30. 1月 2019 · 2019年1月27日「涙の再会」加山献 牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「涙の再会」 加山献 牧師

創世記32章4~14節、33章1~4節

 

ヤコブは恐れていました。ヤコブの肩には、20年前の思い出したくない記憶(お兄さん対しておこなってしまった悪い仕打ち)が重くのしかかっていました。かつて、自分のことを殺そうと決断するほど激昂した兄に、再会しなければならないことが、ヤコブにはわかっていたのです。同じように、私たちの人生にも避けては通れない「恐れ」が数多くあるかもしれません。

「苦しい時の神頼み」という言葉があります。あまり肯定的な意味では使われないことが多いです。ですが、これを良い意味で捉えなおしたいと思います。本当に苦しい時、もう自分の力ではどうすることもできない時、私たちは一体誰に頼るのでしょうか。私たちは試練の中にある時、神様に助けを求めて良いのです。私たちが祈ることを神様は待っていてくださいます。

「わたしの父アブラハムの神、わたしの父イサクの神、主よ、あなたはわたしにこう言われました。『あなたは生まれ故郷に帰りなさい。わたしはあなたに幸いを与える』と。 」(10節)ヤコブは、祖父アブラハムを導き、父イサクを助け、そして彼自身の人生にも、ずっと一緒にいてくださって、支え導いてくださった神様に祈っています。ヤコブは決して誰だがよく分からない神様に祈っているのではありません。この神様は私たちと向き合い「あなたとわたし」という関係の中に立ってくださる方なのです。そして「あなたはこのように約束してくださったではないですか」と訴える私たちの声に耳を傾けてくださいます。

「わたしは、あなたが僕に示してくださったすべての慈しみとまことを受けるに足りない者です。かつてわたしは、一本の杖を頼りにこのヨルダン川を渡りましたが、今は二組の陣営を持つまでになりました。」(11節)ヤコブは家を出た時、着の身着のままで出て行きました。けれども今は、愛する家族がいて、たくさんの財産を与えられています。ヤコブはこの事を感謝しました。ヤコブは恐れと不安の中でも感謝したのです。

「どうか、兄エサウの手から救ってください。わたしは兄が恐ろしいのです。兄は攻めて来て、わたしをはじめ母も子供も殺すかもしれません。」(12節)ヤコブは率直に、素直に、心の想いと願いを神様にお伝えしました。「わたしは恐ろしいです。どうか救ってください。」それは「私にはあなたが必要です」という信仰の告白そのものです。私たちは、いつも綺麗な言葉で祈れないかもしれません。それでも大丈夫です。「神様、辛いです。悔しいです。不安です。」私たちのあるがままの心を、神様にお伝えすることも、私たちの祈りの形です。

ヤコブは祈っただけではありませんでした。8節、9節では自分の財産である家畜を二手に分け、万が一に備えました。14節以降では、贈り物を1日がかりで用意して、お兄さんの怒りをなだめようと試みています。ヤコブは祈るだけでなく、家族を守るために、財産を守るために、自分で成し得る最善を尽くしました。

「ヤコブが目を上げると、エサウが四百人の者を引き連れて来るのが見えた。・・・ヤコブはそれから、先頭に進み出て、兄のもとに着くまでに七度地にひれ伏した。エサウは走って来てヤコブを迎え、抱き締め、首を抱えて口づけし、共に泣いた。」(33章1~4節)

20年という年月が過ぎて、二人はすっかり変わっていました。押しのけて、出し抜く者であったヤコブは、もう以前のようではありませんでした。エサウの怒りも雪解けのように溶かされていました。二人は過去のことを一切口にしませんでした。二人の涙が全てを語っています。この和解が成り立つまでには長い年月が必要でした。

神様は私たちを成長させるために、「時間」を用いられます。そのような意味で、「時間」は神様の道具です。私たちは時が満ちるまで、長い間、待たなければならないかもしれません。ですが、私たちは希望を持って待つことができます。待つことのできる人は、神様を信頼する人です。もし、和解や解決を願っている問題があるなら、私たちはその問題を見定め、祈り、自分のできるベストを尽くし、神様の時を、信仰を持って「待つ」ことができます。 (1月27日)

 

 


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