2020年9月27日「帰ろう!父さんの家」今村まさゑ協力牧師

「帰ろう!父さんの家」今村まさゑ協力牧師

ルカによる福音書15章11節~32節

ルカ福音書15章は、イエスさまが3つの譬えを語られていますが、主題は「無くしたものを捜し求める持ち主」の話です。「100匹の羊」「銀貨10枚」そして、「放蕩息子」です。

ある日、弟息子は元気な父親に遺産を要求しました。父親は二人に財産を分け与えました。幾日も経たぬうちに弟息子はすべてを金に換えて、遠い国に旅立ち、放蕩の限りを尽くして財産を使い果たしてしまいました。あいにくひどい飢饉がおこり食べるにも困り始めました。ようやく得た仕事は豚の世話でした。イスラエル人にとって豚は汚れた動物で、最低の仕事でしたが、その豚が食べるいなご豆で腹を満たしたかったが、誰もくれる人がいなかった。

父のもとを遠く離れて自由を満喫したかった弟息子は、しみじみ孤独を体験しました。そこで彼は我に返ったのです。『父のところでは、あんなに大勢の雇人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、私は天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇人の一人にしてください」と。そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き接吻した。さらに、父親は一番良い服と指輪と履物を、僕たちにもってこさせ、肥えた子牛を屠って「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」と祝宴を始めたのです。服・指輪・履物は、主人の息子であることの証でした。上等の服は義を表します。アダムとエバが裸であることを知り、いちじくの葉をつづり合わせて腰を覆った時、神は皮の衣を作って着せられた。(創3:7,21)ことを想起します。

ところで、孝行息子と見られていた兄が、弟の帰りを喜ぶ父に腹を立て、怒って家に入ろうとはせず父親が出て来てなだめました。兄は『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。これは「奴隷として仕えた」という言葉です。言いつけに背いたことは一度もありません。・・・それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかった。ところが、あなたのあの息子が、あなたの身代を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ祝うのは当たり前ではないか。』この父親こそがキリストの神であります。

事実、神は一人一人を創造し、命を与え、自由意志を与え、見守り続けておられるのです。神は、私たちがどれほど落ちぶれても、罪人であっても、見放したり、見捨てたり、忘れることなく、無条件で受け入れてくださると聖書は語っています。

私たちは、自分が神に愛されている者、失われてはならない価値ある存在であることを知って、生きる意味と勇気を与えられるのです。ハレルヤ!

 

礼拝動画↓

 

 

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