2023年10月8日「清められたものとして生きる」加山献牧師

 「主はモーセとアロンにこう仰せになった。イスラエルの民に告げてこう言いなさい。地上のあらゆる動物のうちで、あなたたちの食べてよい生き物は、ひづめが分かれ、完全に割れており、しかも反すうするものである。」(レビ記11章1節~3節)

レビ記11章にはユダヤ教の食事制限のルールが記されています。敬虔なユダヤ教徒の人々は今もこの食事制限を忠実に、何千年間も守り続けているのです。

今からおよそ3500年前、イスラエルの民はモーセに率いられて着の身着のままでエジプトを脱出してきました。彼らは難民キャンプのような状態で旅を続けていました。彼らは法律や生活上の規則を何も持っていなかったので、様々な混乱が彼らの間で生じていたことが出エジプト記に記されています。

そこで彼らがシナイ山の麓で宿営をしている時、神様はモーセを通して彼らに律法を与えられました。これからカナンに入ってひとつの国を形作っていくために、彼らにひとつの生活の規範が与えられたのです。

それがこのモーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)に代表される律法と呼ばれるものでした。この律法(神様との契約)を通して、彼らの生活に秩序がもたらされたのです。

レビ記11章に記されているような食物規定は非ユダヤ教徒の私たちからすると奇異に感じられますが、食物規定を重んじることには3つの意味がありました。

 

1)自分たちのアイデンティティを確立すること

第一に、この規則を守ることを通して、人々は自分たちの自己認識をはっきりと認識することができました。ユダヤの人々は紀元70年にユダヤ戦争に敗れて以降、約2000年間も自分たちの国を失っていました。そのような長い年月の間も自分たちのアイデンティティを失うことがなかったのは、律法(神様との契約)という生活規範に支えられていたからだと言えます。

 

2)神様との約束を守ることを通して尊敬の心を表す。

第二に、彼らは規定を守ることによって、生き方を通して神様を礼拝していました。律法を守ることは、神という存在が自分にとって一番大切であることを表現する信仰の告白として機能したのです。

 

3)規律を重んじることによって鍛えられる道徳性がある。

規律を重んじることによって、人は自分自身を高めることができます。自分の生活をある特定のルールによって律することは、自分自身を定期的に見つめ直すために役立つのです。クリスチャンはキリストの業と十字架の贖いを信じるので、ユダヤ教の律法を守る必要はありません。しかし尚も、その本質的な部分からは学ぶことができます。