2021年3月7日「嵐のただ中で眠る」加山献牧師

「嵐のただ中で眠る」加山献牧師

マタイによる福音書8章23節~27節

「イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った。」(23節)

弟子たちが遭遇した嵐は、イエス・キリストに従ってきたからこそ、出会うことができた嵐でした。私たちにも主に従うが故の試練を経験することがあるかもしれません。そのような人生の嵐を通り越した先に、また試練それ自身に、主は明確な目的を持っておられます。

「そのとき、湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになった。」(24節前半)

マタイがここで使っている「激しい嵐」と訳されている言葉は、もともと「サイスモス」 (揺り動かす)という言葉です。マルコとルカの福音書にも、同じエピソードが記録されていますが、マタイだけがこの「揺り動かしが起きた」という表現を使っています。この嵐は、私たちの信仰を目覚めさせ、私たちの信仰を鍛え、私たちの信仰をさらに強く成長させるための、神様の「揺り動かし」だったのだ、という気づきがマタイにあったことを示しています。

「イエスは眠っておられた。」(24節後半)

きっと主イエスはお疲れになっていたのだろう、とよく言われます。教えを語られ、多くの人を癒やし、街から街へ、村から村へ旅を続けられていました。人として生きられたイエス様も私たちと同じように疲れを覚えられたのです。しかし、もう一つ語られることは、この嵐のただ中でも、主は父なる神に信頼しきっておられたのだ、ということです。まさに私たちの模範とすべき、目指すべき平安がここにある、というのです。

信仰者は何があっても決して恐れてはならない、怖がってはならない、という意味ではありません。どんなに信仰が強くても、怖いものは怖いものであり続けると思います。しかし、信仰者であるならば、どのような時にも、すべては父なる神の御手の中にあり、主イエスはいつもそばにいてくださる、という事実を信じることが許されています。

もう自分の手に負えないような試練の只中にいる時、自分の力でじたばたしてもどうにもならない時は、委ねることが最善の選択であるということがしばしばあります。あきらめても良いし、手放しても良いのです。だから、思いわずらいを捨てて、疲れているなら、もうこれ以上頑張れないなら、この嵐の中で一緒に眠ろう、あなたは休んで良いのだ、と主イエスはご自身の平安の中に私たちを招いておられます。

 

 

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