2021年3月28日「苦難の僕、イエス・キリスト」今村まさゑ協力牧師

「苦難の僕、イエス・キリスト」今村まさゑ協力牧師

イザヤ書53章1節~12節

イザヤ書1章1節に「アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて見た幻。これはユダの王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの治世のことである。」 つまりイエス・キリストのことが、700年前に預言されたのです。

ある神学者は、「53章は第五の福音書」。また「もはや預言ではなく福音である」。また、М・ルーサー牧師は、「暗記すべき章」と言っている。

イザヤは、「わたしの聞いたことを、誰が信じられようか。」と述べているが、イエスの時代の人々も、現代の人々も、何も変わっていないのが現実です。

しもべ、若枝の生い立ちは、荒廃、苦難のなか「見るべき面影も、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。」とあります。しかし、内側には神の栄光の輝きがありました。(イザヤ11:1)近づいて来られるイエスを見て、バプテスマのヨハネは『見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ』(ヨハネ1:29)と叫んでいる。

「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し無視していた。」

人々が待望していたメシア像は、政治的、軍事的にイスラエルを復興してくれる人だった。だが、「彼が担ったのはわたしたちの病、わたしたちの痛みであったのに。わたしたちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。」

「彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。」まさに十字架の苦しみのことです。(マタイ26章、27章)

十字架の贖いこそ、誰も、考えもしなかった神の姿、神の愛、神の知恵、神の憐れみであったのです。「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵により無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。」(ローマ3:24~25)

「わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方向に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて 主は彼に負わせられた。」

「苦役を課せられて、かがみ込み 彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、彼は口を開かなかった。」(エレミヤ11:19)(マタイ27:14) 沈黙されたイエスさまの姿の中に、饒舌な愚かさを痛感し、沈黙をまなびたいものです。

「わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり 命ある者の地から断たれたことを。」 心に深くとどめ、思い巡らせ、感謝の日々を、共に生かせて頂きましょう。

 

 

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