21. 4月 2018 · 2018年4月15日 「神を見出す場所」 今村幸文 協力牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「神を見出す場所」 今村幸文 協力牧師

詩編42編1節~6節

私たちは人生の心地よい体験の中では自然に神の存在を感じ、見出します。しかし私たちは人生の暗黒と災いが迫ってくる時には、「神はどこにいるのか」と叫びます。しかし本当に神を見出したいならば、私たちは人生の荒れ野で神を見出さなければならなくなります。

今朝の聖書箇所は、詩編42編1~6節です。「涸れた谷に鹿が水を求めるように」アー、ハアーあえぎながら水を求めて谷に降り、川辺まで辿り着いたのにそこには水は、ない。ただ渇いた床が露出しているばかりです。水を求めた鹿の無念と失望感が伝わってきます。この詩人はふと我に返るのです。「わたしも渇いている」と。この詩人の渇きは、「命の神に」向かっての魂の渇きだというのです。詩人は、今は、捕囚の民のひとりとなって神を知らない異教の民の中で水になぞらえた神の不在を嘆いているのです。「いつ御前に出て神の御顔を仰ぐことができるのか」「昼も夜も私の糧は涙ばかり」42編の詩人は、死ぬほどの重い病の苦痛にあるのかもしれません。瀕死の状態の中で「お前の神はどこにいる」と絶え間なく愚弄する人々がいるのです。内なるもうひとりの自分も「お前がそんなに苦しんでいるのに、神は何もしてくれないのか」と問いかけて来るのです。詩人は魂が空になるほど祈りに集中して思い起こすのです。「喜び歌い、感謝をささげる声の中を祭りに集う人の群れと共に進み、神の家に入り、ひれ伏したことを」。この詩人は、かつての礼拝の交わりと讃美の懐かしさというだけでなく、神殿にいます神の臨在の霊的な躍動を思い起こして、新しい力を感じているのではないでしょうか。

キリスト信仰は、キリストと私の個人的関係を意味するだけでなく、キリストと教会という礼拝共同体の中で信仰が培われ成長させられるのです。「なぜ、うなだれるのか、わたしの魂よ、なぜ呻くのか」です。「神を待ち望め、わたしはなお告白しよう。『御顔こそ、わたしの救い』と。わたしの神よ」この詩人の問題の中心は、神との結合点、神を見出す場所です。新約聖書の福音に生きる私たちは、イエス・キリストとの結合点、イエス・キリストの体なる教会との結合点こそ神を見出す場所なのです。


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