10. 7月 2018 · 2018年6月17日「備えあれば憂いなし」 加山 献 牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

『備えあれば憂いなし』 加山 献 牧師

創世記22章1節~19節

 

創世記22章において、アブラハムは大きな試練を経験しました。なぜ神はこのような恐ろしい試練をアブラハムにお与えになったのでしょうか。ブルッグマンという聖書学者はアブラハムのこの試練について次のように説明しています。「神は、誰が信仰について真剣であるかを見極め、誰の人生の中で、神として働くことができるかを判断するために試みられる。」つまり神は、信じる者の人生の中で神として働いてくださる方だというのです。確かに、神は信じる者とタッグを組み、その人生のうちに働いてくださる方であることをアブラハムの人生を通して知ることができます。

さらに、アブラハムは人類の歴史の中で、最も父なる神さまの悲しみと愛を知る人物となったと言えます。2節で神は次のように命じています。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて行きなさい。」愛するひとり子をささげなければならない、そして自分がそれを実行しなければならない、という父の悲しみがここにあります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)愛するひとり子を十字架に引き渡すという父なる神の悲しみを思い起こします。7節以降には、アブラハムとイサクはゆっくり、静かに、一緒に歩いて行く様子が描かれています。しかし、息子イサクがその静寂を破ります。「献げ物にする小羊はどこにいるのですか」と父アブラハムに聞くのです。アブラハムは答えます。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」アブラハムが語った通り、神はイサクの代わりにささげるための小羊を備えておられました。バプテスマのヨハネが主イエスを指して語った言葉を連想します。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」(ヨハネ1:29)

創世記22章は神について二つのことを示しています。神は試みる方であり、同時に神は備えてくださる方である、ということです。第一コリント10章13節にはこのようにあります。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」モリヤの山の小羊がイエス・キリストを指し示していたように、わたしたちにとっての逃れの道もイエス・キリストを示しています。「神は真実な方です。」カトリックのフランシスコ会は「神は信頼に値する方です」と訳しています。まさにその通りです。父なる神さまが備えてくださった小羊は、わたしたちに天国行きの切符をもたらしました。しかしそれだけではなく、わたしたちがその目的地に向かうまでの道中、時には辛く厳しいこの道のなかで、逃れの道となってくださるのです。                          (6月17日)


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