2022年10月16日「固くなるほどやわらかい」吉田睿濫神学生

ヘブライ人への手紙6章1-2節

 本文には二つの食べ物が登場します。乳とは固い食物と比較すると「柔らかい食物」と言うこともできます。この食物を食べるときに特別に噛む力や消化力が必要なく、まさに赤ちゃんでも食べることのできるものです。しかしより良い体へと成長するためにはより複雑で、より高濃度で栄養素が入っている「固い食物」を食べなくてはなりません。これを赤ん坊は噛むこともできず、飲み込むこともできなくて、ついにはそれを吐き出してしまうでしょう。しっかりと噛む力があって、消化する体を持っている大人だけが食べることができるものです。また幼子は非常に利己的であるということです。それは良し悪し関係なく、幼子たちはそれしかできないからです。しかし、ここでいう大人、すなわち成熟な人は我慢し、譲ります。彼らは、自分が欲しいものがあったとしても、自分が教えてあげたいと思ったとしても、自分の満足度が満たされなかったとしても、他者に先に譲ります。自分の利益よりも他の人の利益のために動きます。不思議なことに、固い食物を食べている彼らがしている言動は全て柔らかいものだと思いませんか?譲ること、他者のためを思い行動すること、他者の思いを受け入れ、理解し、愛すること、これらは私たちの心が固くなってしまっては絶対にすることができないことばかりです。

 だから、本文の「霊的な成熟」とはまさに私たちの身の回りにいる人たちをまず先に愛することから始まるということを語っているのです。固い食物を食べること、クリスチャンとして成熟するということが、個人だけの信仰や知識を固めることだと思っていませんか?成熟するということは、何よりも先に隣人を愛することから始まります。そしてその愛は「Give and Take」の愛じゃない。何かの代価を求めて、自分の利益を求める愛じゃない。イエス様が言われている愛は、一方的な愛なのです。