2023年9月3日「平和の主が共にいる」加山献牧師

聖書が語る平和について、三つの聖書箇所から、三つの視点で考えていきたいと思います。

1) 平和とは“主が与えてくださるもの”である

「どうか、平和の主御自身が、いついかなる場合にも、あなたがたに平和をお与えくださるように。主があなたがた一同と共におられるように。」 (第二テサロニケ3章16節)

主イエスは十字架に向かわれる前の夜、弟子たちに向かって『私はあなたがたを一人きりにはしておかない。あなたがたに私の平和を遺していきます』と言われました。いつの時代も信じる者に注がれるイエス・キリストの平和があります。平和の主は私たちと共におられます。

2) 平和とは“祈って創り出すもの”である

「私が、あなたがたを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたがたにも平安があるのだから。」(エレミヤ書29章7節)

バビロン捕囚の時代に、神さまは預言者エレミヤを通して人々に平和のために祈るように語りかけました。それは、自分たちの国を滅ぼし、自分たちを虐げる者たちのために祈りなさい、という勧めでした。今、この世界がどのような状況にあったとしても、私たち一人一人も世界の平和を祈るために召されています。

3) 平和とは“この世界の本来の姿”である

 「獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。」(イザヤ書11章7節後半~9節前半)

 この聖書箇所は、この神さまが用意しておられる世界のゴールを描いています。預言者イザヤの時代も戦乱の時代でした。しかし彼は、やがて平和な時代が来る、というビジョンを神様からいただいたのです。この預言の言葉に象徴されているように、かつての天敵同士が共に仲良く共に生きていくことができる、という未来が聖書の示している世界の目標であり、神さまが思い描いていた本来の世界の姿です。