2020年7月26日「朝に主の栄光を見る」加山献牧師

(1)エリムからの出発(1節)

「イスラエルの人々の共同体全体はエリムを出発し、エリムとシナイとの間にあるシンの荒れ野に向かった。それはエジプトの国を出た年の第二の月の十五日であった。」

エジプトから約束の地カナンを目指して旅を続けるモーセとイスラエル民が立ち寄ったエリムは、ありがたいオアシスでした。そこには十二の泉と70本のなつめやしが茂る完全なオアシスでした。しかし、十分な休息を取った後、出発の時がきて、民は荒れ野に入っていきました。エリムは素晴らしいところでしたが、オアシスでは体験できない恵みがあるからこそ、神さまは民を導いていきました。この後、イスラエルの人々は砂漠の中でなければ手にすることができない、神さまの力、神さまの憐れみを、体験することになります。

 

(2)民の不満(2節~3節)

民に問題が起きました。「荒れ野に入ると、イスラエルの人々の共同体全体はモーセとアロンに向かって不平を述べ立てた。イスラエルの人々は彼らに言った。『我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。』」

エジプトを旅立ってからすでに1ヶ月が過ぎてきました。パンが底をつき、エリムから持ってきたなつめやしもなくなると、人々はモーセとアロンに不満をぶつけました。ここに、人間の変わりやすい姿が描かれています。あれほど神さまへの感謝と賛美にあふれていた人々が、ひとたび苦しみが起こると、手のひらを返したように振る舞ったのです。

 

(3)天からのパン『マナ』(4節〜5節)

しかし、神さまは人々の苦しみに対して、すぐに答えをくださいました。それは日毎の糧として、天からのパンを降らせてくださることでした。イスラエルの人々はこの天からのパンを「マナ」と名付けました。(31節)

 

(4)夕暮れに主を知り、朝に主の栄光を見る(6節〜7節)

ヘブライ語で荒れ野のことを「ミドゥバール」と言います。それは「言葉」を意味する単語「ダーバール」から派生した言葉です。ユダヤの人々は昔から、荒れ野こそが、神さまの口から出るひとつひとつの言葉を聞き取る特別な場所である、と考えていました。「荒野」は神さまの臨在される場所であり、神の民が訓練を受ける場であり、新たな神さまの導きが示される場でした。

私たちの人生においても、荒れ野を通る時があります。荒れ野を旅する中で、何度も「夜」を体験します。私たちの荒れ野にも「夜」があるのです。ですが、その時は思い起こしたいと思います。必ず暗い夜の闇は破られて、私たちは必ず朝に主の栄光を見ます。

主の栄光とは何でしょうか。それは「神さまの本質」を表す言葉です。朝になって、天からのパンをいただく時に、その事の中に、神さまの本質を見るだろう、ということです。神さまの本質とは、つまり、「愛」と「憐れみ」です。神さまの本質である「愛」こそが、私たちのつぶやきと不満に対する答えです。神さまの愛と憐れみの現れであるイエス・キリストこそが、私たちの満たされない思いに対する、答えであられるのです。                   (7月26日)

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