2022年8月14日「できれば、せめてあなたがたは」加山献牧師

 「互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。」(ローマの信徒への手紙12章16節~18節)

 ローマ書12章の後半にはイエス・キリストの教えを凝縮したようなメッセージが続いています。特に18節の「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」という言葉にパウロの想いが込められているように感じます。

 力あるものが弱いものを支配する世界でした。富んでいるものがより多くのものを獲得し、貧しいものを虐げている世界でした。そのただ中で、あなた方は全く違った文化-“イエスさまが宣べ伝えた神の国の文化“-を持って生きていきなさい、と勧められています。

 当時のローマは様々な民族の人々が暮らす街であり、人々は貧富の格差が広がった社会で暮らしていました。また、当時は身分制度もありました。ですが、教会の中では、そのような身分の差、民族の違いは関係なく、富んでいるか貧しいかも関係ありませんでした。すべての人が皆、イエス・キリストにあって、ひとつの家族だったからです。

 「できれば、せめて・・・」、あなたがたが今できる精一杯でいいから、あなたに作ることの出来る平和を、作り出しなさい、とパウロは語りたかったのだと思います。たとえ不完全だったとしても、あなたの今いる場所で、あなたの置かれた場所で、あなたの植えられた場所で、精一杯平和の花を咲かせなさい、と語られているのです。まずは『私』から始まる平和があります。

 ある人はこのように言いました。「私の心に平和がなければ、私の家庭に平和をもたらすことはできない。私の家庭に平和がないのに、私の街に平和をもたらすことはできない。私の街に平和がないのに、私の国に平和もたらすことはできない。私の国に平和がないのに、世界に平和をもたらすことはできない。」 皆さんの家庭の中で、職場の中で、学校の中で、平和が求められるところが必ずあると思います。そこにイエス様の与える平安をもたらすものとして私たちは召されています。そのために、まず私たちの心の中から始めましょう。そしてもちろん、世界の平和のためにも私たちは祈っていきたいと思います。