20. 6月 2018 · 2018年6月3日 「教会が教会であるために」 加山 献 牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

『教会が教会であるために』 加山 献 牧師

第一コリントの信徒への手紙12章12~27節

コリントはローマ人、ギリシャ人、ユダヤ人が共存し、裕福な人々と貧しい労働者、そして多くの奴隷が住む街でした。このコリントの街に立てられた教会は、自ずと多種多様なバックグラウンドを持った人々が集まるようになりました。そしてコリントの教会が抱えていた問題の一つに、なかなか一致できない、ということがありました。この教会の人々にパウロが書き送った手紙、第一コリント12章の中に後世の教会が大切に受け継いできたメッセージがあります。それは27節「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」という言葉です。この大切な使信を3つの要点で考えて見たいと思います。

第一に、ひとりひとりが必要とされている、ということです。居ても居なくても、どちらでもよいという人はひとりもいません。福音書の中で99匹の羊を残して、はぐれた一匹の羊を探し求める羊飼いの例えがありますが、ここでもまさに同じことが言われています。ひとりひとりが大切なのです。22節ではこのように書かれています。「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。」一般的に、弱さは歓迎されません。わたしたち自身も自分の弱さを克服して、強くありたいと願います。ですが今日の聖書の言葉は、その価値観が逆転しています。わたしたちは弱さの故に神さまを頼り、弱さの故に神さまの栄光を見ます。確かに生きていく強さも必要です。ある意味で、人生には強さを身につけなければならない局面が多いです。しかし同時に人間には限界があるということを覚えたいです。この世界には、弱いままでも、泣いたままでも受け入れてくれる場所がある。教会はまさにそのような場所です。

第二に、ひとりひとりが違った存在であるということです。教会には一致が必要ですが、一致というのは、全員が完全に同じような人になることではありません。17節には「もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。」という言葉があります。ひとりひとりが違っているからこそ、お互いに補い合えるのです。

第三に、一つの部分が苦しめば、全体が共に苦しむということです。一人の人に悲しみがあれば、私たちは共に悲しむ存在でありたいです。そして、悲しいこと、苦しいことがあれば、ぜひひとりで抱え込まないでください。それを皆に公表する必要はありませんが、信頼できる誰かに分かち合ってください。喜びに関しても同じです。一人の人に喜びがあれば、私たちはみんなでそのことを喜びたい。喜ぶものと共に喜び、泣くものと共に泣く、それが教会の交わりです。


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