2023年1月29日「回復という名の礼拝」吉田睿濫神学生

イザヤ書1章11節〜18節

 「神さまへの礼拝」ということを私たちが考える時、礼拝とは献げることです。神さまに自分自身を献げ、神さまを求めるものに神さまは良いものを拒まれません。しかし、神さまは本文のようにイスラエルの様々な戒め通りの礼拝を礼拝だと思われず、喜ばず、聞かず、拒んだということなんです。彼らの礼拝には核心的なものが欠けていました。彼らが自分の命よりも大切だと思っていた「献げる礼拝」ができていなかったのです。まるで「心ここに在らず礼拝」と名づけられるほどに。つまり、自分が罪を犯し、神さまを怒らせたとしても律法には、いけにえを屠り、燃やせば神さまは赦してくださると思い込む礼拝です。神さまも私たちと同じく感情を持っておられますので、当たり前にスラエルの心ここに在らず礼拝に対して、怒り、拒まれたのです。しかしそんなイスラエルを神さまは愛しているがゆえに諦めず、本当の意味での献げる礼拝の内容を教えられました。洗って、身を清めることです。

 真理をもって礼拝するためには、まず第一に神さまに自分の罪を告白し、取り除くことがとても大切なことです。この悔い改めによって私たちが献げる礼拝も間違いなく神さまに献げるにふさわしい聖なるものへと変わっていくのだと思います。そしてその礼拝の場で神さまが善を行う力を与えてくださり、身の回りの弱い人々の側に立ち、隣人愛を示し、そして最終的にはイエス・キリストの福音を私たちが証しする聖霊の力を必ず与えてくださるということです。これこそが神の言葉によって生かされる、回復という名の礼拝なのではないでしょうか。

 私たちが献げているこの礼拝は決して日曜日だからといって機械的に言って帰ってくるような場ではありません。この時間献げている礼拝によって私たちの罪が赦され、悔い改める力、一週間を神さまがいるから喜びながら生きることができる力、どんなことにも感謝できる力、地域にイエス・キリストを証しする力が豊かに与えられている場所がまさにこの礼拝の時です。そしてこれらの力は自分の力でなく、神さまから与えられる感動と喜びによって自然と動かされていく力と信仰に変わっていく場所がまさにこの早良教会だと私は強く思います。