人生の中で「ここを越えるのは無理だ」と思ったことはありませんか?仕事や人間関係、健康や将来の不安など、前に進みたいと思うのに、高い壁や大きな川のような障害が立ちはだかることがあります。ヨシュア記3章のイスラエルの民も、まさにそのような状況でした。約束の地はもうすぐ目の前なのですが、その道はヨルダン川に阻まれて、人間の力では渡れない状況でした。「春の刈り入れの時期で、ヨルダン川の水は堤を越えんばかりに満ちていたが、箱を担ぐ祭司たちの足が水際に浸ると、川上から流れてくる水は、はるか遠くのツァレタンの隣町アダムで壁のように立った。」 (ヨシュア記3:15~16)ヨルダン川は刈り入れの時期で水かさが増しています。神さまの時は人間の目にはタイミングが悪いように見えることもあるのです。それでも祭司たちは神さまの命に従って川に一歩、足を踏み入れるのです。信仰は勇気をもって一歩を踏み出すことです。その第一歩を踏み出した時、民は神さまの御業、奇跡を体験しました。
「主の契約の箱を担いだ祭司たちがヨルダン川の真ん中の干上がった川床に立ち止まっているうちに、全イスラエルは干上がった川床を渡り、民はすべてヨルダン川を渡り終わった。」 (ヨシュア3:17)
水がせき止められている間、契約の箱は乾いた川底の真ん中に立ち止まっていました。これは奇跡のただ中におられる、神さまの臨在を象徴しています。私たちの信仰の根拠は「自分の力」ではなく「神さまの力」です。神さまの力は自然を超えて働きます。また、神さまは私たちの人生の道を開かれるお方です。私たちは神さまの奇跡を共に体験することが許されています。「干上がった川床」(別訳でかわいた地)とは、モーセが紅海を渡った場面でも使われた言葉です。旧約聖書では特別な意味が込められているキーワードです。それは神が整えてくださる道、神が奇跡によって開かれる道を示しています。神は私たちの人生にも「整えられた道」を備えておられます。本来なら渡れない「水に覆われた川」が、奇跡的にせき止められたように、人間の目には「絶対に不可能」と思える状況でも、神さまは道を開かれます。「ここには道がない」と思える場所に、神さまの力で道が開かれていくのです。