2022年2月20日「すべてを失い、すべてを得る」加山献牧師

マタイによる福音書10章34節~39節

 「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」(38節~39節)

 1597年2月5日、長崎・西坂の丘(現在の長崎市西坂町)で、フランシスコ会の神父や、日本人の信徒など26名が、十字架につけられ、処刑されました。時の権力者、豊臣秀吉の命令によるものです。26人中、最年少は当時12歳だったルドビコ茨木でした。京都にあったフランシスコ会の修道院で、病人の世話にあたっていた少年だといわれています。

 ルドビコ少年が京都で捕らえられた時、役人は「この少年が年少だったので哀れんで命を救うために罪人の名簿に記入したくなかったが、少年は執ように懇願しつづけたので、その懇願により彼を名簿に記入した」と記録が残されています。

 26人の殉教者は京都から長崎まで1000キロの道のりを見せしめのために歩かされました。その道中、少年の両親が説得にやってきたそうです。両親は「キリシタンをやめなさい。そして家に帰ろう」とかわるがわる涙ながらに訴えました。しかし少年は答えました。「お父様、お母様、優しいお言葉をありがとう。しかし、私は父なる神様の家にまいります。」

 長崎の刑場に着いた時、そこには26本の十字架がありました。少年は役人に「私の十字架はどれですか?」と尋ねました。そして自分の十字架に走り寄り、ひざまずいて口づけしたと伝えられています。そして少年は「パライソ、パライソ、イエズス様」と唱えながら召されていきました。 今日、私たちの担うべき十字架はどこにあるでしょうか。「私の十字架はどれですか?」と尋ねた少年の心に倣い、私たちもそれぞれに与えられた使命に応答して生きる生き方を尋ね求めていきたいと思います。