2023年8月20日「もの忘れがひどい私たち」加山献牧師

弟子たちは言った。「この人里離れた所で、これほど大勢の人に十分食べさせるほどのパンが、どこから手に入るでしょうか。」(33節)ここでの弟子たちはつい数日前におきたばかりの素晴らしい出来事(五千人の食事の奇跡)をすっかり忘れていました。主イエスが大勢の人々の必要を満たすことのできる方であることを、主と共にありながらも、いとも簡単に忘れてしまうのです。弟子たちは私たち自身のことを鏡のように映し出す存在であるようにも思えます。私たちにも、信仰生活において忘れがちになる大切なことがあると思います。

1)今までどのように救われてきたか

今日、わたしたちがここにいるのは、たくさんの人の助けと支えの故であるし、何よりも神様が私たちを見守り、見えないところで支えていてくださったからです。しかし新しい問題がやってくると、それまでの恵みを忘れてしまいがちなのが私たちの姿です。ただ私たちに対する愛の故に、神さまは私たちをここまで導き出してくださいました。私たちは、この神様が信頼に値する方である、ということをいつも思い出す必要があります。私たちの”これまで”を助けてくださった神様は、わたしたちの”これから”も助けてくださいます。

 

2)今までどれほど赦されてきたか

二番目にどれほど赦されてきたか、ということがとても大切です。私たちは誰もが大なり小なり、赦されてここまで生きてきました。赦しがなければ、誰も生きられない、ひとたまりもない、私たちはそのような存在です。主イエスがある譬えで語られたとおり。わたしたちは自分がどれほど赦されてきたのかを忘れがちです。返しても返しきれないような罪の代価をイエスさまはすべて十字架の上で支払ってくださった。十字架の前で、わたしがどれほど赦されてきたのかを思い起こす時、わたしたちの周りの人がわたしにする些細なことは、いかに小さなことかがわかります。

 

3)今までどんなに喜んでいたか

わたしたちが喜びを感じながら人生を生きているかどうかはとても大切なことです。特に信仰生活においては、喜びという感情が鍵を握っていると言っても良いかも知れません。ダビデは取り返しのつかない過ちを犯してしまい、その罪の大きさに悩んだ時にこのように謳いました。

あなたの救いの喜びを私に返し 喜んで仕える霊が私をささえますように」詩編51編12節(新改訳第三版)

そしてダビデは喜んで神様に仕えていた心をもう一度とりもどしたいと願っています。私たちは救いを失うことはありません。けれども救いの喜びを失うことはあるというのです。時には私たちの信仰のはじめを思い出し、一番最初にイエスさまに出会った時のこと、この方を主と信じてこの人生を生きていこう、と決意した時のことを思い出してみましょう。はじめの愛に帰る時に、神様は喜びを新たにしてくださいます。