「私たちの罪を担って下さったキリスト」
第一・ペテロの手紙2章21~25節
今村幸文牧師
「たわむれに母を背負いて そのあまりかろきに泣きて三歩歩まず」石川啄木
私たちの生活は、そのために誰かが血を流すような苦しみをしている、そのことによって
始めて支えられているということです。それなしで成り立つほど人生は甘くありません。
だからといって誰かをほしいままに犠牲にすることは許されませんが、よく考えてみると
私たちの生活は大抵どこかで尊い犠牲によって守られています。「あなたたちは生まれた時
から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで
白髪になるまで背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、
救い出す」(イザヤ46章3,4節)。
聖書を一貫しているのは、この洞察であって、それは主イエスの十字架において頂点に達します。
苦しみが人を駄目にするか、成長させるかの違いは、苦しみの中において苦しみの意義を省察・
省みて調べることの有無によります。主イエス・キリストが苦しみを受けられたのは、わたし
たちのため」であり、キリストが模範を残されたのも「わたしたちに」対してでありました。
私たちは先ず、このキリストの苦難と忍耐のわざの対象とされることによって、このキリスト
の恩恵に対する応答として服従と忍耐をなすことを求められています。
キリストの受難の光のもとで、人間の受難が意味付けられ支えられるのです。
私たちがキリストの苦難に与るとも言えるし、また私たちの苦難をキリストが担いたもうたとも
言えるのです。 24節、25節では、キリストの受難が、私たちの贖罪(罪が赦され神との正しい
関係に入るため)の受難であり、その受難によって私たちが救済されること、罪からの救いが
説かれています。この個所の背後にイザヤ書53章があります。24節の前半「十字架にかかって、
自らその身に私たちの罪を担ってくださいました。私たちが罪に対して死んで、義(救い)によって
生きるようになるためです。」は、イザヤ53章12節にこうあります。「彼が自らをなげうち、
死んで罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをした
のは、この人であった。」十字架を担って苦しむ神こそ、私たちを助けることのできる神なのです。