「あなたたちはだから、主を畏れ、真心を込め真実をもって彼に仕え、あなたたちの先祖が川の向こう側やエジプトで仕えていた神々を除き去って、主に仕えなさい。もし主に仕えたくないというならば、川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。」 (ヨシュア記24章14節~15節)
上記の聖書箇所は、ヨシュアがイスラエルの民に語った有名な言葉です。文脈としては、ヨシュアが民をシケムに集め、神さまがこれまでになしてくださった救いと導きを振り返ったあと、「これから誰に仕えて生きるのか」を迫る場面となっています。ヨシュアは民に対し、「主を畏れ、真心を込め真実をもって仕えなさい」と勧めます。聖書において“仕える”という言葉は“礼拝する”ことと同義です。そして“礼拝する”とは、その礼拝の対象となる存在を自分の一番大切なものとして日々の生活に据えることを意味します。
ヨシュアは続けて「もし主に仕えたくないというならば・・・仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい」と語ります。自分で好きなようにすればよい、と放任しているのではありません。この言葉は私たちの決断と選び取りに大きな価値があることを示しています。ヨシュア自身は「私と私の家族は主に仕えます」とはっきり言い切ります。この宣言は、ユダヤ教・キリスト教において非常に有名な信仰告白です。今日、私たちはいったい誰を仕えるべき神として選び取るでしょうか。