カテゴリー別アーカイブ: 礼拝メッセージ

2019年8月25日「いつの日か必ず」加山献牧師

「いつの日か必ず」加山献牧師

創世記45章1節~16節

 

今までのヨセフの人生から、人間の一生は神の深いご計画の中にある、ということを学んできました。ヨセフは信じ続ける人でした。どのような状況の中でも、自分の人生を導いている神がおられる、ということを彼は知っていたのです。

時は大飢饉の時代でした。かつてヨセフを奴隷としてエジプトに売った兄弟たちは食料を求めてエジプトに下ってきました。そして彼らは、時を経てエジプトの高官となっていたヨセフの前に立つこととなったのです。

ヨセフは兄弟たちを赦したいと願っていました。しかし彼は“うまく赦すことができない”というジレンマに陥っていたことを、42章から44章まで続く、ヨセフと兄弟たちとの複雑な駆け引きから読み取ることができます。けれども、この不器用なコミュニケーションこそが、ヨセフにとって赦すための大切なプロセスになりました。

心の傷を乗り越えるために必要なことが二つあると言います。一つは「傷をしっかり認める」ということだそうです。自分がどのようなことで傷ついたのか、どのようなことに痛んでいるのか、しっかり真正面から見つめて、受け入れるということです。二つ目は「正しく忘れ、正しく思い出す」ということです。言い換えると「過去を正しく解釈し、新しく生きていく」ということだそうです。

まさにヨセフは過去を正しく解釈したといえます。彼の言葉に注目しましょう。「『今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。・・・神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神がわたしをファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです。』」(45章5節~8節)

私たちの人生にも「神様がおられるなら、なぜですか?」と問いかけたくなる出来事がたくさんあります。しかし、いつの日か必ずすべてのことが分かる、そのような時がくることをヨセフの生涯は証しています。私たちの人生において、その日はいつ来るかはわかりません。ただひとつ確かなことは、私たちが天国に着く朝、イエスさまと顔を合わせて出会う朝、すべてのことを悟ることができる、ということです。「ヨセフは兄弟たち皆に口づけし、彼らを抱いて泣いた。その後、兄弟たちはヨセフと語り合った。」(15節)いつの日か必ず、そのような時が来ることを信じ、希望を抱くものは幸いです。

 

 

 

 

2019年8月18日「主はわが羊飼い」今村まさゑ協力牧師

「主はわが羊飼い」 今村まさゑ 協力牧師

詩編23編1節~6節

 

旧約聖書の詩編23編は余りにも有名で、洋画の葬式の場面では一番多く牧師が読み上げる聖句ということです。詩編150編中、約半数にダビデの名が記されています。3,000年前に活躍した人物で、少年時代には父の羊の番をし、その時に覚えた石投げ紐と小石一つでペリシテ軍の巨人ゴリアテを打ち取った。そこでサウル王に召し出された。ダビデは竪琴の名手でもあった。後にはイスラエルの2代目の王となりましたが、幾度か罪を犯し泣くこともありました。しかし、新約聖書の1ページのイエス・キリストの系図の中にもダビデの名が6回もでています。また福音書に「ダビデの子よ、、、憐れんでください」とか「ダビデの子にホサナ、、、」とかでてくるほどです。そのダビデの賛歌が今朝の23編です。

様々な経験を積んで年老いたダビデが「主は羊飼い・・」わたしは羊だったと言うのです。羊は弱い動物です。目が余りよくないので食べ物を探すことができない。単独では行動がとれず群れてしまう。すぐ転ぶが起き上がれない。羊は羊飼いが青草の原や水辺に誘導しないと生きてはいけない動物です。

イエスご自身がヨハネ福音書で「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(10:11」また、多くの群衆を見て「飼い主のいない羊のような有様をみて深く憐れまれた」(マルコ6:34)と記されています。3節、「魂を生き返らせてくださった。」幾度も、慈愛と尊厳にふさわしく義の道へと導いてくださったとダビデは賛美します。

4節の死とは、一番深い暗闇の意味で、病気、事故、挫折・・など絶望的な人生の谷を歩む時でも災いを恐れない。なぜか。「あなたがわたしと共にいてくださる」からです。

「神がともにいてくださる」これが全聖書を貫く福音であり主題です。

旧約聖書のイザヤ41章10節に、こう記されています。

「恐れることはない。わたしはあなたと共にいる神。

たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えて、あなたを助け

わたしの救いの右の手で、あなたを支える。」

羊飼いは杖を手にしています。羊を導くため、また時には野獣を撃退させるために鞭として用います。5節は、遊牧民の生活倫理が前提となっており、羊飼いは追われる人であっても原野では旅人として迎え入れる。彼を追う者は、羊飼いの主権ゆえに一切手を下せない。自分を苦しめる敵の前で食卓を整え、杯を溢れさせてくださる。何という恵みでしょう。6節「命のある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う。」追うとは追いかけて来ることです。私たちの終着地は神の家、天の御国です。相応しくないものを、ふさわしい者としてくださる「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(ローマ3:24) 最後に(詩編84:11)を拝読して終わります。

 

 

 

 

 

2019年8月11日「キリストの基準」加山献牧師

「キリストの基準」加山献牧師

マタイによる福音書5章27節~32節

 

私たちは、人間が作り上げた「社会の基準」の中で生活しています。しかし人間の道徳観は、時代と共に、風のように遷り変わっていくのです。主イエスが人としてこの地上を歩まれた時代も、人々は自らの倫理基準と風習を築き上げていました。遷り行く「人間の基準」に対して、主イエスは「しかし私は言っておく」とご自身の教えを提示されたのです。今回は、姦淫と離縁についての主の教えに耳を傾けましょう。

 

1 姦 淫

「姦淫」は結婚関係以外での性的な営みを指しています。ここでは「モイケウオー」というギリシア語が使われています。この単語は「侵入する、侵害する」という意味合いも含めて使用されていました。幸せな結婚に、幸せな家庭に侵入する悪魔の罠、それが「姦淫」である、というのです。当時の人々も、結婚関係を重んじて、結婚外での不貞を厳しく戒めていました。

ところが主イエスは、「そのような思いで他者を見つめただけで罪である」と、人の心の内面を問題とされたのです。この世の基準では、実際の行為に至らなければ、罪に問われることはありません。しかし主は、この教えを通して「人はみな例外なく罪人である」ことを指摘されたのです。

その私たちの罪を全て背負って、主は十字架についてくださいました。救いはただ主の十字架にあります。主の十字架を信じ受け入れるということは、この世の基準ではなく、「キリストの基準」でこの世を生きようとすることでもあります。生活と思いの全ての領域において、神に喜ばれる生き方を完遂することは不可能です。しかし私たちは常に挑戦するものでありたいです。その生き方に伴って、必ず主にある報いがあることを私たちは信じます。

 

2 離 縁

当時の結婚はレビラート婚と呼ばれ、女性は男性の所有物の一部と考えられていました。女性は自分の意思で離婚することはできず、男性の方でなにか不都合があれば、すぐに離縁状を出し、離婚することが認められていたのです。圧倒的に男性優位の社会でした。

しかし主は「妻によほど不誠実なことがない限りは、離縁してはならない」と教えられました。主は、社会的に弱い立場にあり、虐げられていた女性を一人の人格として認められました。そして男性に対しては、一人の女性を大切にし、愛し続けることを命じておられるのです。これもまた、その当時の人々の考え方とは全く異なる「キリストの基準」でした。

 

 

 

 

 

 

2019年8月4日「大宴会をしよう」加山献牧師

「大宴会をしよう」加山 献 牧師

列王記下6章8節~23節

 

紀元前9世紀頃のことです。アラムとイスラエルという二つの国の間には一触即発の緊張関係がありました。アラムの王とその軍隊は、度々イスラエル王を待ち伏せし、危害を加える機械を狙っていましたが、イスラエルには神の人、預言者エリシャがおり、イスラエルの王に的確な助言を与え、事前に危険を回避させていたのです。

そこで、アラム王の矛先はイスラエル王ではなく、預言者エリシャに向かいました。まったく予期していなかった危機に直面したとき、エリシャの召使いであった若者は混乱しエリシャにすがりました。「ああ、御主人よ、どうすればいいのですか。」(15節)

ところがエリシャは、この絶体絶命と思える危機の中で、まったく動揺せず、完全な落ち着きをはらっていたのです。若者とエリシャとでは何が違ったのでしょうか。

 

1.「エリシャは万軍の主を見ていた」

若者は自分を取り囲んでいるおびただしい敵を見ていました。つまり目の前に迫った問題のことで頭がいっぱいだったのです。しかしエリシャは、自分を守り、救い出してくださる存在に目を向けていました。彼は「恐れてはならない。わたしたちと共にいる者の方が、彼らと共にいる者より多い」(16節)と若者を諭しました。

私たちが困難に取り囲まれるとき、もう終わりか、と思い怖気付くとき、私たちを取り囲み、守っている万軍の主がおられることを想い起しましょう。求める者には、危機の只中においても、状況を正しく理解し、神の軍勢を見る信仰が与えられます。

 

2.「緊張関係を解決する大宴会(和解)のチャンスを模索する」

この後、エリシャはアラムの軍隊の目をくらまし、北王国イスラエルの首都サマリアまで連れて行きます。彼らが目を開けてみると、敵陣のど真ん中にいた、というのです。イスラエル王にとって、敵軍を打ち破る千載一遇のチャンスが訪れたのです。

しかし、エリシャは神の御思いを次のように宣言しました。「打ち殺してはならない。彼らにパンと水を与えて食事をさせなさい。」(22節)「そこで(イスラエルの)王は彼らのために大宴会を催した。彼らは食べて飲んだ後、自分たちの主君のもとに帰って行った。アラムの部隊は二度とイスラエルの地に来なかった。」(23節)

二つの民族間の緊迫した関係に解決をもたらしたのは、「戦い」ではなく「大宴会」だったのです。国家間の緊張関係が高まる今日、約3000年前に預言者エリシャを通して語られた神の言葉は、今も生きています。世界のすべての国民が、主の食卓という一つのテーブルに招かれている現実を覚え、主を賛美します。

 

 

 

 

2019年7月28日「人生は不公平だけど」加山献牧師

「人生は不公平だけど」加山 献 牧師

創世記41章37節~52節

 

ヨセフは17歳で奴隷として売られ(創世記37:2)、30歳になるまで自由の身になりませんでした(創世記41:46)。彼は人生の中でも最も楽しく、喜ばしいとされる時期を、奴隷として、また囚人として過ごしました。ヨセフのここまでの人生は不条理に満ちていたといえます。しかし、彼の人生のから2つのことを学びたいと思います。

 

1.「神は、この苦しみの中でも、ずっとヨセフと共にいてくださった」

創世記の中で、繰り返し語られてきたメッセージです。ヨセフがどんな苦しみを通らされても、神さまはひとときも離れることはありませんでした。むしろ不条理の中にこそ、神は共にいてくださいます。そして最も大切なことは、ヨセフはその事実を知り、またその現実を確信していた、ということです。

人は幸せであるために、多くのことを望むかもしれません。ですが、本当に必要なことはただ一つだけです。主のもとにすわり、主のみ声に聴くことです。「私の恵みは、あなたに十分である」という主の言葉が指し示すとおり、神の恵みの極みである主イエスが一緒にいてくださいます。もうそれで、十分なのです。どのような苦しみの時にも、私たちは、共にいてくださるキリストによって平安を体験するのです。

 

2.「神はいつの日か、私たちを引き上げてくださる」

人生には、不公平だと思える出来事が起こります。ある人は平穏な家庭に生まれ育ち、ある人は家族との問題に苦しむことがあります。健康に生活する人がいると思えば、突然の事故や突然の病に襲われる方もあります。ですが、ヘブル書6章10節には次のようにあります。「神は不公平な方ではありませんから、あなたがたの働きや愛を忘れたりなさいません。」(新改訳2017) 神はあなたの流したすべての涙を知っておられます。神は、あなたの負ったあらゆる苦労を、また他者に対する愛の行いを、決してお忘れになる方ではないのです。

神は、私たちの信仰を鍛えるために、もしくは私たちの目をご自身に向けさせるために、ひとときの間、試練を用いられることがあります。それは神の愛です。しかし神は、私たちを苦しみの中に捨て置かれたままにはなさりません。私たちを悲しみから、その暗闇から、必ず引き上げてくださいます。どんな心の痛みも、いつか必ず、主は拭い去ってくださいます。私たちの将来にはすべての苦労に対しての報いがあるのです。聖書において、この報いは終末的かつ将来的な希望として語られています。しかし、天国まで待たずとも、今、この教会で、この礼拝の中で、ぜひ天国を体験していただきたいと思います。神の圧倒的な臨在に触れることのできる場所が確かにある。早良教会がそのような場所であってほしいと思います。たとえ人生が不公平だったとしても、全てに報いてくださる神の約束があることを忘れずに、日々を歩んでまいりましょう。

 

 

2019年7月21日「主イエスが再び来られるときまで」今村まさゑ協力牧師

「主イエスが再び来られるときまで」 今村まさゑ協力牧師

第一テモテへの手紙6章11節~16節

 

旧約聖書には75回「神の人よ」と出ているようですが、新約聖書では今朝の11節とテモテ第二3:17の「神の人が、神に仕える人は、」の2箇所だけです。パウロにとって如何に若きテモテへの祈りが大であったかが窺えます。同時に、これは現代の私たち一人一人のキリスト者への呼びかけでもあるのです。

避けるべきこととは、偽教師との対峙、そして、金銭欲との戦い(6:3~)です。金銭欲は貪欲で限りがなく、すべての悪の根であると聖書は指摘しています。避けるとは「逃げる、隠れる」ことだとギリシャ語は語ります。私たちが求めるべきことは、正しさ・神に対する畏敬・信仰、愛・忍耐・柔和です。これら避けることと求めることを継続せよパウロは勧めています。

「信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。」イエス・キリストをわが救い主と信じた時に、永遠の命は約束されているのではないか。確かにその通りですが、サタンはその永遠の命を狙って執拗に不信仰へと罠を仕掛けてくるのです。

だから、神のみ言は必ず実現すると信じ続けることが重要なのです。互いに愛し合い、困難を忍耐し、とげとげしくではなく柔和に励むのです。「万物に命をお与えになる神」は、その永遠の命を得るために私たちを召されたのです。バプテスマのときに各自、信仰告白をしたことを「多くの証人の前で立派に信仰を表明した」ではないかと評価してくださいます。

その私たちに、神とキリストとの御前で命じられるのは再臨のキリストのことです。2000年前に来臨された救い主を、神が定められた時に再び現してくださる。14節には次のようにあります。「わたしたちの主イエス・キリストが再び来られるときまで、おちどなく、非難されないように、この掟を守りなさい。」

13節に出てくるポンティオ・ピラトとは、ローマから派遣されていた総督です。主イエスが「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」と語られた時、ピラトが答えた「真理とは何か」という(ヨハネ18:36~37節)問答は興味深いです。ローマ帝国は当時、繁栄を極めていました。しかし、この世の繁栄は一時的でエジプトもアッシリアもバビロンもペルシャもギリシャも滅び去りました。しかし、神の国は永遠に続くのです。

15~16節で、パウロは神を讃えずにはおれなくなったのです。「神は、祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、唯一の不死の存在、近寄り難い光の中に住まわれる方、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方です。この神に誉れと永遠の支配がありますように、アーメン。」テモテは、パウロの6つの手紙の共同執筆者となり、エペソ教会の初代監督を務めました。

 

 

 

2019年7月14日「神さまの畑」加山 献 牧師

「神さまの畑」 加山 献 牧師

第一コリントの信徒への手紙3章5節~9節

 

第一コリント3章9節に次のようにあります。「あなたがたは神の畑、神の建物なのです。」 教会とは「神の畑」であり「神の建物」である、という二つの比喩的表現がなされています。今回は「神の畑」という比喩を中心に考えていきたいと思います。

この手紙を受け取ったコリントの教会は、信仰に入って間もない人々によって構成されていました。ところが教会が始まって5年も経たないうちに、彼らは多くの問題を抱えるようになっていました。そのひとつに「仲間割れ」という問題がありました。

コリントの教会はパウロによってその礎が据えられ、パウロの後にアポロという働き人がコリントの教会を訪れ、指導しました。パウロもアポロも誠実な働き人でしたが、彼らが去った後に「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロにつく」と言い出す人々が現れ、このことが「仲間割れ」の原因となったのです。そこでパウロは、この手紙の中で次のように語っています。「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。」(6節~7節)

一人一人の信仰者は教会という畑に植えられて、成長していくものである、というのです。このことはコリントの教会だけではなく、私たちの教会にも、他の全ての教会にも当てはまることです。

野菜や果実が成長していくならば、最終的には実を結ぶことが期待されます。むしろ実を結ぶことこそが、全ての労苦の目的であると言えます。耕し、種を蒔き、水を注ぐ働き人が備えられ、神が恵みと憐れみによって信仰者を成長させてくださるのは、実を結ぶという最大の目的の故です。

私たちは、この教会にあって、また各々の人生において、どのような実を結ぶことを期待されているのでしょうか。ガラテヤ書5章には私たちが結ぶべき九つの実が紹介されています。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」(ガラテヤ5章22節~23節)

様々な信仰の実について述べられていますが、第一に「愛される」ことと「愛する」ことが挙げられています。人間の愛は時に不完全です。しかし、イエス・キリストの十字架は私たちの魂を根底から支える、ただ一つの完全な愛です。ぜひこの愛を受け取り続けていただきたいと思います。教会は、この十字架の愛が撒かれ、実を結ぶ、神さまの畑なのです。この畑で共に神の愛を受け取りながら、30周年を目指していきましょう。

 

2019年7月7日「感情を支配する」加山献牧師

「感情を支配する」加山 献 牧師

マタイによる福音書5章21節~26節

 

私たちは楽しい時、嬉しい時に、笑って喜びを表現することができます。感情は紛れもなく、神様が人間に与えてくださった良い贈り物です。ところが私たちは、時として感情を上手にコントロールできず、感情に心を支配され、その結果として望ましくない結果を刈り取ってしまうことがあります。「怒り」は私たちにとって最も律しがたい、手ごわい感情のひとつです。

「殺すなかれ」、これは十戒の教えの一つです。しかし主は「殺すなかれ」という戒めを、「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける」と全く新しく語り直されました。「殺すなかれ」という戒めを行いだけの問題ではなく、私たちの心の問題とされたのです。主イエスは、私たちに対して「感情を支配する」こと求めておられる、と言えるでしょう。

 

1.怒りを手放す(21節~22節)

「腹を立てる」という言葉は、詳しくは「腹を立て続ける」という継続の意味があります。イエス様は一時的な怒りよりも、「ゆるさない怒り」を戒められています。一時的に怒ってしまうことは仕方がないかもしれません。「怒る」ということ自体が罪なのではありません。しかし、どのような理由であっても、私たちは怒り続けたままではいけません。

2.赦し、赦されること(23節~24節)

怒りを手放すために、イエス様は「赦す」ことの大切さついて教えておられます。同じように、「赦される」ことも大切です。あなたが神を礼拝する前に、誰かが私に対して反感を持っている、怒っている、そして自分がどうやら加害者である、と気づいた時は、へりくだって、率先して赦しを求めるようにしなさい、とイエス様は言われました。それが神様の求めている礼拝者の姿です。

3.謝罪

自分に対して反感を持っている人に赦していただくためには、へりくだって「謝る」ことが必要です。「私が間違っていました」と心から認めることはとても苦しいことかもしれません。しかし、自分の過ちを認めるということは、私たちの心に驚くべき解放を与えます。

4.和解(25節~26節)

25節からは自分を責め立てる敵との和解がテーマです。「さもないと・・・あなたは牢に投げ込まれるにちがいない」という主の言葉が指し示す通り、このメッセージを聞いている私たち一人一人が有罪確実なものであることを、主は前提とされています。自らの罪を謙虚に認めて赦しを請う、ということは、私たちのプライドと感情が邪魔をしてなかなかできないことです。しかし主は、私たち一人一人に、感情に支配されるのではなく、感情を支配して生きていくことを勧めてくださっています。

 

 

 

 

2019年6月30日「主が共におられたので」加山献牧師

「主が共におられたので」 加山 献 牧師

創世記39章1節~23節

 

「主がヨセフと共におられたので」、この聖句は創世記39章の中に4回も繰り返されています。この章にとどまらず、神が人と共にいてくださる、という主題は聖書全体を通して、至る所で繰り返し語られています。

ヨセフの人生は苦難の連続でした。ところが39章の2節以下では次のようにあります。「主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ。彼はエジプト人の主人の家にいた。主が共におられ、主が彼のすることをすべてうまく計らわれるのを見た主人は、ヨセフに目をかけて身近に仕えさせ、家の管理をゆだね、財産をすべて彼の手に任せた。」

ヨセフは実の兄弟に捨てられて、人生のすべてを失い、奴隷となってポティファルの家にやってきました。しかし、彼はこの場所で忠実に仕え、主人の信頼を得ました。ヨセフがポティファルの家に持ち運んだものは、自分の境遇に対する不満でもなく、人生を悲観する心でもなく、神の臨在と神の祝福でした。私たちもまた、神の臨在と祝福を、どんなところにでも持ち運ぶものでありたいと思います。

ヨセフに次の災難が起きました。ポティファルの奥さんがヨセフを誘惑してきたのです。しかし、誰も知らないようなところでも、自分の行いを熱いまなざしで見つめておられる神様がおられることを、彼は常に意識していました。

人生を生きていく時に、困難を避けて通ることはできません。欺き、試練、誘惑に直面しながら、それでも人は生きていかなければなりません。エレミヤ、ヨブ、バプテスマのヨハネ、パウロ等の信仰の先人たちも何度も様々な困難を通りますが、聖書は証言しています。神は彼らと共におられました。

ヨセフは無実の罪で監獄に入れらることとなりました。しかし、この事も神さまの深い計画のうちにありました。私たちの人生においても、時には理解できないことが起こります。しかし、全ての出来事が神の手にあるということを知るならば、私たちの試練に対する見方は変わります。

後世の詩人がヨセフの生涯を想い、詠った詩が詩編105編16節~19節に記録されています。「主はこの地に飢饉を呼び、パンの備えをことごとく絶やされたが、あらかじめひとりの人を遣わしておかれた。奴隷として売られたヨセフ。主は、人々が彼を卑しめて足枷をはめ、首に鉄の枷をはめることを許された。主の仰せが彼を火で練り清め、御言葉が実現するときまで。」

 

2019年6月23日「ザアカイの救い」今村まさゑ協力牧師

「ザアカイの救い」今村まさゑ協力牧師

ルカによる福音書19章1節~10節

 

イエスさま最後のエルサレムへの旅もあと20㎞、オリエント世界最古の町エリコに入りました。2節の「そこにザアカイという人がいた。」とありますが、原文では「見よ。」と記されています。重要な人物、重要な出来事であることを意味しています。当時の徴税人はローマに納める税金を勝手に上乗せして取り立て、上乗せした分は自分のために横取りするという悪事を行っていたので、当然のことながら人々からは嫌われ、ユダヤ人(神の民)としては認めず、誰もが罪人と差別していました。金は貯め込み、頭にまでなってはいましたがザアカイは孤独でした。

3節に「イエスがどんな人か見ようとした」とあります。実はザアカイの「見ようとした」という動詞と、5節のイエスの「見上げて」という動詞は、ギリシャ語では同じゼーデオで、ザアカイの欲求とイエスの滅びる魂を救う意志が重なり合っているのです。「啐啄同時」という熟語があります、雛が誕生を待って内側から微かな音を発する、親鳥が外側から殻をつついて割る、それが同時であるように、ザアカイの欲求に対して「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、あなたの家に泊まらねばならない」と主は言われたのです。

クリスマスの時、羊飼いたちに告げられた「今日、あなたがたのために救い主がお生まれになった」と同じように。彼は急いで降りて来て喜んでイエスを迎えました。人が何と言おうと、イエス様が「ザアカイ、」と名前を呼んでくださった。誰一人、自分の家に来て泊ってくれる友は居なかった・・・ザアカイは嬉しくて「主よ!」と呼ばわりました。単なる人としてのイエスではなく、救い主イエスをお迎えしました。「主よ、貧しい人に財産の半分を、だまし取った人々には4倍にして返します」と、当時の律法を遥に超える返済を申し出ました。イエスは「今日、救いがこの家を訪れた。」「この家に完成した」と宣言されました。ザアカイ一人が救われるのではなく、この家・・家族も、使用人も皆が救われるのです。「この人もアブラハムの子なのだから。」とは、神の祝福を受け継ぐ事のできるユダヤ人であるのだから。

「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」(10節) イエスさまがこの世に来られた目的は、生きる希望を失い、喜びは失せ、迷い、滅びに向かっている者を捜して救うためであると述べておられます。「高い所に留まっていないで、急いで降りて来なさい。」

私たちも名前を呼んでおられるイエスの声を聞き「今日」ザアカイのように喜んでイエスを迎えようではありませんか。

「わたしをお遣わしになった父が(神が)引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。」(ヨハネ6:44)