2025年6月1日「生きるとは」加山献牧師

使徒パウロがフィリピの教会に宛ててこの手紙を書いた時、彼は牢獄の中にいました。フィリピの教会にとってパウロは教会の創始者でした。(パウロのフィリピでの伝道活動については使徒言行録16章に詳しく記されています。) しかし今、そのパウロが牢獄に捕らわれており、最悪の場合は処刑されるかもしれない、という知らせがフィリピの街に届いたのです。フィリピの教会はパウロの身の回りの世話をさせるために、エパフロディトという若者に手紙と贈り物を託して送り出しました。パウロはエパフロディトの訪問とフィリピ教会の祈りと支えを心から喜びました。そして今度はパウロが感謝と励ましのメッセージを綴り、エパフロディトに渡して彼をフィリピに送り返したのです。その時に持たせたのがこの『フィリピの信徒への手紙』でした。

 

「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。・・・中略・・・ この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。」(フィリピの信徒への手紙1章21節~24節)

 

私たちにとって、生きるとは、そして死とは何でしょうか?人生はキリストのために働く機会であり、死とはキリストと共に生きる永遠の世界のはじまりなのだ、とパウロは語ります。この世で生きる苦しみを考えると、一日も早く、この世から去って、キリストのみもとで休みたい。クリスチャンであっても、そのように感じることがあるかもしれません。しかしパウロはもっと積極的な理由でこの言葉を語っています。キリストと共にある御国の素晴らしさの故に、このように語っているのです。そればかりではなく、世に生かされている間は私たち一人一人に使命(他者のために“使う命”)が与えられているのです。