2025年11月2日「外から内へ ~神のまなざし~」 加山献牧師

アモス書2章10節~12節

古代イスラエルの北王国がまだ豊かで平和だったころ、一人の羊飼いが南の町テコアから立ち上がりました。その人の名は、アモス。預言者の家系でも祭司の家でもありません。けれど神さまは、野の羊を見守る彼に語りかけられ、「わたしのことばを語れ」と命じられました。

アモスが告げた最初のメッセージは、聞く者にとって非常に「心地よい」ものでした。
彼はまず、イスラエルの周りの国々──ダマスコ、ガザ、ツロ、エドム、アンモン、モアブ──の罪を次々に指摘したのです。人々はきっと、うなずきながら聞いたでしょう。「そうだ、あの国々はひどいことをしてきた。神が罰を下すのは当然だ」と。アモスは繰り返しました。

ここにまず、一つの教訓があります。
神さまの正義は世界全体を見つめています。信仰を持っているかどうかに関係なく、「人としての罪」に対して神さまは責任を問われるのです。

社会の不正や暴力、戦争や搾取のニュースを見るたびに、私たちは思います。「なんてひどい世界だ」と。けれどアモス書の神は、私たちのその嘆きを共有しておられるお方です。神さまは、痛む者の側に立ち、貧しい者の叫びを無視されません。

けれども、アモスのメッセージはそこで終わりませんでした。
彼の言葉は、聞く人々の心を静かに包囲し、やがて矛先を変えます。
「ユダよ、あなたにも罪がある。」
「イスラエルよ、あなたこそ、わたしの裁きを免れない。」ここから、聴衆の表情は一変したことでしょう。神の裁きは、外から内へと向きを変えたのです。ユダは主の律法を退け、偶像に従いました。
そしてイスラエル──神に選ばれ、恵みを受けた民──は、貧しい者を銀一枚、サンダル一足で売り渡し、弱者を踏みにじり、正義をねじ曲げました。神殿の中で、取り立てた質物の衣を敷き、罰金で買った酒を飲む。信仰の場さえ、貪欲と偽善に汚されていたのです。

アモスはこう語ります。「わたしはあなたたちをエジプトの地から導き出し、アモリ人をあなたたちの前から滅ぼした。わたしは預言者を起こし、ナジル人を立てた。」
つまり神は、「わたしはこんなにも恵みを注いできたではないか」と語っているのです。神さまは彼らを愛し、自由を与え、道を示してきました。
にもかかわらず、イスラエルは恵みを当然のことと思い、弱い者を犠牲にしながら繁栄を楽しんでいました。

ここに第二の教訓があります。神さまの恵みは、責任を伴うものです。神さまを知る者は、その知識ゆえに、より深く問われるのです。むしろ恵みを受けた者こそ、正義と憐れみを実践する使命を負っているのです。

私たちは、教会に通い、聖書を知り、祈ることを学びます。それは本当に素晴らしいことです。けれども、もしその信仰が日々の生活の中で弱い者への思いやり、正直さ、公平さにつながっていないなら、アモスの声は今日、私たちにも響くでしょう。
「正義を水のように、恵みを大河のように流れさせよ。」(アモス5:23~24)

アモスが語った「外から内へ」という神のまなざし。
それは、神の怒りではなく、愛の方向です。
神は今日もあなたを見つめ、「帰っておいで」と語っておられます。