04. 11月 2017 · 2017年10月29日「信仰によって与えられる神の義」今村幸文牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

先週の宣教要旨

「信仰によって与えられる神の義」

ローマの信徒への手紙 3章21~26節

ルターが悔い改めのない免罪符販売に対する95カ条の質問を公にしたのが宗教改革の

口火になりました。1517年10月31日でした。今年はそれから500周年となったのです。

ルターは、神は罪ある人間をその義をもって審き、苦しめ脅かしている。そのような神を

さえ信じねばならないのか。このような苦悩の中でルターは聖書と取り組み始めました。

1513年から詩編、ローマ書、ガラテヤ書と講義を続ける間に、ルターは全く新しい光で

聖書を読むに至ったのです。ある時、ローマ1章17節の「神の義はその福音の中に啓示され

信仰に始まり信仰に至らせる。これは信仰による義人は生きると書いてある通りである」と

いう聖句に接して突然霊感に打たれ、当時のカトリックの教えのような、神の義は人を審く

義ではなく、信仰によって義としたもうところのその神の義であることを悟ったのです。

ルターはこの神の義は私たちが獲得する義ではなく、私たちが、ただ受け身で受けることが

できる義として恵みの神がお与えになったものだということに気がついたのです。

その時、ルターは「天国の門が突如として開かれたようにさえ感じた」と述べています。

ローマ3章の21節は1章17節の反復です。「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と

預言者によって立証されて、神の義が示されました。」

この神の義、神の義しさに生き抜くことが、どんなに大切な、どんなにすばらしいことであ

るか。「神の義」という言葉よりも「神の愛」「神の救い」という言葉の方が分かりやすいと

も言えます。けれどもパウロは、それではどうしても伝わらないことがあると考えていました。

神の義、神の義しさが貫かれてこそ初めて人間の救いが成り立つのです。神の義として現れて

こそ、神の愛は、まことの愛として貫徹されるのです。神の義としか呼べないものが、そこに

あるのです。しかもそれが愛そのものであり、救いとなり、私たちと正しい関わりを持ち続けて

くださる神のわざを語る言葉となるのです。

神が神でいてくださることは、素晴らしいこと、それは主イエス・キリストの十字架の救いの

わざに現れた神のわざであると知ること、それこそ神の義の神髄を知るということです。

まさに「十字架の下ぞ、いと安けき、神の義と愛の会えるところ」です。

2017年10月29日 今村幸文


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