2019年3月24日「何のために生き、何のために死んでいくのか」加山献牧師

「何のために生き、何のために死んでいくのか」 加山献 牧師

マタイによる福音書5章10節~12節

 

イエスさまは山上の説教で、幸せについてどのように教えられたのでしょうか。「心の貧しい人々は幸いである/悲しむ人々は幸いである/義のために迫害される人々は幸いである/天の国はその人たちのものだから/その人たちは慰められるから。」

この世界の一般的な「幸せ」の定義とはかけ離れた「幸い」を、イエスさまは示されました。たとえこの世で幸せと呼べるようなものを何ひとつ持っていなかったとしても、もしイエス・キリストに出会うなら、人に天の国を与え、すべての涙をぬぐい、慰めてくださる方であるイエス・キリストを知るのなら、それは幸せな人生だ、というのです。

この地上での幸せが悪いものである、ということではありません。私たちには、住む家が与えられ、食べるものがあり、やりがいのある仕事を与えられ、愛し愛される関係に囲まれて生かされています。私たちの人生は感謝すべきことにあふれています。けれども、それらすべてを持っていたとしても、もし私がイエス・キリストを知らなかったのなら、もし私がイエス・キリストに出会わないなら、実は私は不幸なのだ、というのです。

イエスさまは言われました。「義のために迫害される人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」「義」という言葉はすでに6節に出てきていました。「義」とは神様との正しい関係を表す言葉です。イエス・キリストの十字架によって、神の子とされ、イエス・キリストの名によって、私たちは親しみをこめて「私たちの父なる神さま」と呼ばわることができるようにさせていただけました。神様との正しい関係、それは私たちがそうであるべきものにさせていただけた、ということです。

弟子たちはのちに、この「神様との正しい関係」、つまりイエス・キリストの福音を宣教するが故に迫害を受けるようになりました。ユダヤの宗教的な指導者たちからの迫害があり、ローマ帝国からの迫害がありました。

彼らが本気で伝道しなければ、あるいは迫害を避けることができたかもしれません。少しだけ偽り、信仰を隠して生きていけば、その苦しみは取り去られる状況だったことでしょう。しかし彼らは、その命に代えても、どうしても伝えたかった福音、良き知らせを知っていたのです。

迫害のただ中にあっても、彼らはイエスさまを覚え続けました。彼らは、イエスさまがどれほど忠実に苦難をしのばれたかを忘れませんでした。彼らは、このイエスさまの言葉を何度も思い出したはずです。「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

 

 

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