15. 6月 2019 · 2019年6月2日「すべてにまさる義」加山献牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「すべてにまさる義」 加山 献 牧師

マタイによる福音書5章17節~20節

 

この聖書箇所で主イエスは2つのことを語っておられます。第一に「主は何のために来られたのか」ということ、第二に「どのような人が神に受け入れられるのか」、ということです。

1.主は何のために来られたのか

「わたしが来たのは律法や預言者を・・・完成するためである(17節)。」 主イエスは「律法」と「預言者」を完成し、成就する者として、ご自身を示されました。

「律法」とは聖書の最初の5つの書物、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記を指します。その中心となるのはモーセの十戒に代表される「戒め」です。また、「預言者」とはイザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書、ダニエル書などの旧約聖書の書物を表します。その内容は人類に対する神の「約束」です。「律法」と「預言者」という言葉が同時に語られる時、それは常に旧約聖書全体を意味していました。つまり、旧約聖書に示されたすべての「戒め」と「約束」を完成し、成就するために主はこの地に来られたのです。主はそのことをはっきりと宣言されました。

2.どのような人が神に受け入れられるのか

当時の律法学者はひとつひとつの教えに「小さな戒め」と「大きな戒め」という序列をつけていました。ある教えを尊び、ある教えは無視するような者たちも現れました。確かに「モーセの十戒」のように重要な戒めが存在します。主ご自身も「敬神愛人」を他の教えよりも重要視されました。しかし「最も小さな掟」(19節)を無視して良いのではありません。そのようなところから、私たちの信仰に破れが生じます。主は、「小さなことにも忠実であってほしい」と語っておられるのです。

信仰者の心には、「どのようにすれば神の基準を満たし、合格できるのか、どのようにすれば私たちが救われるのか」という問いが生じます。律法学者とファリサイ派の人々は聖書に書かれていること以上に、細かい規則を守り、行いに励むならば、神に認めてもらえると考えました。彼らは律法に忠実に歩もうと厳格な清さを求める生活をするうちに高慢になり、人々を裁くようになりました。これが「律法学者とファリサイ派の義」です。(20節)

主イエスの言われる「律法学者やファリサイ派の人々の義にまさる義」(20節)とは私たちの働きの報酬ではなく、神からの賜物です。私たちが救われるのは行いによるのではなく、イエス・キリストを救い主として信じる信仰によります。それはどのような行いにもまさっています。行いは、救いに至る手段ではなく、神様の恵みに対する応答なのです。私たちは、神の恵みに応答する者として、小さなことにも忠実でありましょう。

 

 

 

 


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