくださる」からです。

「神がともにいてくださる」これが全聖書を貫く福音であり主題です。

旧約聖書のイザヤ41章10節に、こう記されています。

「恐れることはない。わたしはあなたと共にいる神。

たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えて、あなたを助け

わたしの救いの右の手で、あなたを支える。」

羊飼いは杖を手にしています。羊を導くため、また時には野獣を撃退させるために鞭として用います。5節は、遊牧民の生活倫理が前提となっており、羊飼いは追われる人であっても原野では旅人として迎え入れる。彼を追う者は、羊飼いの主権ゆえに一切手を下せない。自分を苦しめる敵の前で食卓を整え、杯を溢れさせてくださる。何という恵みでしょう。6節「命のある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う。」追うとは追いかけて来ることです。私たちの終着地は神の家、天の御国です。相応しくないものを、ふさわしい者としてくださる「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(ローマ3:24) 最後に(詩編84:11)を拝読して終わります。

 

 

 

 

 

2019年8月11日「キリストの基準」加山献牧師

「キリストの基準」加山献牧師

マタイによる福音書5章27節~32節

 

私たちは、人間が作り上げた「社会の基準」の中で生活しています。しかし人間の道徳観は、時代と共に、風のように遷り変わっていくのです。主イエスが人としてこの地上を歩まれた時代も、人々は自らの倫理基準と風習を築き上げていました。遷り行く「人間の基準」に対して、主イエスは「しかし私は言っておく」とご自身の教えを提示されたのです。今回は、姦淫と離縁についての主の教えに耳を傾けましょう。

 

1 姦 淫

「姦淫」は結婚関係以外での性的な営みを指しています。ここでは「モイケウオー」というギリシア語が使われています。この単語は「侵入する、侵害する」という意味合いも含めて使用されていました。幸せな結婚に、幸せな家庭に侵入する悪魔の罠、それが「姦淫」である、というのです。当時の人々も、結婚関係を重んじて、結婚外での不貞を厳しく戒めていました。

ところが主イエスは、「そのような思いで他者を見つめただけで罪である」と、人の心の内面を問題とされたのです。この世の基準では、実際の行為に至らなければ、罪に問われることはありません。しかし主は、この教えを通して「人はみな例外なく罪人である」ことを指摘されたのです。

その私たちの罪を全て背負って、主は十字架についてくださいました。救いはただ主の十字架にあります。主の十字架を信じ受け入れるということは、この世の基準ではなく、「キリストの基準」でこの世を生きようとすることでもあります。生活と思いの全ての領域において、神に喜ばれる生き方を完遂することは不可能です。しかし私たちは常に挑戦するものでありたいです。その生き方に伴って、必ず主にある報いがあることを私たちは信じます。

 

2 離 縁

当時の結婚はレビラート婚と呼ばれ、女性は男性の所有物の一部と考えられていました。女性は自分の意思で離婚することはできず、男性の方でなにか不都合があれば、すぐに離縁状を出し、離婚することが認められていたのです。圧倒的に男性優位の社会でした。

しかし主は「妻によほど不誠実なことがない限りは、離縁してはならない」と教えられました。主は、社会的に弱い立場にあり、虐げられていた女性を一人の人格として認められました。そして男性に対しては、一人の女性を大切にし、愛し続けることを命じておられるのです。これもまた、その当時の人々の考え方とは全く異なる「キリストの基準」でした。

 

 

 

 

 

 

2019年8月4日「大宴会をしよう」加山献牧師

「大宴会をしよう」加山 献 牧師

列王記下6章8節~23節

 

紀元前9世紀頃のことです。アラムとイスラエルという二つの国の間には一触即発の緊張関係がありました。アラムの王とその軍隊は、度々イスラエル王を待ち伏せし、危害を加える機械を狙っていましたが、イスラエルには神の人、預言者エリシャがおり、イスラエルの王に的確な助言を与え、事前に危険を回避させていたのです。

そこで、アラム王の矛先はイスラエル王ではなく、預言者エリシャに向かいました。まったく予期していなかった危機に直面したとき、エリシャの召使いであった若者は混乱しエリシャにすがりました。「ああ、御主人よ、どうすればいいのですか。」(15節)

ところがエリシャは、この絶体絶命と思える危機の中で、まったく動揺せず、完全な落ち着きをはらっていたのです。若者とエリシャとでは何が違ったのでしょうか。

 

1.「エリシャは万軍の主を見ていた」

若者は自分を取り囲んでいるおびただしい敵を見ていました。つまり目の前に迫った問題のことで頭がいっぱいだったのです。しかしエリシャは、自分を守り、救い出してくださる存在に目を向けていました。彼は「恐れてはならない。わたしたちと共にいる者の方が、彼らと共にいる者より多い」(16節)と若者を諭しました。

私たちが困難に取り囲まれるとき、もう終わりか、と思い怖気付くとき、私たちを取り囲み、守っている万軍の主がおられることを想い起しましょう。求める者には、危機の只中においても、状況を正しく理解し、神の軍勢を見る信仰が与えられます。

 

2.「緊張関係を解決する大宴会(和解)のチャンスを模索する」

この後、エリシャはアラムの軍隊の目をくらまし、北王国イスラエルの首都サマリアまで連れて行きます。彼らが目を開けてみると、敵陣のど真ん中にいた、というのです。イスラエル王にとって、敵軍を打ち破る千載一遇のチャンスが訪れたのです。

しかし、エリシャは神の御思いを次のように宣言しました。「打ち殺してはならない。彼らにパンと水を与えて食事をさせなさい。」(22節)「そこで(イスラエルの)王は彼らのために大宴会を催した。彼らは食べて飲んだ後、自分たちの主君のもとに帰って行った。アラムの部隊は二度とイスラエルの地に来なかった。」(23節)

二つの民族間の緊迫した関係に解決をもたらしたのは、「戦い」ではなく「大宴会」だったのです。国家間の緊張関係が高まる今日、約3000年前に預言者エリシャを通して語られた神の言葉は、今も生きています。世界のすべての国民が、主の食卓という一つのテーブルに招かれている現実を覚え、主を賛美します。

 

 

 

 

2019年7月28日「人生は不公平だけど」加山献牧師

「人生は不公平だけど」加山 献 牧師

創世記41章37節~52節

 

ヨセフは17歳で奴隷として売られ(創世記37:2)、30歳になるまで自由の身になりませんでした(創世記41:46)。彼は人生の中でも最も楽しく、喜ばしいとされる時期を、奴隷として、また囚人として過ごしました。ヨセフのここまでの人生は不条理に満ちていたといえます。しかし、彼の人生のから2つのことを学びたいと思います。

 

1.「神は、この苦しみの中でも、ずっとヨセフと共にいてくださった」

創世記の中で、繰り返し語られてきたメッセージです。ヨセフがどんな苦しみを通らされても、神さまはひとときも離れることはありませんでした。むしろ不条理の中にこそ、神は共にいてくださいます。そして最も大切なことは、ヨセフはその事実を知り、またその現実を確信していた、ということです。

人は幸せであるために、多くのことを望むかもしれません。ですが、本当に必要なことはただ一つだけです。主のもとにすわり、主のみ声に聴くことです。「私の恵みは、あなたに十分である」という主の言葉が指し示すとおり、神の恵みの極みである主イエスが一緒にいてくださいます。もうそれで、十分なのです。どのような苦しみの時にも、私たちは、共にいてくださるキリストによって平安を体験するのです。

 

2.「神はいつの日か、私たちを引き上げてくださる」

人生には、不公平だと思える出来事が起こります。ある人は平穏な家庭に生まれ育ち、ある人は家族との問題に苦しむことがあります。健康に生活する人がいると思えば、突然の事故や突然の病に襲われる方もあります。ですが、ヘブル書6章10節には次のようにあります。「神は不公平な方ではありませんから、あなたがたの働きや愛を忘れたりなさいません。」(新改訳2017) 神はあなたの流したすべての涙を知っておられます。神は、あなたの負ったあらゆる苦労を、また他者に対する愛の行いを、決してお忘れになる方ではないのです。

神は、私たちの信仰を鍛えるために、もしくは私たちの目をご自身に向けさせるために、ひとときの間、試練を用いられることがあります。それは神の愛です。しかし神は、私たちを苦しみの中に捨て置かれたままにはなさりません。私たちを悲しみから、その暗闇から、必ず引き上げてくださいます。どんな心の痛みも、いつか必ず、主は拭い去ってくださいます。私たちの将来にはすべての苦労に対しての報いがあるのです。聖書において、この報いは終末的かつ将来的な希望として語られています。しかし、天国まで待たずとも、今、この教会で、この礼拝の中で、ぜひ天国を体験していただきたいと思います。神の圧倒的な臨在に触れることのできる場所が確かにある。早良教会がそのような場所であってほしいと思います。たとえ人生が不公平だったとしても、全てに報いてくださる神の約束があることを忘れずに、日々を歩んでまいりましょう。