2021年1月3日「御心ならば」加山献牧師

「御心ならば」加山献牧師

マタイによる福音書8章1節~4節

すると、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち、重い皮膚病は清くなった。 (マタイ福音書8:2~3)

聖書の時代、このツァラアトと呼ばれている皮膚病は、当時の医療ではなす術がなく、最も恐れられている病気の一つでした。患者は肉体的に非常に気の毒な状態ありましたが、その苦痛を一層耐え難くしていたことがありました。それは、当時の病人は完全に人間の社会から追放されていた、ということです。

彼らは当時のパレスチナでは城壁のある町に入ることはできませんでした。同じ病にかかった人たちと生活する小さな村が点在していて、そこに隔離された状態で生活しました。絶対に街の人には会わないようにしなければならず、健康な人の方から病気の人に挨拶することも禁じられていました。皮膚病の人からは常に4キュピト以上離れていなければならないというルールもありました。(4キュピトは約180センチ)

この患者には一つの確信がありました。自分が人と会うならば、必ず避けられる。下手をすると石を投げられることもあった。けれども、この人だけは私を遠ざけない、この人だけは自分を迎えてくれる、ここに彼の信仰がありました。だからこそ彼は“イエスに近寄り、ひれ伏し”ました。(2節)

主イエスには深い憐れみがありました。それは掟破りの愛と呼べるものでした。福音書の強調点は、イエスは「手を差し伸べて」この人に触れた、ということです。主イエスは2メートル以上近づいてはいけない、挨拶をしてもいけない、と定められていたこの人に手を伸ばし、触れられました。

暖かい人の手の温もり、もう何年も感じたことのなかった人の手の感触をこの人は体験したのです。肉体だけではなく、この人の心もたちまち癒やされたことでしょう。この人の孤独が破られた瞬間でした。

新改訳の聖書では「わたしの心だ、清くなれ」(3節)という訳をとっています。主イエスの御心は私たちの心を癒し、私たちの孤独を破ることです。そして、主イエスの癒しは差別と断絶に満ちた世界に変革をもたらすのです。

 

 

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