2021年6月27日「弟子たちの足を洗われるイエス」今村まさゑ協力牧師

「弟子たちの足を洗われるイエス」今村まさゑ協力牧師

ヨハネによる福音書13章1節~17節

今朝の出来事は「最後の晩餐」の時の行為で、ヨハネ福音書だけに記されております。1節の冒頭に「過越祭のまえのこと」とありますが、「世の罪を取り除く神の小羊」(1:29)として、まさに「この世から父もとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいるご自分の者たちを愛して、愛し抜かれた。」 愛し抜くとは、極みまで愛を完成する、十字架上の最後に「成し遂げられた」(19:30)と言われた言葉と同じ意味なのです。

地上での最後の「食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとい、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、手ぬぐいで拭かれた。」ところが、ペテロの番になった時、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか。わたしの足など、決して洗わないでください」。当時の習慣では、足を洗う仕事は奴隷のすることでした。こともあろうに、師が弟子たちの足を洗うなど前代未聞のことでした。

イエスは答えて「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で分かるようになる。」神の御子が奴隷として仕えられる。ペテロには理解できないことでした。

「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神はご自分を愛する者たちに準備された。」(Ⅰコリント2:9) のです。

「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何の関係もないことになる」とのイエスの言葉に、それならば手も頭も・・・と願うペテロでした。

ユダもペテロも、他の弟子全てが、主を見捨てて逃げ出すことを知りながら、足を洗ってくださったのです。ペテロの歩みは戸惑いと勇み足の連続でした。しかし、その都度、イエスに赦され、おおわれ担われてきたのです。その度に、少しずつ目が開かれたのです。それは、現代の私たちとて同様です。

「既に体を洗った者は、足だけ洗えばよい。」体に洗いとは、バプテスマ(洗礼)のことです。罪の赦しと申請を表す、一度限りの恵みに溢れるバプテスマですが、キリスト者となっても罪を犯してしまう者ゆえに、日々、悔い改めが必要なのです。

最後の晩餐を記念として、キリスト教会は、2000年間、礼典として{主の晩餐式}を行い続けているのです。足洗の後に、ユダが出て行くと、イエスは弟子たちに言われました。

「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いにあいしあうならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ福音書13:34~35)

 

 

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