カテゴリー別アーカイブ: 礼拝メッセージ

2020年7月12日「あなたの中に光がある」加山献牧師

「あなたの中に光がある」加山献牧師

マタイによる福音書6章19節~24節

「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるのだ。」(21節、聖書協会共同訳)

私たちの心はどこにあるべきでしょうか。私たちの心は天にあるべきだ、とイエスさまは言われました。天とはすなわち、神さまのご支配される領域です。主イエスはそこから来られ、私たちのために十字架の道を歩まれました。そして、葬られ、復活され、再び天に帰っていかれましたのです。天とは私たちがいるべき場所です。そこに、私たちを待っておられる救い主がおられます。私たちの立ち帰るべきところに、私たちの宝があります。天に宝を積む生き方とは、天国を見つめていく生き方です。この地上にあって、天国の人として生きていくように、イエスさまは私たちを招いてくださっているのです。

「体のともし火は目である。」(22節、新共同訳)

からだは目無くしては何も見ることができません。イエスさまは健やかな、澄みきった心の目がどれほど尊いか、その価値を考えるように、私たちに促しておられます。もし私たちの目が見えなかったら、例え光の中にいたとしても、その光を感じることができません。同じように、心の目が澄んでいなければ、目の前の真理がどれほど私たちに語りかけてきたとしても、私たちは闇の中にいる体験をする、というのです。

「あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」(23節、新共同訳)

イエスさまは弟子たちの中に光がある、ということを前提にこのメッセージを語られました。私たちひとりひとりは、光を持つものとしてこの世界の中で生かされているのです。たとえ小さな光だったとしても、その光を輝かせ、その光の暖かさを隣人に分かち合いながら生きることが私たちの使命です。

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2020年7月5日「すべての祈りは聞かれている」加山献牧師

「すべての祈りは聞かれている」加山献牧師

第一テサロニケの信徒への手紙5章16節~18節

「祈りとは神との親しい交わりである」ということを考えていきたいと思います。人は神さまと共に生きる存在として造られました。人間の内には、神さまとの純粋な交わりによってしか満たされない空間があるといえます。たとえどのようなものを手に入れたとしても、人間の本質を満たしてくださる神さまとの交わりに代えることはできません。神さまとの交わりは、私たちの人生に癒しを与え、私たちの魂の真髄を潤します。

神は人(アダム)を創造し、命の息を吹き込まれました。エデンの園で、神と人とは親しい交わりを持っていました。ところが人は、罪の結果として、神との断絶を経験しました。それでも、神さまは人間との交わりを強く願い、神さまの側から働きかけてくださり、人との関係を回復してくださいました。その回復のプロセスこそが、イエス・キリストの到来と公生涯、受難と復活だったのです。

祈りというと、私たちが何を思い、何を神に対して語っていくのか、ということに意識が向きがちですが、「聴く」ということも、祈りの大切な要素なのです。時には沈黙の中で、神さまが私たちをどのように見つめておられるのかを知ることが、私たち生活に必要です。

現代社会に生きる私たちは、神さまの声に耳を傾ける、という心の余裕を失いつつあるのかもしれません。一つには生活が忙しすぎることもあるのかもしれません。しかし、イエス・キリストの執り成しによって、祈りの心が取り戻される時、私たちと神さまとの親しい交わりが回復されます。この交わりの中で、神さまは私たちのいかなる憂いもすべて聞き遂げてくださるのです。

今、神さまは私たち一人一人の人生にどのように関わってくださっているでしょうか。ぜひ心の耳をすませてみてください。この神さまは私たちを愛おしく思うあまり、十字架にその御子を引き渡されたほど、慈愛に満ちたお方なのです。

祈りとは私たちを愛する方と共に生きることです。神さまは私たちと、一緒に時を過ごしたいと願っておられます。「絶えず祈りなさい」というパウロの教えの背後には、絶えずあなたと一緒にいたい、という神さまの御思いがあります。私たちと共に生きたいと願ってくださる神さまを、いつも心にお招きし、絶えずこの方と語り合いつつ、生きていく時に、私たちは心に満たしを受けます。ですので、今日も絶えず祈り続けていきたいと思います。

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2020年6月28日「神の言葉は決して滅びない」今村まさゑ協力牧師

「神の言葉は決して滅びない」今村まさゑ協力牧師

ルカによる福音書21章29節~36節

今朝の聖句は、実は、イエスさまの「最後のたとえ話」であり、難しい終末論を、「いちじくの木々を見なさい」と語られたのです。

「葉が出始めると、それを見て、夏の近づいたことがおのずと分かる。それと同じように、神の国が近づいていると悟りなさい。」と。神の国が近づく・・とは、世の終わり、主の再臨が近づくことで、終末の徴は7節~記され、①多くの偽預言者が出現するが・・騙されてはいけない。②戦争、暴動、飢饉、地震、疫病・・③             迫害、互いに裏切り憎み合うようになる。④御国の福音が全世界に宣べ伝えられる。(参照・Ⅱコリント3:9)

終末は必ず来る。「人の子の再臨もノアの時と同様である。」(マタイ24:37) 「太陽と月と星に徴が現れる。海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民はなすすべを知らず、不安に陥る。・・天体が揺り動かされるからである。」(ルカ21:25)「このようなことが起こるのを見たら、身を起して頭を上げなさい。」(ルカ21:28)

ギリシャ語で人間のことをアン・スローポスと言い「上を見る」の意味ですが、イエスさま以外、いかなるものにも目を向けない。如何なる良きものを与えると言い寄る者がいても、イエス様が備えて下さる御国だけを目指してこの週も、それぞれ遣わされた所で、神の子、神の僕として励みましょう。

世の終わりが訪れ、人々が、途方にくれて気絶するほどの混乱に陥っているとき、「そのとき、人の子(イエス・キリスト)が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを人々は見る。」(マタイ13:26節)(参照・黙示1:7) ハレルヤ!

イエス・キリストが最初にこの世に来られた時(来臨)は、ベツレヘムの馬小屋に救い主として密やかに誕生してくださいましたが、再臨の時(終末)には、大いなる審判者として世界中が認めざるを得ない明らかなかたちでお出でになるのです。

私たちは来臨と再臨の間を(すでにと今だ)を生きていることをいつも覚えたい。32節「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(参照・イザヤ51:6)

34~36節「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたを襲うことになる。その日は、地の表のあらゆるところに住む人々すべてに襲いかかるからである。しかし、あなたがたは、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」(参照・マタイ24:36)

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2020年6月21日「心を潤す泉がある」加山献牧師

「心を潤す泉がある」加山献牧師

出エジプト記15章22節~27節

「モーセはイスラエルを、葦の海から旅立たせた。彼らはシュルの荒れ野に向かって、荒れ野を三日の間進んだが、水を得なかった。マラに着いたが、そこの水は苦くて飲むことができなかった。こういうわけで、そこの名はマラ(苦い)と呼ばれた。 民はモーセに向かって、『何を飲んだらよいのか』と不平を言った。」(22節~24節)

イスラエルの民は砂漠の道を三日間進み続けました。蓄えていた飲み水も底を尽きてしまったことでしょう。子ども達も高齢の方も一緒に旅している状況で、丸三日間、砂漠の真ん中で飲み水を得ることができなかった彼らは、命の危機に瀕していました。

彼らはやっとの思いで、水がある場所にたどり着きました。しかし彼らの喜びはすぐに落胆に変わりました。「そこの水は苦くて飲むことができなかった」というのです。ついに人々はモーセに不満をぶつけました。不満をぶつけられたモーセは神さまに叫びました。

「モーセが主に向かって叫ぶと、主は彼に一本の木を示された。」(25節)主は、彼に一本の木を、示された・・・その一本の木を水の中に投げ込むと、神さまの特別な力により、苦い水は甘くなり、飲めるようになった、というのです。

私たちの人生にも度々苦い体験があります。度々、マラの水場のような苦い場面を通ることがあるのです。探し求めていたはずのものが苦くて飲めない、そのように期待を裏切られるような落胆があったりもするでしょう。

ですが神さまは、私たちの人生にも、一本の木を示してくださいました。それはカルバリの丘の十字架です。十字架とはすなわち福音です。主イエスが私たちのために歩んでくださったすべての道のり、私たちのためにお語りくださったすべてのお言葉です。

この一本の木があれば、飲めない水はありません。主イエスの十字架があれば耐えられない杯はありません。この福音を握って生きていくならば、どんな試練にも耐えることができます。ただ耐えられるようになるだけではありません。その苦い経験は、甘く慕わしい、甘美に満ちた水に変えられる、というのです。神がお与えになる恵みは、私たちの失敗、後悔、痛み、悩みを覆ってあまりある、大きな恵みなのです。

やがてイスラエルの民は、エリムの泉と呼ばれる場所に導かれました。そこには12の泉と70本のナツメヤシが茂る、完全なオアシスでした。マラからわずか8キロほど先に民の命を支えるオアシスが備えられていたのです。ここで民は、旅の疲れを癒し、ゆっくり休み、喉の渇きを癒しました。

私たちの人生にもこのようなオアシスが必要です。しばしの休息をとり、次の旅に向かうための力を蓄える、憩いの場所です。願わくは、この教会の礼拝が、皆さんにとってそのような憩いの場所となることを願います。私たちも勇気を得て、人生の旅を続けていきましょう。時にはマラの苦い水があります。しかし、マラのすぐ先にはエリムの泉が備えられているのです。

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2020年6月14日「国と力と栄えとは」加山献牧師

「国と力と栄えとは」加山献牧師

列王記上29章10節~13節

私たちは「国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり」という祈りで主の祈りを締めくくります。古い記録によれば、西暦90年ごろにはこのような結びの言葉が付け加えられて教会で祈られるようになっていたことがわかっています。この結びの言葉が定着したのは、主の祈りを締めくくるのに、この上なくふさわしい祈りであったからです。

この結びの言葉の元となった聖書箇所は歴代誌上29章のダビデの祈りです。ダビデの祈りには大きく分けて3つのテーマがあります。第一に「この国はあなたのものです」、第二に「すべての富と力はあなたのものです」、そして3番目に「すべての栄光、誉れは神さま、あなたのものです」という宣言です。この祈りはいただいたすべてを神にお返しする、奉献の祈りでした。

古代教会の人々は、このダビデの祈りを、主の祈りの最後に結びの言葉として付け加えました。そして私たちもその伝統を引き継ぎ、この祈りを祈っています。この祈りの意味を、ご一緒に考えていきたいと思います。

 

【この国はあなたのものです】

まず考えたいのは「この国はあなたのものです」という祈りです。初代教会の人々にとって、迫害の時代にあって、このように祈ることは、危険なことでもありました。皇帝が神として君臨するローマ帝国の中で、そしていつローマ兵が踏み込んでくるかわからない、という緊張の中で、この国は皇帝のものではなく「神さま、この国はあなたのものです、あなたの御国をこの地に来らせてください」と教会の人々は祈り続けました。

私たちが住む、この日本という国において、神の御国はどれくらい実現されているのでしょうか。また、わたしたちの人生において神の御心はどれほど実現されているでしょうか。世界に変革をもたらすために、またわたしたちの心が変えられるために、わたしたちは今日も、信仰の先達に続いて、「神さま、この国はあなたのものです」と祈ります。

 

【力はあなたのものです】

2番目に考えたいことは、「力はあなたのものです」という祈りです。この世の中は力が支配しています。選挙をすれば、より力がある陣営が勝利します。受験があれば、力のある方から合格していきます。確かに、この世界で生きていくためには、何らかの力が必要であるように思われます。だから私たちは何らかの力を得ようと、努めます。「力を求めていく」ことこそが、わたしたちの世界の基本的な生き方なのです。

自分という存在を支えるために、勉強を頑張る、仕事を頑張る、プライベートを充実させることを頑張る・・・。何も悪いことではありませんが、すべては自分の頑張りにかかってくることになります。「頑張る」というのは日本語の特有の表現のひとつかもしれません。みんな、この社会の中で「頑張って」生きているのだと思います。「頑張る」ということは、私たちの社会において、美徳の中の美徳ですが、みんなどこかで、「もう頑張らなくていいよ」と言われることを待っているのかもしれない、そのように思えることがあります。

私という存在を支える根本的な力は神の力だと、聖書は語っています。もう自分の力ではどうしようもできないと時に、私たちを内側から支えるのは、神さまの力なのです。私たちを救うのは、私たちの力ではなく、神の力なのです。だから私たちは今日も告白したいと思います。「力はあなたのものです。」

 

【栄光はあなたのものです】

最後に「栄えはあなたのものです」という祈りについて考えていきたいと思います。

音楽の父として慕われている音楽家バッハは、宗教音楽の楽譜を書き始めるにあたり、最初に「JJ」(“Jesu Juva”主よ、助けたまえ)というアルファベット書き、完成した楽譜の最後に「SDG」(“Soli Deo Gloria”神のみに栄光あれ)と書き記しました。音楽の天才と呼ばれる彼が、楽譜を書き始める前に「イエスさま、助けてください」と祈り、ひと仕事終えたならば「神さま、すべての栄光をあなたにおささげします」と祈ったのです。それは彼の人生そのものを象徴しているのかもしれません。

わたしたちもバッハの信仰にあやかり、日ごとの歩みの中で恥じることなく「イエスさま、助けてください」と祈り、一日一日を終える時に、そしてこの人生を終えるその時に、「神さま、すべての栄光をあなたにおささげします」という祈りに導かれていきたいと思います。

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2020年6月7日「感謝の心」加山献牧師

「感謝の心」加山献牧師

第一テサロニケ5章16節~18節

「どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(18節)

 

【感謝し難きを感謝する】

使徒パウロがテサロニケの教会に宛てた手紙の中に、「どんなことにも感謝しなさい」という有名な言葉があります。これは、とても感謝できないような状況に置かれていた人々に対する「感謝しなさい」というメッセージでした。使徒パウロが勧めたのは「感謝し難きを感謝する」という信仰だったのです。

普通に考えて、とても感謝できないようなこと、私たちの痛み、私たちの苦しみ、私たちの涙、あらゆる苦労さえも含めて、「どんなことにも感謝しなさい」というのです。どのようにしてそのようなことが可能なのでしょうか。

 

【イエス・キリストだけが唯一の希望だった】

テサロニケの教会の人々にとっては「イエス・キリストだけが唯一の希望だった」ということを想い巡らしてみたいと思います。激しい迫害が起こっていたテサロニケの街にあって、イエス・キリストを信じ続けるということは、非常にリスクの高いことでした。

もし彼らが信仰から離れ、教会に集うをやめさえすれば、もはやその身を危険な状況にさらす事はありませんでした。それは、あらゆる迫害からの解放を意味していました。しかし、彼らは信仰から離れることはなかったのです。

彼らにとってイエス・キリストという救い主は、それほどまでに価値ある存在であり、絶対に譲れない存在、絶対に手放せない存在でした。「イエスさまのように、わたしを愛してくれた方はない。この方のように、わたしを思ってくれた方はいない。持てるすべてを失ったとしても、イエスさまだけは絶対に放したくない。」それがテサロニケの人々の信仰でした。

極端な表現ですが、仮にこの地上の人生で何一つ良いことがなかったとしても、イエス・キリストを知るならば、わたしたちはすべてのことを、耐え忍ぶことができます。すべての痛み、すべての悩みは必ず報われるからです。

やがて主イエスがもう一度来られ、私たちを迎えてくださる。すべての苦労、すべての痛みはその時に完全に報われる。これがテサロニケの人々の抱いている絶対的な希望でした。将来に備えられている完全な救い、完全な勝利、完全な慰めに基づいて、今、私たちは喜び、どのような状況でも感謝することができる、そのような感謝と喜びを持つようにパウロは人々を勇気づけました。

御国に着く朝、私たちを抱きしめて迎えてくださるキリストがおられます。今は悲しみがあったとしても、病いであったとしても、貧しかったとしても、イエス・キリストという最大の喜びが私たちの人生に訪れてこられ、私たちを包んでいます。

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2020年5月31日「新しいことばが聞こえる」加山献牧師 通訳:朱承圭協力宣教師

「新しいことばが聞こえる」加山献牧師 通訳:朱承圭協力宣教師

使徒言行録2章1節~21節

ペンテコステの日、弟子たちは一つになって祈っていました。その時、聖霊が彼らの上に降ったのです。使徒言行録はその様子を、「炎のような舌」がひとりひとりの上にとどまった、と表現しています。初代教会の弟子たちに聖霊が降った時、彼らはそれまで学んだこともない、他の国の言葉で話しはじめた、とあります。

なぜ、聖霊は彼らの言葉を変えたのでしょうか。ヤコブの手紙3章8節には興味深いみことばがあります。「舌を制しうる人は、ひとりもいない。それは、制しにくい悪であって、死の毒に満ちている。」(口語訳)

「舌」とは、私たちの言葉をつかさどる器官です。「舌」を制御することができる人はひとりもいない、そして「舌」は制御しにくい悪であって、死の毒に満ちている、とあります。ところが、このペンテコステの日、聖霊は弟子たちの「舌」を完全に制し、コントロールしたのです。私たちにとって最も御しがたい、悪の根源である「舌」を、聖霊は取り扱ってくださった、というのです。

何のために聖霊は弟子たちの言葉を変えられたのでしょうか。それは第一に、イエス・キリストの福音を全世界に宣べ伝えるためです。そして第二に、その福音を通して、世界に和解を与えるためでした。

私たちの生きる時代にあって、私たちの唇を通して、主が語ろうとされる「新しいことば」はいかなる響きをもっているのでしょうか。唇を主にご支配していただくために、私たちは喜んで、私たちの「舌」を神の働きのために明け渡すものでありたいと思います。

かつて、ペンテコステ以前にも、神様が人々の言葉を散らされたことがありました。創世記11章、バベルの塔での出来事です。バベルの物語においても、ペンテコステにおいても、神の御業によって人の言葉が散らされました。似たような現象が起きたのに、ペンテコステには「一致」があたえられ、バベルでは「分裂」が起きたのです。

人と人の間に、また民族と民族の間に深い溝があるのは、自らが一番になろうとする、また自らが神のようにふるまおうとする、人間の深い罪の結果であると聖書は告げています。ですが、ペンテコステはその問題を回復する出来事でした。人間の力で天に届こうとしたのではなく、神の方から、聖霊となって天から降ってきてくださり、力を与え、互いに違いをもった人々を福音によって結び合わせてくださいました。

ここに「一致」という聖霊の働きが示されています。昨年、日本の流行語大賞は「ONE TEAM」でした。これは、ラグビー日本代表の標語でした。彼らは、様々な国の出身者で構成されているチームありながら、「一致しているチーム」がどれほど強いのかを世界中に示しました。私たちもまた、ペンテコステの日にこそ「一致」という聖霊の賜物を求めていきたいと思います。

教会には一致が必要ですが、ここで気をつけたいことは、一致するということは、全員が完全に同じ人間になることではありません。私たちは多様性を持ったまま一致するのです。聖書の語る一致は、「多様性の中の一致」です。国、民族、言語、この分断に満ちた世界において、教会が語るべき、聖霊に導かれた「新しいことば」があります。

 

 

 

2020年5月24日「悪より救い出したまえ」加山献牧師

「悪より救い出したまえ」加山献牧師

マタイによる福音書6章13節

「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」(新共同訳)

この祈りは、主イエスが弟子たちに教えてくださった祈りの、6番目の祈願として知られています。今、世界には様々な問題が山積みになっていますが、私たち個人の人生の中においても、次から次へと新しい試みがやってきます。私たちが人間として生きていく以上、様々な試練と誘惑に直面せざるを得ないのです。困難の只中に陥る時、誘惑に悩まされる時、神の助けと救いを求めて祈るようにと、主イエスは私たちにこの祈りを教えてくださいました。

主の祈りの中で語られている、この「試み」は、根本的には、「悪い者」つまり悪魔から出てくる誘いのことを指しています。

聖書は創世記から黙示録に至るまで、神と人間と悪魔との三つ巴の関係を語っています。歴史の中で、悪魔は絶えず人を神様から離そうとし、人を絶望の中に閉じ込めようとしている存在なのです。

創世記3章では、蛇の姿をとった悪魔が、エバに向かって「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」と問いかけました。それはつまり「本当に神はそうおっしゃったのか?」という不信仰を呼び起こす問いかけでした。“神の言葉に対する疑いを起こさせること”それは今に至るまでずっと変わらない悪魔の手法です。

およそ人間の人生の中で起こり得る最悪の出来事は、聖書に語られている優しく、暖かい神の約束を信じず、この悪魔のささやきを信じてしまう、ということです。

この歪んだ社会の中で、自分の命に価値を見出せず、自分の人生に「終止符」を打ちたいとすら願う人がいます。しかし、人の命は神が造られたかけがえのない命であり、神はすべての人を愛しておられるのです。これこそが真実です。

悪い者の誘惑に耳を傾けないでください。決してその嘘を信じないでください。すべての人に愛される資格があり、たとえどんな状況にあったとしても、私たちの存在には尊い価値があるのです。私たちが救いを求めて祈るなら、必ず救い出してくださる、救い主がおられるのです。どうか、この救い主と出会い、この救い主と共に生きる希望の人生をあなたのものとしてください。キリストが十字架で死なれたのは、「わたしはあなたを愛している」という優しい神さまの愛の成就なのです。私たちを包んでいる神の愛に、今日も身をゆだねましょう。

 

 

2020年5月17日「神は真実な方です」今村まさゑ協力牧師

「神は真実な方です」今村まさゑ協力牧師

第一コリントの信徒への手紙10章13節

人生には3つの坂がある。上り坂、下り坂、まさかだそうです。昨年、水泳のオリンピック選手の池江璃香子さんが、突然、「白血病」と発表されたことはご本人はもとより大きな衝撃でしたね。その池江さんが、自分を支えている言葉として、友人から贈られた今朝の聖書のみ言葉を記しておられました。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」また最近のテレビで、YOSHIKI(X JAPAN)さんも、同じみ言葉を語っていました。

そこで、今朝は、その聖書の背景(文脈)を見ていきたいと思います。10章1節でパウロは、『兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。』と、イスラエルの歴史を振り返らせます。彼らの先祖イスラエルが奴隷であったエジプトから脱出し、約束の地に入るまでの40年間、どれ程、神の真実を味わったか。モーセを民の指導者として立てられた神は、壮年男子だけでも60万人に及ぶ人々(出12:37)を救出されたのです。しかし、エジプトは労働力を惜しんで引き戻すために軍隊に追撃させ、イスラエルの人々が絶対絶命となった時、前方の紅海を二つに割けられたのです。

『主は夜もすがら激しい東風をもって海を押し返されたので、海は乾いた地に変わり、イスラエルの人々は海の中を進んで行き、水は彼らの左右に壁のようになった。』と記されています。(出14:1~)困難な大移動の中、神は、昼は雲の柱、夜は火の柱をもって恵み養って下さいました。また、食べ物も飲み物も無いアラビアの荒野で、何と神は「マナ」と呼ばれるパンを毎朝、天より降らせ、夜はうずらを飛ばせて肉を与え、岩を裂いて飲み水を与えてくださいました。モーセがシナイ山で「十戒」を賜っている時に、彼らはモーセの帰りが遅いと「金の子牛の像」をつくり拝み始めたのです。彼らの罪は「むさぼり」「偶像礼拝」「姦淫」「不品行」「つぶやき」でした。試練を経験しない人はいません。「あなたがたを襲った試練で」とありますが、この「襲った」という言葉は「不意に、急に」という意味です。まさにこの度のコロナも、不意に・急に訪れました。

ここで示される「逃れの道」は、トマス・ア・ケンピス著の「キリストにならいて」では「打ち克つ道」と訳されています。すなわち、「逃れの道」とは、試練に耐えるのに必要な道、必要な力を得る道であると理解できるのです。『神は、真実な方です。』「真実」とは、うそ偽りがないことです。「神の真実」とは、「約束されたことを忠実に守る」ということであり、「神の約束」とは、「私たちを愛し抜く」と言う事です。(フィリピ人への手紙2:6~8)(第一ペテロの手紙4:19)でも明らかです。

神が備えておられる「逃れの道」とは、イエス・キリストであるということが明白です。唯一の生けるまことの神ご自身の真実にこそ、すべてのキリスト者が立つべき確信の基盤があります。『わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を、否むことができないからである。』(第二テモテの手紙 2:13)

 

 

2020年5月10日「海の歌をうたおう」加山献牧師

「海の歌をうたおう」加山献牧師

出エジプト記15章1節~18節

「主はわたしの力、わたしの歌、主はわたしの救いとなってくださった。この方こそわたしの神。わたしは彼をたたえる。わたしの父の神、わたしは彼をあがめる。」(出エジプト記15章2節、新共同訳)

モーセに率いられたイスラエルの民が、エジプトを脱出して、新しい出発をしました。ところが、心変わりしたエジプト王ファラオが、再びイスラエルを捕らえ、奴隷とするために、当時世界最強の軍隊を率い、民を追いかけてきたのです。ファラオは、まだ夜が明ける前にイスラエルに追いつきました。

イスラエルの人々の行く手には海が広がり、背後からはエジプトの軍隊が迫っていました。イスラエルの民は、この絶体絶命の状況の中から、驚くべき方法で救い出されたのです。なんと行く手を阻んでいた海が真二つに割れ、民は乾いた地を渡っていくことができた、というのです。夜が明け、向こう岸に辿り着いた彼らは、もはや敵を見ませんでした。かつて彼らを、不自由の中に閉じ込め、恐れによって縛っていた敵は、もう彼らの目の前からいなくなっていたのです。

朝の光の中で、彼らの唇に賛美の歌が湧き上りました。それが出エジプト記15章に記録されている「海の歌」です。聖書には数多くの賛美の歌(実際に礼拝などで使用されたであろう歌)が記録されていますが、この「海の歌」はその最古の記録です。

「海の歌」の特徴は、(1)「救われた喜びと感謝こそが、民を賛美に導いた最大の原動力であった」ということ、そして(2)「最初から最後まで、神が主語、神が主役である」ということです。これは、神がどのような方なのか、神がどのような救いの御業を成し遂げてくださったのかを世界に告げる賛美なのです。

コロナ以前とコロナ以後、何もかもが変わるだろうといわれています。経済、教育のシステム、医療の在り方、国際情勢、人と人の関わり方なども、以前とは違ったものになっていくことでしょう。

私は教会の賛美も以前とは違ったものになると思っています。荒れ狂う海を潜り抜けたイスラエルの民のように、私たちはこの苦しみと問題から、必ず救い出され、解放される時が来ます。その時、私たちは、以前よりももっと大きな感謝を込めて、神さまを賛美し、以前よりももっと大きな喜びを伴って、神の御前に立ちます。早良教会の皆さん、私たちは必ずもう一度この礼拝堂に集まり、私たちの「海の歌」を神さまにお捧げしましょう。その日を心から待ち望みます。