「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。」 (マタイ23:11~13)
ユダヤの国は長い間、大国の支配を受け続けてきました。苦しい生活が長く続くにつれて、しだいに信仰を失う人々が出てきました。そして神様への信仰と伝統的な生き方を捨てて、新しい価値観で生きようとする人々が多くなったのです。
そのような状況の中で、自分たちは神様の約束と教えとに忠実でありたいと願ったのがファリサイ派の人々だったのです。”ファリサイ”とは”区別された者”という意味の言葉です。彼らは他の人々とは違った生活を始めたのです。純粋な信仰心に動機づけられた素晴らしい出発点でした。しかし時が経ち主イエスの時代になると、本来の健全な情熱が間違った方向に向かうようになっていました。
マタイ福音書の23章で、主イエスは律法学者とファリサイ派の人々に対して厳しい言葉を語っておられます。イエス様が指摘した彼らの問題点とは何だったのでしょうか?23章の5節から7節では、人々の称賛を求め過ぎてしまう彼らの姿が言及されています。
最初は神様を見つめて、すべてを神様のためにおこなっていました。けれどもいつの間にか目的が変わってしまったのです。神の言葉を教え、その言葉に生きようとする時、それが人々に承認され、尊敬され、ほめられるようになりました。その人々からの称賛が彼らにとっての落とし穴となりました。必要以上に自分の満足を求めるようになってしまったのです。”神様がほめてくださる”ということを忘れ、自分に注がれている神様のまなざしがわからなくなってしまったのです。
裏をかえせば、たとえ誰も褒めてくれなくても神様が見ていてくれる。誰も認めてくれなくても、神様だけは「よくやったね」と言ってねぎらってくださる。そのような世界がある、ということだと思います。私たちにとって大切なことは、過度に人々の評価を追い求めることではなく、神様のまなざしに気付き、そこに憩うことなのです。