2021年7月11日「喜びの季節がやってきた」加山献牧師

「喜びの季節がやってきた」加山献牧師

マタイによる福音書9章14節~17節

 そのころ、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、「わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と言った。イエスは言われた。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる。」 (マタイによる福音書9章14節~15節)

主イエスはここで、ご自身を花婿に例えられました。世界のどの文化でもそうであるように、ユダヤの文化でも、結婚は特別な祝いの時でした。ユダヤでは一週間、結婚の宴が続きました。親戚、親しい友人、近所の人たちが祝いに訪れて楽しい時を過ごしたのです。日頃から貧しい暮らしをしている人々であっても、婚礼の宴の時ばかりは、人生の喜び、楽しさ、豊かさを思う存分味わうことができました。この婚礼のたとえを通して、三つのことが語られています。

(1)イエスと共にあることは喜びである

主イエスと共に生きる人生は、思わず踊り出してしまうような喜びがあります。主が地上に来られたのは父なる神の愛を示すためであり、自由で、豊かで、しなやかな神の国をこの地に実現するためでした。主イエスはその神の国の喜びを出会う人々と分かち合われました。

(2)それでも悲しみの時はやってくる

 「花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる。」 そのように主は語られました。花婿が奪い取られる時、それは十字架の時です。宣教活動の初めの時から、主イエスは十字架を見つめて続けておられました。主が十字架にかけられた時、弟子たちはたじろぎ、恐れました。自分たちの不甲斐なさに、自分たちの罪の深さに、弟子たちは絶望しました。まさに十字架の時は悲しみの時でした。

私たちの信仰にも、十字架の時がやってきます。これは避けられない事実です。イエスさまに従っていく道は、十字架の道です。私たちもたびたび、自分の不甲斐なさ、自分の罪の深さを示され、悔い改めの祈りに導かれる時があります。それが十字架の時です。

(3)悲しみは喜びに変えられる

しかし、三番目にお伝えしたいことは、悲しみは喜びに変えられる、ということです。悲しみそのものであった十字架は、私たちの人生に永遠の喜びをもたらすものになりました。罪の裁きの象徴であったものが、赦しの象徴に変えられたのです。そして三日目の朝、主イエスは死の力を打ち砕き、復活されました。悲しみは喜びに変えられます。それが私たちの希望であり、私たちの運命です。運命とは教会であまり用いられない言葉ですが、あえて申し上げたいと思います。喜びは私たちの運命です。私たちの人生が今、どのようなところを通っていたとしても、私たちの人生の終着点は主が備えてくださる、人智を超えた喜びの世界なのです。

 

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