カテゴリー別アーカイブ: 礼拝メッセージ

2021年1月17日「神殿での少年イエス」今村まさゑ協力牧師

「神殿での少年イエス」今村まさゑ協力牧師

ルカによる福音書2章41節~52節

ベツレヘムで誕生なされたイエスさまは、きよめの期間を過ぎて宮詣でをすませ、ナザレでお育ちになったとあります。そして、マタイ福音書2章13節以降に、ヘロデ王が命を狙っているのでエジプトに避難なさり、王が死んだとのみ告げを受けてナザレに帰り住んだと記されています。「幼子はたくましく育ち、知恵に満ち」とあります。ナザレの村は、なだらかな山々に囲まれ、アネモネや野生のシクラメンなどが咲き、糸杉やナツメヤシの木々が茂っていました。空にはコウノトリが群れて舞い、山には岩だぬきが・・ そのような自然の中で、イエスさまは村の子どもたちと野山を走り回られ、たくましく育たれたのでしょう。また、ユダヤの子どもたちは幼い時からシナゴーグ(会堂)で、ラビ(律法の教師)から、聖書の教育を受けていましたので、「幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵に包まれていた。」の通りです。

さて、41節からですが、両親は毎年エルサレムに旅をしたとあります。イスラエルの3大祭りの筆頭は過超祭です(他に除酵祭、仮庵祭)。イスラエル民族にとって最も大切な祭りで、祖先がエジプトの奴隷であった時に、労働力を惜しむエジプト王に、神は10の災いの最後に、鴨居の柱に羊の血を塗れば災いを過越すが、血を塗らなかった家の長子はことごとく死んだのです。王の長子も死にました。エジプト王は遂に、イスラエル人の脱出を認めたという出来事がありました。その恵みを記念する祭です。鴨居に塗った羊の血とは、まさにイエスさまの流される十字架の血潮を象徴していました。神の命により(出23:14~、申16:16)イスラエルの男子は祭りを厳守しましたので、150キロの道のりを4~5日かけての旅をしたのです。無事に都に着き、祭りが終わり帰路についたときのことです。(43節)一日分を歩いて、イエスさまが居ないことに気づき、両親は6人の子ども(マルコ6:3)を親戚や知人に託して引き返しました。「三日の後、イエスが神殿の境内で、学者たちの真ん中に座り、質問しておられるのを見つけた」のです。疲労困憊していた両親はイエスを見て驚き、母親は「なぜ、こんなことをしてくれたのです」と。するとイエスは、こともなげに「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分に父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」「ここにいるのは当たり前」とは「ここに居ない訳にはいかない」という必然性を表す言葉です。神殿にいることが当然で、神の子としての自覚をもっておられたということがわかります。イエスは両親とナザレに帰り18年間「両親に仕えてお暮しになった」のです。

「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。」(52節)と結ばれています。神と人とに愛されたとは、人々との関係のなかに存在し、神に仕え、また、人に仕える歩みをなさった証でしょう。

『愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一語によって全うされるからです。』(ガラ5:13)  参照聖句(イザヤ55:9)

 

 

2021年1月10日「信じたとおりになるように」加山献牧師

「信じたとおりになるように」加山献牧師

マタイによる福音書8章5節~13節

カファルナウムはローマ軍の駐屯地として栄えた街でした。その街で働く一人の指揮官が謙遜な心で、主イエスのもとにやって来ました。彼の願いは自分の僕(おそらく彼の部下だと考えられる)を病気から救ってほしい、ということでした。

彼は非常に部下思いの隊長であったことがわかります。彼は一人一人の兵卒を心から愛し、労っている上司だったのです。

3つの福音書の中で、この百人隊長の信仰は模範的なものとして描かれています。このような聖書箇所を読む時、果たして私はこのような立派な信仰を持つことができているだろうかと、どこか心もとなく感じることもあるでしょう。

しかし、“どれほど強く信じることができるのか”ということが重要なのではありません。たとえ、からし種のような小さな信仰であったとしても、“私たちは「誰を」信じているのか”ということが大切なのです。

百人隊長は、イエス・キリストの言葉に人を癒し、立ち上がらせる力があることを信じました。彼が出会ったイエス・キリストに私たちも出会いました。そして、彼が信じたイエス・キリストを、私たちもまた信じているのです。

「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」(13節)

私たちが何を信じるかで、私たちの人生が決まります。そして「誰を」信じるのかを、私たちは選ぶことができます。目の前の厳しい現実に私たちの心を明け渡すのか、それとも生ける神の言葉であるキリストに心を向けるのか、それは私たちの選択です。私たちが何を信じるのかで、私たちの人生が変わってくるのです。

 

 

2021年1月3日「御心ならば」加山献牧師

「御心ならば」加山献牧師

マタイによる福音書8章1節~4節

すると、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち、重い皮膚病は清くなった。 (マタイ福音書8:2~3)

聖書の時代、このツァラアトと呼ばれている皮膚病は、当時の医療ではなす術がなく、最も恐れられている病気の一つでした。患者は肉体的に非常に気の毒な状態ありましたが、その苦痛を一層耐え難くしていたことがありました。それは、当時の病人は完全に人間の社会から追放されていた、ということです。

彼らは当時のパレスチナでは城壁のある町に入ることはできませんでした。同じ病にかかった人たちと生活する小さな村が点在していて、そこに隔離された状態で生活しました。絶対に街の人には会わないようにしなければならず、健康な人の方から病気の人に挨拶することも禁じられていました。皮膚病の人からは常に4キュピト以上離れていなければならないというルールもありました。(4キュピトは約180センチ)

この患者には一つの確信がありました。自分が人と会うならば、必ず避けられる。下手をすると石を投げられることもあった。けれども、この人だけは私を遠ざけない、この人だけは自分を迎えてくれる、ここに彼の信仰がありました。だからこそ彼は“イエスに近寄り、ひれ伏し”ました。(2節)

主イエスには深い憐れみがありました。それは掟破りの愛と呼べるものでした。福音書の強調点は、イエスは「手を差し伸べて」この人に触れた、ということです。主イエスは2メートル以上近づいてはいけない、挨拶をしてもいけない、と定められていたこの人に手を伸ばし、触れられました。

暖かい人の手の温もり、もう何年も感じたことのなかった人の手の感触をこの人は体験したのです。肉体だけではなく、この人の心もたちまち癒やされたことでしょう。この人の孤独が破られた瞬間でした。

新改訳の聖書では「わたしの心だ、清くなれ」(3節)という訳をとっています。主イエスの御心は私たちの心を癒し、私たちの孤独を破ることです。そして、主イエスの癒しは差別と断絶に満ちた世界に変革をもたらすのです。

 

 

2020年12月27日「弟子になる」朱承圭協力宣教師

「弟子になる」朱承圭協力宣教師

マタイによる福音書4章18節~22節

 

イエス様は神の国建設のために弟子たちを呼び集めました。本日の聖書箇所には、イエス様の招きに応じて献身する弟子たちの姿があります。

 

1) 弟子たちはイエス様に呼ばれた時、何も言い訳しませんでした。

“イエス様。魚をとってから従います。”

“イエス様。お金をたくさん稼いでから従います。”

“イエス様。3年間だけ待ってください。その後に従います。”

このようには言いませんでした。20節に「すぐ」、22節にも「すぐ」とあるように、弟子たちは即座に招きに応じて献身しました。

 

2) 神の国に必要な献身は決断の伴った献身です。弟子たちの献身には決断が必要であったし、妨げもありました。弟子たちの献身に対する困難は、同じく20節、22節に書いてあります。

弟子たちはイエス様が呼んだとき 20節“網を捨てて“従いました。また、22節“父をおいて”従いました。

それは簡単ではない決断でした。弟子たちは船を手放しました。経済的なチャレンジがありました。また、職業を置いて献身しました。それはとても大きな冒険でした。また、愛する家族たちとの別れにも耐えなければなりませんでした。皆様の信仰生活の中にも、数多くの現実的な障害があるかと思います。(お金、時間、両親…)

 

3) 弟子たちの喜びをもって献身することができた根本的な理由は、ヨハネ福音書1章35節~37節に書いてあります。その理由とは、主に対する“信頼”でした。実はイエス様と弟子たちの出会いはその日の出会いが初めてではなかったです。

ヨハネ福音書1章36節において、バプテスマのヨハネはイエス様を指し、次のように言います。“見よ、神の小羊である。”

この言葉を聞いたヨハネの二人の弟子はイエス様に従いました。イエス様と弟子たちとの出会いは、この時にありました。

弟子たちはイエス様と深い交わりを通して深い信頼が築かれていきました。このように弟子たちの献身は感情的な献身ではありませんでした。イエス様と弟子たちとの深い“信頼”に基づいた献身でした。

 

4) 弟子たちが十字架の道にまで従うことができた秘訣はイエス様に対する“信頼”でした。ここでの信頼と献身は同義です。もっと深い献身ができるように神様に人格的に出会ってください。神様から呼ばれるときに“アーメン”と献身できるように神様との深い信頼の関係をつくってください。

イエス様は弟子たちを「人をとる漁師」として招きました。同じようにイエス様は私と、そして皆さんお一人お一人を弟子として招いておられます。弟子の人生は十字架の人生です。使命を持つ者の人生です。それは決して簡単な生き方ではありません。その故に、毎日毎日、神様に深く出会っていきましょう。

 

 

2020年12月13日「マリアの賛歌」今村まさゑ協力牧師

「マリアの賛歌」今村まさゑ協力牧師

ルカによる福音書2章46節~56節

2000年前のある日、ガリラヤのナザレに住むおとめマリアに、神から遣わされた天使ガブリエルは「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる。」と告げました。驚きおそれるマリアに「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高きかたの子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。・・」マリアは天使に言った。「どうしてそのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高きかたの力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも年を取っているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」そこで天使は去っていった。と聖書は語っています。

天使のみ告げに応じたマリアは、両親にも打ち明けることができないまま、エリサベトのもとへと急ぎました。ところが、マリアの挨拶を聞くや、声高らかに「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」

マリアが何も語らぬ前に、エリサベトは「胎内のお子さま」「わたしの主のお母さま」と敬い、孫のような若きおとめに、ぬかずく・・何という姿でしょう。

賛歌の前半は一人称です。わたしの魂・わたしの霊・わたしの救い主・わたしに偉大なことを・・。「主をあがめる」とは、主を大きくするという意味で。神を大きくする時、自分や物が小さくなる。自分が大きいと傲慢になり、他人が大きいと劣等感におちいる。神を大きく生きる時―これらから自由になれるのです。

後半は、神のみ業による逆転が語られます。主はその腕で力をふるい、思いあがる者を打ち散らし、権力有る者をその座から引き下ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を追い返えされる。マリアは全部、未来形ではなく、成就した過去形で述べています。へりくだった魂こそ、低き馬小屋まで下って来られたイエスに会える場所なのです。(参照聖句:申命記8:11~ 詩51:19 マタイ25:40 詩102:19)

 

 

2020年12月6日「優しい王様はどこですか」加山献牧師

「優しい王様はどこですか」加山献牧師

マタイによる福音書2章1節~12節

  「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占 星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。』」(1節~2節)

東方の学者たちは、「王の誕生を祝う心」を持っていました。しかも彼らは、自分の属する国の世継ぎではなく、他の国の王として生まれた幼子を礼拝するために長い旅をしてきたのです。

国と国とが常に緊張関係にあった古代中近東において、他国に対する尊敬に基づいた行動は稀であり、価値あるものといえます。“自国中心主義”が台頭している現代においても、同じことが言えるでしょう。

さらに、この学者たちには「救い主を求める心」がありました。彼らは、高い地位とその博識さにも関わらず、自分が罪を赦され、救われる必要があることを認めることができる謙遜な心をもっていました。その謙遜さが彼らを遠方の国より、イエス・キリストのもとに導いたのです。

 「東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」(9節~11節)

異国人である彼らの礼拝はマタイ福音書の重要な指針を伝えています。イエス・キリストはユダヤ人のみならず、「世界のすべての人のための救い主としてお生まれになった」ということです。

私たち一人一人の信仰の歩みも、この星に導かれた学者たちの旅のように、救い主のもとを目指す長い旅路のようなものです。愛であられるお方、心から慕い求める主イエスと顔と顔をあわせて相まみえるその時を目指し、東方の学者たちのように信仰の旅を続けましょう。

 

 

 

2020年11月29日「永遠に残るもののために」加山献牧師

「わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。」(第一コリント3章9節)

① 教会の土台

教会はこの世界に何のために存在しているのでしょうか。なぜ神さまは教会を必要とされたのでしょうか。聖書の中で語られている、「人が一人でいるのは良くない」というみ言葉どおり、神さまはこの教会という場所で私たちと出会い、共に生きることを願ってくださったのです。神さまを愛し、人を愛するという生き方は、まさに教会を舞台としてなされていくのです。

神の教会-神との出会い、そして隣人との出会い-は、主イエスの犠牲の上に打ち立てられました。主イエスの十字架と復活がなければ、この世界に教会は存在しなかったし、神の民が共に集まることはなかったでしょう。まさにイエス・キリストこそが教会の土台なのです。

 

② 永遠に残るもののために働く

使徒パウロは同じ手紙の中で「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」と記しました(第一コリント13章13節)。

私たちは、主なる神さまの偉大な愛を信じる信仰を持つことができます。信仰により、私たちの人生に希望が与えられます。現実の世界がどんなに厳しいものであっても、私たちは失望におわらない希望を知っているのです。私たちはその希望を握り続け、離しません。否、その希望が私たちを捕らえて離さないのです。そして私たちは、この教会という場所において、神さまからいただいた愛と希望を隣人に分かち合うことができます。教会でのすべての奉仕活動は、この目的にたどり着くのです。実は私たちは、教会という舞台において、“永遠に残るもののために働くこと”、その栄誉ある働きにあずかっているのです。

 

 

2020年11月22日「神は我々と共におられる」今村まさゑ協力牧師

「神は我々と共におられる」今村まさゑ協力牧師

マタイによる福音書1章18節~25節

一週繰り上げの待降節第一の礼拝として、マリアの婚約者ヨセフに臨んだイエス・キリストの誕生の次第をみてまいりましょう。

若い二人は晴れて結婚する日を楽しみに、しあわせな日々を過ごしていました。ところが突然、マリアのところに天使ガブリエルが来て「おめでとう。恵まれた方、主が共におられます。マリア、恐れることはない。聖霊があなたに降り、いと高き神の力があなたを包む。あなたは身ごもって男の子を産む・・・。親類のエリサベトも、年を取っているが、もう6か月になっている。・・・」(ルカ1:26~)

マリアは13,4歳のおとめです。ヨセフとの交際も清らかな関係でした。マリアの驚き、恐れは想像を絶します。当時、姦淫の罪は石打による死刑です(申22:22)両親にもヨセフにも語れぬまま、天使が告げたエリサベトがいるユダの町へ駆け出しました。

3か月間、祭司ゼカリアとエリサベトのところに滞在し、落ち着きを得たのでしょうマリアはヨセフのもとに帰り一切を打ち明けました。

19節「ヨセフは正しい人」とあります。曲がったことが嫌いなヨセフには、如何に考えようと理解することのできないことでした。

マリアへの思いはせめて密かに縁を切ること、さらし者にしないことでした。ヨセフの失望、落胆は計り知れないものでした。ヨセフに拒否されれば、マリアは到底、生きてゆくことはできなかったでしょう。ヨセフが悶々と考えていると、「主の天使が夢に現われ告げました」「ダビデの子ヨセフ、恐れず、マリアを受け入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は

「神は我々と共におられる」という意味である。」(イザヤ7:14)

これは、700年前から預言されていました。24節「ヨセフは眠りから覚めると、天使が命じた通りにマリアを受け入れ、」子の父となることを決心したのです。

よく処女降誕なんて馬鹿げているといって軽々に、キリストの福音を拒否する人がおられますが、「聖霊によって身ごもった。宿った。」とは、まさに神の霊、神の力、神の御業です。天地万物を一週間で創造された神に、不可能はないのです。

故に、今年のクリスマスこそは、「インマヌエル!神が共にいてくださる」喜びを受け止められる魂を祈ります。

(参照聖句:マタイ28:20  マタイ18:19  ヨシュア1:9  詩編46:1)

ヨセフは一介の大工でした。何の権力もない人でした。神はそのヨセフに神の御子を預けられ、人類を罪から救う神の大計画を実現されるのです。マタイの1節からの系図、その完成のところ、16節にヨセフの名は記されています。ハレルヤ!!

 

 

 

 

2020年11月15日「天国の人として生きる」加山献牧師

「天国の人として生きる」加山献牧師

コロサイの信徒への手紙3章1節~4節

「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。」(コロサイ3章1節~2節)

 

コロサイの教会に宛てて書かれた手紙の中に記されている“上にあるものを求める”とは、どのような生き方を指し示しているのでしょうか。

 

① あなたのための場所がある

第一に覚えたいことは、“天には私たちのための場所がある”ということです。主イエスは弟子たちに次のように語られました。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」(ヨハネ福音書14章1節~3節)

“上にあるものを求める”生き方とは、私たちを招いてくださっている神の愛を信じることです。そこには私たちのための居場所があり、主イエスは私たち一人一人を暖かく迎えてくださる救い主なのです。

 

② すべてのことが報われる

ヨハネの黙示録には次のような言葉があります。「そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。』」(ヨハネ黙示録20章3節~4節)

この人生においては、楽しみや喜びだけでなく、悲しみや嘆きもあります。しかし聖書は天の御国を次のように描写しています。「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。」そのような場所に私たちは迎え入れられるのです。“上にあるものを求める”生き方とは、すべての労苦が報われることを信じ、永遠の慰めを望みつつ生きることです。

 

③ この地において、天国の人として生きる

コロサイの手紙には次のような不思議な言葉があります。「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。」(コロサイ3章3節)

一体、ここで何が語られているのでしょうか。“あなたがたは、もはやこの世の人ではなく、もう既に天国の人なのだ”、というのです。この地上においては、痛みがあり、悩みがあり、病いがあります。しかし「あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されている」が故に、私たちは神の御腕の中に抱かれている安らぎを知っています。今日も、私たちはこの地にあって、主の御腕のぬくもりと、その優しさに包まれているのです。

 

 

 

 

2020年11月8日「揺るがない岩の上に立つ人生」加山献牧師

「揺るがない岩の上に立つ人生」加山献牧師

マタイによる福音書7章24節~29節

 「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。 」(マタイ福音書7章24節~25節)

主イエスは山上の説教(マタイ福音書5章~7章)の締め括るにあたり、この「家と土台」のたとえ話を語られました。ご自身の教えをただ聞くだけではなく、“聞いて行うものとなる”ように、ガリラヤの丘に集まった聴衆を励まされ、それぞれの場所に送り出されたのです。

 「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」(マタイ福音書7章26節~27節)

岩の上に家を建てた人も、あるいは砂の上に家を建てた人も、二人とも同じように自分の家を建てあげることができました。しかし、雨が降り、川があふれ、洪水や嵐が襲ってきた時に、両者の違いが明らかになったのです。いったい何を土台にして人生を築いていたかが、試練の時に問われたのです。

 「イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。」(第一コリント3章11節)

使徒パウロはイエス・キリストの存在そのものが私たちの人生の土台であると語っています。しかも、その土台は既に据えられている、というのです。キリストは私たちの一番低いところに降ってきてくださり、私たちを下から支えてくださっているお方である、ということを表しています。実に主イエスは、神と等しいお方であったのに、人と同じ姿をとられ、仕える者となられました。そして十字架の死に至るまで従順に歩まれたのです。

それは私たちを下から支え、試練の時に私たちを背負い、私たちが抱えるすべての重荷を一身に引き受けてくださるためだったのです。人生の中で最も暗い道を歩むような時にも、イエス・キリストは私たちを一番低いところから支え、抱きかかえて、持ち運んでくださる救い主なのです。

自分自身の力を土台にして人生を建て上げることもできます。しかし、私たちの力は時に脆く崩れやすいものです。キリストを信じる新しい人生というのは、今までの人生を全部リセットする事ではなく、土台を入れ替えることです。これまであなたが歩んで来た人生を否定することではなく、あなたの大切な人生を揺るぎないものに造りかえるために必要なことなのです。

聖書の神、キリストは私たち一人一人を大切に思っておられます。この方の提供する「揺るがない土台」を、是非あなたのものとしてください。