2025年7月6日「昼も夜も」加山献牧師

「幕屋を建てた日、雲は掟の天幕である幕屋を覆った。夕方になると、それは幕屋の上にあって、朝まで燃える火のように見えた。いつもこのようであって、雲は幕屋を覆い、夜は燃える火のように見えた。この雲が天幕を離れて昇ると、それと共にイスラエルの人々は旅立ち、雲が一つの場所にとどまると、そこに宿営した。」 (民数記9:15~17)

 

エジプトから約束の地カナンまでは、まっすぐ行けば2週間もあれば到着距離でした。しかしイスラエルの民は40年の間、荒れ野を旅することになりました。彼らにとって、荒れ野こそが訓練を受ける場所でした。民は荒れ野の旅の中で学ぶべきことが沢山あったのです。

昼は雲が、夜は火が民を導きました。雲は神の臨在を表します。火も神さまの臨在、力、清め、聖霊の働きを表しています。16節には“いつもこのようであった”という言葉があります。神さまは民を離れることなく、いつも共にいてくださったのです。

ユダヤの人々は、荒れ野とは神と出会う場所、神と語り合う場所であると考えていました。わたしたちも人生の歩みの中で荒れ野を通らされることがあります。しかし、その場所でこそ、わたしたちは神さまに出会い、神さまの声を聞き、神さまと語り合うことができるのです。

荒れ野を通らなければ学ぶ事ができないことがあります。荒れ野の旅を通して、神さまはわたしたちを形づくってくださいます。荒れ野を通らなければ、変わることのできない“わたし”がいるのです。

神さまはわたしたちの人生に起こる、すべての出来事に目的と計画を持っておられます。すべてのことに神の導きがあります。そしてわたしたちは決して置き去りにされることはありません。昼も夜も主は共におられます。