マタイによる福音書21章18節~22節
福音書の中にはイエスさまの奇跡がたくさん記されています。主の奇跡はすべて、弱っている人や傷ついている人を励まし、立ち上がらせるためにおこなわれました。主の愛と憐れみこそが奇跡の根底にあるのです。
しかしこの箇所は唯一の例外を示しています。主が呪いを語るということを通して木を枯らすという否定的な目的のために自らの力を用いられた唯一の記述となっています。なぜ主イエスはこのようなことをされたのでしょうか?実は主イエスはこのことを通して弟子たちに特別な教訓を与えようとされたのです。
① 実を結ぶことの重要性
主イエスは、私たち一人一人に対して、人生の中で、実を結んでいくことを期待しています。旧約聖書の預言書の中で、いちじくの木を神の民の象徴として用いている箇所がたくさんあります。「わたしはあなたに信仰の実を期待したのに、なぜあなたは実を結んでいないのか?」と神さまが民に対してたびたび問いかけるのです。
いちじくの木には葉が茂っていました。遠くから見たら立派でしたが、近づいてみたら実がついていませんでした。直前の箇所には神殿の宮清めの記事がありますが、遠くから見たら立派な神殿に近づいてみると、実際はお金儲けがおこなわれているだけで、主イエスの期待した信仰の実を見ることができなかった、ということを表しています。主イエスは私たち一人一人に対して、またご自身の教会に対して、信仰の実を実らせることを期待しておられるのです。
② 信仰の力
二番目に、ここでは「信仰の力」ということについて教えられています。昔のユダヤの人々にとって「信仰」とは、人と人を結びつける、あるいは神と人を結びつける接着剤のような役割があると考えられていました。
信頼こそが人と人とを結びつける絆となり、信仰こそが人と神を結びつける結び目となりました。ここで覚えておきたいことは、私たちがどれほど強く信じるか、私がどれほど強く心で念じるか、ということよりも、私たちが誰を信じているのか、誰に信頼して生きていくかということに強調点が置かれているということです。
主イエスは別の箇所で、からしだね一粒ほどの信仰があれば山は動く、と語られました。小さな信仰で構わない。けれどもわたしたちが誰を信じて生きていくのかが重要です。