2019年9月1日「帰ろう、ふるさとへ」加山献牧師

「帰ろう。ふるさとへ」加山献牧師

第一ペトロの手紙2章22節~25節

 

聖書の至る所に、人間は羊飼いのもとを離れた迷子の羊のようであると表現されています。ペトロは教会の人々にあてた手紙の中で「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。」と記しています(25節)。迷子の羊のようであったとは、そして魂の牧者のもとに帰ってきたとは、一体どういう意味なのか、これらのことについて考えてみたいと思います。

 

① 自分がどこにいるのかわからなくなっている

第一に、迷子であるとは、往々にして、自分が今どこにいるのかわからなくなっている、ということです。羊は一旦羊飼いとはぐれると自分が一体どこから来て、どこに向かっているのか完全にわからなくなってしまうそうです。同じように人間も、自分はどこから来て、どこに向かっていくのか、自分はなぜ生まれ、なぜ今日の日を生きているのか、存在の根源的目的を見失っている者であるといえます。

しかし、神が造られた世界に、神によって造られた私たちが生かされているのは偶然ではありません。人間には一人一人、神による尊い目的があり、私たちが今いる場所は神がある目的のために導いてくださっている場所である、ということです。そして私たち人類の究極的な存在目的は、いつの日か父なる神のもとに帰ることなのです。

 

② 戻るべき場所がある

聖書は、神が人となってこの世界に来てくださった、と告げています。それは人がもはや自分の力で神のもとに帰れなくなったからです。私たちがまことの神のもとに戻るためには神の方から人間の所に来てくださり連れ戻してくださる必要があったのです。

神という存在から目を背けて、離れ去っていることを聖書は罪と呼んでいます。キリストの死は、私たちの罪の問題を解決するための、私たちのための死だったのです。「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず」(23節)、キリストが忠実に痛みを耐え抜かれたのは、私たちを愛し、私たちをどうしても取り戻したいと願ってくださったからなのです。十字架は罪の赦しのしるしです。私たちの魂の故郷である、父なる神のもとへ、赦されているものとして、愛されているものとして、帰っていきましょう。

 

 

 

 

 

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