10. 9月 2018 · 2018年8月26日「誰かのための声となる」加山献 牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

『誰かのための声となる』 加山献 牧師

ヨハネによる福音書1章14~23節

バプテスマのヨハネは、イエス・キリストが公の活動を始める少し前に、ヨルダン川付近で宣教活動をはじめ、ただひたすらにキリストを指し示し続けた人でした。当時の人々はバプテスマのヨハネの語るメッセージに注目し、多くの群衆が彼の周りに集まってきました。「もしかしたらこの人が救い主メシアなのではないか」と考える人もあり、また他の人は「偉大な預言者と謳われたエリヤの再来ではないか」と考えました。そこで、エルサレムの人々はバプテスマのヨハネのもとに使いを出して「あなたは、どなたですか」と尋ねさせたわけです。バプテスマのヨハネは預言者イザヤの言葉を引用して「わたしは荒れ野で叫ぶ声である」と答えました。

荒れ野で叫ぶ「声」であるとは、「私は誰かに何かを伝える存在」であるということです。同時に「私はいずれ消えていく存在である」という意味にも聞きとれます。声帯から声が発されて、空気を揺らして、誰かの耳に届きます。ひとつひとつの空気の振動はわずかな時間で消えていきます。

同じように、私たちの人生も儚く過ぎてゆき、やがて消えていきます。私たちが世を去った後、一体この地上に何が残るのでしょうか。私たちはいったい何を残したいでしょうか。たとえ儚く過ぎてゆく人生であっとしても、私たちもまた、「誰かのための声」となるために生まれてきました。私たちは一人一人違った声質を持っており、まったく同じ声紋を持っている人が二人といることは非常に稀であるそうです。荒れ野のような時代の片隅で、私たちは光を指し示す唯一無二の「声」として、それぞれの場所に遣わされているのです。

10. 9月 2018 · 2018年8月19日「あなたの声は聞かれている」加山献 牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

『あなたの声は聞かれている』 加山 献 牧師

創世記21章9~21節

 

高齢で子どもがいなかったアブラハムに対して「あなたの子孫は夜空の星のように多くなる」という神様の約束がありました。しかしそれから10年ほど経っても、サラには子どもが生まれませんでした。そこでサラは、自分の召使いであったハガルという女性をアブラハムの側女とすることを提案しました。アブラハムもその提案を受け入れました。旧約聖書の時代、正妻の不妊で後継ぎが生まれない場合は、側女をめとって後継ぎをもうける、ということが珍しくなかったのです。そうして、アブラハムとハガルの間にイシュマエルという男の子が生まれました。

しかし、再び神様がアブラハムに現れて「あなたとサラの間に生まれる子どもが約束の子である」と言われました。その後、神様の約束どおり、アブラハムとサラの間にイサクが生まれてきたわけです。このイサクの子孫がやがてひとつの国民になり、その国民の中から全人類の救い主が生まれてくる。これが神様の壮大な計画だったのです。そのように考えると、ハガルとイシュマエルは神様のプランの外側にいるように感じます。

ところが、この一連の聖書の記述の中でとても興味深いことがあります。このイシュマエルという男の子が生まれてきたことに関して、神様は一言もアブラハムとサラを咎めませんでした。むしろ、神様はこのイシュマエルに対しても何度も祝福の言葉を語られているのです。イシュマエルの人生からわかることは、神様にとって望まれないで生まれてきた子どもは一人もいない、ということです。たとえ人がどのように判断しようとも、全ての命は神様によって望まれて生まれてきたのです。

ベエル・シェバの荒れ野をさまよっている時、イシュマエルは泣きながら思ったことでしょう。「こんなことになるなら、生まれてこなければよかった。」でも神様は母ハガルに言われました。「わたしは、必ずあの子を大きな国民とする。」わたしたちも人生の荒れ野を通る時、行き先もわからずさまよう時があります。しかし恐れることはありません。荒れ野こそが神様と出会える場所なのです。神様は荒れ野に佇む私たちの泣き声を聞いて、答えてくださる方なのです。

10. 9月 2018 · 2018年8月12日「平和をつくり出す人たち」 今村まさゑ 協力牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

『平和をつくり出す人々』 今村まさゑ 協力牧師

マタイによる福音書5章9節

 

今朝は平和礼拝です。戦後73年を経て、ますます平和が脅かされつつある日本ですが、イエス様が語られた山上の説教(5~7章)の最初の8つの幸いの1つ「平和を実現する人々は幸いである。天の国はその人たちのものである。」に集中したいと思います。因みに重要な場面が山でなされたことを思い出します。山上の変貌(17:1~)、最後の説教(24:3~)、弟子たちを全世界へと派遣されたのもガリラヤ山でした(28:6~)。モーセもシナイ山で十戒を授かりました(出19~)。主ご自身はしばしば山に登って祈られました。

平和とは、①人々の間に争いがない。②魂の平和な状態。③神と人との間の平和、和解がなされていること。④人間が終わりの日に神の祝福に与ること、その終末的な約束としての平和。以上の4つを永遠的絶対的平和と一時的相対的平和に分けて言うことができます。永遠的絶対的平和は、イエス・キリストが来て下さったことによって既に地上に実現されました。

ローマ4章25節に「イエスはわたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」主の十字架は人間の罪を明らかにし、御言に従えない罪人のわたしたちに代わって、その裁きを受け、神の赦しを与えて下さった救いの出来事です。キリストの復活は神との正しい関係、和解、平和が確立される根拠です。「このように私たちは信仰によって義とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって神に対して平和を得ており、このキリストのお陰で今立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」(ロマ5:1~2)

キリストの十字架の血による平和の第一は、自分の中にいる自分との和解です。自分の中に自分を責める自分がいて、それが劣等感の根、自己嫌悪の元となりますがそこからの解放です。第二に、他の人々との和解です。互いに愛し合いそうし続けることができる。第三に、争う人々の和解者になることです。

私たちと世界の現実は一時的相対的平和であって、戦争の危機に直面しています。平和なき世界が平和になるために、平和の福音を宣べ伝えつつ祈り、努力し、キリストの平和を証しする者となりましょう。

16. 8月 2018 · 2018年8月5日「空っぽの手のままで」 加山 献 牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

『空っぽの手のままで』 加山 献 牧師

マタイによる福音書5章1節~4節

 

イエス様の名声はガリラヤだけでなく、エルサレム、ヨルダン川の向こう側、まさにユダヤの全土まで響き渡っていました。イエスの姿を一目見たいと、またその教えを聞いてみたいと、大勢の人々が集まってきていました。その人々はローマの植民地支配に悩み、重税の取り立てに苦しんでいる民衆でした。イエス様はそのような群衆のひとりひとりに対して語りはじめられたのです。「心の貧しい人々は、幸いである。」(3節)この時、イエス様の周りに集まってきた人々は内面的にも、物質的な面においても、全てを神様に期待する他ありませんでした。しかし、この状況こそが第一の祝福だったのです。シュラッターという聖書学者はイエス様の弟子達について次のように説明しています。「彼らは子どもの時から困窮して苦労してきた。彼らは自分たちが貧しいということ以外は何も知らずに育ってきた。けれども、彼らはこの貧しさの中でこそ、主イエスに出会うことができたのである。」

「天の国はその人たちのものである。」(3節)イエス様の訪れによって天の国はもうすでに現実となったというのです。私たちもこの地上に在りながら、天の国を体験しつつ生きていくものでありたいです。さらに言えば、この地上に天の国を拡大していく存在でありたいです。「御国をこの地に来たらせたまえ」と私たちが祈るのは、そのためです。天の国とは神様の支配を表しています。神の支配、神の義、神の愛、神の光、慰め、憐れみ、満たし、喜び、平安の中に、私たちは生きていくことが赦されているのです。

「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる。」(4節)悲しむとは「ペンセイン」という言葉で、死者を弔う嘆き悲しみを表しています。一方「慰められる」という言葉は未来形で「慰められるであろう」と書かれています。これは復活の希望に関係しています。3節後半における「天の国」は今すでに与えられている、という現在形であるのに対して、「慰め」は私たちの未来にあるというのです。慰めは常に私たちの前に、私たちの将来に備えられています。今は辛く、悲しみの中にあったとしても、ここが終わりではありません。悲しみが私たちの運命ではありません。私たちの人生のゴールは慰めです。私たちの「空っぽの手」を満たしてくださるイエス・キリストに今日も期待し、祈りましょう。

10. 8月 2018 · 2018年7月29日「○○よ、キリストに忠実であれ」加山献 牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

『○○よ、キリストに忠実であれ』加山 献 牧師

ヨハネの黙示録2章8節~11節

西南学院の創立者である、C・K・ドージャー先生の遺訓である「西南よ、キリストに忠実なれ」(Seinan, Be True to Christ)という言葉の背景には、ヨハネの黙示録2章8節~11節の聖書箇所が念頭に置かれていたと思われます。これはスミルナの教会にあてられたメッセージです。スミルナは現在のトルコのイズミールという街にあたります。当時、トルコはアジア州と呼ばれていたわけですが、スミルナは「アジアの栄え、アジアの美、アジアの冠」と称されるほど美しい街でした。商業で栄えた港町で、没薬の産地でした。スミルナはこの没薬をローマや、エジプト、アラビアに輸出し、大きな富を得ていたのです。

この街にある教会に次のように語られています。「わたしはあなたの苦難や貧しさを知っている。」(9節) この世の富が満ち溢れ、栄華を極めた豊かな街にありながら、この教会の人々は貧しく、苦難の中にあったというのです。彼らが貧しかったことについて、二つの原因が想定されています。第一に、この教会の人々はほとんど下層階級の人々だったということです。第二に、教会に敵対する人々がキリスト教徒の家を襲って、何もかも奪っていってしまうということが度々あったのです。

私たちの経験する悲しみや苦難を、神様は知っておられます。知っているという言葉の意味は、ただ知識的に知っておられるということではありません。神様は私たちと同じ痛みを経験し、共に苦しんでおられるという意味です。イエス様が一度死なれたのは、私たちの罪を背負うためであり、私たちの痛みを知るためでもありました。

貧しさと訳されている「プトーカイア」という言葉は、文字通り何ももっていない貧しさを表しています。彼らは何一つ持っていなかったかもしれません。けれどもキリストを持っていました。彼らを救う、救い主を持っていました。9節後半に「だが、本当はあなたは豊かなのだ」とあります。英語のBasic English Translationという翻訳は“But you have true wealth”「しかし、あなたは本当の豊かさを持っている」と訳しています。彼らは何も持っていないようでも、全てを持っていました。なぜならキリストこそが、私たちの命の根源であり、命の目的であり、命の行き先だからです。この世のものは全て過ぎ去ります。けれども、私たちは永遠の命(=キリスト)という目的のために生きるのです。             (7月29日)

10. 8月 2018 · 2018年7月22日「湧き出る永遠の命に至る水」今村まさゑ協力牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

『湧き出る永遠の命に至る水』 今村まさゑ協力牧師

ヨハネによる福音書4章13~14節

最近のニュースの言葉に「命の危険に関わる高温です。こまめに水分補給を!」と熱中症予防を呼び掛けています。まさに日本列島が渇き切っている状態です。今朝のヨハネ4章のイエス様も旅に疲れられ、井戸のそばに座しておられる所にサマリヤの女が水を汲みに来ました。通常は暑い昼間に水汲みはしないものでした。主イエスは「水を一杯くれないか」と言われると、女は、長年同じ民族でありながら絶縁状態にあるユダヤ人男性が頼むのを訝るのでした。神の賜物を知らず、語りかけた方が誰であるか知らず、会話を重ねるうちに、女は心を惹かれていきます。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(参照ヨハネ7:37)バプテストの修養会場の天城山荘の入り口にも、この聖句が書かれています。井戸水やペットボトルの水は、飲んでもまた渇きますが、主イエスが与えて下さる水は飲むわたしたちの内に泉が生じ、永遠の命に至る水がわき出る、と言われます。女は「主よ、渇くことがなく、水汲みに来なくてもいいように、その水をください。魔法のようなそんな便利な水があるなら、その水をください」。人の目を忍んで昼、日中にここに来なくてもよいようにと女は願いました。

彼女の機先を制するように主イエスは救いに至る道を示されました。その水を欲しいなら、自分の罪を隠したままでは得られず、イエス様との出会いは起こらないのです。16節以降、イエス様が罪の指摘をされることによって会話が噛み合っていきます。「婦人よ、わたしを信じなさい。」イエス様は、この招きの言葉を語るために。4節にあるように、・・・しかし、サマリヤを通らねばならなかったのです。

続けて語られます。「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。」25節で女から待望の信仰の祈りが表されました。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています」。遂に主イエスご自身の顕現・臨在が語られました。「それは、あなたと話しているこのわたしである。」「わたしがそれだ。」私たちひとりひとりも彼女のように生ける主キリストとの出会いが備えられています。       (7月22日)

21. 7月 2018 · 2018年7月15日「神の御業と奇跡を心に留めよ」K.J.シャフナー 協力牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

『神の御業と奇跡を心に留めよ』 K.J.シャフナー 協力牧師

第一コリントの信徒への手紙3章6~16節

聖書にはイスラエルの民に対して神様が彼らのためになさったことを心に留めるよう、多くの勧めがなされています(参照:詩編105編1~5節)。律法に定めた祭りもイスラエルの民が神様との関係を思い出すきかっけを設けていました。たとえば春に祝う過越際は出エジプトを記念していました。祭りの時は詩編136編に書かれているように民全体が一つ一つの業を振り返っていました。彼らの祭りは過去を思い出すことによって、希望と勇気をもって将来に向かって歩むためでした。

今日は早良教会の伝道開始28週年を記念礼拝です。早良教会の今までの歩みを振り返って見ながら、これからの歩みのための励ましを見出したいと思います。パウロがコリントの信徒たちに書いた言葉から三つのことに焦点を合わせたい。

1)早良教会は主イエスの教会です。パウロがコリントの信徒たちに言ったように種を蒔く者、水を注ぐ者がいましたが、成長させてくださるのは神です(6~7節)。一人一人の働きは「イエス・キリストという既に据えられている土台」(11節)の上に建てるものでなければなりません。

2)早良教会の一人一人は役割があります。パウロは3つの譬えを使って、教会について書いていました―「神の畑」、「神の建物」(9節)と「神の神殿」(16節)。この3つは12章にある「体」の譬えと同じようにたくさんの部分から成り立っている一つのものです。一人一人の役割が大事ですし、その役割を忠実に果たすことも大事です。

3)私たちは「神のために力を合わせて働く者」(9節)です。英語は「パートナー」(協力者)となって、ギリシャ語の原語は「シナジー」という言葉の語幹です。それは「人・組織などが協働することにより、それぞれの力を上回る効果が得られること」を意味します。そのパートナーシップは早良教会を超えて、福岡地方連合、日本バプテスト連盟の教会などまで及びます。

私たちは新しい時に向かって行こうとする今日に、神様の今までの慈しみやパウロの勧めを心に留めましょう。

21. 7月 2018 · 2018年7月8日「いつまでたっても新しい」 加山 献 牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

『いつまでたっても新しい』 加山 献 牧師

第二コリントの信徒への手紙5章16~21節

ギリシア語で「新しい」を意味するふたつの言葉があります。ひとつは「ネオス」、もうひとつは「カイノス」という言葉です。「ネオス」は時間的な意味で「新しい」という意味です。わたしたちが普段から使っている「新しい」という言葉と同じ意味です。このネオスというギリシャ語が英語のNewという言葉の語源になりました。一方で「カイノス」は「質的に新しい」という意味になります。「ネオス」という言葉と対比させてみると「いつまでたってもかわらない新しさ」ということができると思います。いつまでたっても新しいものがこの世界に存在するでしょうか。私たちの衣服も、私たちの家も、車も、テレビも、わたしたち自身も、刻一刻と古くなっていくのです。この世界の全てがいつかは過ぎ去っていくという宿命を負っています。

17節には次のようにあります。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」以前は自分のために生きる者だったが、今は自分のために死んで復活してくださったキリストのために生きるものになったとあります。新しく造りかえられることとは、私たちの性格や気質がかわるということだけではなく、神様が完全にわたしたちの存在理由を変えてくださるということです。神様はわたしたちを部分的に調整しようとされるのではなく、完全にキリストに属するものにしてくださいます。私たちがイエス・キリストと出会うなら、この世を見る観点も、神を見る観点も全く変わります。自分のために生きる人生から、新しい目的に生きる人生にかえられます。

この世界の中で決してかわらない存在は神様と神に属するものだけです。「草は枯れ、花はしぼむが、私たちの神の言葉はとこしえに立つ」(イザヤ40:8)という預言者イザヤの言葉が旧約聖書にあります。そしてこの神の言葉は肉となってこの地に来られました。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」(ヨハネ福音書1:1)「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」(ヨハネ福音書1:14)永遠にかわることのないイエス・キリストが私たちの中に来てくださったのは、私たちひとりひとりを永遠の領域に招くためでした。私たちひとりひとりを「いつまでたっても新しい」イエス様の性質に属するものにかえてくださるためだったのです。

21. 7月 2018 · 2018年7月1日「もうふりむかない」 加山 献 牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

『もうふりむかない』 加山 献 牧師

イザヤ書43章16~20節

この預言者の言葉がユダヤの人々に届けられたのは、バビロン捕囚が起こってから約50年後であったといわれています。故郷を奪われ、遠い異国の地で過ごしていた人々に対して語られた言葉です。「主はこう言われる。海の中に道を通し、恐るべき水の中に通路を開かれた方。」(16節)これはモーセに導かれてきたイスラエルの民の出エジプトの出来事を語っています。

このことはユダヤの民が決して忘れてはならないことでした。「わたしたちを助けてくださった神様がおられる。」これがユダヤの人々の信仰の出発点でした。ところが18節で「初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな」と語られています。なぜ神様はご自身の偉大な救いの歴史を思い出すなと言われるのでしょうか。それはこの預言を聞くひとりひとりに過去の栄光ではなく、未来にある希望に目を向けさせるためでした。神様が「これから」何をなさろうとしているのか、ということに関心を向けさせるためでした。この預言の言葉は「もはや神様に何も期待しなくなった人々」に向けて語られていました。そのような人々に「見よ、新しいことをわたしは行う。わたしは荒れ野に道を敷き、砂漠に大河を流れさせる」(19節)と神さまが言われたのです。たとえそのように思えない状況の中でも「今や、それは芽生えている」と聖書は語ります。芽生えてから、実を結ぶまでにはしばらくの時間がかかるように、この預言の言葉が語られてからなおも20年、捕囚の期間は続きました。しかしこの言葉通り、やがて人々は捕囚から解放されました。

この預言の言葉を聞いていた、別のタイプの人々がいました。バビロンでの生活が50年続くあいだに、バビロンで生まれ育った人々です。かつてエジプトに寄留していた時、イスラエルの人々は奴隷として、苦しい生活を強いられました。一方、70年間のバビロンでの生活は意外と優遇されていました。大都市バビロンは意外と住み心地が良かったのです。もう砂漠の中を旅して帰るつもりがない、今の生活にとても満足している、そのような人々もいました。聖書の中でバビロンという言葉はこの世の象徴として用いられています。わたしたちはバビロンで満足してはなりません。この世界は素晴らしいけれども、この世で満足してはならないのです。もっと素晴らしい場所を神様が備えてくださっていることを、思い起こしたいと思います。「野の獣、山犬や駝鳥もわたしをあがめる。荒れ野に水を、砂漠に大河を流れさせ、わたしの選んだ民に水を飲ませるからだ。」(20節)これに対しイエスさまは「渇いている人は誰でもわたしのもとに来て飲みなさい。」(ヨハネ福音書7章37節)「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハネ福音書4章14節)と約束してくださいました。苦々しい過去にとらわれず、過ぎ去った栄光をふりかえらず、わたしたちの道であり、わたしたちの未来であり、またわたしたちの希望である、イエス・キリストに目を注ぎましょう。

10. 7月 2018 · 2018年6月24日「新しくされている」K.J.シャフナー 協力牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

『新しくされている』 K.J.シャフナー 協力牧師

エフェソの信徒への手紙4章17~32節

 

神様は今年度、早良教会において、どのような新しいことをおこなってくださるでしょうか。神様は私たちに新しい心を与え、石の心を肉の心へと変えてくださいます(エゼキエル書36章26節)。パウロは古い人間を脱ぎ捨て、新しい人を身に着けるように勧めています。このエフェソの箇所にこの新しい生き方は4つの領域で見えてきます。

1)話し方が変わります。 偽り(25節)、腐敗をもたらす汚い言葉(29節)、わめきやののしりを脱ぎ捨て(29節)、代わりに真理(25節)、恵みを与える言葉、人を作り上げるのに役に立つ言葉(29節)を身に着けるようになります。

2)感情が変わります。人間が感情を抱くのは自然ですが、それが心に根おろすことがないようにとパウロは勧めます。怒り(26節)、恨み(31節)が憤りや復讐に拡大しないように。

3)働き方も変わります。(28節)財産を増やすためではなく、自分の生活を支え、他の人を助けるために働くようになります。

4)人との接し方も変わります。心が神の恵みによって新しくされている人は互いに体の一部になって、互いに益になり、親切で理解のある愛の心を持つ者となり、赦されているように赦し合うように変わります(25節、32節)。

このプロセスは神の恵みによって始まり、朝毎に新たなる恵みによって続けられます。神様はその業を成し遂げてくださると約束されています(フィリピ1章6節)。パウロはローマの信徒に「この世に倣ってはならず。むしろ心を新たにして自分を変えていただく」ように勧めています(12章2節)。私たちが古い人を脱ぎ捨て、新しい人を身に着けるように選ぶことによって、神様は私たちを新しくしてくださいます。