2023年4月9日「だれでも救われる」加山献牧師

イエスさまは「多くの人のあがないとして、自分の命を与えるため」(マルコによる福音書第10章45節)と言われました。私たちのために死ぬことが、ご自身の使命だとおっしゃいました。

これはペテロや弟子たちにとって一番考えたくないことでした。イエスさまが「わたしは死ぬために来たのです」と言われるのです。特にペテロにはまったく不可解なことでした。イエスさまがそう言われたとたんに、ペテロはイエスさまを「いさめ」はじめました。イエスさまに対してこのような態度をとるほど、ペテロは動揺しました。

しかし一方で、イエスさまはかねてから「わたしは三日の後によみがえる」と弟子たちに語られました。福音書では三回も繰り返し、前もってそのように語られていたことが記されています。

このように繰り返し言われていたのですが、イエスの死後三日目、墓の周りに男の弟子たちの姿はありませんでした。女性の弟子たちは、遺体に塗る慣わしのための高価な香料を持ってきていましたが、それでも誰一人として復活を期待していなかったのです。彼らは復活が起こるとはまったく予期しておらず、それは思いもよらないことでした。

イエスさまの復活を信じられずに過ごしていた弟子たちを想像してみてください。どんなに素晴らしい歩みも、死というものが、いやおうなく、すべてを終わらせてしまいます。そこにあったのは完全なむなしさです。この人生でなにをやっても、結局、死がすべてを終わらせてしまうのです。

しかし、このとき、弟子たちが気づいていなかったのは、自分たちが経験していた痛みが、より大きな物語 -全人類を救いに導くご計画- の一部であったということでした。神さまはイエスさまの復活を通して、すべてを明らかにしてくださいました。

神さまにとってあがなうことのできない状況や過ちはないことを、復活は保証しています。イエスが打ち負かすことのできない恐れはなく、癒やされることのない命もありません。私たちのために死に打ち勝たれた、よみがえりの主である神の力に立ち向かえる闇はありません。神にできないことは何一つないのです。