09. 3月 2018 · 2018年2月11日「嵐の中であっても」川久保拓也神学生 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「嵐の中であっても」

マルコによる福音書 4章35-41節   川久保拓也神学生

今日の聖書箇所は、マタイとルカ両福音書にも平行記事がありますが、私はマルコによる福音書が最もよくこの場面の弟子たちの心情を描写していると思います。参考までに並行記事を少し見てみたいと思います。まずマタイ8:25「弟子たちは近寄って起こし、『主よ、助けてください。溺れそうです』と言った」、次にルカ8:24「弟子たちは近寄ってイエスを起こし『先生、先生、溺れそうです』と言った」、そしてマルコ4:38「弟子たちはイエスを起こして、『先生、私たちが溺れても構わないのですか』と言った」。みなさんそれぞれの記事にどのような印象を持たれたでしょうか?マタイとルカはイエス様に対して純粋に助けを求めています。今にも船が転覆して溺れて死にそうだから助けてください!と訴えています。しかも、「近寄ってイエスを起こし」とあります。ここから必死にイエス様にすがりつきなんとか助けてもらおうという弟子たちの心情が伺えます。対してマルコ福音書の印象はどうでしょうか?まず、マルコでは「近寄って」という言葉がありません。遠くからイエス様を大声で起こしたのかもしれません。マタイルカとは対照的です。なんとか助けてもらおう、頼れるのはこの方しかいないといった必死さが感じられません。そして続く言葉が、マタイルカとマルコの決定的な印象の違いを表していると思います。「先生、私たちが溺れても構わないのですか」純粋に助けを求めるわけではなく、むしろ自分たちの危機的状況に対してただ眠っているだけのイエスを責めるような言葉のように感じます。私はこのマルコ福音書の弟子たちの言葉こそ、困難にあったときの私自身の言葉であると思わされるのです。弟子たちと同じように、イエス様を信頼しきれない自分自身。神の助けを祈るのではなく、困難への神の不介入に「なぜですか」と問うてしまう自分。マルコによる福音書は、こうした人間の弱さを隠すことなく描写しているという点で、飾らない人間の姿を描き出している書物であると感じます。

私たちは人生において、多くの嵐に遭遇します。そしてその只中にいる時、私たちは弟子たちのように「私たちが溺れても構わないのですか」と神に対して問いを投げていく時があるかもしれません。ですが、今日のみ言葉に示されたイエスの姿を見る時に、真に信頼すべきはこの方だと確信できるのです。それは「眠るイエス」と「見守るイエス」という二面性によって示されているのではないでしょうか?イエス様は肉体的な疲れを覚えて眠っておられました。それは、イエス様が確かに人であることの証明です。イエス様は人のあらゆる痛みと苦しみを理解されている方だということです。そして、私たちの痛みや苦しみを理解してくださる神こそが、私たちを守り救ってくださる神だということです。私たち人間の痛みや苦しみを理解してくださる神、私たちを守り救う神、これらを兼ね備えた神こそが、真に信頼に足る神なのです。嵐の中であっても常にこの方を見つめて進んで行こうではありませんか!


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