◇ 伝道のはじまり  ◇

信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうじて信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。・・・実に、信仰は聞くことにより、しかもキリストの言葉を聞くことによって始まるのです。(ローマ10章14、17節)


種をまく人(宣べ伝える人・御言葉を植える人)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

早良キリスト教会の歴史は、ひとりの女性宣教師の祈りと開拓伝道の働きによって始まりました。宣教師K.J.シャフナー先生は米国テキサス州出身で、オクラホマ・バプテスト大学(OBU)ドイツ文学を専攻しました。卒業後は、アフリカのガーナ、首都アクラで宣教師の子弟(小学6年~高校3年生)が学ぶ学校の寮監アシスタントとして聖書通信講座や生活・教育支援を2年間担当して働きます。任期終了に近づいた頃、大学時代の指導教授から連絡があり、初級ドイツ語と語学ラボラトリー担当主事のポストを引き受けてくれる人材を探していると声をかけられます。

アフリカから帰国後、再びオクラホマのOBUに戻り大学で働きながら、毎年夏休みになるとヴァーモント州のミドルベリー大学院夏期集中コースを受講してドイツ語・ドイツ文学修士課程を修了した後、神学の学びを深めるため、テキサス州フォートワース市のサウスウェスタン・バプテスト神学校に進み、1982年に神学修士(M.Div.)を修了します。在学中、ユースキャンプなどで、青年たちにアフリカの話しをしてほしいと依頼されることが度々あり、またカンボジア難民に週30時間英語を教えるうちに、次第に海外宣教への召命を意識するようになったそうです。

神学校卒業後は、大学生に関わる宣教の働きに加わりたいと、祈りのうちに南部バプテスト連盟(SBC: Southern Baptist Convention)の外国伝道局を訪ねますが、人事担当者からは、大学宗教主事(Baptist Student Union Minister)の2年以上の経験が必須だとか、派遣国は既婚カップルに限定されている国ばかりだと説明を受け、シャフナー先生の学歴、経歴、資格などにあう仕事はない、と一旦は断られます。その2週間後、他の担当者から電話があり、直接会って話しを聞いてみると、過去5年間だれも応募しない日本の大学でのドイツ語教師の仕事を紹介されました。西南学院大学からの求人票のコピーをもらい、何度も読み返えすうちに、「これは自分のために用意された仕事!」シャフナー先生は求人票を見て、まるで自分のために書かれているように感じたそうです。

神様の不思議な計らいがあり、求人票を実際に作成したJ.シェパード先生ご本人はアメリカに帰国されていて、当時テキサス州ベイラー大学の教壇に立たれていました。直接話しを聞きに訪ねてきたシャフナー先生に、シェパード先生は力強く「是非!是非!」と勧めたそうです。SBCの人事選考、審査、健康診断等を通過し、西南学院大学からも受入OKの回答があり、こうして日本語研修2年間を受講することを条件に、シャフナー先生は米国南部バプテスト連盟外国伝道局の宣教師として任命されます。本国での2ヶ月の事前オリエンテーションを経て、1984年6月21日、シャフナー先生は初めて日本の土を踏みました。日本到着後は、東京の池袋にある宣教団アパートに落ち着き、日曜日は東武東上線赤塚駅近くにある赤塚バプテスト教会に出席し、2週間後の7月4日、宣教師のための語学施設で2年間の日本語研修が開始されます。

 

主から与えられたビジョン ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

1984年シャフナー先生が来日された同じ年、田隈バプテスト教会では、「1984年壮年会報告と展望」と題して、当時の代表執事である安徳典光兄が教会総会資料の中に次のように書いています。「長住、福岡、田隈の3教会が母教会となって(キリスト教会がひとつもなかった)福間町に初めてキリスト教会(伝道所)が開設され宗像地区の伝道が開始された。次は四箇田地区及びその近郊に住む人々や前原町を中心とする糸島地区の人々へ思いを走らせ、福音伝道を開始すべきではあるまいか。」

当時、この地域には重留に「エホバの証人」の集会所があるだけで、キリスト教会は一つもなく、度々開拓伝道のことが話題になったそうですが、結局伝道所を開設する決議までには至りませんでした。1988年のある日、当時の田隈バプテスト教会の協力牧師、金子啓一先生と安徳執事は、車で重留、西入部、東入部、内野、脇山、金武、四箇田団地あたりを巡回し、この地域における開拓伝道の必要性を痛感しましたが、1990年3月に開催された教会総会でも、再度伝道所開設の話は見送られます。伝道への熱い思いと祈りが空回りし、人の目には宣教が進まないように見えてしまうこの頃、シャフナー先生は語学研修を修了し、1986年夏、福岡市早良区賀茂2丁目に引っ越し、有田バプテスト教会に所属して、毎週土曜日は二日市伝道所でバイブルスクールを始めます。

翌1987年4月には西南学院大学文学部国際文化学科の教員として初めて教壇に立ち、学生たちにドイツ語とキリスト教学を教え始めます。「すべての宣教師は新しい教会を立ち上げる」というミッションがありましたので、シャフナー先生は、開拓伝道の候補地について情報収集を始めますが、教会インフォメーションサービス(CIS)の教勢データによると、四箇田団地周辺が人口は多いが教会数は少ない、という結果が示されました。こうして、田隈バプテスト教会の総会で、伝道所開設の話が見送り決定となった同じ1990年春、金子啓一先生より同じ国際文化学科の教員であるK.J.シャフナー先生が同じ地域への開拓伝道のビジョンを持つことを聞かされ、安徳兄は心より主に感謝したそうです。安徳兄の知人である株式会社共栄土地社の社長に借家の物件を依頼し、この物件が1990年5月から1998年3月まで伝道所として使用することになります。後にこの物件を通して、神は不思議な御業と強烈なご栄光を現わしてくださいました。

当時のことを、シャフナー先生は、こう述懐します。1990年が明けて、大学教授2名とその夫人ら合計5名で、具体的に伝道所の候補を探し始めました。当時は随分田んぼが広がり、土ぼこりの立つあぜ道だらけで、今あるような舗装道路はありませんでした。周囲の田んぼには牛が放牧され、現在のサニー重留店の場所には養鶏場があった時代です。期待して物件を探しますが、適当な場所が見つかりません。5月に入り安徳兄の友人の不動産屋さんから、重留にある一軒家を紹介され、物件を見に行きますが、1階に12畳の部屋ひと間、2階は6畳と4畳半の2間の小さな民家でした。

下見に行ったグループのメンバーは皆、特にシャフナー先生は、物件がとても狭く、非常に分かりにくい場所にあったので、とてもガッカリされたそうです。のちに、シャフナー先生は自分の不信仰を、主にお許し下さいと何度も祈られたそうですが、シャフナー先生だけでなく、当時の教会関係者は何度も道を迷って伝道所までたどり着けなかった経験を懐かしく思い出します。

その頃、四箇田小学校南側校庭沿いに伸びる大きな舗装道路(現教会前のバス道路)は、四箇田団地の南東角(現在のセブンイレブンの前)で途切れ、伝道所方向へ延びる細い道の入り口には「車両進入禁止」の柵が立てられていました。伝道所にたどり着くためには、その柵を通り越し、その先に続くあぜ道の行き止まり手前で、さらに左に伸びる行き止まりの路地へ入り、角から数えて3軒目、という非常に分かりにくい場所にありました。

当時神学生だった濱野道雄先生(現・西南学院大学神学部教授)は、伝道所で寝泊まりすることになりましたが、途中道に迷ってなかなか場所を見つけられなかったと聞きます。また、現・教会執事の木村理英子姉も、初めて伝道所を訪ねようとした際、場所を探しだせずに断念。たまたま伝道所の隣2軒が、当時教えていた英会話教室と書道の生徒さん宅だったことが分かり、道順をしっかり教えてもらい改めて伝道所を訪ねましたが、それでも分からなかったと笑いながら当時を懐かしく振り返ります。シャフナー先生は、不満を抱えながらも、紹介された物件は主が与えてくださった場所と受け止め、日本バプテスト宣教団が当初の家賃をサポートする形で、6月から準備集会が始められました。

 

水を注ぐ人 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

1990年6月3日、最初の礼拝は、K.J.シャフナー先生、安徳典光兄、安徳光代姉、安徳昌泰兄、金子啓一師、金子敏子姉、岩佐和美姉の7人で執り行われ、 7月22日の記念すべき開所式には、有田バプテスト教会名誉牧師の尾崎主一先生をお迎えし、力強いメッセージをいただきます。臨席者に配布した栞は、イエスの王位を思い出させる紫色の地を選び、御言葉「人には出来ないことも、神には出来る。」と「恵」という字を印字し、「神様に与えられた恵みにより救われ、福音の僕とされた」自分自身を覚えるものとしました。

神よ、私を究め、私の心を知ってください。私を試し、悩みを知って下さい。ご覧ください。私の内にも迷いの道があるかどうかを。とこしえの道に導いて下さい。」(詩139編) 

重留で宣教が開始された頃のシャフナー先生は、詩篇139編から祈られたそうです。それは、宣教の動機、目的、やり方などが、主の目にかなっているかどうか、主の教えをあおぎ清めてくださるようにという願いからだったと聞きます。

成長させてくださった神(人の思いを越えて、祈りにこたえてくださる神様)・・・・・・・・・・・・

当時をシャフナー先生はこう振り返えります。「祈りをとおして見えてきたのは、自分の足りなさ、弱さ、不満であり、また早良伝道所が発展できたのは、人の思いを高く超えて働いてくださった神様の御業以外では説明できない」ということでした。神様に対して文句を言っていた行き止まりの道に囲まれた伝道所も、区画整理とユニバーシアード関連の道路整備工事が進められる中で、角の2軒が立ち退き、いつの間にか伝道所が角地と変わり、目の前には立派なアスファルト道路が整備されました。主なる神は、まさに荒れ野を切り開いてくださったのです。

また、その時々に応じて主は、近隣の牧師先生や信徒、神学生を遣わし、必要な宣教の大切な役割の担う助け手と励ましを与えてくださいました。1992年11月、野方教会では早良伝道所の母教会となることが了承され、泉清隆牧師先生をはじめとする信徒の方々から、主にある物心両面の全面的なサポートをいただいたことは、大いなる主の恵みであり、また忘れてはならないことでした。

その後、神様の御旨により、1994年5月に初代牧師として松村祐二郎師(現・平尾バプテスト教会協力牧師)が就任され、翌1995年には会堂建築学習会が開催されて新会堂建築のビジョンが明確になっていきます。1996年2月の連盟理事会にて、教会建築Bタイプ支援申請が承認され、7月より新会堂建築のための祈りが始められます。10月には福岡市西部霊園の墓地用地も購入し、平行して新会堂の教会用地も検討が進められ、1998年2月には土地を購入、移転登記も完了します。3月から借家の民家より現在地の重留7-8-20(現牧師館)に会堂を移転し、仮会堂での礼拝初日には、鈴木直哉副牧師の就任式が行われました。副牧師という力強い働き手が増し加えられ、更に祈りが積み上げられるとともに、新会堂建設が加速していきました。こうして、不平不満で出発した伝道所は人の思いを超えた神の御業をとおして創り変えられ、1999年11月、喜びと感謝の内に、新会堂の献堂式を迎える恵みをいただきました。

 

◇ 教会組織へ ◇

新会堂完成までの道のりを振り返ると、様々な困難が思い出されます。用地購入の際は、経済的なことも含めて、できる範囲で留めた方がよいとの現実的な意見がだされ、シャフナー先生も同じ考えをお持ちでしたが、主は御言葉で臨まれ、「主の山に備えあり」と教会を大胆に導かれました。さらに神は、1998年3月に鈴木直哉先生を副牧師としてお与えくださり、新会堂建設に力を注ぐ松村祐二郎先生をお支えてくださいました。2000年10月には、副牧師鈴木直哉先生が牧師に就任し、半年の引継ぎの後、翌年2001年3月、松村先生は次のミッションのため、牧師職を引退されます。牧会者のバトンが、初代牧師の松村先生から、第2代牧師の鈴木先生に手渡されて、いよいよ外見は新会堂に変身した伝道所から、名実ともに教会として機能する組織化への歩みが進められることになります。

途中、2003年2月にシャフナー先生が1年間帰国され、新会堂の伝道所は霊的に不安な状態を経験しますが、主は御器をお返しくださり、2004年1月に帰福。シャフナー先生は宣教師としてではなく、新たに協力牧師として伝道に力添えをいただくことになります。翌年2005年4月の総会では、伝道所の教会組織化へ向けての決議がなされ、同年10月の臨時総会で、早良キリスト教会の信仰告白、規則、細則が承認されます。そして、12月臨時総会において、日本バプテスト連盟加盟申請が決議され、この時に早良伝道所から正式に早良キリスト教会へと名称も改めました。

2009年4月~2011年8月までの間、人の思いを超えた主のご計画のなかで、主任牧師不在の霊的危機と試練を通りましたが、2007年7月~2008年3月まで副牧師、2008年4月より協力牧師として高山裕行先生が支えてくださり、ほか周辺教会の数多くの先生方が、輪番でメッセージを取り次いでくださったことは、いつまでも忘れてはならない尊いご奉仕であり主への感謝です。内にあっては、教会執事である木村理英子姉が祈祷会を1回も欠かすことなく、主任牧師不在でも祈祷会をひとりで守り続けた先に、主は大いなる恵みをご用意くださり、2011年9月、主は今村幸文先生を牧者として、お立てくださいました。

第3代牧師(現協力牧師)の今村幸文先生は、北陸地方の福井教会を開拓されてから、50年間にわたって大阪・堺教会、北九州・シオン山教会、四国・高松常磐町教会、名古屋・平針キリスト教会(協力牧師)と遣わされた主の尊い御器です。高松常磐町教会で12年間牧会され、72歳の2008年に引退されましたが、名古屋・平針キリスト教会より協力牧師として招聘され、主に導かれて名古屋に移ります。そして次に、今村先生が75歳を迎える2011年、当時無牧だった早良キリスト教会は、今村先生を牧師として是非招聘したいと、直接K.J.シャフナー先生と木村理英子執事が名古屋の今村先生を訪ねて教会の総意をお伝えし、主の恵みと憐みにより今村先生ご夫妻を福岡の重留の地にお迎えすることができました。

今村幸文先生は当時を振り返り、ご自身に強く迫ったアブラムの信仰を、宣教の中で話されたことがあります。75歳という年齢は、奇しくも主の言葉がアブラムにのぞみ、「わたしが示す地に行きなさい」と、主の御言葉に従って旅立った年齢です。召しをいただいて旅立ったアブラムの信仰を、今村先生はご自身に重ねあわせたと話されました。

神様は、シャフナー先生を日本に導かれ、早良区重留の地に、信仰の種が蒔かれるよう計画されました。開拓期のシャフナー先生に協力された金子啓一先生と安徳兄の祈り、また幼い教会の歩みを母教会として見守り支えてくださった野方キリスト教会の泉清隆牧師先生や信徒の皆様の祈り、無牧になっても絶やさず祈り続けた教会員の祈りに応えてくださり、そして有形無形の奉仕によって、ここまで教会が成長させえいただいたことは誠に主の恵みです。主は祈りに応えてくださり、その時々に必要な働き人や主の御言葉を預かる尊い御器や歴代の牧師先生方を遣わしてくださいました。

2015年は、協力牧師であるK.J.シャフナー先生が西南学院大学の学長に就任され、翌2016年に創立100年記念事業を控える大学にあって、劇的に仕事内容が変化し過密するスケジュールを思う時、その2年前の2013年に牧師夫人の今村まさゑ先生が按手を受けて協力牧師として就任したことも、まさに主のご計画のうちの恵みであり、励ましであり、主にある万全の備えであったと覚えます。

2015年、第3代牧師今村幸文先生の牧会の内に伝道開始25周年を迎え、2018年4月には、それまで研修神学生として奉仕していた加山献神学生が今村牧師の後を引き継ぎ第4代牧師に就任しました。これからも主がおたてくださっている御器おひとりおひとりの尊い御用が全うされますよう、健康が守られ、強められ、励まされるように「絶えず祈り、どんなことにも感謝して(Ⅰテサロニケ5:18)」、最善に導いてくださる主を信じ、さらに主と共に喜んで歩みながら30周年(2020年)を目指します。

 

◇ 早良キリスト教会の「これから」を考える 第3代牧師(現協力牧師) 今村 幸文 ◇

当教会は1999年に現在の会堂が献堂されました。当時の先生方、兄弟姉妹のお祈りと尊い献金と予算の半額は、全国の諸教会からなる日本バプテスト連盟のBタイプ支援を受けたのでした。この同じ1999年に連盟は1971年に制定された「教会学校の目的」を改訂しました。私は早良教会組織10周年を起点に「これから」の教会の歩みについて幾つかのことを記したいと思います。

第1は前述しました教会学校の目的の内容に関するものです。因みにその目的の内容は次の通りです。「教会学校の目的は、その活動を通してすべての人々が、イエス・キリストを信じる信仰告白に導かれ、教会を形づくり、生の全領域において主に聞き、主を証しする生活を確立していくことにある」。教会学校の青年成人クラスの定着を通して教会員、求道者が共にみ言葉を学び、交わる教会、訓練される教会を目指したいのです。

第2は祈祷会の充実です。「あなたがたの上に聖霊が降るとあなたがたは力を受ける」(使徒言行録1:8)「心を合わせて熱心に祈っていた」(14)とあります。そして2章に入ると「聖霊降臨」の出来事が記されています。今日、お互いはもちろん、国内外において「執り成しの祈り」が求められています。主イエスの生涯は執り成しの生涯でありました。主に従って執り成し祈る教会でありたいのです。「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである」(マタイ21:13)。

第3は献げ仕える教会です。主イエスは私たちを罪と死から救うためにご自身を十字架に献げてくださいました。この主の愛と恵みに応答して私たちも感謝と喜びをもって献げ(マラキ3:10)、主と隣人に仕えていきたいものです。

第4は地域に浸透する教会です。私たちの教会から県境の背振山麓までキリスト教会はありません。教団讃美歌の歌詞に、こうあります。「わが飼い主 主イエス君は 岩山 荒れ野を洩れず訪ね 飢えつかれし 小羊をばいたわり抱きて 帰りたもう」主イエスに倣って時間をかけて地域の個別訪問をして人々と出会っていきたいのです。

最後に協力伝道する教会です。福岡地方バプテスト連合、西南学院、九州バプテスト神学校、久山療育園、日本バプテスト連盟との絆を深め、協力関係を築いて宣教課題を担う教会になりたいものです。