2022年7月31日「たったレプトン銅貨2枚なのに」吉田睿濫神学生

マルコによる福音書12章41節~44節

 イエス様がある神殿で人々が賽銭箱にお金を入れている様子を見た時の話です。ここで当時のユダヤ人(特に社会的上層部にいた人たち、律法学者など)がどれほど高慢で主の前で信仰が堕落していたのかをこの41節だけで確認することができます。この箇所に新共同訳では「お金を入れる様子」と書かれています。別の訳の新改訳ではこの部分を「お金を投げ入れる」と訳しています。この投げて入れる行為に含まれている意味はどれだけ献金したか他の人々にも大体の見当がつくようにしたことだったのでしょう。賽銭箱に投げ入れられる多くのお金の音は、自分がこのぐらいの献金ができる人であることを示して、人々はそのような金持ちを羨ましく思いながら見ていたことでしょう。これが当時の主の神殿の姿でした。まさに主の神殿に行き来していたユダヤ人の思想によってできた社会の価値観でした。

 このような状況の中で、ある一人の貧しいやもめが現れました。そして賽銭箱に入れたのはレプトン銅貨2枚。レプトン銅貨1枚の価値は、日本円で約100円です。彼女はレプトン銅貨2枚を持っていたので約200円をふところから出したと言うことになりますね。彼女の全財産でした。自分の持っている全てを賽銭箱に入れたのでした。 イエス様は彼女が自分の生活費の全部を捧げたことをご存知でした。そして人々の前で自分の全てを捧げた彼女を慰められたのです。私たちはここに神の国の特徴が少しずつ見えてくることに気づきます。神の国とは神さまだけにより頼み、神さまのために自分のものを惜しまず差し出すものたちが喜ばれる国であると言うことです。このやもめが自分に残されているレプトン2枚を全て捧げることができたのは誰でもない全知全能なる神さまにより頼んでいたからです。このやもめのように神さまに全てを委ねるために、神さまの御心のために皆さんが捧げるべき、あるいは手放すべきレプトン2枚は何でしょうか。私たちの持っているそのたったのレプトン2枚によって神さまは弱いわたしたちを高め、慰めてくださいます。