2024年9月1日「兄弟を得るために」加山献牧師

マタイによる福音書18章15節~20節

マタイ福音書の18章はイエスさまの教会に対しての教えとして知られています。イエスさまは教会に対してどのような礼拝プログラムを持つべきか、どのように教会形成をしていくべきか、細かく教えることはありませんでした。しかしイエスさまは頻繁に人間関係について教えられたのです。

なぜなら教会にとって人間関係こそが肝心なものだからです。教会だけではなく、職場や学校や家庭の中でも同じことが言えるでしょう。

「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。」(15節)

どのような罪を想定しているのかわかりません。けれども文脈からある程度深刻なことを想定していることがわかります。誰かに傷つけられたり、気になることがあったりしたら二人だけのところで忠告するようにイエスさまは勧めています。

なぜ“二人だけのところで”なのでしょうか?大概そういう状況になったら他の人に話してしまうことが多いと思います。「あの人にこんなことされた、こんなこと言われた」と誰かに漏らしてしまうこともあるでしょう。でもそうすると回り回ってその事を聞いた人は傷ついてしまうでしょうし、なぜ直接言ってくれなかったのだろう、と感じることでしょう。そうなると二人の信頼関係はなかなか取り戻しづらいものとなってしまいます。

また兄弟に忠告する事にはどのような目的があるのでしょうか?相手を言い負かしたり、怒りをぶつけたりするためではなく、「兄弟を得るためにやりなさい」とイエスさまは言われます。これからもあなたと一緒にいたいよ、という祈りがその行為の根底にあるのです。

「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。」(19節)

イエスさまは大事なことを言う時にはよく「はっきり言っておく」と前置きされました。この箇所の「あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら」というのは「行って二人だけのところで忠告しなさい」という場面にかかっています。

「心をひとつに」と訳されているギリシア語の語根は“シンフォネオー”(シンフォニーの語源)です。オーケストラが一つの音楽を奏でるようにお互いの音を聞き合い、心を通わせることが教会に求められています。そのようにして祈るなら、神さまは必ず関係を回復したいという両者の願いを現実のものとしてくださいます。