23. 3月 2019 · 2019年3月24日「立て、さあ行こう」今村まさゑ協力牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「立て、さあ行こう」 今村まさゑ 協力牧師

マタイによる福音書26章36~46節

 

今朝はレントの第二主日です。主が十字架に死なれる前日のこと、主の晩餐と言われる食事の時、イエスはパンを弟子たちに与え「これはわたしの体である。」また、杯を与え「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」そして、オリーブ山へ行く道すがら、ゼカリヤ13章の言葉を引用し「今夜、あなたがたは皆つまずく・・鶏が三度鳴く前に・・」と予告されました(26章26~35節)。

ケデロンの谷を通り、ゲツセマネ(オリーブの油搾り機の名称)という所に来て、弟子たちに「わたしが祈っている間、ここで座っているように」言われ、ペテロ、ヤコブ、ヨハネをには「目を覚まして祈っているように」と言われます。

そういうや否や、イエスは恐れおののき、悲しみ悶え「わたしは悲しみの余り死ぬ程である」と。いつも毅然としておられたイエスにどんな恐ろしいものが襲い脅かしたのでしょうか。イエスはうつ伏せになり祈って「アッバ、父よ。あなたは何でもお出来になります。この杯を、わたしから取り除けて下さい。」サタンの総攻撃、すさまじい誘惑を受けられたのです。イエスを十字架につけさせまいと、また飲むべき杯の苦さ、背負うべき十字架の重さ、身代わりとなるべき人間の罪の余りの凄さまじさを、パノラマのようにイエスに見せたのだ。サタンは、神の御子イエスを狂い死にさせたかったのだ・・と、ある牧師は語っています。

祈りの応援を求めるかのように、イエスは弟子たちの所へ戻ってご覧になると、弟子たちは眠り込んでいました。「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」。再び、祈り場へ。全人類を救うという神の愛の成就にために「父よ、十字架の贖い以外に方法が無いのでしたら・・、あなたの御心が行われますように。」神であられ、人となられたイエス以外、罪の身代わりと成り得ないのです。「罪の支払う報酬は死である。」(ローマ6:23)とありますが、私たち人間は、罪の恐ろしさ、罪を憎む神の正義、イエスが受けようとしている刑罰は、人間の罪に対する神の怒りであることに、気づいてさえいないと言えます。

私たちの罪のために祈られるイエスの「額から流れ落ちる汗は、血のしたたりのようであった。」(ルカ22:44)今朝の箇所は、祈られるイエスさまと眠りこける弟子たちと対照的です。それでも「立て、さあ行こう」と励まして下さる。マタイ受難曲の歌詞字幕に「イエスと共に目覚めていよう。その時、我らの罪は眠りにつく」と何度も、何度も映しだされていました。

 


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