12. 4月 2019 · 2019年3月31日「わたしはあなたがたのために祈ります」K.J.シャフナー協力牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「わたしはあなたがたのために祈ります」K.J.シャフナー協力牧師

フィリピの信徒への手紙1章3~11節

 

パウロは、牢獄の中からフィリピ教会へ手紙を書きました。彼は感謝でその手紙を書きはじめたのです。その冒頭で、パウロは10年前のフィリピでの出来事を思い起こし、感謝しています。使徒言行録16章11~40節を見ると、フィリピでの最初の経験は決して良いものばかりではありませんでした-嫌がらせ、逮捕、鞭打ち、監禁。それにもかかわらず、パウロはそれらの出来事を神に感謝していたのです。最初の時から10年間、「福音への参加」という大切な交わりの中で彼らと一緒に過ごしてきました。神様は、はじめられた善い業を成し遂げてくださるという朽ちることのない希望を抱き、パウロは神に感謝しています。

その感謝は大きな確信に満ちています。パウロは、フィリピ教会は自分によって建てられたものではなく、神がはじめられ、神によって完成させられる、と断言しました。そして、彼らに対する愛を示し、彼らのための祈りの言葉を記しました。その祈りは、彼らが幸福、健康を手にすることを願ったのではなく、問題や悩みが消えるように願ったのでもありませんでした。彼の最初の祈りは「愛がますます豊かになるように」-神に対する愛、隣人に対する愛が溢れ出るように-との祈りでした。その愛は感情ではなく、意志に基づいている愛、行動で表された愛です。周りに自分の苦手な人がいるならば、その人との関わりの中で、愛し方を学ぶ機会となるように、神様は時を用いてくださいます。

次に、彼らに「知る力」が身に着くための祈りです。これも愛と関連があります。好きなものがあるならば、あらゆる面でその物事を知ろうとします。その知る力に加えて、何が重要であるかを「見抜く力」が備えられるように祈りました。今の世の中は、値札が正しい場所に置かれていないお店のショーウィンドウのような状態になっていると感じます-無価値なアイテムは高い値段を持ち、最も価値のあるアイテムは安い値段を持つ-。パウロの祈りは今の時代にもあてはまります。何が重要であるかを「見抜く力」が必要です。

次にパウロはフィリピの人たちが「清い者」、「とがめられるところのない者」となるように祈りました。前者の言葉は、陶器の品質テストのために使わされた言葉です。市場で売られていた陶器は、ロウで隠されたひび割れがないか調べるために、器を持ち上げ太陽の光に透かすことがありました。隠されたひび割れがないのなら「清い者」です。それに対して後者は、動物を罠にはめて捕まえる様子を表す言葉です。罠にはまるようなスキがなければ、「とがめられるところのない者」です。これは、フィリピの人々が見せかけだけを良くするものにはならないように、との祈りでした。

最後に彼らがイエス・キリストによって与えられる「義の実」をあふれるほどに受けるように、との祈りがあります。果物の実がなるまでに時間がかかるように、パウロは、主イエスの働きが彼らの中に少しづつ「義」を育て、「神の栄光と誉れとをたたえることができるように」祈りました。

わたしも、パウロと同じ想いで、この手紙を皆さんに送ります。たとえわたしが福岡から離れても、早良教会の皆さんのために祈り続けます。 K. J. シャフナー

※早良キリスト教会の創立伝道者であったシャフナー先生は、35年におよぶ日本での働きを終えられ、2019年4月4日に米国に帰国されました。

 

12. 4月 2019 · 2019年3月24日「何のために生き、何のために死んでいくのか」加山献牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「何のために生き、何のために死んでいくのか」 加山献 牧師

マタイによる福音書5章10節~12節

 

イエスさまは山上の説教で、幸せについてどのように教えられたのでしょうか。「心の貧しい人々は幸いである/悲しむ人々は幸いである/義のために迫害される人々は幸いである/天の国はその人たちのものだから/その人たちは慰められるから。」

この世界の一般的な「幸せ」の定義とはかけ離れた「幸い」を、イエスさまは示されました。たとえこの世で幸せと呼べるようなものを何ひとつ持っていなかったとしても、もしイエス・キリストに出会うなら、人に天の国を与え、すべての涙をぬぐい、慰めてくださる方であるイエス・キリストを知るのなら、それは幸せな人生だ、というのです。

この地上での幸せが悪いものである、ということではありません。私たちには、住む家が与えられ、食べるものがあり、やりがいのある仕事を与えられ、愛し愛される関係に囲まれて生かされています。私たちの人生は感謝すべきことにあふれています。けれども、それらすべてを持っていたとしても、もし私がイエス・キリストを知らなかったのなら、もし私がイエス・キリストに出会わないなら、実は私は不幸なのだ、というのです。

イエスさまは言われました。「義のために迫害される人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」「義」という言葉はすでに6節に出てきていました。「義」とは神様との正しい関係を表す言葉です。イエス・キリストの十字架によって、神の子とされ、イエス・キリストの名によって、私たちは親しみをこめて「私たちの父なる神さま」と呼ばわることができるようにさせていただけました。神様との正しい関係、それは私たちがそうであるべきものにさせていただけた、ということです。

弟子たちはのちに、この「神様との正しい関係」、つまりイエス・キリストの福音を宣教するが故に迫害を受けるようになりました。ユダヤの宗教的な指導者たちからの迫害があり、ローマ帝国からの迫害がありました。

彼らが本気で伝道しなければ、あるいは迫害を避けることができたかもしれません。少しだけ偽り、信仰を隠して生きていけば、その苦しみは取り去られる状況だったことでしょう。しかし彼らは、その命に代えても、どうしても伝えたかった福音、良き知らせを知っていたのです。

迫害のただ中にあっても、彼らはイエスさまを覚え続けました。彼らは、イエスさまがどれほど忠実に苦難をしのばれたかを忘れませんでした。彼らは、このイエスさまの言葉を何度も思い出したはずです。「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

 

 

23. 3月 2019 · 2019年3月24日「立て、さあ行こう」今村まさゑ協力牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「立て、さあ行こう」 今村まさゑ 協力牧師

マタイによる福音書26章36~46節

 

今朝はレントの第二主日です。主が十字架に死なれる前日のこと、主の晩餐と言われる食事の時、イエスはパンを弟子たちに与え「これはわたしの体である。」また、杯を与え「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」そして、オリーブ山へ行く道すがら、ゼカリヤ13章の言葉を引用し「今夜、あなたがたは皆つまずく・・鶏が三度鳴く前に・・」と予告されました(26章26~35節)。

ケデロンの谷を通り、ゲツセマネ(オリーブの油搾り機の名称)という所に来て、弟子たちに「わたしが祈っている間、ここで座っているように」言われ、ペテロ、ヤコブ、ヨハネをには「目を覚まして祈っているように」と言われます。

そういうや否や、イエスは恐れおののき、悲しみ悶え「わたしは悲しみの余り死ぬ程である」と。いつも毅然としておられたイエスにどんな恐ろしいものが襲い脅かしたのでしょうか。イエスはうつ伏せになり祈って「アッバ、父よ。あなたは何でもお出来になります。この杯を、わたしから取り除けて下さい。」サタンの総攻撃、すさまじい誘惑を受けられたのです。イエスを十字架につけさせまいと、また飲むべき杯の苦さ、背負うべき十字架の重さ、身代わりとなるべき人間の罪の余りの凄さまじさを、パノラマのようにイエスに見せたのだ。サタンは、神の御子イエスを狂い死にさせたかったのだ・・と、ある牧師は語っています。

祈りの応援を求めるかのように、イエスは弟子たちの所へ戻ってご覧になると、弟子たちは眠り込んでいました。「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」。再び、祈り場へ。全人類を救うという神の愛の成就にために「父よ、十字架の贖い以外に方法が無いのでしたら・・、あなたの御心が行われますように。」神であられ、人となられたイエス以外、罪の身代わりと成り得ないのです。「罪の支払う報酬は死である。」(ローマ6:23)とありますが、私たち人間は、罪の恐ろしさ、罪を憎む神の正義、イエスが受けようとしている刑罰は、人間の罪に対する神の怒りであることに、気づいてさえいないと言えます。

私たちの罪のために祈られるイエスの「額から流れ落ちる汗は、血のしたたりのようであった。」(ルカ22:44)今朝の箇所は、祈られるイエスさまと眠りこける弟子たちと対照的です。それでも「立て、さあ行こう」と励まして下さる。マタイ受難曲の歌詞字幕に「イエスと共に目覚めていよう。その時、我らの罪は眠りにつく」と何度も、何度も映しだされていました。

 

23. 3月 2019 · 2019年3月10日「重たい鎧を静かにおろす」加山献牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「重たい鎧を静かにおろす」加山献牧師

列王記下5章4~14節

 

私たちは多かれ少なかれ、誰でも「悩み」を抱えて生きていると思います。この聖書箇所に登場するナアマンという将軍は王にも部下にも慕われている力強い勇敢な戦士でしたが、その彼にも1つの大きな悩みがありました。彼は重い皮膚病を患っていたのです。そのままにしておけば軍人として生きていくことも、家族と一緒に生活していくこともままならない、深刻な病に侵されていました。そのナアマンが癒しを受けて、神への信仰を持つに至るまでにはいくつかのステップがありました。

第一のステップは「召使いの言葉を受け入れた」ということです。ナアマンの家に、一人の少女が、イスラエルから捕虜として連れてこられ、ナアマンの妻の召使いとされていました。その少女が次のように言ったのです。「御主人様がサマリアの預言者のところにおいでになれば、その重い皮膚病をいやしてもらえるでしょうに。」(3節)ローマ10章17節には次のようにあります。「実に、信仰は聞くことから始まります。」ナアマン将軍は自分が敵国から捕虜として連れてきた一人の少女の言葉を聞き、それを信用して、受け入れました。

ナアマンの二番目の信仰のステップは「恵みを求めて出かけていった」ということです。彼はすぐに自分の王にこのことを相談しました。そして手紙とたくさんの贈り物を携えて出かけていきました。新約聖書にも「御言葉を行う人になりなさい」(ヤコブ1章22節)という教えがあります。行いによって救いと癒しを得なければならないという意味ではありません。私たちはただ恵みによって、一方的な神の憐れみによって救われ、癒されます。ですが私たちには、その無償の恵みを受け取りに行く必要があるのです。誰かがプレゼントをくださろうとしているならば、手を伸ばしてそれを受け取る必要があります。受け取ることを通して、私たちはその恵みを享受し、味わうことができます。ナアマン将軍は恵みを求めて出かけていきました。

ナアマン将軍の三番目の信仰のステップ、それは「重たい鎧をおろした」ということです。ナアマンは皆に尊敬され、愛されている勇敢な戦士であり、アラムの国の英雄でした。鎧は彼の誇りの象徴でした。しかし、その誇り、プライドをおろして、従順にならなければなりませんでした。ナアマン将軍は今まで、自分の力を頼りに生きてきたことでしょう。自分の力で勝ち続けてきた人生であったかもしれません。しかしこの章の1節を注意深く読んでみたいと思います。「アラムの王の軍司令官ナアマンは、主君に重んじられ、気に入られていた。主がかつて彼を用いてアラムに勝利を与えられたからである。」(1節)自らの力で何かを成し遂げた、という経験があったとしても、その過去の出来事すらも、主が用いてくださって、勝利を与えてくださった故だというのです。それならなおのこと、自らの力によって救いと癒しを勝ち取ることはできません。ナアマンに必要だったのは恵みを受け取るための従順でした。

鎧を着た彼は、知らない人が見れば非の打ち所のない、完全そのものだったことでしょう。しかし、その鎧の内側はどうだったでしょうか。自分ではどうすることもできない病、自分ではどうすることのできない弱さを抱えていました。ですが弱さもそのままに、汚れもそのままに、隠すことなく主の前に出ても良いのです。イエス様は言われました。「子供たちを私のもとに来させなさい。・・・子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」

 

 

12. 3月 2019 · 2019年3月3日「逆境を乗り越えて」加山 献 牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「逆境を乗り越えて」 加山 献 牧師

列王記下5章1~6節

 

時は紀元前840年頃です。イスラエルとアラムという国は互いに敵対し、緊張関係にありました。アラムにはナアマンという将軍がいました。非常に優れた軍人で、主君に重んじられ、気に入られていた人物でした。ナアマンは優れた勇士でしたが、大きな悩みがありました。彼は重い皮膚病を患っていたのです。

そのナアマンの家に、イスラエルから捕虜として連れてこられ、ナアマンの妻の召使いとされていた少女がいました。その彼女が女主人に語ったのです。「御主人様がサマリアの預言者のところにおいでになれば、その重い皮膚病をいやしてもらえるでしょうに。」 (3節)

この少女から3つのことを考えていきたいと思います。第一に、この女の子は「それでも神を信じていた」ということです。彼女は家族から引き離され、故郷から遠く離れた、遠い外国に連れてこられていました。彼女の家族はどうなったのでしょうか。最悪のシナリオを想定するのであれば、略奪にさらされ、もうすでに亡くなっていたかもしれません。それでも彼女はイスラエルに神の預言者がおり、そして、この神は祈りに答えてくださる神であることを信じていました。問題がない時に神を信じることはできるかもしれません。すべてのことがうまくいっている時に神様に感謝することはできるかもしれません。しかしこの少女は深い絶望の中で、敗北のただ中で、逆境を乗り越えて「それでも神を信じる」という信仰を持ったのです。

第二に、この少女は「置かれた場所で忠実に仕えた」ということです。彼女は捕虜としてナアマンの家に連れてこられ、その伴侶に仕えました。この少女の皮膚病に対するアドバイスを、女主人は心に留め、すぐにナアマンに伝えたようです。ナアマンもすぐにそのアドバイスを聞き入れ、王に進言しています。少なくとも「この子の言うことなら信頼できる」と判断してもらえるほど忠実な生活を送っていたからだと思います。この少女は不本意ながらこの場所に置かれたけれども、置かれた場所で忠実に仕えたのです。

第三に、この少女は「敵を愛する愛」を実践しました。注目したいことは、この少女が「ナアマン将軍が癒されることを願った」ということです。彼女は、自分の国を脅かし、自分の人生を乱してしまった敵国の将軍の癒しを願ったのです。イエス様は「あなたの敵を愛しなさい」と教えられました。また、十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください」と叫ばれました。この少女はこの新約の教えを先取ったと言っても良いかもしれません。そして、彼女の愛が、癒しの奇跡を呼び起こしたのです。私たちの逆境も乗り越えるためにあります。聖書の中にも、また聖書の神を信じ歩んだ歴史上の人々の中にもその証がたくさんあることを、私たちは知っています。

 

12. 3月 2019 · 2019年2月24日「尽きることはない」加山 献 牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「尽きることはない」 加山 献 牧師

列王記上7章8~24節

 

エリヤという預言者が活躍したのは、今からおよそ2900年前でした。当時、イスラエルの国は干ばつと飢饉にみまわれていました。この飢饉の中で、神様はエリヤに対して、シドンのサレプタという町に向かうように言われました。しかも、そこに住む一人の未亡人にあなたを養わせる、というのです。この時代において、未亡人とは保護の対象でした。伴侶に先立たれた女性は、ただ守ってもらうほか成す術がなかったのです。その上、大干ばつ、大飢饉の時代です。社会的に弱い立場にある未亡人は真っ先に窮地に立たされていました。ところが神様は「最も力無き者を用いて、あなたを助けよう」とエリヤに語っておられるのです。力無き者を用いる神、これは聖書に何度も現れるモチーフです。

エリヤは神様の言葉を信じ、サレプタの街にやってきました。そして、一人の女性と出会うことになるのです。長い旅の故に、エリヤは空腹と渇きを覚えていたことでしょう。彼はパンと水をこの女性に求めました。彼女は答えました。「わたしには焼いたパンなどありません。ただ壺の中に一握りの小麦粉と、瓶の中にわずかな油があるだけです。わたしは二本の薪を拾って帰り、わたしとわたしの息子の食べ物を作るところです。わたしたちは、それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです。」(12節) その彼女にエリヤは言いました。「恐れてはならない。まずわたしのために小さいパン菓子を作って、わたしに持って来なさい。その後、あなたとあなたの息子のために作りなさい。なぜならイスラエルの神、主はこう言われる。主が地の面に雨を降らせる日まで、壺の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならない。」(13~14節) この女性は大きな決断を迫られました。目の前にいるこの人は、本当に神の言葉を語っている預言者なのか。それとも偽りを語る者なのか。女性はどのように応答したでしょうか。「やもめは行って、エリヤの言葉どおりにした。こうして彼女もエリヤも、彼女の家の者も、幾日も食べ物に事欠かなかった。主がエリヤによって告げられた御言葉のとおり、壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかった。」(15~16節) この女性と同じように、耳にする聖書の言葉をどのように判断し、どのように応答するかは、私たちに委ねられているのです。恵みと祝福を受けるために、このサレプタの女性のように信仰によって決断し、応答する者でありたいと思います。

この女性はエリヤのためにパンを焼くという試練に耐えました。しかし、この女性にさらなる試練が訪れました。夫を失った今、生きる喜びそのものであった息子が亡くなるという試練です。サレプタの女性に関して、2つの試練と2つの奇跡が記されていますが、この2つ目の試練は、より私たちの人生の問題の本質を明らかにしています。それは「死」という私たちの究極的な問題です。そして、2つ目の奇跡の方が、より神様の恵みの本質を明らかにしています。いくら小麦粉や、油が尽きなかったとしても、愛する者の「命」が尽きてしまったら、私たちの「命」が尽きてしまったら、一体何になるのでしょうか。神様は私たちに物質的な祝福、日々の糧をも与えてくださる方です。しかし、神様が私たちに与えてくださる祝福の中で、最も大切な事柄は目に見えるものではありません。目に見えない命こそが物質的なものに勝る恵みであり、祝福なのです。十字架の主イエスによって、信仰、希望、愛、そして 私たちの「命」は尽きることはありません。

 

 

 

28. 2月 2019 · 2019年2月17日「平和、はじめました」加山献 牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「平和はじめました」 加山 献 牧師

マタイによる福音書5章9節

 

イエスさまは「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」と語られました。争いに溢れている世の中から離れて、ひっそりと平和を楽しみなさい、という意味ではありません。争いのあるところに出かけて行って、そこに平和を生み出しなさい、と語られているのです。新約聖書では「平和」もしくは「平安」と訳されている言葉は88回使われていますが、大きく分けて3つの平和に関するテーマが論じられています。そのうち、2つの平和に関する教えに注目したいと思います。

第一に神様との平和が語られています。私たち人間と神様との間の平和が必要であるというのです。「神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。・・・神と和解させていただきなさい。」(第二コリント5章18節~20節) 神様と和解する必要があるということは、私たちは皆、神様に反抗し、神様に背を向けている状態にあった、という前提があります。神様を無視して、神など存在しないかのように生きていくことを聖書は「罪」と呼んでいます。ところが、神様はその人類を呪うためにではなく、愛してくださり、救うために、キリストを送ってくださいました。この和解は、神様の方から懇願するように、申し出てくださったことなのです。

第二に、人と人との平和、隣人との平和があります。私たちは国と国、人種と人種の間が分断された世界に住んでいます。私たちはこの世界にあって、あらゆる破れを結びつけていく働きに招かれています。エフェソの信徒への手紙2章14節~17節には次のようにあります。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。」

エフェソ教会にはユダヤ人とギリシア人という異なるバックグラウンドを持つ人々が集まっていました。彼らは、以前は激しい民族的対立、それぞれの文化的なプライド、宗教的背景などの違いによって、互いに排除しあっていました。ところが今や、彼らは同じ教会に集まり、同じ神様を礼拝し、一緒にご飯を食べるようになっていました。キリストの十字架によって、肌の色に関係なく、生まれた場所に関係なく、私たちはひとつの家族となることができます。私たちが神の子とされたということは、私たちはキリストにあって兄弟であり、姉妹とされたということです。

しかし、歴史を振り返ると、絶えず平和は破られてきました。人間の持っている罪の深さがここに現れています。それどころか、20世紀に起きた2度の世界大戦は一般的にキリスト教国と呼ばれる国々が舞台となって戦われました。戦後、教会は、痛みと悔い改めの中から再出発することになりました。

イエスさまは、このような人間の現実を良くご存知であったはずです。それでもなお、絶望の言葉を語るどころか、希望を持たれるように語られました。その夢を弟子たちに託すように「平和を実現する人々は幸いです」と宣言されました。イエスさまはそれでも人を信じてくださったのです。人と人が愛し合う姿を、人と人が許しあう世界を、イエスさまは夢見てくださいました。私たちは主と同じ夢を見るものでありたいです。誰が主の願いに応え、世界に宣言するでしょうか。「平和、はじめました。」(2月17日)

 

16. 2月 2019 · 2019年2月10日「未知への旅」 K.J.シャフナー協力牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「未知への旅」 K.J.シャフナー協力牧師

ヘブライ人への手紙11章1~16節

旅を始める準備をするとき、私は興奮と同時に不安を感じます。いくら前もって計画しても、すべての状況や問題を予測することはできません。それで私は聖書の中のアブラハムの物語についてよく考えます。旅に出たときは信仰によって、神の呼びかけには「イエス」と応答して、行き先を知らずに出かけたと言われています。人生の未知への旅の中で、私が一つ分かったのは、見通せないことがたくさんあっても、必ず知ることができるものがあるということです。

私たちの人生の旅は、神からの呼びかけに、信仰をもって応答することによって始まります。旅の中で知ることが出来ること一つは、いつでも頼りにできる方がおられることです。ガーナでは万物の創造主の呼び名は「オニャンコポン」です。日本のアニメの中での意味と違って、その言葉は他に比べられる者がおらず、唯一の偉大な神という意味です。ガーナのでは、オニャンコポンに頼ったとき、神は必ず支えてくれるという歌を歌いました。信仰を持つ者は、神の存在と、熱心に神を求めれば神は必ず報いてくださることを信じます。

信仰の先輩たちは、私たちにもう一つ知ることが出来ることを教えてくれます。13節にあるように彼らは「よそ者」、「仮住まいの者」であり、故郷を探し求めていました。その故郷は「更にまさった」もので、「天の故郷」であり、神が準備してくださった都であることを知ることができます。その新しい都に神ご自身が人々の中に住み、涙も死も悲しみも叫びも苦痛もありません。(ヨハネの黙示録21章3~4節)

ある意味では毎日は「未知への旅」で、目に見えない事実を確認することがその支え、励ましと慰めとなります。「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け、わたしの救いの右の手であなたを支える。」(イザヤ書41章10節)

(2月10日)

09. 2月 2019 · 2019年2月3日「この夜が明けるまで」 加山献牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「この夜が明けるまで」加山献牧師

創世記32章23節~33節

ヤコブはひとり、川の流れの音を聞きながら、夜の闇を見つめていました。ヤコブにとっては、夜の闇よりも、朝が来ることの方が怖かったかもしれません。明日、兄エサウに再会しなければなりません。しかし、かつて兄エサウに対しておこなった悪い仕打ちが重荷となってヤコブの肩にのしかかっていました。

ところが突然、ヤコブの孤独を破る存在が現れました。何者かがヤコブに襲いかかって、夜明けまで格闘した、というのです。聖書の中に、後にも先にもない、不思議な記述がここにあります。ヤコブは人間と戦うように、神と格闘した、というのです。

なぜ神は人の姿を取られ、降りてこられ、ヤコブに闘いを挑まれたのでしょうか。この格闘の意味について、ユダヤ教もキリスト教も、それぞれの歴史の中で、数多くの解釈に導かれてきました。多くの解き明かしに共通していることは、この闘いはヤコブを傷つけるためのものではなく、ヤコブを整えるための闘いであったということです。この格闘は、神様による、ヤコブのための「変革のプロセス」でした。

神さまが周りの状況を変えてくださるだけなら、もっと楽かもしれません。神さまが他の人を変えてくださるだけなら、もっと楽かもしれません。自分が変わらなければならない、ということはとても辛いことです。けれども、私たちは自分が変えられることを恐れずに歩んでいくものでありたいと思います。

ヤコブは、死にものぐるいで、戦わざるを得なくなりました。今までの人生で、一度も出したことのないような力を振り絞って、ヤコブは必死で闘いました。26節には、「その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打った」とあります。なんとヤコブが優勢に戦っている、というのです。今までの人生、逃げてばかりいたヤコブが、生まれて初めて、真正面から誰かとぶつかり合って、勝利しようとしています。

この戦いの中で、最も特徴的なことは、「神が人に敗北した」ということです。神様がヤコブに負けてくださったのです。それは、ヤコブに勝利を与えるためでした。同じように、イエス・キリストもこの地上にこられました。神様が人の姿をとって、この地上に来てくださり、十字架についてくださったのです。十字架は当時、最も酷い死刑の道具でした。それは敗北以外の何ものでもありませんでした。イエス様はこの敗北を甘んじて受けてくださいました。それは私たちの人生に勝利をもたらすためでした。

私たちの人生に、度々夜は訪れます。一晩中闘い続ける、暗い夜があるかもしれません。その中で痛みを経験するかもしれません。けれども、必ず朝がきます。その戦いは、私たちに勝利をもたらすための闘いなのです。(2月3日)

 

30. 1月 2019 · 2019年1月27日「涙の再会」加山献 牧師 はコメントを受け付けていません。 · Categories: 宣教メッセージ

「涙の再会」 加山献 牧師

創世記32章4~14節、33章1~4節

 

ヤコブは恐れていました。ヤコブの肩には、20年前の思い出したくない記憶(お兄さん対しておこなってしまった悪い仕打ち)が重くのしかかっていました。かつて、自分のことを殺そうと決断するほど激昂した兄に、再会しなければならないことが、ヤコブにはわかっていたのです。同じように、私たちの人生にも避けては通れない「恐れ」が数多くあるかもしれません。

「苦しい時の神頼み」という言葉があります。あまり肯定的な意味では使われないことが多いです。ですが、これを良い意味で捉えなおしたいと思います。本当に苦しい時、もう自分の力ではどうすることもできない時、私たちは一体誰に頼るのでしょうか。私たちは試練の中にある時、神様に助けを求めて良いのです。私たちが祈ることを神様は待っていてくださいます。

「わたしの父アブラハムの神、わたしの父イサクの神、主よ、あなたはわたしにこう言われました。『あなたは生まれ故郷に帰りなさい。わたしはあなたに幸いを与える』と。 」(10節)ヤコブは、祖父アブラハムを導き、父イサクを助け、そして彼自身の人生にも、ずっと一緒にいてくださって、支え導いてくださった神様に祈っています。ヤコブは決して誰だがよく分からない神様に祈っているのではありません。この神様は私たちと向き合い「あなたとわたし」という関係の中に立ってくださる方なのです。そして「あなたはこのように約束してくださったではないですか」と訴える私たちの声に耳を傾けてくださいます。

「わたしは、あなたが僕に示してくださったすべての慈しみとまことを受けるに足りない者です。かつてわたしは、一本の杖を頼りにこのヨルダン川を渡りましたが、今は二組の陣営を持つまでになりました。」(11節)ヤコブは家を出た時、着の身着のままで出て行きました。けれども今は、愛する家族がいて、たくさんの財産を与えられています。ヤコブはこの事を感謝しました。ヤコブは恐れと不安の中でも感謝したのです。

「どうか、兄エサウの手から救ってください。わたしは兄が恐ろしいのです。兄は攻めて来て、わたしをはじめ母も子供も殺すかもしれません。」(12節)ヤコブは率直に、素直に、心の想いと願いを神様にお伝えしました。「わたしは恐ろしいです。どうか救ってください。」それは「私にはあなたが必要です」という信仰の告白そのものです。私たちは、いつも綺麗な言葉で祈れないかもしれません。それでも大丈夫です。「神様、辛いです。悔しいです。不安です。」私たちのあるがままの心を、神様にお伝えすることも、私たちの祈りの形です。

ヤコブは祈っただけではありませんでした。8節、9節では自分の財産である家畜を二手に分け、万が一に備えました。14節以降では、贈り物を1日がかりで用意して、お兄さんの怒りをなだめようと試みています。ヤコブは祈るだけでなく、家族を守るために、財産を守るために、自分で成し得る最善を尽くしました。

「ヤコブが目を上げると、エサウが四百人の者を引き連れて来るのが見えた。・・・ヤコブはそれから、先頭に進み出て、兄のもとに着くまでに七度地にひれ伏した。エサウは走って来てヤコブを迎え、抱き締め、首を抱えて口づけし、共に泣いた。」(33章1~4節)

20年という年月が過ぎて、二人はすっかり変わっていました。押しのけて、出し抜く者であったヤコブは、もう以前のようではありませんでした。エサウの怒りも雪解けのように溶かされていました。二人は過去のことを一切口にしませんでした。二人の涙が全てを語っています。この和解が成り立つまでには長い年月が必要でした。

神様は私たちを成長させるために、「時間」を用いられます。そのような意味で、「時間」は神様の道具です。私たちは時が満ちるまで、長い間、待たなければならないかもしれません。ですが、私たちは希望を持って待つことができます。待つことのできる人は、神様を信頼する人です。もし、和解や解決を願っている問題があるなら、私たちはその問題を見定め、祈り、自分のできるベストを尽くし、神様の時を、信仰を持って「待つ」ことができます。 (1月27日)