2020年8月16日「平和のために」今村まさゑ協力牧師

「平和のために」今村まさゑ協力牧師

マタイによる福音書10章34節~39節

今朝は平和を覚える礼拝です。「八月や 六日、九日、十五日」という句があります。(作者不詳)8月をよく表し、6日は広島の原爆記念日、9日は長崎の原爆記念日、そして、15日の終戦記念日を偲んでいる句です。私達も真に平和を願い二度と戦争はしないと決意して生きたいと思います。

私は6歳の時が終戦の年でした。幼い経験でしたが戦争がもたらしたものは、悲惨、永遠の別れ、取り返せぬ苦しみ・・であって、何一つよいものはありませんでした。戦争程、愚かな行為はありません。絶対に二度と、繰り返してはならないと確信しています。

さて、今朝のマタイ10章は、イエスさまが12人を弟子として選び、彼らを派遣するにあたり、いろいろと励まし、忠告し、覚悟を求め、指図を与え教えておられる箇所であります。

本日は34節からですが、イエスさまは「平和の君」と呼ばれ、そのご生涯を通して誰しもが愛と平和のお方と信じております。ご自身、山上の説教で「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」と語られ、平和を作り出し、実現することを奨めておられます。そのお方がなぜ、「平和ではなく剣を投げ込むために来たのだ。」と言われるのでしょう。

思ってはならないとは・・慣習に従って考えるな・・の意です。当時の人々の平和とは、ローマ帝国の圧政を打ち倒し、神の支配を実現して平安をもたらす政治的なメシアを待望しておりました。家族は家長が第一で、男性優位、年功序列、女こどもは数に入らない。(例:パンの給食のときも、男5,000人・・)(出エジプトの時も、イスラエルの民は壮年男子60万人・・と。)

しかし、主イエスさまがもたらされた平和は、神と人との間の平和です。(ローマ5:1) 「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。」(ヨハネ14:27)「実に、キリストはわたしたちの平和であります」(エフェソ2:14)の通りです。

35「わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に。嫁をしゅうとめに。」人、娘、嫁・・・ いずれも、当時は弱き立場で、異を唱えることはできなかったのです。そのような、服従のなかの平和ではなく、キリストが仲立ちとなられる神との平和の実現のため、家族の者が敵となる、そのために一石を投じられたのです。(他の箇所では「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ」(マタ5:44)と言っておられます)

37節からは「わたしにふさわしくない。」が三回、繰り返されています。釣り合わないということです。

39「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」 この言葉は、キリスト教信仰の奥義を明らかにしています。

榎本保朗師は「もしあなたが、神であるわたしを第一とするなら、あなたの父も、あなたの母も息子も娘も、わたしが守ることを信じなさい。」ということであると記しておられます。イエスさまを第一に愛し従うことが重要です。私達の主イエス・キリストは私達の弱さも、すべてご存知で助け導いてくださるのです。

礼拝メッセージ音声↓(こちらのほうが音がクリアーです)

礼拝動画↓

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