01. 6月 2019 · 2019年5月26日「神と共に歩む」加山献牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「神と共に歩む」加山献牧師

ミカ書6章6節~8節

 

ミカは今から約2800年前に南王国ユダで活躍し、人々の罪を指摘し、警告を発した預言者でした。この当時の人々の心は神から遠く離れ、ただ形だけの礼拝をおこなっていたのです。

預言者ミカは「どのようにして私たちは神に近づくべきか」と問いかけます。続く聖書箇所において、主が私たちに求めておられることは「儀式そのもの」ではなく、「捧げもの質や量でもない」、ということが明らかにされています。そして8節に、私たちに対する神からの3つのリクエストが語られています。第1の要求は「正義を行うこと」、第2に「慈しみを愛すること」、そして第3は「へりくだって神と共に歩むこと」です。

1.「正義を行うこと」 旧約聖書の表現で、世の中が乱れているのは「それぞれが自分の目に正しいとすることを行っていた」からだ、という言葉があります。(士師記17章6節等)神の要求される「正義」に応えるためには、「自分自身の正しさ」ではなく「神の目から見て何が正しいことなのか」と、いつも自分を吟味し、聖書の言葉と自分を照らし合わせ、神との親密な祈りの時を過ごすことが必要になってきます。

2.「慈しみを愛すること」 慈しみには「へセド」という言葉が使われています。これは神の憐れみ、神の変わらない愛、神の有する慈しみを表す言葉です。神が愛されるように、人を愛し、慈しみを持って生きていきなさい、という非常に難しい要求なのです。

神の慈しみに生きるためには、まず私たち自身が主の愛に満たされる必要があります。私たちの心は、どれほど愛されていたとしても、さらに愛されることを求め、常に飢え渇いているのではないでしょうか。すべての人は無条件の愛、無限の愛がなければ本当の満たしを得られないのです。そのような私たちの為に、神は目に見える方法でその愛を表してくださいました。それは十字架です。主の慈しみに生き、それを隣人に分かち合うために、私たちはまず、十字架のもとにひざまずき、主の愛による満たしを経験しましょう。

3.「へりくだって神と共に歩むこと」 ヘブル書10章10節(新改訳)に「イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。」とあります。キリストが私たちの罪のための完全な供え物として、ただ一度、十字架の上で流された血によって、私たちは聖なるものとされました。私たちは自分の力、自分の行いで神に至る道を開くことはできません。私たちの捧げものでその道を開くこともできません。神の方から、その道を開いてくださり、共に歩もう、と招いておられます。へりくだって、イエス・キリストという道を受け入れ、神と共に歩むことが、私たちに許されているのです。

 

25. 5月 2019 · 2019年5月19日「今はわからないけれど」加山献牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「今はわからないけれど」 加山献 牧師

創世記37章3~5節、18~36節

 

ヨセフの生涯を通して、主は深い摂理をもって人の一生に介入し、御旨を成し遂げてくださる方であることを知ることができます。

父ヤコブは平等に兄弟たちを愛することができず、不平等な、偏った愛を実践してしまいました。わたしたちはここに人間的愛の限界を見ます。

父の偏愛の結果として、憎しみに心を支配されて、心の平安を保てなかったのは、兄たちの問題でした。兄たちの姿を通して、感情をコントロールするのではなく、感情に支配されてしまう人間の弱さがあることを知らされます。

「家族」は人間が生きていく上で、最も強い支えとなり得ます。しかしながら、この現代社会においても、「家族」という絆が破れ、「家族」という存在に傷つき、苦しんでいる人々が多くいることも事実です。ヨセフの生涯は「家族の絆」の回復の物語です。もし回復を願っている関係があるのならば、ヨセフの生涯に大いに学ぶことがあります。

若き日のヨセフは、あまりにも正直で、素直すぎる一面がありました。ヨセフは、“兄たちが自分にひれ伏す”という意味深な夢を見ましたが、彼はこの夢をまったく包み隠さず、兄たちに語り聞かせてしまうのです。5節には「ヨセフは夢を見て、それを兄たちに語ったので、彼らはますます憎むようになった」とあります。しかしこれは、神がヨセフに見させてくださった特別な夢だったのです。

やがてヨセフは奴隷としてエジプトに売られますが、後に、奴隷の身分からエジプトの総理大臣に抜擢されるまでに用いられることになります。このヨセフが、やがて父と兄弟たちを大飢饉から救い出すのです。その間、ヨセフの生涯を支え続けたのは、神に対する信仰であり、神が見せてくださった夢でした。

私たちにも、今はわからない、今はとても理解できない、という現実があるかもしれません。けれども神がわたしたちに見せてくださった夢(ビジョン)があるならば、それを何度でも想い返したいと思います。たとえ現実が厳しくても、すべては神の描いているシナリオのプロセスの中にあることを信じましょう。安心して、今日という日に与えられた課題に立ち向かいましょう。神が私たちの間に植えてくださった種子は必ず実を結びます。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(へブル11:1 新改訳) 私たちは主が与えてくださった夢(ビジョン)を望み、信じ続けるものでありたいと思います。

 

18. 5月 2019 · 2019年5月12日「モーセの母・ヨケベデの信仰」今村まさゑ協力牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「モーセの母・ヨケベデの信仰」 今村まさゑ協力牧師

出エジプト記2章1~10節

 

今朝は母の日礼拝です。全ての人に母を与えて下さった神に感謝を捧げましょう。「あなたの父が楽しみを得、あなたを産んだ母が喜び躍るようにせよ。」(箴言23:25)

さて、人類史上、最も偉大な人物と言われるモーセを養い育てた母・ヨケベテに学びたいと思います。今日の聖書箇所には、「レビ人の男と娘」と記されていますが、民数記26章59節に「アムラムの妻はヨケベト、息子アロンとモーセ、娘ミリアム」と記されています。BC1300年、先祖のヤコブは、息子ヨセフの功績によりエジプトのゴシェンの地に移住を許され、一族70人は400年を経て200万人に増えていました。過去の業績を知らない新しい王は、増え続けるヘブライ人を恐れ「生まれた男の子は一人に残らずナイル川に放り込め」と全国民に命じたのです。そのとき生まれたのがモーセでした。

三か月は隠し通したもののもはや限界。家族は何とか赤ん坊を助けたいと知恵をしぼり遂に箱舟のような籠に防水加工を施し、祈りを込めてナイル河畔の葦の茂みに置いたのです。籠の中に寝かされた赤ん坊が心配で姉のミリアムは遠くから見ていました。そこへ水浴びに来た王女は籠に気付き侍女たちに取り上げさせたのです。「開けてみると赤ん坊がおり、男の子で、泣いていた」とあります。泣くということで思い出すのは創世記21章9~21節のアブラハムの仕え女、ハガルとイシュマエルの荒野での場面でしょう。「神は、幼子と母親の泣き声を聞いて」助けられました。イエスさまも山上の説教で「あなたがた、今、泣いている人々は幸いである。笑うようになるからである。」と言われました。私たちも辛い時には思い切り泣きましょう。主が聴いていてくださいます。

王女はヘブライ人の子であることを承知で、不憫に思い何とか助けようと思ったのです。7~8節「その時、その子の姉が王女に申し出『この子に乳を飲ませる乳母を呼んで参りましょうか。』『そうしておくれ』と王女が頼んだので、娘は早速その子の母を連れて来た。」

何という神のストーリーでしょう。ヨケベテはわが子を王女の息子として安全と手当てを受けて愛しいわが子を養育することになったのです。一家は心をこめて祈りの日々を過したことでしょう。やがて王女の子としてエジプト人のあらゆる学問、教育を受け、遂には過酷な奴隷状態にあった同族200万人の出エジプトのリーダーとして、神がモーセを選び導かれるのです。三つ子の魂百までの通り両親から揺るがぬ信仰を与えられていたモーセは、その大偉業を果たすことができたのです。(ヨケベテとは「神に栄光あれ」の意味)

 

10. 5月 2019 · 2019年5月5日「それでもあなたはわたしの光」加山献牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「それでもあなたはわたしの光」加山献牧師

マタイによる福音書5章13節~16節

 

主イエスは弟子達に、また集まっていた人々に「あなたがたは地の塩である」と宣言されました。古代社会では、塩は大変高価で、貴重なものでした。まずここに主イエスの想いがつまっています。私たちひとりひとりは主イエスの目に、かけがえのない、高価で尊い存在である、ということです。「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ書43章4節、新改訳)この言葉はそっくりそのままイエス・キリストのメッセージなのです。

そして、塩の最も大切な、最も特色ある性質は、味をつけることです。主イエスは弟子達に「この世界に、味をつけるものでありなさい」と勧めておられます。塩のかたまりを、それだけで食べる人はいません。塩は料理の中に溶けていき、自らの姿を隠した時に、初めて相手に味をつけることができます。同じように、私たちは時には己の姿を隠し、人の見ていないところで、-たとえ誰も評価してくれなかったとしても-、誠実に生きるものでありたいと思わされます。「あなた」という人がいてくれる、ただそれだけで生きていける「誰か」がいるはずです。また、その「誰か」がいてくれるから、生きていける「わたし」がいます。地の塩として生きるとは、私たちが互いに溶け合って生きることなのかもしれません。そのようにして、私たちは「生きる喜び」を互いに味わうことができます。

主イエスは続けて弟子たちに語られました。「あなたがたは世の光である。」これは私たちが主と同じ性質を持ったものに、変えられていることを示しています。「世の光」となるために、もっとしっかりしなければ、もっと良い「わたし」にならなければ、と煩うことはありません。私たちはもうすでに「世の光」なのです。私たちの行いによってではなく、恵みによって、光とかえられたのです。

私たちと主イエスの関係も、ちょうど月と太陽のようなものです。自分だけでは輝くことはできない。ただ主の光を浴びて、その光を反射するだけです。イエスさまのように強い光を放つことはできない、けれどもそのかすかな光で、暗い夜を照らすのです。ですので、私たちがなすべきことは、主イエスの光を目一杯、浴びることです。この方に心を向け、この方の十字架に目を注ぎ、この方の十字架の道を従い、そして、恵みによって、この方と共に生きていくことです。月の光は、太陽の光が存在することの揺るがない証であるように、私たちひとりひとりも、救い主が確かにおられる、ということの証となり得るはずです。

たとえ、私たちの内側に罪が潜み、深い暗闇があったとしても、この私たちの闇を照らすために光として、イエス・キリストが来てくださいました。むしろ私たちの欠けや破れから、この方の光が溢れ流れるのです。私たちは今日、もうすでに、恵みによって、地の塩であり、世の光です。

 

04. 5月 2019 · 2019年4月28日「エマオでのふたりの開眼」今村まさゑ協力牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「エマオでの二人の開眼」 今村まさゑ協力牧師

ルカによる福音書24章13~35節

 

日曜日の早朝、イエスは復活されて墓には遺体がなく、代わりに墓に天使たちが現れ「イエスは生きておられる」と告げたと婦人たちから聞きながら、二人の弟子は11㎞ほどのエマオへと歩を進めていました。イエスこそイスラエルを解放して下さる方だと望みをかけていたのに捕らえられ処刑されてしまった、自分たちにも追手が迫るかもしれない。

一刻も早くエルサレムから離れ郷里に帰ろうと急ぎながらも、数日の出来事を論じ合っていました。そこへ復活されたイエスご自身が二人に近づき話し合いに加わりました。

三日前に十字架刑が行われましたが、今回は特別で、朝の9時に釘打たれ12時になると昼なのに全地は暗くなり、それが3時まで読いた。そして遂に息を引き取られると地震が起こり、神殿の垂れ幕が真二つに裂けた。エルサレム中が騒然となっているのに、全くそのことを知らないなんて呆れた旅人だと説明し始めました。知識的には分かっていても肝心なことが信じられない二人に「ああ、物分かりが悪く、心が鈍い」と言われます。心の反応が遅い、神のみ心に追いつくのに遅すぎるという意味です。そこでイエスは、聖書全体から説き明かしご自分について説明されました。受難予告(ルカ18:32~)通リの苦しみを受けて神の栄光に入るはずではなかったのかと。

2~3時間の道のりはあっという間に過ぎ、夕やみが訪れ二人の旅も終わりです。しかし、もっと話を聞きたい二人は、無理に引き止め夕食に招きます。そこから主客が逆転し「イエスはパンを取り、讃美の祈りを唱えられた」。祈りの言葉は記されていませんが、もしかすると「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神。すべての祝福の源である父なる神。あなたの与え給うたこのパンを祝して下さい。アーメン」というような言葉であったかも知れません。「祈りを唱えられパンを裂いて渡して下さった時、二人の目が開け、イエスだと分かった」と記されています。そして分かったと同時に、その姿は見えなくなったのです。見えなくなったのに、心は燃え出していたのです。一時的ではない。燃やされ続ける炎が二人の魂に灯されたのです。鈍感だった二人が、33節では「時を移さず出発して、エルサレムに戻った」のです。戻ってみると散り散りに逃げていた11人の弟子たちが集まっていて「本当に主は復活して現れた」と言っていたのです。二人も、「道で起こったことや、パンを裂いて下さった時にイエスだと分かった次第を話した。」私たちも互いに証しをし合いたいものです。そして、祈りましょう。

「主なる神よ。よみがえり、今、生きておられるイエス・キリストに、われらを結びつけてください。」 ブルームハルト牧師(ドイツ)「夕べの祈り」より

 

 

27. 4月 2019 · 2019年4月21日「すべての人が生かされる」加山献牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「すべての人が生かされる」 加山 献 牧師

第一コリントの信徒への手紙15章12~22節

 

第一コリント書の15章において、パウロは「福音とは何か」という大切なテーマについて語っています。15章3節には、福音の「最も大切なこと」として、次の3つの要素が挙げられています。第一に「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと」、第二に「葬られたこと」、第三に「聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと」です。この3つのことがキリスト教信仰の根幹です。

ところがコリント教会の中には、復活を信じることができない人々がいました。教会に反対する人々ではありません。キリストを信じ、礼拝に集っている共同体の一部に、そのような人々がいたのです。彼らは、キリストの復活だけではなく、死後、「自分がもう一度生きるものとされる」ということも信じられませんでした。

パウロはキリストの復活を神話や伝説ではなく、歴史上の事実として語っています。「キリストは本当に死人のうちからよみがえられた」これがパウロにとっての事実でした。キリストの復活こそが、パウロの、また教会の宣教の出発点でした。彼にとって、十字架だけを語り、復活を語らないならば、それは福音とはならないのです。

19節でパウロは続けます。「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。」 「復活の希望」は人類が抱きうるあらゆる希望の中で、最も強い光を放っています。神がキリストを通して人間に与えた最も大きく、最も美しい贈り物はこの「復活の希望」だといっても良いでしょう。

21節と22節には、アダムとキリストの対比があります。「死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。」

アダムは神から離れ行く人間を代表し、キリストは神に完全に従順する人間を表しています。エデンの園で、人は神に背を向けて離れていきました。聖書はこの神から離された状態を究極的な「死」の状態だと呼んでいます。神は罪を犯した人に向かって「アダム、お前はどこにいるのか」「どこにいるのか」と問いかけられたのです。アダムの精神的立ち位置を問われていたのです。なぜ、あなたは私から離れていくのか、と問いかけられたのです。

しかし、ゲッセマネの園で、神は人との交わりを取り戻す道を開かれました。神の子の命と引き換えに、ご自身の命と引き換えに、すべての人を取り戻されたのです。キリストは十字架の死の後、復活されました。主のいのちに私たちひとりひとりも結び付けられています。今日、そのことをはっきりと確信したいと思います。

 

 

20. 4月 2019 · 2019年4月14日「主がお入り用なのです」加山献牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「主がお入り用なのです」 加山献 牧師

マルコによる福音書11章1~11節

 

いよいよ主イエスがエルサレムに入られるという時に、一頭のろばが用いられました。ろばは平和の象徴です。世の王は強い軍馬に乗って都に凱旋しますが、主イエスはろばに乗り、自らを低くして都に入られました。主イエスは力で支配する王ではなく、柔和でへりくだった王なのです。紀元前6世紀後半に活躍したゼカリヤという預言者によって、主イエスのエルサレム入城が預言されていました。

「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者。高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ。」(ゼカリヤ書9章9~10節)

人々は大喜びで主イエスを迎えましたが、彼らは主イエスに何を期待していたのでしょうか。彼らが待ち望んでいたのは、ローマ帝国の支配に抵抗し、再びイスラエルの独立を回復してくれる革命家としてのメシア(救い主)でした。主イエスの弟子たちですら、そのように考え、そのように願っていました。

ところが主イエスは、十字架にかかるためにエルサレムに来られたのです。人類の悩み、苦しみ、重荷、不安、罪と死を背負い、平和と和解をもたらす救い主が、この時、都に入られましたのです。

どれほど小さな存在であったとしても、私たちは主イエスに用いられることができます。たとえ、経験がない、小さい子ろばであっても、全人類の救い主をその背にお乗せすることができました。私たちは小さく、弱いものですが、それでも主イエスが私たちを必要としてくださるのです。この事実に大きな驚きと喜びを覚えるものです。

主イエスが語られた、良きサマリア人のたとえ話を思い起こしてみましょう。このサマリア人は、この傷ついた旅人を「自分のろばに乗せた」とあります。傷ついた旅人を宿屋まで持ち運んでいくために、ろばが用いられたのです。同じように私たちも、持てるだけの力で、主のために、傷ついた隣り人のために仕えていくことができるはずです。

ですので、私たちをつなぎとめているロープがほどかれようとする時、どうか恐れないでください。「主がお入り用なのです。」

 

20. 4月 2019 · 2019年4月7日「永遠の安息」加山献牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「永遠の安息」 加山献 牧師

出エジプト記20章8~11節

 

安息日はヘブライ語で「シャバット」と呼ばれています。この言葉は(シャーヴァート)「休む、止まる、やめる、座る」という意味の動詞に由来しています。神さまが「安息」を重要視されたのは、私たちの人生において「休む」こと、また時には「立ち止まる」ことが重要な意味を持っているからです。私たちは目まぐるしく移り変わる社会の中で生かされています。絶えず変化していく世界のただ中で、私たちの体にも、心にも休息が必要です。私たちは「立ち止まる」ということの価値を、もう一度吟味してみたいと思います。

私たちはなぜ安息日を守るのでしょうか。第一の理由は神を知り、神に出会うためです。詩編46編10節には次のようにあります。「静まって、私こそ神であることを知れ。」(口語訳)忙しい日々の中にも「静まる」時が必要です。礼拝は私たちに「静まること」を促します。神さまが、安息日を通して私たちに求めていることは、私たちが忙しさから退いて、神のもとにとどまり、憩うことです。

私たちが安息日を守る第二の理由は、力を取り戻すためです。どんなに優れたスマートフォンを持っていても、電池が切れてしまったのなら全く使い物になりません。必ず充電しなければなりません。同じように、私たち一人一人に与えられた賜物を、6日の間、十分に生かしていくためには、安息日にしっかりと神と繋がる必要があります。礼拝の中で力をいただいて、それぞれの職場、学校、家庭の中に遣わされていくことが礼拝の目的のひとつです。この安息の時間の中で、自らの内面を深く静かに見つめることができます。忙しい日々の中で、削れてしまった心を、もう一度見つめ直して、研ぎ澄ましてみましょう。

安息日を守る第三の理由は、私たちが自由な者とされたからです。神様はエジプトで奴隷として生活していたイスラエルの人々に解放をもたらしました。同じように、イエス・キリストは十字架と復活により、罪の奴隷であった私たちは解放されました。

私たちはこの地上にあっては、尚も様々なしがらみに縛られています。人生を生きる上で避けられない苦しみや悩みがあるかもしれません。しかし、安息の日に神の国を体験するとき、私たちは縛られた自分ではなく、すでに解放された者としての自分を発見します。神の臨在の中に永遠の憩い、永遠の安らぎを見出します。永遠の安息を、この地上に流していくことが教会の役割です。「御心が天になるごとく、地にもなさせたまえ。」

 

12. 4月 2019 · 2019年3月31日「わたしはあなたがたのために祈ります」K.J.シャフナー協力牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「わたしはあなたがたのために祈ります」K.J.シャフナー協力牧師

フィリピの信徒への手紙1章3~11節

 

パウロは、牢獄の中からフィリピ教会へ手紙を書きました。彼は感謝でその手紙を書きはじめたのです。その冒頭で、パウロは10年前のフィリピでの出来事を思い起こし、感謝しています。使徒言行録16章11~40節を見ると、フィリピでの最初の経験は決して良いものばかりではありませんでした-嫌がらせ、逮捕、鞭打ち、監禁。それにもかかわらず、パウロはそれらの出来事を神に感謝していたのです。最初の時から10年間、「福音への参加」という大切な交わりの中で彼らと一緒に過ごしてきました。神様は、はじめられた善い業を成し遂げてくださるという朽ちることのない希望を抱き、パウロは神に感謝しています。

その感謝は大きな確信に満ちています。パウロは、フィリピ教会は自分によって建てられたものではなく、神がはじめられ、神によって完成させられる、と断言しました。そして、彼らに対する愛を示し、彼らのための祈りの言葉を記しました。その祈りは、彼らが幸福、健康を手にすることを願ったのではなく、問題や悩みが消えるように願ったのでもありませんでした。彼の最初の祈りは「愛がますます豊かになるように」-神に対する愛、隣人に対する愛が溢れ出るように-との祈りでした。その愛は感情ではなく、意志に基づいている愛、行動で表された愛です。周りに自分の苦手な人がいるならば、その人との関わりの中で、愛し方を学ぶ機会となるように、神様は時を用いてくださいます。

次に、彼らに「知る力」が身に着くための祈りです。これも愛と関連があります。好きなものがあるならば、あらゆる面でその物事を知ろうとします。その知る力に加えて、何が重要であるかを「見抜く力」が備えられるように祈りました。今の世の中は、値札が正しい場所に置かれていないお店のショーウィンドウのような状態になっていると感じます-無価値なアイテムは高い値段を持ち、最も価値のあるアイテムは安い値段を持つ-。パウロの祈りは今の時代にもあてはまります。何が重要であるかを「見抜く力」が必要です。

次にパウロはフィリピの人たちが「清い者」、「とがめられるところのない者」となるように祈りました。前者の言葉は、陶器の品質テストのために使わされた言葉です。市場で売られていた陶器は、ロウで隠されたひび割れがないか調べるために、器を持ち上げ太陽の光に透かすことがありました。隠されたひび割れがないのなら「清い者」です。それに対して後者は、動物を罠にはめて捕まえる様子を表す言葉です。罠にはまるようなスキがなければ、「とがめられるところのない者」です。これは、フィリピの人々が見せかけだけを良くするものにはならないように、との祈りでした。

最後に彼らがイエス・キリストによって与えられる「義の実」をあふれるほどに受けるように、との祈りがあります。果物の実がなるまでに時間がかかるように、パウロは、主イエスの働きが彼らの中に少しづつ「義」を育て、「神の栄光と誉れとをたたえることができるように」祈りました。

わたしも、パウロと同じ想いで、この手紙を皆さんに送ります。たとえわたしが福岡から離れても、早良教会の皆さんのために祈り続けます。 K. J. シャフナー

※早良キリスト教会の創立伝道者であったシャフナー先生は、35年におよぶ日本での働きを終えられ、2019年4月4日に米国に帰国されました。

 

12. 4月 2019 · 2019年3月24日「何のために生き、何のために死んでいくのか」加山献牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「何のために生き、何のために死んでいくのか」 加山献 牧師

マタイによる福音書5章10節~12節

 

イエスさまは山上の説教で、幸せについてどのように教えられたのでしょうか。「心の貧しい人々は幸いである/悲しむ人々は幸いである/義のために迫害される人々は幸いである/天の国はその人たちのものだから/その人たちは慰められるから。」

この世界の一般的な「幸せ」の定義とはかけ離れた「幸い」を、イエスさまは示されました。たとえこの世で幸せと呼べるようなものを何ひとつ持っていなかったとしても、もしイエス・キリストに出会うなら、人に天の国を与え、すべての涙をぬぐい、慰めてくださる方であるイエス・キリストを知るのなら、それは幸せな人生だ、というのです。

この地上での幸せが悪いものである、ということではありません。私たちには、住む家が与えられ、食べるものがあり、やりがいのある仕事を与えられ、愛し愛される関係に囲まれて生かされています。私たちの人生は感謝すべきことにあふれています。けれども、それらすべてを持っていたとしても、もし私がイエス・キリストを知らなかったのなら、もし私がイエス・キリストに出会わないなら、実は私は不幸なのだ、というのです。

イエスさまは言われました。「義のために迫害される人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」「義」という言葉はすでに6節に出てきていました。「義」とは神様との正しい関係を表す言葉です。イエス・キリストの十字架によって、神の子とされ、イエス・キリストの名によって、私たちは親しみをこめて「私たちの父なる神さま」と呼ばわることができるようにさせていただけました。神様との正しい関係、それは私たちがそうであるべきものにさせていただけた、ということです。

弟子たちはのちに、この「神様との正しい関係」、つまりイエス・キリストの福音を宣教するが故に迫害を受けるようになりました。ユダヤの宗教的な指導者たちからの迫害があり、ローマ帝国からの迫害がありました。

彼らが本気で伝道しなければ、あるいは迫害を避けることができたかもしれません。少しだけ偽り、信仰を隠して生きていけば、その苦しみは取り去られる状況だったことでしょう。しかし彼らは、その命に代えても、どうしても伝えたかった福音、良き知らせを知っていたのです。

迫害のただ中にあっても、彼らはイエスさまを覚え続けました。彼らは、イエスさまがどれほど忠実に苦難をしのばれたかを忘れませんでした。彼らは、このイエスさまの言葉を何度も思い出したはずです。「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」