カテゴリー別アーカイブ: 礼拝メッセージ

2020年4月12日「あなたはわたしを愛していますか」加山献牧師

「あなたはわたしを愛していますか」加山献牧師

ヨハネによる福音書21章15節~19節

1) 「私を愛しているか」

復活された主イエスは、ペトロに対して「わたしを愛しているか」と問われました。ペトロの弱さ、醜さを完全に知りながら、しかも軽蔑することなく、主は優しくお尋ねになったのです。あなたのできる精一杯でいいから、もう一度立ち上がり、私を愛しなさい、という招きの言葉でした。

 

2) 「私の羊を飼いなさい」

主イエスがもう一つ、ペトロに繰り返し語られた言葉があります。「私の羊を飼いなさい」という言葉です。主は再びペトロに使命を与えられたのです。ペトロが失敗してもなお、主はペトロを信頼し、将来教会の世話をしていく、という大切な働きをペトロに託してくださいました。

 

3) 「私に従いなさい」

主イエスは19節で「私に従いなさい」とも言われました。私たちの人生の中で、いったい何が一番大切なのか、「従う」という行為は、そのことを明らかにします。私にとって一番価値あるもの、一番大切にしているもの、それが私たちの行動になり、私たちの生き方になって現れて来るのです。「私に従いなさい」と主イエスは招いてくださっています。

 

4) 今日も生きておられる救い主

主イエスは死に打ち勝ち、今日もあなたのために生きておられます。あなたを個人的に知り、あなたの名前を呼び、親しく語りかけてくださる方なのです。あなたは特別な愛で愛されています。十字架の道を選ばれるほどに、主はあなたを想ってくださいました。そして主イエスが復活されたのは、あなたと生きるため、永遠にあなたと生きるためだったのです。

今日も生きておられる主イエスは、私たちを救いに招いておられます。主を愛する生き方、主に従う生き方をもってお応えしましょう。

 

 

 

2020年4月5日「あの涙を忘れない」加山献牧師

「あの涙を忘れない」加山献牧師

ルカによる福音書22章54節~62節

ペトロの失敗は、彼が挑戦したからこその失敗でした。ペトロは危険を犯して、主の裁判が行われている大祭司の家まで従っていきました。このことから、確かにペトロは主を深く愛していたことが分かります。

しかし、彼の失敗は自分の力を過信してしまったこと、いうなれば「自分の信仰」を信じてしまったことでした。自他共に認める主イエスの一番弟子でした。「主よ、ご一緒なら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております。」(ルカ22:33)「たとえ、皆がつまずいても、私はつまずきません。」(マルコ14:29)とまで宣言していました。自分は大丈夫、と自信に溢れていたペトロが大きな挫折を経験したのです。

この聖書箇所を読む時、人の力、人間的な忠実さ、といったものは意外に脆いのだ、ということを知らされます。人間の約束、また人間の誠実さは、大きな試練に揺さぶられると、意外にも頼りにならない。しかし主イエスの変わらない約束、主イエスの誠実さが私たちを支えているのです。

悪魔は私たちの信仰をふるいにかけます。あわよくば、私たちの信仰をなくそうとします。悪魔の働きの目的は、弟子の信仰がなくなることなのです。しかし主は、あらかじめ告げておられました。「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。」(ルカ22:32)

実は私たち一人一人も、このイエスさまの祈りに支えられているものなのです。このパンデミックという災いの只中で、ふるいにかけられている私たちのために、今も天で、私たちのためにとりなして祈ってくださっているイエスさまがおられるのです。

「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:32)と主は語られました。「失敗することが失敗ではなく、失敗した後、何もしないでいることが失敗である」とよく言われますが、まさにその通りだと思います。私たちは幾度となく倒れてしまうものですが、また何度でも立ち上がるように主は招いてくださっています。

今一度、イエスさまの十字架の道を思い返したいと思います。ご自身を訴え、鞭で打ち、嘲るものたちのために、そしてペトロのためにその道を歩まれました。そして時を超え、国境を超えて、この場所に集う私たちのためにも、主は十字架を負ってくださったのです。主の憐れみの眼差しが、今日も私たち一人一人に注がれています。

動画はこちら↓

https://www.youtube.com/watch?v=DaDQvcRye80

 

2020年3月29日「今日も命の糧をください」加山献牧師

「今日も命の糧をください」加山献牧師

マタイによる福音書6章11節

これまでの「主の祈り」から、父なる神の御名のために、御国のために、また御心の実現のために祈ることの大切さを学んできました。しかしイエスさまは、同じ「主の祈り」の中で、私たちが自分自身の具体的な必要のために祈るということも教えてくださいました。

〈1〉 必要を神に求める祈り

「日用の糧をお与えください」という祈りの「糧」という言葉は「アルトーン」というギリシャ語で、直訳すれば「パン」を指す言葉です。当時の人々にとって「パン」は欠かすことのできない主食でした。特にガリラヤの貧しい人々にとって、「パン」は今日という日を生きていくための切実な願いだったのです。

わたしたちは父なる神の子どもとして、-子が父に願うように-、大胆に求めることが許されているのです。イエスさまは同じ山上の説教の中で、「求めなさい。そうすれば与えられます」とも言われました。主の御名によって大胆に求めるものでありたいです。

〈2〉御国の祈りと「わたしたち」の祈り

主の祈りの後半部分はひとりだけでは祈れない祈りです。イエスさまは、私たちがひとりで祈るだけでなく、信じるもの同士が集まり一緒に祈ることを前提としてこの祈りを教えてくださいました。また世界の飢えている人々の為にも祈り、できうる限りの行いを成すものでありたいです。

さらに、「今日与えたまえ」(新改訳2017)という言葉から、イエスさまは、私たちがこの祈りを毎日祈ることを前提とされました。「パンの背後に粉がある。粉の背後に麦がある。麦の背後に太陽の光と雨の恵みがある。そして全てのものの背後に父なる神さまの心がある。」(AMハンター)私たちの存在は全く、神さまに依存しています。だから今日も、神さまに願い、神さまに感謝する者でありたいと思います。

〈3〉私たちの霊的な糧を求める

「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」(マタイ4:4)霊的な糧とは神のみことばであり、イエス・キリストご自身です。ぜひ、毎日神の言葉である聖書を味わっていただきたいと思います。毎日いただくことによって、私たちは満たされ霊的に成長することができます。

イエスさまは「わたしが命のパンである」と言われました。みことばをいただく、ということは、それを通してイエス・キリストと出会う、ということです。イエスさまにしか癒せない、魂の飢え、魂の渇きがあります。「今日も命の糧をください」、「イエスさま、今日もあなたとご一緒に生きさせてください」と祈りましょう。

 

 

 

2020年3月22日「この海を渡ろう」加山献牧師

「この海を渡ろう」加山献牧師

出エジプト記14章5~16節

【解放されたものを再び捕らえようとする力】

エジプトでの奴隷生活から解放されたイスラエルの民は、意気揚々とエジプトから出ていきました。ところがエジプト王ファラオは心変わりし、えり抜きの軍隊を整え、再びイスラエルを奴隷にするために出撃したのです。

ところで私たちは、主イエスに出会い、主イエスを信じ、どのような状況から救われ、救われつつあるのでしょうか。何が変わり始め、どのような新しい出発をしたのでしょうか。私たちは主イエスによって罪と死の問題、それに付随するあらゆる問題から、すでに救い出されているものなのです。

しかし、解き放たれ自由にされたものを再び支配しようとして追いかけてくる力があるのです。はるか昔に手放したはずの恐れや不安が、再び襲ってくることがあるかもしれません。過ぎ去ったはずの古き支配者が私たちを離そうとせず、追いかけてくることがあるのです。

しかしモーセは「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない」(13節)と人々を励ましました。私たちもこのモーセの励ましに深く耳を傾けたいと思います。この人生の歩みにおいては、私たちを追い詰めようとする様々な出来事があります。しかしながら、「もう二度と、永久にそれらを見ることはない」という、私たちの人生にもたらされる確かな勝利についての良き知らせがあるのです。

【主があなたたちのために戦われる】

「主があなたたちのために戦われる」という宣言の言葉に注目したいと思います。イスラエルの道は海にさえぎられ、後ろからは世界最強の軍隊が迫っていましたのです。もう自分たちの力ではどうすることもできない状態でした。自分で自分自身を救うことのできない人間の弱き姿がここにあります。ですが、自分の力が尽きた時こそが神の御業が現れる絶好の時なのです。

どんなに神を強く信じていても、怖いものは怖いかもしれません。夜の闇が一番深くなる夜明けの時に、民は海に向かって踏み出していかなければなりませんでした。聖書の中で何度も何度も「恐れるな」と語られているのは、私たちの人生には恐れを抱かせるような問題が山のようにあるからです。

人生の苦難の責任を神さまに問いただすのではなく、私自身がこの苦難や問題に問いかけられている者へと変えられていく必要があります。神さまを被告人の席につけて「なぜなのですか」と問い詰めるのではなく、私たちの方が神さまに問われている立場に身を置き換えるのです。

イスラエルの民は神さまのことばを信じて、前に向かって歩み出しました。するとその先に、神さまの力と救いを経験しました。同じように、私たちに必要なことは、キリストのことばを信じて、一歩踏み出すことです。この海を渡りましょう。もし、まだキリストをご自身の救い主として信じておられない方がおられましたら、ぜひイエス・キリストを救い主として、心に受け入れてください。心からお勧めします。

 

 

 

 

 

2020年3月15日「イエスと二人の犯罪人」今村まさゑ協力牧師

「イエスと二人の犯罪人」今村まさゑ協力牧師

ルカによる福音書23章32~47節

受難節(レント)を如何お過ごしでしょうか。今朝は最も大切な箇所として御言を頂き、主の贖いの尊さを心に刻みたいと思います。「十字架上の七言」のうち三言が今朝の箇所に記されています。イエスさまが十字架につけられたのは9時であったとマルコは記していますが、実は前夜から一晩中、不当な裁判で引き回され殴打、鞭打ちで全身は血だらけ、立っていることさえ不可能な状態でした。イエスさまと共に左右に犯罪人も三本の十字架が立ちました。多くの人々がいました。民衆、議員たち、祭司長や律法学者たち、兵士たちが口々に罵しり続けました。弟子たちの多くは、状況が不利になるや主の弟子であることを恐れて、身を隠したのです。

「他人を救った。もしメシヤなら、神から選ばれた者なら、ユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」犯罪人も「自分自身と我々を救ってみろ」と嘲笑したのです。{その時、イエスは言われた。「父よ、彼らをおゆるし下さい。自分が何をしているのか知らないのです。」(34節)と。主イエスさまにとって十字架から飛び降りることなど容易なことでしたが、ご自分を救わぬことで、死ぬべき人類の罪の身代わりとなって救いの道をひらかれたのです。これが十字架の意味であり神の愛なのです。

第二コリント5章21節にこうあります。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちは、その方によって神の義を得ることができたのです。」何という恵みでしょうか。

「父よ、彼らを赦してください。」この執り成しの祈りを真近で聞いたもう一人の犯罪人は、肉体が張り裂けるような苦しみのなか、「お前は神をも恐れないのか。」と、神への畏敬の念にかられ愚かな罪人がいたことを思い出してほしいと願ったのです。するとイエスさまは、「アーメン、アーメン、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(43節)と言われました。大罪人であっても罪を悔い改めるなら赦されるのです。キリストの十字架の身代わりの故に、無条件に赦され神の国に招き入れて下さるのです。

昼の12時頃、全地は暗くなり3時頃まで続き、太陽は光を失っていた。イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」(46節)こう言って息を引き取られたのです。この出来事を一部始終、目撃した百人隊長は「本当に、この人は神の子だった。」と言って神を讃美したと記されています。

そして、三日目の朝、主イエスさまはご復活されたのです。今年は4月12日が復活祭(イースター)です。ハレルヤ!

 

 

 

 

2020年3月8日「御心がなりますように」加山献牧師

「御心がなりますように」加山献牧師

マタイによる福音書6章10節

主の祈りの第3の願い「御心がなりますように」という祈りを通して、3つのポイントで考えていきたいと思います。

①わたしたちの思いと異なる神さまの心

私たちの思いよりも遥かに高い神さまの御心、私たちの計画よりも遥かに勝る神さまの道があります。私の願いを神さまに届けることよりも、神さまがこの私たちに願っておられることを実現するために祈る、そこに祈りの本質があります。

天で行われている、神さまの御心が地でもなされるように、この世界で、私の心のうちになされるように祈っていきたいと思います。

②神の心を尋ね求める

私たちの人生は決断の連続です。一つ一つの決断が私の人生を左右します。理性的に考えなくてはなりません。しかし、信仰を持っている人は何が神さまの御心であるか、尋ね求める、ということです。

私の思いを置いて、天の父に私の人生を委ねる時に、私の選ぶべき道、私のとるべき態度、私の語るべき言葉、私が生きるべき人生に導かれていきます。

神さまにすべてを委ねて生きる人生の、最も優れた模範はイエス・キリストご自身です。マルコによる福音書14章32節~36節『アッバ、父よ、・・・しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。』と祈られています。

③究極的な神の心ー救い

父なる神さまはどのような思いでこの祈りを聞かれていたでしょうか。御子イエスさまが十字架の道を進まれる姿を、涙を持って見つめておられたことでしょう。私たちが飲むべき裁きと怒りの杯をイエスさまが飲み干してくださり、代わりに私たちに赦しと救いの杯を与えてくださいました。イエス・キリストを信じるものが一人も滅びないで、永遠の命を得ること、すべての人が救われることが、神さまの御心です。

神さまはこの世界に対して、私の人生に対して、関心を持っておられ、明確な救いの意思を持っておられます。この神さまの救いが、神さまの心が世界でなされてますように、求めていきたいと思います。受難節(レント)の時に入っています。イエスさまの御苦しみを通してなされた神の御心を求め、祈りましょう。

 

 

 

 

2020年3月1日「新しい出発」加山献牧師

「新しい出発」加山献牧師

出エジプト記12章31節~39節

1.新しい出発

出エジプト記のテーマは「脱出」です。イスラエルの民はエジプトに囚われ、閉じ込められ、厳しい労働を課せられて、苦しんでいました。そこから神さまに救い出され「脱出」する。それが出エジプト記のテーマです。

私たちも、自らの人生をそこになぞらえて、重ね合わせるようにして、このみことばをいただいていきたいと思います。私たちが閉じ込められている、抜け出すことのできない現実、神さまが、私たちをそこから救い出してくださる、「脱出」させてくださる。

私たちはどんなところに閉じ込められているのでしょうか。私たちは、どんな現実に囚われていて、動けなくなっているのでしょうか。人間関係、経済的な状況、過酷な労働、自分自身の内側にある葛藤、不安、怒り、孤独、悲しみ・・・、私たちは様々なしがらみの中で苦しみ、そこから動けずにいるかもしれません。しかし、神さまが私たちをそこから救い出し、持ち運んでくださる。究極的には、神さまが私を「罪と死」から救ってくださる。それが出エジプトの語る福音です。

2.酵母を入れないパンが指し示すもの

ユダヤの人々は聖書の時代から現在に至るまで、出エジプトの出来事を記念して過越の祭りを祝っていますが、今でもこの祭りの時には、酵母を入れないパンが食べられます。この酵母を入れないパン(=種なしパン)は聖書の中で特別な意味を持って語られています。

主イエスは「ファリサイ派の人々のパン種(=自己義認)とヘロデのパン種(=高慢な心)によく気をつけなさい」と戒められ(マルコ8章15節)、使徒パウロはコリントの教会に宛てた手紙の中で、「いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。」(第一コリント5章6節)とコリントの教会の人々を励ましました。

パン種(酵母)は聖書の中で、自己義認、高慢な心、悪意、そして罪を象徴しています。自分自身の心に悪意、高慢、自己中心などの罪が入ってこないように、よく心を見張るものでありたいと願います。

3.種なしパンと主の晩餐

種なしパンの最も重要な意味は、それがイエス・キリストご自身を指し示している、ということです。全く罪のないお方が、私たちのために裂かれた、ということです。

私たちは「自分をよく確かめた上で、パンを食べ、杯から飲むべきです」と教えられています。主の晩餐を受ける時、自分の心を確かめることが大切です。しかしながら、「私はこのパンと杯を受けるに値しない、私はふさわしくない」と恐れないでください。「こんな私が赦されたのだ、こんな私が受け入れられたのだ」と感謝して、主のからだと血とを受け取っていただきたいと思います。「主の晩餐を受けるにふさわしいもの」とは、主の救いを受け入れたもののことです。「私は罪人です。私を憐んでください」と主の前に悔い改めたもののことです。パン種の入っていないパン、罪なき方である主イエスをいただいて、私たちは今日も救いを受け取りつつ信仰の旅を歩みましょう。

 

 

2020年2月23日「過越の夜」加山献牧師

「過越の夜」加山献牧師

出エジプト記12章21節~28節

過越の祭りは、ユダヤ民族にとって変わってはならない、失われてはならないものとして受け継がれてきたものでした。この祭りはユダヤの三大祭りのひとつとして、現在も祝われています。

【過越の夜、何が起きたのか?】

今から約3000年前のこと、モーセはエジプト王ファラオのもとへ遣わされ「奴隷となっているイスラエルの民を解放してください、そうでないとまた災いがエジプトに降ります」という警告のメッセージを語りました。モーセはこれまで、すでに9回も警告のメッセージを伝え、その度にエジプトを災害が襲いました。そして10番目の最も恐ろしい災いがエジプトを襲おうとしていたのです。それは、エジプトに住んでいる全ての家庭の初子(長男)の命が失われる、というものでした。

しかしイスラエルの家の子どもは、不思議な方法でその災いから免れることができる、というのです。それは、家族ごとに一頭の羊を屠り、戸口の柱と鴨居にその羊の血を塗りなさい、という不思議な指示でした。それを守ればイスラエルの家には災いが訪れず、神様の裁きはその家を通りすぎ、「過ぎ越し」ていった、というのです。

この出来事を記念する過越祭は、エジプトからの脱出、救いと解放を証しして、次の世代に伝えていくための伝統となりました。そして「死」という災いがイスラエルの家を過ぎ越していったことを記念するものとなったのです。

 

【過越の食事と主の晩餐】

主イエスは十字架にかかられる前の夜、弟子たちと共に過越の食卓に着かれました。一般的に「最後の晩餐」として知られている場面です。「皆、この杯から飲みなさい。これは罪が赦されるように、多くの人のために流される、私の契約の血である。」(マタイ5:27~28)

新約の時代を生きる私たちにとって、主の晩餐式とは、どのようにして神が私たちを救ってくださったのか、どのようにして私たちは罪の縄目から解放されたのかを、思い起こし、次の世代に伝えていくための儀式です。そして、出エジプト記で犠牲になった過越の羊は、やがて来られるキリストを指し示すものなのです。

 

【人は何によって救われるのか?】

私たちを救うのはイエス・キリストの血潮だけです。これを離れて、私たちの救いはありません。誰にでも「死と向き合う」その日はやってきます。死は私たちのドアを一軒一軒回り、私のドアをノックする日が必ずやってきます。

そのような状況の中で、私たちを慰めるのは、行いでも、品性でも、功績でもありません。その時、私たちを慰めるのは、私を愛し、私のために命を捨てられた、キリストだけが私たちの慰めです。小羊の血には力がある。このことを過越の夜は語っています。

 

 

 

2020年2月16日「恐れるな。あなたはわたしのもの」今村まさゑ協力牧師

「恐れるな。あなたはわたしのもの」今村まさゑ協力牧師

イザヤ書43章1節~3節

イザヤ書は小聖書といわれる。聖書は旧約39巻と新約27巻、合わせて66巻です。イザヤ書も66章。1章~39章までが第一イザヤ、40~66章までが第二、第三イザヤです。その内容も旧約は律法、預言、諸書から成り、イスラエル民族の罪の歴史が記され、新約はキリストの誕生によって、全人類の罪が贖われるという救いの福音が中心です。イザヤ書も39章までは暗く厳しい亡国の悲しみ、裁きの内容で、40章からは慰めに満ちた救いの希望の言葉が語られています。イザヤは前8世紀に生まれた最も偉大な預言者といわれています。(イザヤ6:1~13、10:20~22)

イザヤ書のバビロン捕囚とは、南ユダの最後の王、ヒゼキヤは捕らえられ目前で自が王子たちや貴族たちもすべて殺され、王自身は両眼をつぶされ、青銅の足枷をはめられ、約1000㎞の道のりを引かれていったのです。(エレ39:6~、列王下19~20章)

今朝の43章は、神に対して犯した罪の結果、国は滅びバビロン捕囚の身である人々に対して創造主なる神が、今、再びこう言われる。「恐れるな。わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」と。

放蕩息子は遂に豚の餌で空腹を満たしたいと思うほどに身を持ち崩し、息子ではなく雇人の一人にと恐れつつ故郷に近づいた時、まだ遠くに居たのに走り寄って抱きしめた父のように、「恐れるな。あなたはわたしのもの」と言って下さるのです。「わたしは主、あなたの神、聖なる神、あなたの救い主。」わたしこそあなたの主、神であると繰り返されています。

「罪が支払う報酬は死です。」(ロマ6:23)捕らわれた者を解放するためには身代金が必要です。3節のエジプト、クシュとセバはエチオピアのことで紅海沿いの大国を代償とする。それほど「わたしの目にはあなたは価高く、尊く、わたしはあなたを愛する・・」と言っておられるのです。更に、5節で「恐れるな。わたしはあなたと共にいる。」絶望と恐れのなかにいた捕囚の民に帰還が告げられていくのです。「わたしは、あなたを贖う。あなたの名を呼ぶ。」確かに多くの人々が名を呼ばれました。

「恐れるな。アブラムよ。」(創15:1~ 22:1~) 「モーセよ。」(出3:4~)「サムエルよ。」(サム上3:1~ ) 「ザアカイ、」(ルカ19:1~)「マリア」(ヨハネ20:15~)「ラザロ、」(ヨハネ11:38~)「ピリポ、」(ヨハネ14:9)そして今朝、私達に対しても「見よ、わたしは世の終わりまで、いつも、あなたと共にいる。」(マタイ28:20)と語っておられます。横尾家の旅立ちを祈りましょう。

 

 

 

2020年2月9日「渇いている人は誰でも」加山献牧師

「渇いている人は誰でも」加山献牧師

ヨハネによる福音書7章37節~39節

イエスさまは弟子たちと共に、エルサレムに上って来ていました。ユダヤの三大祭りのひとつ仮庵祭という秋の祭りを祝うためでした。

◆時期:仮庵の祭りについて

かつてイスラエルの人々がエジプトから、約束の地であるカナンを目指して旅をした時、40年間荒野でテント生活した、ということを思い起こすための祭りでした。砂漠で飲み水に困っていたイスラエルの民に対して、神さまが岩から泉を湧き上がらせて助けてくださったことを記念して水の歌が歌われます。「マイム・マイム」というヘブライ語のフォークソングの歌詞も仮庵の祭りで歌われるイザヤ書の聖句からとられています。

◆ 状況:注目される主イエス

ガリラヤ地方の人々はいつもイエスさまの話を聞いていましたが、エルサレムの人やその他の地域から来ている人々にとっては、年に三回ある巡礼祭、都詣での期間が唯一、イエスさまと接触するチャンスでした。

一方では、妬みに燃えていた宗教的な指導者たちはイエスさまをとらえる機会をうかがっていました。この時からわずか半年後、もうひとつの巡礼祭である過越の祭りの時にイエスさまは十字架にかけられます。多くの人の関心がイエスさまの言動に集まっていたのです。

◆ メッセージ:生ける水、主イエスからの救いの招き

祭りが最も盛り上がる時に、「渇いている人は誰でも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」イエスさまは大声で言われました。

(1)誰が救いに招かれているのか?

イエスさまは「渇いている人は誰でも」と呼びかけられました。分け隔てなく、すべての人がこの救いに招かれています。

(2)誰が招きに応答するのか?

それは心に渇きを覚えている人、自分が渇いている、ということを知っている人です。私たちはどれほど、自分の魂の渇きに注意を向けているでしょうか?物質的な豊さの中にあっても、私たちは心の渇きを忘れないものでありたいと願います

(3)信じたものに与えられる泉とは?

「私を信じるものは、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」とイエスさまは言われました。この泉は溢れ流れて、渇いた大地を潤します。そして私たちの隣人を生かします。

イエスさまはこの半年後、十字架、復活、昇天を通して栄光を受けられることになります。そして、翌年のペンテコステの日に、教会に聖霊が注がれました。今は教会の時代であり、聖霊の時代です。私たちの内に与えられた聖霊の働き、この泉の流れを閉ざすことなく、解き放つ者でありたいと願います。