21. 12月 2018 · 2018年11月25日「わたしはあなたを見捨てない」加山献牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「わたしはあなたを見捨てない」 加山献牧師

創世記27章41~45節、28章10~16節

 

ヤコブは実の兄から命を狙われるほど危険な状態に陥り、叔父の住むハランを目指し、荒れ野を旅しはじめました。私たちはヤコブの家族を見る時に、神が特別な目的のために選ばれたはずの家族が、バラバラになっている現実を見ます。

聖書の中に登場する人々は皆、決して完全無欠ではありませんでした。誰もが私たちと同じように失敗し、私たちと同じように悩み苦しむ人間でした。ですから、神が聖書の中でどのように人々を励まされたのかを知ることは、今日、神が私たちをどのようにして励ましてくださるのかを知ることにつながります。この聖書箇所では、神は如何にヤコブに出会い、励ましを与えてくださったのでしょうか。

ヤコブが神と出会った場所は荒れ野の中でした。日の暮れた、辺りには何もない、真っ暗な荒れ野の中で、まったくの孤独を感じるような場所で神はヤコブに現れてくださいました。

私たちも人生の荒れ野を通ることがあり、静かな孤独を感じる時があります。しかし、荒れ野の中でこそ、神が語りかけてくださいます。私たちの人生のどんなに厳しい荒れ野も、孤独も、神は祝福の場所に変えてくださるのです。

この夜、神ご自身がヤコブの夢の中に立ち、声をかけてくださいました。「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」(15節)家族の関係が捻じれ、実の兄に命を狙われ、父を騙すようなことをして家を出てきてしまったヤコブは「もう故郷には帰れないかもしれない」と感じていたことでしょう。しかし、彼は「わたしはあなたと共にいる」「あなたをこの土地に必ず連れ帰る」「わたしはあなたを見捨てない」と約束してくださる方に出会えました。

そして、ヤコブは眠りから覚めて言いました、「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」 今まで父イサクから唯一の神とその祝福の約束について聞かされてきたかもしれません。頭では、知識では、なんとなく神がおられることを知っていたかもしれません。けれどもヤコブはこの時初めて、いつも共に歩んでくださっていた、そして今も共に歩み続けてくださっている神を「体験」しました。

私たちの信仰は、頭で理解する事柄だけでなく、神と出会うという「信仰的体験」を要求します。それぞれがどのような信仰理解を持つかはとても重要です。しかし、「わたしは神に愛されている」「神はわたしと共におられる」「神はわたしを見捨ててはおられない」という「信仰的体験」も人生を生きる上で重要です。

信仰がよりリアルに研ぎ澄まされる、そのような体験ができる場所は一体どこなのでしょうか。人生の荒れ野の中でも、孤独の中でも、神は私たちに出会ってくださるというのです。だから私たちは人生のどのような道も恐れずに歩んでいきたいと思います。

(11月25日)

21. 12月 2018 · 2018年11月18日「わたしは復活であり、命である」今村幸文協力牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「わたしは復活であり、命である」今村幸文協力牧師

ヨハネによる福音書11章25節~27節

 

今日のみ言葉は、ヨハネ福音書11章25~27節です。先ず11章では、マリアとその姉妹マルタの兄弟ラザロの病と死が語られています。病と死は私たちの現実です。今朝私たちは先に天に召された兄弟姉妹方を偲び、肉体的な死で終わらない命の主に礼拝を献げるために御前に集まって参りました。

教会の宣教の言葉が、ある人に届く時、その時その場で主イエス・キリストとその人との出会いが起こります。主イエス・キリストの言われる命とは、原語でゾエーとなっていて肉体的な死でさえも奪いとることのできない命であることを意味しています。

主イエス・キリストは、今日のみ言葉で「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」と言われました。主イエスが墓の中にいるラザロに向かって「ラザロ、出てきなさい」と大声で叫ばれると死んでいた人が手と足を布で巻かれまま出て来たのです。このことは、父なる神が主イエス・キリストをお遣わしになったことを周りにいる群衆に信じさせるためであったのです。よみがえったとはいえ、ラザロの命は、やがてまた死ぬ地上の命に過ぎません。主イエスによるラザロの復活は「死んでも生きる」命の「しるし」です。

「復活であり、命である」主イエス・キリストを信じることによって私たちは、死が持つ絶望と虚無の力に勝利するのです。わたしたちの悲しみに同情してくださる十字架の主イエス、死と戦い、勝利された復活の主イエスを信じることが「死んでも生きる」命です。

主イエスは「わたしは復活であり、命である。このことを信じるか」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであると、わたしは信じております。」信仰は私たちの所有物ではなく、主イエスの問い「あなたはこれを信じるか」にマルタのように信じて応答し、告白することによって成り立つ、主イエス・キリストとの命のつながり、交わりです。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは自らの力によるのではなく、神の賜物です。」(エフェソ2章8節)神の賜物としての信仰に注目させられます。「信じます」この信仰の告白が、死に勝ち、希望に生きる力なのです。主イエス・キリストを信じることが、神の力、聖霊を受けることであり、キリスト者・クリスチャンをつくり、教会をたて、愛と平和と希望の世界を築くのです。

(11月18日 召天者記念礼拝)

※奇しくもこの復活についてのメッセージが、今村幸文先生の早良教会における告別説教となりました。

 

21. 12月 2018 · 2018年11月11日「愛を中心において」宮田祐亮牧師(野方キリスト教会) はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「愛を中心において」 宮田祐亮牧師(野方キリスト教会)

ヨハネの手紙第一4章7節~21節

 

使徒ヨハネはこの手紙の中で教会の人々に呼びかけました。「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。」(7節)多くの人々にとって、「愛」という言葉は何だか漠然としていて、抽象的にとらえられているかもしれません。しかし、そうではありません。「愛」とは、わたしたちのこの人生でしっかりと体験できるものなのです。わたしたちは愛し、愛され、「愛」を体験するために生まれてきたのです。

4章19節には、わたしたちが「何故」愛するのか。「愛する理由」が記されています。「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。」(19節)神がまずわたしたちを愛してくださった、というのです。神はどのようにわたしたちを愛してくださったのでしょうか。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」のです。(ヨハネ福音書3章16節)そして、神の独り子イエスは十字架の死に至るまで忠実であられました。それほどまでに、イエス様はわたしたちを愛してくださいました。

ところが4章17節には「この世でわたしたちも、イエスのようである」とあります。どのようにしてわたしたちもイエス様のようである、というのでしょうか。イエス様の歩みは、父なる神様に愛されながら、弟子たちを愛していく歩みでした。同じように、わたしたちひとりひとりも、父なる神様に愛されながら、教会で、家庭で、職場の中で、周りの人々を愛していく歩みが求められているのです。

さて、愛するといっても具体的にどのように愛を示せばよいのでしょうか。第一に、相手と共に時間を過ごすことです。「喜ぶものと共に喜び、泣くものと共に泣く」ことです。第二に、相手のために祈ることです。一緒に時を過ごせば過ごすほど、相手の苦しみや人生の課題も見えてきます。相手の悩みや痛みを知ることによって、わたしたちはより具体的に隣人のために祈ることができます。「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。」(18節)わたしたちはこの愛を中心において生きていくのです。

(教会組織13周年記念礼拝 11月11日)

20. 11月 2018 · 2018年11月4日「人類憐れみの令」加山献牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「人類憐れみの令」加山献牧師

マタイによる福音書5章7節

イエスさまは「憐れみ深い人々は幸いである」と言われました。この言葉には「あなたたちは互いに憐れみ深く生きる者であってほしい」というイエスさまの願いが込められているように感じます。私たちにとって「憐れみ深く生きる」とはどのようなことなのか、2つのポイントで考えたいと思います。

第一に「憐れみ深く生きる」生き方は一人ではできない、ということです。私たちはいつも誰かに助けられ、誰かに支えられて生きています。時には自分が誰かを助け、支える側に立つこともあるでしょう。裕福な人も貧しい人も、強い人も弱い人も、誰も一人で生きていくことはできません。旧約聖書の天地創造の中で、神さまは最初の人アダムを造られた時に言われました。「人は一人でいるのは良くない。」これこそが聖書が一貫して語っている、人間の現実だと言えます。

時に、人間関係のしがらみは私たちを苦しめることもあります。それでも「私」という存在は「他者」と共に生きていくように造られました。「憐れみ深く生きる。」それは人と人との交わりの中に身を置かなければ成し得ない生き方です。「私」は誰かのために生まれてきて、誰かを愛して、誰かを支えている。そして「私」のために生きることを選び、いつも隣にいてくれる誰かがいる。神さまが私たちに願っておられる人生の歩みです。私たちは共に生きていきましょう。

第二に、「憐れみ深く生きる」ことは神の憐れみの 深さを知りつつ生きることです。「憐れみ」とは神さまのご性質です。その憐れみの故に、神さまはひとり子であるイエスさまをこの地に遣わしてくださいました。そして、その憐れみの故に私たちは受け入れられたのです。「憐れみ深く生きる」ことは、神の変わることのない愛を信じ、その赦しを受け取り続けることです。

私たちは、神の愛の大きさをどこまで味わっているでしょうか。神の赦しの大きさをどこまで体験できたでしょうか。私の想いをはるかに超えている神の愛、極めつくすことのできない大きな憐れみを、日ごとに深く、より深く、味わって生きるものでありたいです。私たちは、十字架のもとに立ち帰るたびに、自分がどれほど赦された者であるか、自分がどれほど愛されている者であるかをより深く悟ります。何度でも十字架のもとに帰りましょう。十字架こそが「私の憐れみ」の土台であり、プラットホームです。

20. 11月 2018 · 2018年10月28日「金や銀はないけれど」加山献牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「金や銀はないけれど」 加山献牧師

使徒言行録3章1節~10節

ペテロとヨハネは「午後3時の祈りの時」に神殿に登っていったとあります(1節)。ユダヤの人々は日に三度の祈りの時を持っていました。朝の祈りはシャハリート、午後の祈りはミンハー、夕方の祈りはアマリヴと呼ばれています。ペトロとヨハネも、このような日々の祈りを大切にしていたことがわかります。大きな奇跡の背後には、小さな祈りの積み重ねがあったのです。

足の不自由な男性が毎日神殿の門の前で物乞いをしていました。聖書は「彼は毎日運ばれて来て、置かれていた」(2節)と表現しています。この男性は生まれてからずっと、他人から助けてもらうほか生きる術を知りませんでした。「美しい門」と呼ばれていたこの門を、彼はどのような想いで見つめていたのでしょうか。このような男性に対して、ペトロとヨハネは「わたしたちを見なさい」と語りかけました。自分たちを誇るためではなく、自分たちが何によって生きているか、何によって生かされているかを見てほしかったのだと思います。そして、ペトロの有名な宣言が続きます。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」(6節)

イエスに従う者たちは金や銀は持っていなかったけれど、それよりもはるかに価値あるものを持っていました。それはイエスの名の力、イエスの名によって癒す力です。この世界には癒されるべき多くの苦しみがあります。私たちが世に与えることのできる最善のものはイエス・キリストであり、その名による救いと癒しです。「すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩きだした。そして、歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った。」(7~8節)この時、彼は生まれてはじめて自分の足で立ち上がり、自分の力で歩きだすことができました。ナザレの人イエスの名によって生きる新しい人生、神を賛美しながら前へ、前へと進んでいく人生を歩み始めたのです。

人々は、この男性が立ち上がり、歩き回りながら神を賛美している姿を見て、「我を忘れるほど驚いた」(10節)とあります。彼が癒され、自分の足で立ち上がり、喜びに満ちあふれ、神を賛美している姿は、周囲の人々に驚きと神に対する畏れをあたえました。私たちの人生の最大のターニングポイントはイエス・キリストに出会えたことでした。この出会いほど私たちの人生を方向付ける出来事はありませんでした。悲しみや困難の中から、私たちを立ち上がらせて、喜びを与えてくださった方がいる。賛美せずにはいられない。そのような体験が私たちにもあります。私たちの内側から溢れ出る喜びと賛美、これに勝る証はありません。

31. 10月 2018 · 2018年10月21日「戦うことを選ばない」加山献牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「戦うことを選ばない」加山献牧師

創世記26章26節~33節

イサクはゲラルという地域に寄留者(外国人)として住み始めました。12節には「イサクがその土地に穀物の種を蒔くと、その年のうちに百倍もの収穫があった」とあります。しかし、その土地の住民はイサクをねたむようになり、イサクの父アブラハムが、かつて掘った井戸をすべて塞ぎました。当時、井戸を失うということは命に関わる大問題でした。それは砂漠の中での飲み水を失うことであり、作物を育てるための水も失われることでもありました。イサクはこの時、考えられないような不当な仕打ちを受けたのです。

16節で、その土地の住民のリーダーであったアビメレクがやってきてイサクに告げました。「あなたは我々と比べてあまりに強くなった。どうか、ここから出て行っていただきたい。」アビメレクの語るところによれば、イサクは彼らと比べて「あまりに強くなった」ということですが、イサクはその力でもって戦うことを選ばなかったのです。一生懸命耕した畑も、一生懸命種を撒いて育てた作物も手放して、イサクはそこを去ってゲラルの谷へ降りていきました。

ゲラルの谷にも父アブラハムが掘った井戸がいくつかありましたが、それらの井戸もペリシテの人々によって埋められていました。パレスチナの水脈は深く、必然的に井戸も深く掘らなければなりません。イサクはこれらの井戸を僕たちと一緒に掘り起こして、父アブラハムが付けたとおりの名前を付けました。ところが現地の羊飼いたちがイサクの羊飼いたちと争って「この水は我々のものだ」と言いだしました。きっとイサクの僕たちの中には「イサク様、断固戦いましょう。この井戸は私たちのものです。あなたのお父様が最初に掘り当てて、今度は私たちが汗水流して掘り直したのです、彼らに渡してはなりません」と主張する人もあったでしょう。ですがイサクは、今度もそこから離れていきました。イサクはそれらの井戸を「エセク(争い)」「シトナ(敵意)」と呼び直しました。彼は「争い」と「敵意」から離れていったのです。

やがて、アビメレクが軍隊の代表者2名を伴ってやってきました。この3人で来たということにイサクに対する最大限の敬意が表わされています。イサクはたずねました。「あなたたちは、わたしを憎んで追い出したのに、なぜここに来たのですか。」 すると彼らは答えました。「あなたと契約を結びたいのです。」そこでイサクは彼らのために祝宴を催した、というのです。

あの時こんなことをされた、あの時はこんなひどい扱いを受けた、そのような想いをイサクも持っていなかったわけではありません。ですが彼は、そのような想いに縛られませんでした。彼らのために祝宴を開き、彼らと一緒に喜び楽しむことを選びました。「祝福」は相手の態度から出たのではなく、イサクの選び取りであり、イサクの決断でした。相手がどうであろうとイサクは「祝福」を与えました。この世界では報復に対する報復が繰り返しおこなわれています。誰がどのようにこの連鎖を断ち切るのでしょうか。この世界にはイサクのように生きる人々が求められています。      (10月21日)

31. 10月 2018 · 2018年10月14日「患いを負い病を担ってくださる主」今村まさゑ協力牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「患いを負い病を担ってくださる」今村まさゑ協力牧師

マタイによる福音書8章14~17節

現代人は多忙な生活をしていると思いますが、イエスさまの一日はそれに勝る働きであったと今朝の箇所からわかります。朝、大勢の群衆を見て、山に登られ、「山上の説教」(5章から7章)を終え、山を下りられたが、ライ病を 患っている人の願いに応えて癒され、さらに百人隊長の中風の僕を癒し、ようやくペトロの家に帰られたが、ペトロのしゅうとめが、高い熱で寝込んでいたのをご覧になり癒された。元気になったしゅうとめは起き上がってイエスをも てなした。ここまでが一日の終わりでありますが、「夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。」「それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現 するためであった。『彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。』(17節)」この「負い」とは、「背負って持って行ってしまう」「取り 除いてしまう」の意味です。 今朝はこのマタイの叫びにも似た17節に注目したいと思います。数百年前から預言されてきた謎のような『彼』、詳しくはイザヤ書53章(第二イザヤ) の『彼』こそが、一日中、行動を共にし、山上で語られた言葉の数々、行われ た数々の御業・・ああイエスこそが、預言され続けてきた彼だったとマタイは気付いたのです。

私の妹のけい子は5年前に召されましたが、戦時中、医者も薬も氷も手に入らぬ時にはしかになり、高熱のため脳を侵され、知恵遅れとしての学童期を過ごしました。中学を終えると、すぐに職業訓練のため、ある病院に預けられました。ある日、両親は呼び出され、父親の分からぬ子供を身ごもると大変だからと院長に説得され、不承不承、盲腸の手術として承知してしまいました。本人は何一つ分からぬまま不妊手術をされてしまいました。当時、優生保護法(戦後3年、1948年)が制定され(その第一条、法律の目的は)「不良な子孫の出生を防止する」でした。知恵遅れや精神障害者が対象とされ、全国で強制的に実施されました。確かに知的な遅れはありましたが、その精神、心情、情緒は純真無垢、いつも穏やかに過ごしておりました。両親亡き後、30年近く共に住みましたが、その間にクリスチャンとして、いつも喜び感謝の日々 でした。私もマタイのように大声で証します。「あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」(イ ザヤ46:3)

31. 10月 2018 · 2018年10月7日「何が心を満たすのか」加山献牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「何が心を満たすのか」加山 献 牧師

マタイによる福音書5章6節

イエス様が語られた8つの祝福の4番目の祝福は次の通りです。「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。」イエス様が言われる「義」とはいったいどのようなものなのでしょうか。この言葉は、人間の目から見た正しさではなく、神様の基準から判断される圧倒的正しさ、揺るがすことのできない正しさを表しています。

旧約聖書が語っている二つの出来事に注目したいと思います。それは創造と堕落です。私たちが住んでいるこの世界は偶然に存在しているのではありません。天と地、この世界の全ては神様の意志によって造られ、神様の意思によって保たれ、存在しています。私たちひとりひとりも偶然に存在している訳ではありません。神様が丁寧に愛を込めてひとりひとりを造ってくださり、今、私たちはここにいるのです。

ところが、本来良いものとして造られた世界が堕落してしまったのです。神様がご覧になって「甚だ良い」と言われた世界が、もはやあるべき姿を持っていないのです。人が「神のようになる」という誘惑に勝てなかった時、人と神との関係が破れ、人と人との関係が破れ、人間と自然界の関係も破れてしまいました。人が「善悪を知る木の実」を食べてしまった時から、善悪の判断の基準は神から人に移ってしまいました。「私」という人間が善悪を判断し、他人を裁き、神をも判断するようになってしまったのです。

ですが聖書が語る三番目の出来事があります。失われた世界を回復して、取り戻そうとする神様の意志、救いの計画です。神様は、人間との関係を回復されることを望まれました。私たちがあるべき姿に戻される時、人間同士の関係が癒され始めます。全ての民族、全ての家族、全ての隣人の間に和解の働きが起こされます。人間と自然界の関係も修復されます。私たちが「義を求める」とは「神の願われる本来あるべき姿」に戻ろうとすることです。そして、この世界の破れ口に立って執り成し、神の正義が実現されるための働き人となる事なのです。

渇いている、という自覚がなければ、私たちは求めることができません。私たちは今一度、自分自身の魂に目を向けてみたいと思います。私たちの飢え渇きとは、イエス・キリストへと結びつくということです。そこに「満たし」があります。本来あるべき姿の私に戻りたい、神様との正しい関係に戻りたい、このような飢え渇きを持つ人は幸いだと、イエス様は言われます。(10月7日)

12. 10月 2018 · 2018年9月30日「わたしはあなたの子どもです」 加山 献 牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「わたしはあなたの子どもです」 加山 献  牧師

ガラテヤの信徒への手紙3章26節~4章7節

 

ガラテヤ書の大きなテーマは「クリスチャンとは一体何者なのか」ということです。キリストを信じた者は「神の子」とされた。パウロはこの手紙の中で何度もそのように繰り返しています。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。」(26節)

皆が神の子とされたなら、私たちはひとつの大きな家族です。「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(28節)と言われているとおり、私たちは民族、社会的地位、性別も超えてひとつの家族とされました。教会の中でお互いを兄弟姉妹と呼び合うのはその為です。生物学的な家族関係ではありませんが、霊的な絆を持っているのです。ひとつの教会だけの話ではありません。世界中のすべての国のすべての教会の人々がキリストにある家族なのです。

パウロは、ガラテヤ書3章において律法の良い点についても説明しています。この律法があったから、人は自分の罪を認識することができ、キリストの元に導かれ、キリストに出会う時まで守られた、というのです。一方、律法の負の側面についても語られています。人々にとって律法が喜びではなく重荷になっていました。慣習や決まり事を守れないことにより、罪悪感を抱く人々もありました。皆と同じようにできないから、社会からはじき出されている人々がいました。律法そのものは悪いものではありませんでした。しかし、その背後に人を孤独にして恐れに陥れようとする力が働いていた、というのです。

私たちを縛るあらゆる束縛を打ち消すために、キリストは生まれてきてくださいました。4章4節~5節には次のようにあります。「時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。」

キリストが人として生まれてきてくださったのは、私たちに神の子としての身分を与えてくださるためでした。「ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。」(7節)ここに「クリスチャンとは一体何者なのか」という問いの究極的答えがあります。私たちはもはや恐れや不安の奴隷ではなく、罪責感や劣等感の奴隷でもありません。私たちは神の子です。

12. 10月 2018 · 2018年9月23日「見捨てられたと思う時に ~ エリヤから学ぶ」 K・J・シャフナー 協力牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

『見捨てられたと思う時に ~ エリヤから学ぶ』 K・J・シャフナー  協力牧師

列王記上19章1~18節

 

エリヤという旧約聖書の預言者から学びたいと思います。神様は彼を用いて御自分の力を示されました。たとえばエリヤの祈りによって3年間雨が降らなかったこと、僅かの小麦粉と油で奇跡的に養われたこと、亡くなった男を生き返られたこと、大勢のバアルの預言者との対決のことなどがあります(17~18章)が、それらの出来事にはそれほど心惹かれませんが、19章の出来事は私の心に響きます。

4節に彼の見捨てられていた気持ちが見られます。「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖に勝るものではありません。」なぜ彼がそう語ったのかを考えましょう。一つの要因は恐れです(3節)。イゼベル女王は彼を殺すと脅しました。そして対決の後、エリヤの感情に変化が見えます。勝利の高い山から失敗の低い谷に落ちてしまったのです。次の要因は疲労でした。マラソンの何倍もの距離を進み、彼は心身ともに疲れていました(3節)。また5節には、彼の無力感や自己憐憫の気持ちが見えます。「わたしは一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうと狙っています。」最後に彼の精神状態に影響与えたことは、彼を支え、彼の考え方の間違いを指摘してくれる友がいなかったことです。エリヤは逃亡中に「自分の従者をそこに残し」ました(3節)。一人ぼっちとなったエリヤは見捨てられているという気持ちに陥ってしまったのです。

次に神様はエリヤの気持ちをどのように扱われたかについて考えましょう。最初に神様は彼に必要な休みと栄養を与えられました(3~5節)。御使いはパン菓子と水を用意しました。その後、神様はエリヤの話に耳を傾けてくださいました。彼はついにその鬱積した感情を解放することができたのです。神様の問いかけは、彼を新しい考え方に導きました。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」その問いの中で、エリヤは自分の恐れ、自分の感情に向き合うことができました。そして神様に対する考え方も変わりました。神様はエリヤに御自身の姿を現わされました。エリヤは激しい風、山を動かす地震や火を体験しましたが、神様はその中におられませんでした。神様は御自分の「静かにささやく声」を通してエリヤに現れました。そしてエリヤに新しい仕事を与えられました(15~18節)。新しい王、新しい預言者に油を注ぐように指示され、バアルに膝むいていない7,000人が残っていることを彼に知らせました。

見捨てられたと思う時という気持ち気は珍しくないもので、聖書の中に登場人物にも教会の人々にも現れるものでもあります。エリヤの体験から学びましょう。