2020年5月3日「いつも喜んでいなさい」加山献牧師

「いつも喜んでいなさい」加山献牧師

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(テサロニケの信徒への手紙第一 5章16節~18節、新共同訳)

正直なところ、私たちにとって「常に喜んでいる」ということは極めて困難なことに思えます。私たちの日々の歩みには喜びの時もあれば、当然ながら悲しみの時もあるのです。この手紙を書いたパウロ自身も、様々な苦労を経験している伝道者でした。彼は別の手紙の中で、「投獄され、鞭打たれ、病に苦しみ、幾度となく眠れない夜を過ごした」経験を綴っています(第二コリント11章)。しかし、そのパウロが「いつも喜んでいなさい」とテサロニケの人々を励ましているのです。どのようにすれば、そのような生き方ができるのでしょうか。

何かを成し遂げた時、成功した時、健康である時、私たちの心には自然と喜びがやって来ます。しかし、ひとたび道が閉ざされ、失敗し、間違った選択をし、物事がうまくいかず、必要が満たされないならば、私たちの心の中に、失望と落胆が否応なく顔を出してくるのです。私たちの喜びは健康、財産、安定している人間関係など、身の回りの状況と固く結びついています。そのような状況に基づいた喜びは、状況とともに変化していき、消えていく事があるのです。

しかし、絶対にかわらない喜び、何ものも揺るがすことのできない喜びを聖書は指し示しています。それはイエス・キリストという救い主の存在に基づく喜びであり、十字架によって示された愛に基づく喜びです。これは私たちが自らの力で獲得する喜びではなく、与えられる喜び、受け取っていく喜びなのです。この喜びを受け取り続けることこそが、「イエス・キリストにおいて」神が私たちに望んでおられる生き方です。

つまり、いつも喜んでいるために、いつも十字架の前に立つ必要があるのです。キリストの十字架を通して、私の存在をこよなく喜んでくださっている神と出会うことができます。その場所でこそ、神の喜びのために存在している「私」を再発見することができるのです。

「あなたの神である主はあなたのただ中におられ、救いをもたらす勇者である。主は、喜びをもってあなたを祝い、愛をもってあなたを新たにし、喜びの歌をもってあなたに歓喜の声を上げる。」(ゼファニア書3章17節、聖書協会共同訳)

 

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