2020年8月23日「いったい神はどこにおられるのか」 加山献牧師

【忘れられない場所】

出エジプト記に出てくる地名は、イスラエルの人々にとって特別な場所でした。そこには忘れられない経験、大切な教訓、あるいは記念すべき出来事がありました。レフィディムは、イスラエルの民にとってそのような場所だったのです。

「あの日、あの時、あのような体験をしたから、今の自分がある。」、「大変な苦労、困難だったけれども、振り返ってみると、あの体験こそが今の自分を祝福している。」 そのような人生のターニングポイントを、きっと誰もが持っていると思います。

 

【いったい神はどこにおられるのか?】

出エジプト記17章7節において、普遍的な人類への問いが投げかけられています。イスラエルの民は“「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言って、モーセと争い、主を試した”というのです。

イスラエルの民にとって、レフィディムは神の奇跡を体験する場所となりましたが、苦しみのさなかにあっては、とてもそうは思えませんでした。しかし、試練の時、神がどこにおられるかわからないという時こそが、神を体験する機会となり得るのです。

 

【しかし、神はおられる】

神はおられます。わたしたちがどう感じていようとも、神は現実のお方なのです。神が存在していることは、わたしたちの感情で測り知れないほど深遠な事実です。そして「あなたと共にいる」と約束してくださったお方は、その約束を決してお忘れになることはありません。

 

【神はおられる、十字架におられる】

渇いた民のために、打たれた岩から水が流れ出たように、主イエスも打たれて、その裂かれた脇から、世の罪と私たちの心の渇きを癒すために、血と水が流れ出ました。私たちはその打傷によって癒されたのです。

イエスの十字架はわたしたちの救いのためでしたが、それと同時に、十字架は神がわたしたちとご一緒にいてくださる証なのです。栄えを捨て、人となり、十字架の死に至るまで忠実であられた神は、わたしたちの苦しみの最も深いところにさえ共にいてくださるのです。                                             (8月23日)

 

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