18. 1月 2019 · 2019年1月13日「心の大掃除」 加山 献 牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「心の大掃除」 加山献牧師

マタイによる福音書5章9節

 

山上の説教で語られた8つの祝福の中で、イエス・キリストは「心の清い人々は幸いである、その人たちは神を見る」と語られました。正直なところ、私たちは「心の清い人々」という言葉を聞くとき、「私のことではない」としり込みしてしまう者です。私たちは皆、清さに程遠い自分の姿を知っているかもしれません。

ここで使われている「清さ」(カタロス)という言葉にはいくつかの概念があります。1つは宗教的な清さです。儀式や習慣、決まり事を誠実に守ることによって得られる「清さ」があると人々は考えていました。当時の文化では、宗教的なルールを忠実に守っている人こそが清い人であり、そのような人々が尊ばれていました。案外、私たちも宗教的な習慣を守ること自体に意義を感じているかもしれません。それらはなにも悪いことではありません。しかし、主イエスは私たちの目に見える外面的な事柄よりも、むしろ私たちの「心の奥」に何があるのかを問われるのです。

「清さ」(カタロス)という言葉にもうひとつ別の意味があります。「純粋である」ということです。水を混ぜていないぶどう酒、もみがらを完全に取り除いた穀物、最も良い小麦粉だけで作られたパンなど、混じり気のない純粋なものを表す言葉でした。イエスさまは、宗教的なルールを守って得られる外面的な「清さ」よりも、むしろ私たちの「心」の「純粋さ」を求められています。

アルヒホイツというドイツの聖書学者は「心が純粋である」という状態を、次のようにわかりやすく例えています。人間と神の関係性において「純粋である」ということは「トランプのカードを隠さないでいるような状態である」というのです。ババ抜きをやっている時の事を想像してください。もし手持ちのカードを相手に見せていたらゲームになりません。ですが、私たちと神さまの関係において、隠しておきたい事を隠したままでいるならば、心の純粋な状態ではないというのです。「神さま、これが私のジョーカーです。これが私の心の問題です」と、神にすべてを明け渡して取り除いてもらう必要がある、というのです。

主イエスが私たちの心の扉をノックして、お入りになろうとされる時「イエスさま、ちょっと待ってください、これはとてもお見せできません」という状態が私たちにはあるかもしれません。ですが、心の清い状態とは心が完全に美しく整っている状態を指すのではなく、むしろありのままの自分の心にイエスさまをお迎えする事だと思うのです。

私たちの心の、なかなか落ちなかった汚れ、傷ついたこと、悲しかったこと、悔しかったこと、間違ってしまったこと、イエス・キリストにしか落とせない心の汚れや傷があります。「これも捨てなければ、あれも捨てなければ」と思いつつ溜まってしまった、自分ではどうすることもできなかったもの。誰かをゆるせない心、自分をゆるせない心、後悔、罪悪感、思い出したくない過去の記憶・・・。主イエスは労ってくださり、私たちと共に背負ってくださいます。これが十字架の意味です。私たちの過去過ちが全部なかったことになるわけではありません。けれども、もう一人ですべてを背負っていく必要はないのです。心の清い人とは完全な人のことではありません。純粋に、単純に救い主を心にお迎えする人なのです。

「神を見る」ということについても考えてみたいと思います。もともと旧約聖書では「神を見る」という表現自体がとても恐れ多いことでした。ところが今や、イエス・キリストに出会うならば、誰でも神を見ることができます。正確に言うと、誰に対してでも、神はご自身を現してくださいます。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(ヨハネによる福音書1章18節)主イエスを「知る」ということによって、私たちは神に出会います。また、神が私たち一人一人をどのように想ってくださっているのかを、主イエスは明らかにしてくださいました。そして、イエス・キリストを通して、私たちは神との親密な愛の関係を体験します。主イエスは今日も、私たちの心の扉の前に立たれます。「イエスさま、私の心は狭くて、汚れているけれども、どうぞお入りください、そして私の心に留まってください」とお答えしましょう。黙示録3章20節の有名なみことばがあります。「見よ、私は戸口に立って、たたいている。」 (1月13日)

 

 

 


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