09. 2月 2019 · 2019年2月3日「この夜が明けるまで」 加山献牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「この夜が明けるまで」加山献牧師

創世記32章23節~33節

ヤコブはひとり、川の流れの音を聞きながら、夜の闇を見つめていました。ヤコブにとっては、夜の闇よりも、朝が来ることの方が怖かったかもしれません。明日、兄エサウに再会しなければなりません。しかし、かつて兄エサウに対しておこなった悪い仕打ちが重荷となってヤコブの肩にのしかかっていました。

ところが突然、ヤコブの孤独を破る存在が現れました。何者かがヤコブに襲いかかって、夜明けまで格闘した、というのです。聖書の中に、後にも先にもない、不思議な記述がここにあります。ヤコブは人間と戦うように、神と格闘した、というのです。

なぜ神は人の姿を取られ、降りてこられ、ヤコブに闘いを挑まれたのでしょうか。この格闘の意味について、ユダヤ教もキリスト教も、それぞれの歴史の中で、数多くの解釈に導かれてきました。多くの解き明かしに共通していることは、この闘いはヤコブを傷つけるためのものではなく、ヤコブを整えるための闘いであったということです。この格闘は、神様による、ヤコブのための「変革のプロセス」でした。

神さまが周りの状況を変えてくださるだけなら、もっと楽かもしれません。神さまが他の人を変えてくださるだけなら、もっと楽かもしれません。自分が変わらなければならない、ということはとても辛いことです。けれども、私たちは自分が変えられることを恐れずに歩んでいくものでありたいと思います。

ヤコブは、死にものぐるいで、戦わざるを得なくなりました。今までの人生で、一度も出したことのないような力を振り絞って、ヤコブは必死で闘いました。26節には、「その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打った」とあります。なんとヤコブが優勢に戦っている、というのです。今までの人生、逃げてばかりいたヤコブが、生まれて初めて、真正面から誰かとぶつかり合って、勝利しようとしています。

この戦いの中で、最も特徴的なことは、「神が人に敗北した」ということです。神様がヤコブに負けてくださったのです。それは、ヤコブに勝利を与えるためでした。同じように、イエス・キリストもこの地上にこられました。神様が人の姿をとって、この地上に来てくださり、十字架についてくださったのです。十字架は当時、最も酷い死刑の道具でした。それは敗北以外の何ものでもありませんでした。イエス様はこの敗北を甘んじて受けてくださいました。それは私たちの人生に勝利をもたらすためでした。

私たちの人生に、度々夜は訪れます。一晩中闘い続ける、暗い夜があるかもしれません。その中で痛みを経験するかもしれません。けれども、必ず朝がきます。その戦いは、私たちに勝利をもたらすための闘いなのです。(2月3日)

 

30. 1月 2019 · 2019年1月27日「涙の再会」加山献 牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「涙の再会」 加山献 牧師

創世記32章4~14節、33章1~4節

 

ヤコブは恐れていました。ヤコブの肩には、20年前の思い出したくない記憶(お兄さん対しておこなってしまった悪い仕打ち)が重くのしかかっていました。かつて、自分のことを殺そうと決断するほど激昂した兄に、再会しなければならないことが、ヤコブにはわかっていたのです。同じように、私たちの人生にも避けては通れない「恐れ」が数多くあるかもしれません。

「苦しい時の神頼み」という言葉があります。あまり肯定的な意味では使われないことが多いです。ですが、これを良い意味で捉えなおしたいと思います。本当に苦しい時、もう自分の力ではどうすることもできない時、私たちは一体誰に頼るのでしょうか。私たちは試練の中にある時、神様に助けを求めて良いのです。私たちが祈ることを神様は待っていてくださいます。

「わたしの父アブラハムの神、わたしの父イサクの神、主よ、あなたはわたしにこう言われました。『あなたは生まれ故郷に帰りなさい。わたしはあなたに幸いを与える』と。 」(10節)ヤコブは、祖父アブラハムを導き、父イサクを助け、そして彼自身の人生にも、ずっと一緒にいてくださって、支え導いてくださった神様に祈っています。ヤコブは決して誰だがよく分からない神様に祈っているのではありません。この神様は私たちと向き合い「あなたとわたし」という関係の中に立ってくださる方なのです。そして「あなたはこのように約束してくださったではないですか」と訴える私たちの声に耳を傾けてくださいます。

「わたしは、あなたが僕に示してくださったすべての慈しみとまことを受けるに足りない者です。かつてわたしは、一本の杖を頼りにこのヨルダン川を渡りましたが、今は二組の陣営を持つまでになりました。」(11節)ヤコブは家を出た時、着の身着のままで出て行きました。けれども今は、愛する家族がいて、たくさんの財産を与えられています。ヤコブはこの事を感謝しました。ヤコブは恐れと不安の中でも感謝したのです。

「どうか、兄エサウの手から救ってください。わたしは兄が恐ろしいのです。兄は攻めて来て、わたしをはじめ母も子供も殺すかもしれません。」(12節)ヤコブは率直に、素直に、心の想いと願いを神様にお伝えしました。「わたしは恐ろしいです。どうか救ってください。」それは「私にはあなたが必要です」という信仰の告白そのものです。私たちは、いつも綺麗な言葉で祈れないかもしれません。それでも大丈夫です。「神様、辛いです。悔しいです。不安です。」私たちのあるがままの心を、神様にお伝えすることも、私たちの祈りの形です。

ヤコブは祈っただけではありませんでした。8節、9節では自分の財産である家畜を二手に分け、万が一に備えました。14節以降では、贈り物を1日がかりで用意して、お兄さんの怒りをなだめようと試みています。ヤコブは祈るだけでなく、家族を守るために、財産を守るために、自分で成し得る最善を尽くしました。

「ヤコブが目を上げると、エサウが四百人の者を引き連れて来るのが見えた。・・・ヤコブはそれから、先頭に進み出て、兄のもとに着くまでに七度地にひれ伏した。エサウは走って来てヤコブを迎え、抱き締め、首を抱えて口づけし、共に泣いた。」(33章1~4節)

20年という年月が過ぎて、二人はすっかり変わっていました。押しのけて、出し抜く者であったヤコブは、もう以前のようではありませんでした。エサウの怒りも雪解けのように溶かされていました。二人は過去のことを一切口にしませんでした。二人の涙が全てを語っています。この和解が成り立つまでには長い年月が必要でした。

神様は私たちを成長させるために、「時間」を用いられます。そのような意味で、「時間」は神様の道具です。私たちは時が満ちるまで、長い間、待たなければならないかもしれません。ですが、私たちは希望を持って待つことができます。待つことのできる人は、神様を信頼する人です。もし、和解や解決を願っている問題があるなら、私たちはその問題を見定め、祈り、自分のできるベストを尽くし、神様の時を、信仰を持って「待つ」ことができます。 (1月27日)

 

 

30. 1月 2019 · 2019年1月20日「主があなたのために戦われる」今村まさゑ協力牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「主があなたのために戦われる」 今村まさゑ 協力牧師

出エジプト記14章19~31節

 

出エジプト記は、イスラエル民族の奴隷生活からの脱出記ということだけではなく、罪の場所、肉の世からの脱出という点で、キリスト者われらにとって大変身近なものです。神の助けがなければ果し得ないことであります。今朝の14章は、いかに少なくみても200万人のエジプト脱出の民が、前は海、後ろにはエジプトの大軍が脱出させまいと追って来ていた時に、海が割れてそのせき止められた海底を歩いて渡るという大奇跡が起こった個所です。脱出が実行される時から遡ること、340年の昔、パレスチナで牧畜に従事していたイスラエルが飢饉に遭遇し、数年間エジプトで食物を買い求めた。実は、エジプトが食料を豊かに貯蔵できたのは、イスラエルのヤコブの息子、ヨセフの業績があったからでした。エジプトの総理大臣としての輝かしい働きに対してエジプト王は、ヨセフの父と兄弟一族をエジプトに移住させたのでした。しかし、時代は巡り新しい王ファラオは、イスラエル人が余りに多くなっていたことに脅威を感じ、「生まれてくるヘブライ人の男の幼子は皆殺し」の命令を出し(エジプト人はイスラエル人ではなくヘブライ人と呼んでいた)その様な状況の中で、家族の切なる祈りによって一人の幼児が葦の籠に入れられナイル川に流されたが、その籠を、水浴びに来ていた王女に拾い上げられた幼児こそ、神がのちに出エジプトの指導者として立てられたモーセでありました。

意気揚々として出発した人々でしたが、苦難が襲うと忽ち不満をぶちまけます。13、14節に「恐れてはならない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」「黙していなさい。」13章21節には「主は彼らに先立って進み・・・昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れなかった。」また19節には「先立って進んでいた神の御使いは、移動して彼らの後ろに行き、彼らの前にあった雲の柱も移動して後ろに立ち、・・」遂に、21節「モーセが海に向かって手を差し伸べると、主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、水は分かれた。」信じ難いことが起こったのです。

キリストはただ一人でゲッセマネの園で血の汗を流されて、全世界の救いのため祈って下さいました。しかし、弟子たちは皆眠り込むでいました。キリストはただ一人で十字架を背負ってゴルゴダの道を歩み磔にされました。弟子たちは皆恐ろしくて逃げ去っていました。キリストはただ一人で墓に葬られ、三日目に復活されました。しかし、弟子たちは鍵をかけて部屋の中で隠れていました。出エジプトとは、古い罪の自分からの脱出です。共に戦って下さる神を信じて出発していきましょう。(1月20日)

 

 

18. 1月 2019 · 2019年1月13日「心の大掃除」 加山 献 牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「心の大掃除」 加山献牧師

マタイによる福音書5章9節

 

山上の説教で語られた8つの祝福の中で、イエス・キリストは「心の清い人々は幸いである、その人たちは神を見る」と語られました。正直なところ、私たちは「心の清い人々」という言葉を聞くとき、「私のことではない」としり込みしてしまう者です。私たちは皆、清さに程遠い自分の姿を知っているかもしれません。

ここで使われている「清さ」(カタロス)という言葉にはいくつかの概念があります。1つは宗教的な清さです。儀式や習慣、決まり事を誠実に守ることによって得られる「清さ」があると人々は考えていました。当時の文化では、宗教的なルールを忠実に守っている人こそが清い人であり、そのような人々が尊ばれていました。案外、私たちも宗教的な習慣を守ること自体に意義を感じているかもしれません。それらはなにも悪いことではありません。しかし、主イエスは私たちの目に見える外面的な事柄よりも、むしろ私たちの「心の奥」に何があるのかを問われるのです。

「清さ」(カタロス)という言葉にもうひとつ別の意味があります。「純粋である」ということです。水を混ぜていないぶどう酒、もみがらを完全に取り除いた穀物、最も良い小麦粉だけで作られたパンなど、混じり気のない純粋なものを表す言葉でした。イエスさまは、宗教的なルールを守って得られる外面的な「清さ」よりも、むしろ私たちの「心」の「純粋さ」を求められています。

アルヒホイツというドイツの聖書学者は「心が純粋である」という状態を、次のようにわかりやすく例えています。人間と神の関係性において「純粋である」ということは「トランプのカードを隠さないでいるような状態である」というのです。ババ抜きをやっている時の事を想像してください。もし手持ちのカードを相手に見せていたらゲームになりません。ですが、私たちと神さまの関係において、隠しておきたい事を隠したままでいるならば、心の純粋な状態ではないというのです。「神さま、これが私のジョーカーです。これが私の心の問題です」と、神にすべてを明け渡して取り除いてもらう必要がある、というのです。

主イエスが私たちの心の扉をノックして、お入りになろうとされる時「イエスさま、ちょっと待ってください、これはとてもお見せできません」という状態が私たちにはあるかもしれません。ですが、心の清い状態とは心が完全に美しく整っている状態を指すのではなく、むしろありのままの自分の心にイエスさまをお迎えする事だと思うのです。

私たちの心の、なかなか落ちなかった汚れ、傷ついたこと、悲しかったこと、悔しかったこと、間違ってしまったこと、イエス・キリストにしか落とせない心の汚れや傷があります。「これも捨てなければ、あれも捨てなければ」と思いつつ溜まってしまった、自分ではどうすることもできなかったもの。誰かをゆるせない心、自分をゆるせない心、後悔、罪悪感、思い出したくない過去の記憶・・・。主イエスは労ってくださり、私たちと共に背負ってくださいます。これが十字架の意味です。私たちの過去過ちが全部なかったことになるわけではありません。けれども、もう一人ですべてを背負っていく必要はないのです。心の清い人とは完全な人のことではありません。純粋に、単純に救い主を心にお迎えする人なのです。

「神を見る」ということについても考えてみたいと思います。もともと旧約聖書では「神を見る」という表現自体がとても恐れ多いことでした。ところが今や、イエス・キリストに出会うならば、誰でも神を見ることができます。正確に言うと、誰に対してでも、神はご自身を現してくださいます。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(ヨハネによる福音書1章18節)主イエスを「知る」ということによって、私たちは神に出会います。また、神が私たち一人一人をどのように想ってくださっているのかを、主イエスは明らかにしてくださいました。そして、イエス・キリストを通して、私たちは神との親密な愛の関係を体験します。主イエスは今日も、私たちの心の扉の前に立たれます。「イエスさま、私の心は狭くて、汚れているけれども、どうぞお入りください、そして私の心に留まってください」とお答えしましょう。黙示録3章20節の有名なみことばがあります。「見よ、私は戸口に立って、たたいている。」 (1月13日)

 

 

 

11. 1月 2019 · 2019年1月6日「恵みの年が来た」加山献牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「恵みの年が来た」 加山献牧師

ルカによる福音書4章16節~30節

 

主イエスは公の活動を開始するにあたって、ガリラヤ地方を最初の宣教地とさました。主はしばしば安息日ごとにシナゴーグと呼ばれる会堂に入って教えられました。お育ちになった故郷ナザレを訪れた際にも「いつものとおり安息日に会堂に入った」とあります(16節)。その会堂は主イエスが幼い頃から通われた、懐かしいシナゴーグでした。会堂での礼拝の中で、イザヤ書が主イエスに渡されました。主イエスにみことばの朗読と解き明かしが委ねられたのです。この時読まれたイザヤ書61章は救い主メシアに関する重要な預言のひとつでした。

「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、 主の恵みの年を告げるためである。」(18節~19節)主はこのイザヤの預言を読み終わると「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と宣言されました。ご自身が来るべき救い主メシアであるという事をはっきりと宣言されたのです。人々は異口同音に主イエスをほめて、その口から出る恵み深い言葉に驚いたと22節にあります。しかし、そのほとんどの人々が子どもの頃からの主イエスを知っていました。そのことが彼らのつまずきとなりました。そこで主イエスは、旧約の預言者エリヤとエリシャのエピソードを持ち出して、ナザレの人々の不信仰を指摘され、ご自身は他の人々のもとへ向かうことを告げられたのです。

「もしあなた方が良い知らせに飢えている貧しいものでないならば、他の人々がいる。あなた方が解放を待ち望んでいる囚人である事を認めないならば、この解放はあなた方のところには来ない。あなたがたのために素晴らしい神の計画がある。しかし、あなたがたがその神の計画に参加しないならば、恵みの年はあなたがたのところに訪れることはない。」そのように主は言われたのでしょう。

ナザレの人々は目の前に自分たちのための救い主がいるにも関わらず、その人を認めず、殺そうとしてしまいました。なんという悲劇でしょうか。ここにユダヤ教とキリスト教の対立が描かれているわけではありません。聖書の言葉を聞かされた人々の内側に起こる、自分自身との対立が描かれているのです。怒りと拒絶は自分にとって受け入れがたい真実に直面した人々の最後の防御でした。聖書の言葉は私たちの罪を指摘します。私たちの見たくない、認めたくない本当の姿に光を当てます。ですがひとたび、このみことばの前に降参し、服従するならば、自分が良い知らせに飢えている貧しいものであり、解放されるべき囚われ人である事を認めるなら、その人は神の恵みを受け取ることができます。神はすべての人に無償で、一方手的に恵みを与えようとしておられます。わたしたちはそれらの恵みを受け取るべきです。

この新しい年も、神がキリストの十字架によって与えようとしておられる恵みを受け取る続ける年としましょう。赦し、解放、励まし、慰め、信仰、生きる希望、愛、平安、感謝、喜び、永遠の命、人生の目的、それらを受け取ることができる恵みの時代、恵みの年が来たことを主は宣言されました。 (1月6日)

 

 

03. 1月 2019 · 2018年12月30日「神の栄光を讃えるために」今村まさゑ協力牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「神の栄光を讃えるために」 今村まさゑ協力牧師

エフェソの信徒への手紙1章3節~14節

 

エフェソは現在のトルコで、エーゲ海沿岸に栄えたローマ時代の大規模な都市遺跡が人気を集めています。紀元前6世紀に建てられた神殿や円形劇場は24,000人収容の規模で、アルテミス神殿はアテネのバルセノン神殿の二倍の広さでした。豊穣多産を象徴する多数の乳房を持つ偶像神で、神殿娼婦が多く存在し道徳的状況は乱れていました。

使徒言行録18章~20章によれば、パウロは最初3か月ほどの滞在でしたが、アポロ、アキラ、プリスキラが後を継ぎ、翌年、再び訪れて3年間伝道に励み、アジア全域に福音が広がったのでした。

パウロは3節で先ず「父である神はほめたたえられるように」と語ります。これがパウロの常に願っていたことでした。理由は「神は天のあらゆる霊的な祝福で私たちを満たしているから」です。霊的な祝福の第一は、選びです(4節)。「神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者、無力な者を選ばれました」(1コリ1章27節~)それは、「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、神の子にしようと御心のままにお定めになったのです」。

第二は、罪の赦し(7節)です。「キリストの十字架の血によって贖われ、罪を赦されました」。10節に「こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです」。

第三は、約束されたものの相続者(11節)です。御国を受け継ぐことです。

第四は、聖霊の証印です。「キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押された」のです。この聖霊の証印は、御国を受け継ぐための保証なのです。神は(3節)、御子に(7節)、聖霊は(14節)、と三位一体の神の輝かしい恵みの秘められた計画です。父なる神の御業は、キリストによってなされ、聖霊によって私たちの内に実現されるという三位一体の神の働きがそこにあります。

神に選ばれ、救われ、神の者とされたわたしたちの応答、生きる目的は、6節、12節、14節にあるように、「神の栄光をたたえるため」にほかなりません。今朝の聖書には「キリストにおいて」「キリストによって」・・と10回も記されています。また、何と「恵み」ということばの多いことでしょう。2019年の日々も、感謝と喜びをもって神の栄光をたたえる者となりましょう。 (12月30日)

03. 1月 2019 · 2018年12月23日「ひとりじゃないよ」加山献牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「ひとりじゃないよ」 加山献牧師

マタイによる福音書1章18節~25節

 

この聖書箇所に登場するヨセフという人物は、人生における晴天の霹靂と呼べるような出来事を経験しました。なんと彼は、婚約中のフィアンセが妊娠したという知らせを聞くのです。当時のユダヤの文化では、一組の男女の婚約が成立すると「キドゥシン」と呼ばれる儀式が執り行われました。これは二人を聖別する、取り分けるという意味があったそうです。その後、二人は一年間別々に暮らします。この一年間は結婚の準備期間として用いられました。ところがこの大切な時期に、ヨセフは「マリアが妊娠した」という知らせを聞くのです。

「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうとした。」(19節)とあります。しかしながら、彼は依然として混乱と孤独の中にあったことでしょう。大きな悩みを抱えながら眠りについた夜に、天使が夢に現れて「恐れるな」と語ったのです。彼女をそのまま妻として迎えなさいと告げられ、マリアは神の霊によって子を宿したのであり、これは前々から旧約聖書に預言されていたことが起こっているのだと諭されるのです。つまり、ヨセフの身の回りに起こっているすべての出来事は「すべて神がなさっていること」なのだ、というのです。

この一連の出来事から私たちは何を知ることができるでしょうか。第一に、神はすべての出来事の上に確かな計画を持っておられるということです。私たちの目には「混乱」と映る出来事の背後にも、神がおられます。神こそが私たちの人生の上に主権を持っておられる方であり、私たちの人生に起こるすべての出来事に責任を持ってくださる方なのです。

このストーリーから教えられる二番目の点は、神は命を造られる方である、ということです。「あなた」という存在の根本的な作者は神なのです。あなたが生まれてくる前から、神はあなたのことを思い描き、微笑んでおられました。今、あなたが息をしているのは、偶然の出来事ではありません。今日、「あなた」という存在があるのは、神があなたをお造りになられたからです。神がお造りになられたすべてのものには意味があります。ですから「あなた」は神にとってこの上もなく意味のある存在なのです。この命を造られる神が、マリアの胎内に救い主を宿してくださったのです。

第三に、神は人と共におられることを示すために、人となって世界に生まれてきてくださいました。神はいつも、どんな時でもあなたと共におられます。そのことを思い起こさせるために、実際に人として生まれてきてくださったのです。神は私たちを決してお見捨てになりません。神は私たちの孤独を理解し、私たちと共にその痛みを経験してくださるのです。23節には「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」とあります。かつて、イザヤという預言者によって語られた言葉でした。インマヌエルとはキリストのもうひとつの称号です。その意味は「神は私たちとともにおられる」とういうことなのです。 (12月23日)

 

21. 12月 2018 · 2018年12月16日「上側から見るクリスマス」K. J. シャフナー協力牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「上側から見るクリスマス」K. J. シャフナー協力牧師

ルカによる福音書2章1~16節

 

片付けた時に見つけた刺繍はクリスマス物語を違うように見るきかっけとなりました。刺繍を裏から見るとどのデザインが出来上がるかが想像しにくいのです。糸はごちゃごちゃになってカオスのように見えます。しかし上側から見ると一つ一つのステッチが一緒になって、デザインが見えてきます。

クリスマス物語を何度も聞いたことがあると思います。ですが、重要な出来事をもう一度概観してみましょう。紀元前700年頃にミカは救い主がベツレヘムに生まれること預言しました。(ミカ書5章1節)同じく紀元前700年の少し前にイザヤは「おとめが身ごもって男の子を生む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」と預言しました。(イザヤ書7章14節)天使はマリアに「あなたは身ごもって男の子を産む」と告げました。皇帝アウグストゥスは住民登録の勅令を出しました。ヨセフは先祖の出身地であるベツレヘムに旅をしなければなりませんでした。ベツレヘムの宿屋には泊る場所がありませんでした。ベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ち、生まれた赤ちゃんは飼い葉桶に寝かされました。羊飼いたちが生まれたばかりの幼子に会いに来ました。占星術の学者たちは星に従って、イエスを拝むために東の国からユダヤを訪れました。

一つ一つの出来事を見てみると繋がりがなく、全てがランダムなイベントであるとしか考えません。クリスマスのストーリーと同じように自分の人生で起こる出来事も「たまたま」であり、偶然であるように見えます。実はそれは刺繍を裏から見ているようなものです。

クリスマスの出来事は偶然の連鎖ではなく、一つ一つの出来事は神様の働きによって繋がっています。例えば、皇帝の勅令はナザレに住んでいたヨセフとマリアを、預言されたベツレヘムに導くことになりました。クリスマスを上から見ようとすれば、何のデザインが見えるでしょうか。神様は次のようなことを私たちに見せようとされているのではないかと思います。

1) God loves you. 神は、ひとり子をさえ惜しまず与えるほどに、この世界を愛してくださいました。(ヨハネ3章16節 リビングバイブル)

2) God understands you.キリストは人間となり、この地上で私たちと共に生活なさいました。(ヨハネ1章14節 リビングバイブル)

3) God is with you.『その子はインマヌエル〔神が私たちと共におられる〕と呼ばれる。』(マタイ1章23節 リビングバイブル)

4) God is at work in everything. 私たちは、神を愛し神のご計画のうちを歩んでいる人のためには、その身に起こることはすべて、神が益としてくださることを知っているのです。(ローマ8章28節 リビングバイブル)

Merry Christmas!   K. J. シャフナー協力牧師

(12月16日)

21. 12月 2018 · 2018年12月9日「人に神を求めさせる為に」ラス・ボーグ宣教師(日本バプテスト宣教団) はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「人に神を求めさせる為に」ラス・ボーグ宣教師(日本バプテスト宣教団)

使徒言行録17章26節~27節

 

神様を求めるという事について、聖書は何を語っているのでしょうか。詩編25編には次のようにあります。「主よ、あなたの道を私に示し、あなたに従う道を教えて下さい。あなたのまことに私を導いて下さい。教えて下さい。あなたは私を救ってくださる神。絶えることなくあなたに望みをおいています。」これが神様を求めるという事です。このダビデの心こそが、神様をもっと深く知りたいと望む人の心であり、このような祈りこそが、神様を喜ばせたいと思う人の祈りなのです。

次に、使徒言行録17章25節後半から26節の言葉に注目しましょう。使徒パウロは、ギリシャのアテネにおいて、神様を知らない人々に対して、天地創造からイエス・キリストの復活までを網羅し人々に宣教して、次のように言いました。「すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の去るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。神様は一人の人からすべての国の人々を造り出され、全ての人に命と息をお与えになられたのです。」

神様が人類を造られたということが明言されています。それでは何故、神様は人間をお造りになられたのでしょうか?もし神様が人間を造られたのであれば、人は神さまから何を期待されるのでしょうか?続く27節を見てみましょう。これは「人に神を求めさせる為」であり、また「彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことが出来るように」ということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。神様を求める為に人は造られたのです。

詩編53編2節はこのように伝えています。「神は天から人の子らを見渡し、探される。目覚めた人、神を求める人はいないかと。」神様はご自分を求める人に対して、次のようにお答えになられます。「そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら。」(エレミヤ書29章12~13節)

もちろん私達はクリスチャンになった後も、神様を求める事を決してやめません。ルカによる福音書の中ではこう語られています。「それから、イエスは皆に言われた。『わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。』」

私達がイエス様の弟子になれば、日々、毎日、イエス・キリストについて行く必要があります。「自分を捨てる」という事はどういう意味なのでしょうか?それは、自分自身の行きたい道よりも、主イエス・キリストがあなたの為に準備された道を求め、進む、という事です。主があなたの為に準備された道は、やさしい道ではないかもしれません。しかし、その道を進んで行き、後に振り返った時に、神様がその道へ導いて下さった理由がわかるはずです。その理由を知らされる時に、あなたの心は満たされることでしょう。

私達は人生において、多くの悩み、迷いがあります。また、多くの決断をしなければなりません。しかし感謝な事は、聖書の中に神様の導きについての約束がたくさん与えられていることです。その一例は詩編32編です。「わたしはあなたを目覚めさせ行くべき道を教えよう。あなたの上に目を注ぎ、勧めを与えよう。分別のない馬やらばのようにふるまうな。それはくつわと手綱で働きを抑えねばならない。そのようなものをあなたに近づけるな。」「行くべき道を教えよう」と神様が約束されています。このみ言葉に対して、私達の成すべき責任もあります。それは私達が神様に近づくことです。つまり主に従って行き、その御心を絶えず求める事です。これは私達にとって、とても大切な、神様に対する態度です。

(12月9日)

21. 12月 2018 · 2018年12月2日「大逆転の人生」加山献牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「大逆転の人生」 加山献牧師

ミカ書5章1節

 

ミカは紀元前700年ごろに活躍した預言者でした。この時代、南王国ユダでは貧富の差が拡大し、一握りの人々が富を独占していました。預言者ミカは、貧しく、社会的に弱い立場の人々を守るために語りました。搾取の構造をもつ社会政治に告発を語ったのです。

しかしながら、ミカが語った預言は、告発と警告の言葉だけではありませんでした。貧しく弱い人々のために、正しい裁きをおこなう救い主が来られる。そのような希望についての預言もなされていたのです。

「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために、イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。」私たちはこの預言の言葉からいくつかのことを知ることができます。

第一に、神は必ず約束を守ってくださるお方である、ということです。ベツレヘムはエルサレムから8キロほど南にある、ごく平凡な、小さく静かな街でした。イエスさまをお腹に宿したマリアはベツレヘムからはるか北のガリラヤのナザレという街に住んでいました。普通に考えるのであれば、身重の女性が長旅をして、ベツレヘムで出産を迎えることはあり得ないのです。ところがこの時、ローマ皇帝が全支配地域の人口調査を命じたのです。これは税金の徴収漏れが起こらないようにするために厳格に実行された調査だと言われています。そこで一家は住民登録をするためにベツレヘムに向けて旅立ったのです。そして、ベツレヘムに滞在している間にイエス様がお生まれになりました。この瞬間にミカの700年越しの預言が成就しました。神は約束されたことを必ず実行されるお方なのです。

ミカの預言から教えられる第二の点は、神は小さなものに目をとめてくださる、ということです。救い主誕生の良き知らせを最初に聞いたのはベツレヘムの羊飼いたちでした。この世では小さく、ちっぽけに思える存在に神の眼差しが注がれたのです。キリストはすべての人のためにこの地に来られました。しかし、その中でも特に、悩み、悲しんでいる人々にイエスさまの眼差しは向けられています。これこそがクリスマスの使信なのです。

クリスマスはとても楽しく、喜びにあふれた季節です。しかし、誰もが同じように楽しいわけではありません。クリスマスを病院で過ごさなければならない方々も多くおられます。クリスマスも休みなく働き続けなければならない人もいます。もしくは愛する人を失って、初めてのクリスマスを過ごす方々もおられます。教会はこのような方々に届けるべきメッセージがあります。「神は必ず私たちの人生に勝利の歌をもたらしてくださる」というメッセージです。

小さく、取り柄のなかったベツレヘムに、全世界の救い主、イエス・キリスト誕生の地としての称号を与えられた神は、私たちの人生にも大逆転をもたらしてくださる方です。悲しみを喜びに、嘆きを笑いに変える救い主を、心にお迎えするクリスマスを待ち望みたいと思います。

 

 

(12月2日)