16. 8月 2018 · 2018年8月5日「空っぽの手のままで」 加山 献 牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

『空っぽの手のままで』 加山 献 牧師

マタイによる福音書5章1節~4節

 

イエス様の名声はガリラヤだけでなく、エルサレム、ヨルダン川の向こう側、まさにユダヤの全土まで響き渡っていました。イエスの姿を一目見たいと、またその教えを聞いてみたいと、大勢の人々が集まってきていました。その人々はローマの植民地支配に悩み、重税の取り立てに苦しんでいる民衆でした。イエス様はそのような群衆のひとりひとりに対して語りはじめられたのです。「心の貧しい人々は、幸いである。」(3節)この時、イエス様の周りに集まってきた人々は内面的にも、物質的な面においても、全てを神様に期待する他ありませんでした。しかし、この状況こそが第一の祝福だったのです。シュラッターという聖書学者はイエス様の弟子達について次のように説明しています。「彼らは子どもの時から困窮して苦労してきた。彼らは自分たちが貧しいということ以外は何も知らずに育ってきた。けれども、彼らはこの貧しさの中でこそ、主イエスに出会うことができたのである。」

「天の国はその人たちのものである。」(3節)イエス様の訪れによって天の国はもうすでに現実となったというのです。私たちもこの地上に在りながら、天の国を体験しつつ生きていくものでありたいです。さらに言えば、この地上に天の国を拡大していく存在でありたいです。「御国をこの地に来たらせたまえ」と私たちが祈るのは、そのためです。天の国とは神様の支配を表しています。神の支配、神の義、神の愛、神の光、慰め、憐れみ、満たし、喜び、平安の中に、私たちは生きていくことが赦されているのです。

「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる。」(4節)悲しむとは「ペンセイン」という言葉で、死者を弔う嘆き悲しみを表しています。一方「慰められる」という言葉は未来形で「慰められるであろう」と書かれています。これは復活の希望に関係しています。3節後半における「天の国」は今すでに与えられている、という現在形であるのに対して、「慰め」は私たちの未来にあるというのです。慰めは常に私たちの前に、私たちの将来に備えられています。今は辛く、悲しみの中にあったとしても、ここが終わりではありません。悲しみが私たちの運命ではありません。私たちの人生のゴールは慰めです。私たちの「空っぽの手」を満たしてくださるイエス・キリストに今日も期待し、祈りましょう。


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